プロローグ
放課後の賑わいが、少しずつ遠ざかっていく。茜色の空がグラデーションを描き始め、校庭に響いていた運動部の掛け声も、今はもう聞こえない。
俺、テッペイは、そんな日常のざわめきから少しだけ離れた、人気の少ない裏門で、まだスマホの画面を凝視している友達とダラダラと立ち話をしていた。
テッペイ「なにがそんなにいいんだよ。」
俺の言葉に、友達はまるで異端者を見るかのような目を向けてくる。彼のスマホには、画面いっぱいに広がる、アニメキャラクターのアリスちゃんの画像。その、まあるい瞳と、少し上気した頬が、確かに可愛らしいことは認めよう。だが、そこまで熱狂するほどのものなのか。
友達「わかってないなぁ。ふとももは最高なんだから、このアリスちゃんも最高なんだよ!」
熱弁をふるう友達の顔は、もう完全にオタクのそれだった。力説する彼が差し出してくる画面を、思わず半眼で流し見る。
ふともも、ねぇ……。確かに、健康的な肉付きは好ましいが、そこに「最高」という形容詞をつけるほどの熱意は、残念ながら俺には理解できなかった。
テッペイ「そうかぁ?……あっ!そろそろ家帰らないと。」
ふと、空の色が濃くなっていることに気づき、慌てて友達に声をかけた。彼の興奮冷めやらぬ表情も、この一言で少しだけ現実に引き戻されたようだ。
友達「ん。気を付けてな〜」
テッペイ「また明日!」
短い別れの言葉を交わし、俺は踵を返した。慣れ親しんだ通学路の地面を、少しだけ急ぎ足で踏みしめる。アスファルトのひび割れ、道端に咲く名も知らぬ小さな花、夕焼けに染まる電線。何気ない風景が、今日もいつも通りそこにあった。
ポケットの中で、スマホが「ポコポコ」と連続で震え始めた。嫌な予感がして、取り出す前からため息が漏れる。画面には、少し前まで付き合っていた女性からのメッセージが、画面いっぱいに通知として押し寄せていた。思わず顔をしかめる。
『ねえ、テッペイ君、なんで既読つかないの?』
『私、悪いことしたかな?』
『ねえ、返事してよ……ねえ……』
メッセージの嵐は、ここ最近の俺の日常を蝕む、厄介な存在だった。つい先日も、しつこさに耐えかねて彼女の連絡先をブロックしたばかりだ。一昨日には、直接会って「もう連絡してこないでほしい」とはっきり伝えたはずなのに、彼女は全く懲りない。次々に新しいアカウントを作っては、まるで呪文のように、あるいは心の叫びを吐露するポエムのように、俺へのメッセージを送り続けてくるのだ。
テッペイ「正直めんどくさいな……。」
唇の端で呟くと、その言葉は夕焼けの空に溶けて消えた。読み切る気にもなれず、通知の終わらないスマホの電源ボタンを深く押し込み、そのままポケットに深く仕舞い込んだ。
まるで、そうすることで、彼女の執着からも解放されるかのように。だが、そうはいかないことを、俺はよく知っていた。まるで、足元にまとわりつく影のように、この煩わしさは常に俺のすぐそばにある。
自宅の玄関のドアを開けると、微かに夕食の準備をする音が聞こえてくる。温かい匂いが、外の冷え始めた空気から俺を迎え入れた。
母「おかえりなさいテッペイ。」
明るい声と共に、キッチンから母親が顔を出す。その顔には、いつもと変わらぬ穏やかな笑顔が浮かんでいた。だが、俺はすぐにその笑顔の奥に、いつもとは少し違う気配を察する。
テッペイ「ただいま母さん……っていつもより早いな。なんかあったん?」
普段なら、俺が帰る時間にはまだ仕事から戻っていないか、戻っていても疲れた顔をしていることが多い。今日はまだ夕食の準備も途中なのに、彼女はもう家にいた。
母「なにもないから早く帰るんじゃない。息子と一緒にいれないなんてさみしいしね。」
母親は茶目っ気たっぷりに笑って見せる。その言葉に、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。ああ、この人は、俺がどんなに冷たい態度をとっても、決して変わらない優しさで包み込んでくれる。
テッペイ「そっか。いつもありがと。」
自然と感謝の言葉が口をついた。
母「最近は勉強一緒に出来なくてごめんね。」
母親が申し訳なさそうに眉を下げた。いやいや、そんなことないだろう。俺はもう高校生だぞ?
テッペイ「大丈夫だよ。むしろ中学生までの勉強を一緒にしてくれる親なんていないよ。ホントにありがと。」
俺は本心からそう言った。小学生の頃から、母さんはいつも俺の隣に座って、算数の問題や漢字の書き順を教えてくれた。友達の家では、そんな親はほとんどいないと聞いていたから、俺は恵まれていると知っていた。
母親の目が、少しだけ潤んだように見えた。彼女はゆっくりと俺に近づき、そっと両腕を広げた。そして、俺の身体を強く、優しく抱きしめる。母さんの温もりと、石鹸の香りが、俺の心をじんわりと解きほぐしていく。
母「テッペイ……嘘じゃないよね?」
その声は、どこか不安げに震えていた。その言葉に、俺の胸にチクリとした痛みが走る。この人は、どれだけ苦しんできたのだろうか。どれだけの不安を、心に抱え込んでいるのだろうか。
テッペイ「嘘なんて付かないよ。昔からの約束だからね。」
俺は母さんの背中に腕を回し、優しく抱きしめ返した。この言葉は、俺が母さんと交わした、大切な約束だ。決して嘘はつかない。どんな時でも、真実と向き合う。それが、俺が俺であるための誓いだった。
母「ごめんね。じゃあ行ってらっしゃーい。」
母さんが少しだけ身体を離し、困ったように笑った。
テッペイ「行ってきます母さん。」
玄関のドアに手をかけた瞬間、ふと、大切なことを思い出した。
テッペイ「そういえば……父さんの見舞いはいつ行くの?」
俺の問いに、母さんは少しだけ表情を曇らせた。しかし、すぐにまたいつもの穏やかな笑顔に戻る。
母「明後日よ。きれいな花を選ばないとね。」
その言葉に、俺も頷いた。
テッペイ「そうだね。じゃ、行ってきます!」
再び玄関のドアを開け、夕闇が迫る外へと足を踏み出した。冷たい風が頬を撫でる。
父親は、数年前に起きた大きな火事で、意識不明の植物状態だ。
医者からは回復の見込みはないと言われているが、母さんは決して諦めない。毎週欠かさず病院に通い、父さんの手を握り、話しかけ続けている。
そして、俺には妹がいた。父さんが巻き込まれたあの火事で、彼女は命を落とした。幼い妹の笑顔が、今でも時折、脳裏に焼き付いて離れない。もしあの世で元気にしているなら嬉しいな、と、柄にもなくそんなことを考えた。
母さんは本当に強い人だ。あんな悲劇に見舞われても、決して後ろを向かず、前を向いて生きている。その姿を見るたびに、俺も負けられない、と強く思う。俺だって、ちゃんと前を向いて歩んでいかなくてはならない。
アスファルトに影が長く伸びる。夕闇が完全に世界を覆い尽くす前に、力強く一歩を踏みしめる。今日という日も、昨日と何ら変わりのない、繰り返す日常だ。その日常を、ただひたすらに、力強く生きていく。それが、今の俺にできる、唯一のことだった。