※この作品はR-18です。

うずまきフミ物語〜その果ては地獄か楽園か〜   作:陽炎=蜻蛉

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ネジは、生きていてほしかった。そう思います。


第十話「月と接吻と羽撃」

あの五影会談から2年。二年という月日は、木の葉の里を少しずつ、しかし確実に変えていった。

 

「オビト、味噌多すぎ!お湯継ぎ足す!」

 

「は、はい…」

 

うずまき家の台所に立ち、時々買い出しに出かけるオビトの姿は、当初こそ異様な光景だったが、今ではすっかり日常の一部になっていた。クシナに怒鳴られながら味噌汁の味付けを直す姿を、近所の者たちはもう珍しがりもしない。

 

「ヒーナーター、俺の人形よりも俺の方がかっこいいってばよ!」

 

「な、ナルトくん、ここ外だから…!」

 

ナルトとヒナタの関係は、誰の目にも明らかなほど親密になった。

 

「ハナビ様、フミを思う気持ちはわかりますが、集中してください。」  

 

「わ、分かってます…フミ…早く帰ってきて…」

 

「長くても2週間だけなんですから…」

 

「14日も会えないなんて辛いんです!」

 

ハナビはフミの不在中もネジの助けを借りながら宗主の務めを懸命にこなしていた。そして同じ頃、フミは木の葉から遠く離れた妙木山の頂にいた。

 

「フミちゃんよぉ、集中が途切れとるぞい。自然エネルギーは待ってくれんからのう。」

 

老蝦蟇仙人フカサクが、杖でフミの背中をぴしゃりと叩いた。

 

「ナルトちゃんの時もそうじゃったが、うずまきの血は落ち着きがないのが玉に瑕じゃ。」

 

フミの周囲には、取り込みかけた自然エネルギーの残滓が揺らめいている。仙人モードの習得は、兄のように九尾のチャクラに頼れないフミにとって、新たな切り札になるはずだった。

 

「しかし、平和になったというのに、仙人モードを覚えたいとは不思議な子じゃのう。」

 

「…予感があるんです。この先、また強大な何かが蠢くと。初代様は仙人モードと木遁の力を完全に融合させていました。僕にもきっと…」

 

「面白い部分で負けず嫌いじゃな…」

 

とはいえ、兄と自来也、そして穢土転生ではあったが柱間の仙人モードの姿を間近で見ていたこともあってか、修行自体は順調に進んでいた。

 

「うむ、一旦休憩じゃな。ほれ、水。」

 

「ありがとうございます。」

 

妙木山は夕暮れ、自然エネルギーの均衡もようやく掴みかけていた矢先。

 

口寄せの煙と共に、一匹の小蝦蟇が息も絶え絶えに飛び込んできた。*

 

「フ、フミの兄ちゃん! 木の葉から緊急伝令だ!」

 

「伝令?一体…………ッッ‼︎」

 

小蝦蟇が差し出した巻物を開いた瞬間、フミの手が止まった。

 

「……どうしたんじゃ、フミちゃん。顔色が尋常じゃないぞい。」

 

巻物にはシズネの筆跡で、簡潔かつ切迫した文面が記されていた。

 

〜日向ハナビ、何者かに拉致される。犯人は大筒木一族の残党と思われる。白眼が狙い。ナルトら既に追跡に出発。至急帰還されたし〜

 

「…………ハナビ。」

 

フミの指先が巻物を握り潰した。自然エネルギーの均衡が崩れ、周囲の空気がびりびりと震える。

 

「フミちゃん! 落ち着かんか、そのまま取り込んだら蝦蟇に――」

 

だがフミは既に立ち上がっていた。その瞳に、妙木山に来てから一度も見せなかった鋭利な光が宿っている。

 

「フカサク様、最後に頼れるのは心です……ハァッッッ‼︎」

 

「なっ……!」

 

フカサクの目が飛び出さんばかりに見開かれた。杖を取り落とし、口をぱくぱくと開閉する。

 

「馬鹿な……ナルトちゃん以上の速度で…完成させおった……⁉︎」

 

咆哮と共に、フミの目元に浮かんだ赤い隈取は、兄のそれと瓜二つでありながら、纏う気配はまるで別物だった。ナルトの仙人モードが嵐のような奔流なら、フミのそれは研ぎ澄まされた刃。自然エネルギーが乱れることなく、完璧な均衡を保っている。怒りすら制御下に置く冷徹な集中力、うずまきの血に宿る強靭な精神力、そして愛する人を守りたいという純粋な愛の全てが噛み合った結果だった。

 

「元来、気持ちでどうにかなる領域ではないんはずじゃがのう…」

 

フカサクは呆れ混じりに呟いたが、その声にはどこか嬉しそうな響きがあった。

 

「フカサク様、ご指導ありがとうございました。修行の礼は里に戻り次第必ず。」

 

「行け、フミちゃん。お前さんの大事な嬢ちゃんを取り返してこい。」

 

「はい!」

 

目を閉じ、兄のチャクラを探り当てたのとほぼ同時、フミの姿は妙木山から消えていた。蝦蟇たちが目で追えないほどの速度で。

 

「……母ちゃんや、修行終わったぞい。」

 

「もうかえ⁉︎」

 

 

 

〜月面〜

 

一同が辿り着いた月の内部は、地球から見上げるあの冷たい光とは裏腹に、古代の建造物が林立する異質な世界だった。大筒木の遺産が息づく空間は薄暗く、空気そのものが重い。

 

フミとナルトは並んで走っていた。二人の足音が石造りの回廊に反響する。

 

「フミ、ヒナタの気配は上だ。トネリの野郎と一緒にいる。」

 

ナルトの仙人モードが、遥か先の二つのチャクラを捉えていた。

 

「ハナビは地下だ。微かだけど感じる。ただ…チャクラがかなり弱ってる。」

 

同じく仙人モードで研ぎ澄まされたフミの感知能力が、深い階層に横たわるハナビの存在を拾い上げていた。眼を奪われた影響だろう、その気配は蝋燭の残り火のように頼りない。

 

「……ここで分かれるぞ。」

 

「ああ。兄さんはヒナタさんを。ハナビは僕が必ず連れ戻す。」

 

「フミ!」

 

ナルトが立ち止まり、弟の肩を掴んだ。

 

「ぜってー死ぬなよ。」

 

「ハハ、兄さんこそ。告白まだなんでしょ、ヒナタさんに?」

 

ナルトが一瞬ぎくりとした顔を見せ、それから笑った。

 

「……帰ったらな!」

 

二つの影が、分岐点で左右に別れた。

 

ナルトを見送った直後、空間が歪む。フミの身体が光に溶け、次の瞬間には月の最深部に立っていた。飛雷神と仙人モードの感知を組み合わせるという離れ業をフミは容易くやってのける。

 

「……!」

 

薄暗い祭壇のような部屋だった。壁面には大筒木一族の紋章が刻まれ、中央の台座にハナビが横たえられている。目は閉じており、蒼白い顔は人形のように生気がない。

 

「ハナビ……!」

 

フミが駆け寄り、ハナビの頬に触れた。氷のように冷たい。だが、仙人モードで感じ取れる微かな脈動がまだ命の灯を繋いでいた。

 

「大丈夫だよ、迎えに来た。」

 

フミが医療忍術でチャクラを送り込もうとした、その時。

 

「そこまでだ。」

 

背後から降り注ぐ殺気。振り返る間もなく、無数のチャクラ球がフミめがけて放たれた。仙人モードの感知がなければ、初撃で貫かれていただろう。

 

「貴様の命も貰い受ける。」

 

闇の奥から姿を現したのは、大筒木の傀儡兵団。トネリが最後の防衛線として配置した、白眼を模した人形たちだった。その数、手を伸ばしても見渡せないほど。

 

「……なるほど、死にたいらしいな。」

 

フミの声は低く、凪いでいた。怒りが沸点を超えると、人はむしろ静かになる。赤い隈取が刻まれた目元の下で、仙術チャクラが膨れ上がり、祭壇の石畳にひび割れが走った。

 

傀儡兵団が一斉に動いた。白眼を模した空虚な瞳が、幾十もの光点となってフミを取り囲む。

 

フミは懐からクナイを一本取り出した。フミ独自の飛雷神のマーキングが施されたそれを、無造作に空へ放り投げる。

 

一本のクナイが宙を舞い、傀儡の群れを横切った。ただそれだけ。次の瞬間、フミの姿が消えた。

 

閃光と共に、クナイが通過した軌跡に沿って、傀儡兵が一体、また一体と崩れ落ちていく。飛雷神で瞬間移動しながら仙術チャクラを叩き込む連撃は、もはや戦闘ではなく解体作業に近かった。息を吐く暇もなく、最後の一体が砕け散った。祭壇に静寂が戻る。

 

「ごめんね、もう大丈夫。」

 

フミは振り返り、台座のハナビをそっと抱き抱えると、印を結ぶことなく叫ぶ。

 

「仙法・木遁・真数千手‼︎」

 

ハナビを千手観音内に取り込んで守りながら、城を粉々に破壊していく。同時期、月面でトネリと戦闘中だったナルトとヒナタ、そして他の面々も目を見開いた

 

「なっ……!」

 

ナルトはトネリとの戦闘の最中、足元から響く途方もない振動に思わず動きを止めた。月の内部が崩壊していく轟音が、地表まで届いている。

 

「これは……千手柱間の術だと? まさかフミが……!」

 

ネジの白眼が月の地下を透視し、その光景を捉えた瞬間、息を呑んだ。巨大な千手観音が地下空間を埋め尽くし、その無数の腕が大筒木の城を紙細工のように叩き潰していく。観音の胸元にはハナビを抱え込んだフミの姿がある。

 

「嘘でしょ……あれ本当にフミくん?」

 

トネリの顔から初めて余裕が消えた。自らの居城が消し飛んでいく様を、転生眼越しに見つめている。

 

「忌まわしき地上の者が、あの遺産を……!」

 

「よそ見してんじゃねぇってばよ!」

 

ナルトの九喇嘛モードの拳がトネリの顔面を捉えた。弟が下を片付けてくれるなら、兄は目の前の敵に全力を注ぐだけだった。

 

「トネリ……お前は三つ罪を犯した。」

 

千手観音の頂に立つフミの声が、月面に響き渡った。仙術チャクラで増幅されたその声は、戦場の隅々まで届いている。

 

「一つ、里に多くの被害を齎したこと。」

 

千手観音の腕が一本、トネリに向けて突き出された。

 

「二つ、兄さんとヒナタさんの心を弄んだこと。」

 

さらにもう一本。

 

「三つ。僕の大切な人を傷つけたこと。」

 

フミの仙人モードの瞳が、冷たくトネリを射抜いた。そこにあるのは殺意ではない。もっと深い、底の見えない怒りだった。

 

「お前だけは絶対に…絶ッッッ対に許さねェぞォォォォッッッッッ‼︎」

 

フミの怒りに満ちた咆哮が月面を大きく震わせた。兄であるナルト自身、ここまで怒りを露わにし、猛々しく叫ぶフミは見たことがない。

 

「くっ……たかが地上の虫けらが!」

 

トネリが転生眼のチャクラを全開にし、引力を操ろうとした。だがナルトの追撃を捌きながらでは、フミに対処する余力がない。

 

「フミ、今だっ‼︎」

 

「頂上化仏ッッッ‼︎」

 

千手観音の全ての掌が一斉にトネリへ向いたと同時、千手観音の全掌がトネリに殺到する、まさにその刹那。フミの本体は観音から飛び降りていた。囮と本命を同時に仕掛ける二段構え。

 

「なにっ…⁉︎」

 

「飛来神、二の矢だよ…‼︎」

 

トネリの意識が千手観音に向いた、その一瞬の隙。飛雷神で転移したフミの指先が、トネリの顔面に触れていた。

 

「がっ……!」

 

「返してもらう、それはハナビの眼だ‼︎」

 

綱手から叩き込まれた精密チャクラコントロールが、トネリの眼窩に干渉する。転生眼を構成するハナビの白眼を、組織ごと分離していく繊細な作業を、戦闘の最中にやってのけた。

 

「眼が……私の、眼がぁっ!」

 

光を失ったトネリがよろめいた瞬間、ナルトの螺旋丸が背後から直撃した。

 

「これで終わりだってばよ!」

 

トネリの身体が月面を削りながら吹き飛んでいく。フミは掌の中で淡く光る二つの白眼を、壊れ物を扱うように丁寧に包むと、飛雷神で千手観音の胸元へ飛ぶ。

 

「すぐに終わるからね。」

 

横たわるハナビの傍に崩れるように座り込んだ。仙人モードの隈取が薄れかけている。チャクラの残量はとうに限界を超えていた。

 

「…………!」

 

だが、フミの手は震えなかった。二つの白眼をハナビの眼窩にそっと当て、綱手仕込みの医療忍術で神経の一本一本を繋ぎ直していく。気の遠くなるような精密作業を、残りカスのようなチャクラで続けた。額から汗が滴り、視界が霞む。

 

「……間に合った……」

 

最後の神経が接合された瞬間、フミの仙人モードが完全に解けた。赤い隈取が消え、千手観音がゆっくりと消えていった。

 

「ん………」

 

ハナビの瞼が微かに動いた。ゆっくりと開かれた白眼に、最初に映ったのは、蒼白い顔で笑うフミだった。

 

「おかえり、ハナビ。遅くなって、ごめんね?」

 

「フ……ミ……? フミ、なの……?」

 

ハナビの戻ったばかりの白眼に涙が溢れた。ぼやけた視界の中で、フミの赤い髪だけがはっきりと見える。震える手を伸ばし、フミの頬に触れた。

 

「見える……見えるよ、フミ……!」

 

「ああ、よかった……ちゃんと……繋がって……」

 

その言葉を最後に、フミの身体が前のめりに崩れた。チャクラの枯渇が限界を超え、意識が途切れたのだ。ハナビの膝の上に倒れ込んだフミの顔は、紙のように白い。

 

「フミ! フミ、しっかりして! 嫌、起きてよ……!」

 

ハナビがフミの身体を抱き起こそうとするが、眼を取り戻したばかりの彼女にもまともな力は残っていなかった。

 

「フミ!」

 

ナルトが駆けつけ、弟の脈を確かめた。微かだが、まだ鼓動がある。

 

「サクラちゃん! 頼む、フミを……!」

 

「退いて、ナルト!」

 

サクラが即座にフミの胸に掌を当て、翠色の医療チャクラを流し込み始めた。

 

「フミくん、無茶しすぎよ…本当に。通常チャクラと仙術チャクラも空っぽどころか、生命エネルギーまで削って……」

 

「はは…大切な人守るためなら…幾らでもベッドしてやりますよ…」

 

「それはベットでしょ…っとにもう!」

 

サクラが呆れたように溜息をつきながらも、治療の手は止めなかった。

 

「はは、意識朦朧で噛んでやがる。」

 

ナルトが目尻を拭いながら笑った。軽口が叩けるなら大丈夫だと、兄の直感が告げていた。

 

「ばか……ばかフミぃ……!」

 

ハナビはフミの頭を膝に乗せたまま、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で笑った。取り戻したばかりの白眼で、フミの寝顔だけをじっと見つめている。

 

「やれやれ…」

 

ネジが静かに歩み寄り、上着を脱いでフミにかけた。その口元には、穏やかな笑みが浮かんでいる。

 

「妹を泣かせるなと言ったはずだが……まあ、これは許してやる。」

 

「チャクラの循環が戻ってきたわ。命に別状はない。ただ、しばらくは絶対安静よ。」

 

「帰ったら母ちゃんと綱手のばあちゃんにこってり絞られるな、こりゃ。」

 

ナルトがフミの赤い髪をくしゃりと撫でた。月面の冷たい大地の上で、温かい空気がそこだけ流れていた。

 

「まだ……だ……!」

 

『ッッ‼︎』

 

だが、トネリは諦めない。執念か怨念か、なんと自ら転生眼を発現させ、全てを終わらせようと巨大な光球を作り出していた。だが、満身創痍の肉体で操れるはずもなく、自らがその光球に呑まれかける。

 

「……ヒナタ!」

 

「うん…行こう、ナルト君!」

 

最後の一手、それはかつて里で落ちこぼれと蔑まれた2人の男女の融合術、それは光に呑まれかけたトネリを解放しつつ、その戦意を完全に失わせるには十分であった。

 

「何故だ……何故……助けた……」

 

トネリは膝をついていた。自ら発現させた転生眼からは涙が溢れている。

 

「貴方に、真実を伝えたいから。」

 

「真実、だと…?」

 

ヒナタが語った真実は、トネリが信じてきた全てを根底から覆すものだった。トネリの父、大筒木ハムラが地上を滅ぼすことなど望んでいなかったこと。月に残った一族に託されたのは、地上への憎悪ではなく、見守るという使命だったこと。

 

「嘘だ……そんなはずは……父上は、地上の者は穢れていると……」

 

「嘘じゃありません。ハムラ様の意志は、ここに。」

 

ヒナタが胸元に手を当てると、淡い光が溢れた。大筒木の血を引く日向の姫だからこそ受け取れた、遥か遠い祖先からの遺言。

 

「なら俺は……俺は何のために……」

 

トネリの声が壊れた。孤独の中で千年分の憎悪を継ぎ、地上を滅ぼすことだけを存在意義として生きてきた男の、すべてが崩れ落ちた瞬間だった。

 

「……お前も、騙されてたんだな。」

 

ナルトはトネリの前にしゃがみ込んだ。かつてオビトに向けたものと同じ眼差しで。

 

「なぁトネリ。お前、地球見たことあるか? ここからじゃなくて、ちゃんと地面に立ってさ。」

 

トネリは答えなかった。答えられなかった。千年の孤独の中で、地上の土を踏んだことなど一度もない。憎むべき対象としてしか見たことのない青い星を、この男は知らなかった。

 

「だったらさ、見に来いよ。」

 

ナルトが手を差し出した。何の躊躇いもなく、当たり前のように。

 

「綺麗だぞ、地球。ラーメンも美味いし。」

 

「……そこラーメンなの?」

 

サクラが小声でツッコんだが、誰も笑わなかった。ナルトの言葉には、飾り気がないからこそ届く力があった。

 

「俺を……許すというのか。あれだけのことをしておいて。」

 

「許すとか許さないとかじゃないんです。」

 

ヒナタが静かに、しかし芯の通った声で言った。

 

「あなたにも、知ってほしいんです。ハムラ様が守りたかった世界がどんな場所なのか。」

 

トネリの転生眼から光が消えていった。力を失った白い瞳が、ナルトの差し出した手をぼんやりと見つめている。長い沈黙の後、震える指がその手に触れた。

 

「……すまない。」

 

それは千年の孤独が、初めて人に向けた言葉だった。

 

「ナルト……その手を取りたいと、心から思う…だが。」

 

トネリは差し出された手にそっと触れ、しかし握り返すことなく離した。

 

「俺にはまだ、ここでやらなければならないことがある。大筒木の遺産を、これ以上悪用されないよう封印しなければ。それが……父の本当の遺志に応える道だ。」

 

「トネリ……」

 

「それに、俺が地上に降りれば混乱を招く。お前たちの世界は、ようやく平和を掴んだところだろう。」

 

トネリは月の大地を見渡した。千年の孤独を過ごした場所。だが、もうその目に憎しみはなかった。

 

「いつか……この月の役目を終えた時。その時は、お前の言うラーメンとやらを食べに行こう。」

 

「ああ!約束だ、絶対だってばよ。」

 

ナルトは拳を突き出した。トネリは一瞬戸惑い、ぎこちなく自分の拳を合わせた。

 

「みんな、フミくんを早く地上に戻さないと。」

 

ヒナタの声に全員がはっとした。サクラの応急処置で命は繋いだものの、フミの容態は予断を許さない。

 

「お願い、早く……」

 

ハナビはフミの手を握ったまま離さなかった。冷たくなりかけたその指先に、何度も自分の体温を移すように。皆が帰還の準備に追われる最中だった。ハナビの膝の上で、フミの瞼がぴくりと動いた。

 

「………あったかいな。」

 

掠れた声だった。フミがうっすらと目を開けると、視界いっぱいにハナビの泣き腫らした顔が映っている。

 

「フミッ!」

 

ハナビが叫び、フミの首に抱きついた。取り戻したばかりの白眼から、再び涙が溢れている。

 

「ちょっ、ハナビちゃん! まだ安静にって…」

 

「…泣き顔もかわいいけど、笑ってる方が好きだよ。」

 

「こ、こんな時に何言って……ばか、ほんとばかぁ……!」

 

ハナビはフミの胸を弱々しく叩きながら、それでも離れようとしなかった。

 

「おい弟、瀕死の状態で口説いてんじゃねぇってばよ。」

 

「まったく…肝が据わっているのか、頭のネジが飛んでいるのか。」

 

ネジが額を押さえたが、その目元は明らかに安堵で緩んでいた。

 

「ネジさん、僕にネジが飛んでるって言います?」

 

「…今のは忘れろ。」

 

「…何があったのかは大体理解した。」

 

「理解したって……寝てたのに?」

 

サクラが怪訝な顔をしたが、仙人モードの感知能力が意識下でも働いていたのだろうと察し、深追いはしなかった。

 

「……トネリ。」

 

フミはハナビに支えられながら、ゆっくりと身を起こした。月面に佇むトネリの背中に声をかける。

 

「ハナビの眼を奪ったこと、僕は忘れない。だけど……ラーメン、一楽がおすすめです。兄さんが奢ってくれますよ。」

 

「おう!任せとけってばよ!」

 

「……覚えておこう。」

 

トネリは振り返らなかったが、その肩が僅かに震えていた。

 

帰還の口寄せが発動し、月面に光の輪が広がった。一行がその中に足を踏み入れていく。ハナビがフミの腕を自分の肩に回し、一歩ずつ歩みを進める。ネジがその反対側を無言で支えた。

 

「あー体重い…」

 

「後少しなんだから我慢して。」

 

ナルトとヒナタが最後に残り、肩を並べて月の地表を見渡した。ナルトの手がそっとヒナタの手に触れ、ヒナタは驚きながらもその指を握り返した。光が一行を包み込み、月に静寂が戻る。

 

「……ねぇ、フミ。」 

 

「ん?」

 

ハナビはフミの腕を支えながら、視線を泳がせていた。帰還の光の中、少し先でナルトとヒナタが唇を重ねている。それを白眼で見てしまったハナビの耳まで真っ赤に染まっていた。

 

「姉様とナルト兄様、ああやってるのに……その、私たちは……」

 

語尾が消え入るように小さくなる。白眼の一族の誇りも、当主としての威厳も、今はどこかに吹き飛んでいた。

 

「…………」

 

反対側でフミを支えていたネジの白眼が、無言の圧力を放っている。見るな、と言いたげだが口には出さない。大人の対応だった。

 

「ネジ兄様、ちょっとだけ……離れてて。」

 

「あの、俺はフミを支えているんですが。」

 

「少しだけだから、お願い。」

 

ハナビが上目遣いで懇願すると、ネジは長い溜息をつき、フミの腕を静かに離して数歩後ろに下がった。

 

「フミ……目、閉じて。」

 

「……うん。」

 

フミは静かに目を閉じた。チャクラが枯渇した身体は重く、ハナビに寄りかかるような格好になっている。だが、頬に触れる小さな手の温かさだけは、はっきりと感じていた。

 

「迎えに来てくれて…ありがとう。」

 

囁くような声の直後、柔らかな感触がフミの唇に触れた。ほんの一瞬、羽が触れたような軽いキス。だがその一瞬に、ハナビの震えと涙の塩味と、眼を奪われた暗闇の中でフミを待ち続けた全てが込められていた。

 

ハナビが離れると、フミがゆっくり目を開けた。

 

「……感想、言ったら叩くから。」

 

顔を真っ赤にしたハナビが、照れ隠しに顔を背けた。

 

「……見ていないからな。何も見ていない。」

 

背を向けたネジが、誰に言い聞かせるでもなく呟いた。その耳の先が微かに赤いことには、誰も触れなかった。が、ここでフミはふと気づいた。

 

「待って…今って確か…各里に映像繋がってるんだよね?」

 

フミの一言で、その場の空気が凍りついた。

 

そう、月面での戦闘は五影会談の決定により、各里の監視部隊がチャクラ通信で映像を中継していた。戦況を把握するための措置だったが、誰もそれを切っていなかった。

 

「…………え?」

 

ハナビの顔から一瞬で血の気が引き、直後、耳の先まで爆発したように再度赤く染まった。

 

『あ』

 

サクラが口元を押さえ、キスを終えたばかりのナルトとヒナタも固まっている。つまり兄弟揃って全世界に生中継されていたということだ。

 

「………!」

 

ネジは無言で天を仰いだ。見ていないと言い張った自分の姿も、木の葉の日向宗家に届いていたことを悟った顔だった。

 

「う、嘘……嘘でしょ……里の皆に、今の……」

 

同時刻、木の葉の里のモニター前では、クシナが涙を流しながら拳を握り、「やったってばね!」と叫んでいた。その隣でオビトが「……見てられんな」と目を逸らし、綱手が酒を煽っていた。

 

「これ…ヒアシさんに知られたら僕ら兄弟やばいんじゃ…」

 

そこへカカシからの通信が入った。

 

「やぁ、お疲れ様。任務成功おめでとう。」

 

カカシの声はいつも通り飄々としていた。

 

「それと、二つ報告がある。良い知らせと悪い知らせ、どっちから聞きたい?」

 

「……良い方から頼むってばよ。」

 

「五影全員が君たちの戦いを見届けた。各里から世界の英雄として正式に称えられることになるだろう。」

 

「お、おお! で、悪い方は?」

 

「えー…ヒアシさんが火影室に来てる。目が据わってた。」

 

通信の向こうで、カカシが小さく咳払いした。

 

「正確に言うと、“娘を二人とも奪ったうずまき兄弟を月から引きずり戻せ”だってさ。」

 

「お、お父様……」

 

「ヒアシ様の八卦六十四掌は…洒落にならんぞ。」

 

「ふ、フミ、どうすんだってばよ!」

 

ナルトが青ざめた顔で弟を見た。月面でトネリと戦うより、日向宗家の前当主の方が遥かに恐ろしいと顔に書いてある。フミは乾いた笑いでつぶやいた。

 

「えー…投了でございます。」

 

「投了じゃないでしょ! ちゃんと一緒に頭下げてよ!」

 

ハナビがフミの頬を両手でぺちぺちと叩く。瀕死の重傷者への扱いとは思えなかったが、ハナビ本人にその自覚はない。

 

「いたい、いたい。眼を取り戻した途端に暴力的になって……」

 

「誰のせいだと思ってるの!」

 

「ヒナタ、俺らも覚悟決めねぇとな……」

 

「う、うん……お父様、きっと怒ってるよね……」

 

ヒナタは人差し指同士を突き合わせながら、既に涙目だった。

 

「俺が先に戻って取り次ごう。少しは時間を稼げるはずだ。」

 

「ネジ、お前いい奴だってばよ……!」

 

「か、勘違いするな。ヒアシ様が暴れて火影邸を壊されたら困るだけだ。」

 

ネジは淡々と言い放ったが、その足取りにも若干の躊躇いが見え隠れしていた。

 

「まあ、とりあえず全員生きて帰れるんだから。ヒアシさんの拳くらい、どうってことないでしょ。」

 

「サクラちゃん、他人事だと思って……!」

 

帰還の光が地上へと近づいていく。月面での激闘を制した英雄たちを待っていたのは、日向宗家当主の怒りという、ある意味で最も過酷な試練だった。

 

〜帰還より3日後、日向亭門前〜

 

『……………』

 

三日間の休息は、フミにとって休息と呼べるものではなかった。綱手直々の診察で丸一日、クシナの説教で半日、残りはベッドの上でハナビからの見舞い攻勢を受け続けるという、別種の戦場だった。

 

そして四日目の夕刻。うずまき兄弟と日向姉妹は、日向宗家の門前に立っていた。

 

「なぁフミ、足が先に動かねぇんだけど。」

 

「奇遇だね、僕も。」

 

「ふ、二人とも……手、すごい汗……」

 

「だ、大丈夫、父上だって鬼じゃないから…多分ね。」

 

ハナビの「多分」が全員の不安を加速させる頃、門が音もなく開かれた。先へ進んでいく長い廊下の奥、正座して待ち構える日向ヒアシの姿が見える。その背後には既にネジが控えていたが、こちらに向ける視線が「俺にできることはやった」と雄弁に語っていた。

 

「……座れ。」

 

ヒアシの声は静かだった。静かすぎた。怒鳴られる方がまだ楽だと、ナルトの本能が叫んでいる。

 

「まず…貴様ら兄弟は、いつから我が娘たちに手を出していた。」

 

「あの…そんな野蛮な行為をした覚えは…」

 

「月面で全世界に中継されたキスが野蛮でないと?」

 

ヒアシの白眼が静かに発動した。フミの背筋に冷たいものが走る。

 

「ひ、ヒアシさん、あれはその、勢いっていうか……!」

 

「勢い…火影の息子が、我が長女を勢いで。」

 

ナルトが即座に黙った。

 

「お、お父様、ナルトくんは悪くないんです!私が自分から……」

 

「ヒナタ、黙りなさい。」

 

ヒナタが小さく縮こまった。ヒアシの視線が再びフミに戻る。

 

「フミ、お前はハナビの眼を取り戻し、命懸けで娘を救ってくれた。それは認める。」

 

一瞬だけ、ヒアシの目に感謝の色が過ぎった。だが、それは瞬きよりも短い時間で消え去った。

 

「だが、それとこれとは話が別だ。お前たち兄弟に、日向の姫を二人とも持っていかれてたまるか。」

 

「お父様! 持っていかれるとか、私たちは荷物じゃ……」

 

「ハナビも黙りなさい。」

 

ハナビが口を噤んだ。日向宗家の前当主の威圧は、月面のトネリとはまた違った恐ろしさがあった。だが、その頬が赤くなっていたのをフミは見逃さない。

 

「ヒアシ様……ひょっとして、妬いてます?」

 

部屋の温度が数段下がった気がした。ネジが背後で額を押さえ、ナルトが「こいつ正気か」という顔でフミを見ている。

 

「な、何だと。」

 

「だって、娘二人ともに慕われてるお父さんなんて、そうそういませんよ。ヒナタさんもハナビも、ヒアシ様のこと大好きなんです。それは僕らがどうこうしたって変わらない。」

 

フミは真っ直ぐヒアシの目を見ていた。命懸けの戦場を潜り抜けた直後の人間は、怖いものが減る。

 

「娘を取られるんじゃなくて、家族が増えるだけです。」

 

「それは……」

 

ヒアシの白眼が揺れた。怒りでも侮蔑でもない、もっと複雑な感情が、その瞳の奥で渦巻いている。

 

「お父様……私、フミのこと本気で好きなの。アカデミーの頃からずっと。」

 

「私も……ナルトくんがいなかったら、今の私はいません。」

 

姉妹が同時に頭を下げた。ヒアシの拳が膝の上で震えている。

 

「…ネジ。」

 

「はい。」

 

「あとで酒を頼む。呑まないと…やってられん…」

 

ヒアシは長い溜息をつき、白眼を解除し、ネジが僅かに目を見開き、それから静かに頷いて部屋を出ていこうとした時だった。

 

「ネジさん、待ってください。ハナビから、伝えたいこと、あるんだよね?」

 

ネジが襖に手をかけたまま立ち止まった。ハナビが息を呑む気配が部屋に満ちる。

 

「フミ……今?」

 

ハナビが小声で問いかけた。その目は戸惑いと、どこか覚悟を決めたような光が入り混じっている。

 

「必要な人たちは揃ってる。今しかないよ。」

 

「……何の話だ。」

 

ヒアシの眉が訝しげに寄った。娘たちの恋愛沙汰だけでも手一杯だというのに、まだ何かあるのかと言いたげな顔だった。

 

「……お父様。」

 

ハナビは背筋を伸ばし、正座を整えた。さっきまで頬を赤く染めていた少女の面影は消え、日向宗家当主の顔がそこにあった。

 

「私は…当主の座を、ネジ兄様にお譲りしたいと考えています。」

 

「なっ……⁉︎」

 

ヒアシの目が見開かれた。隣でヒナタも驚きに口元を押さえている。

 

「ハナビ様……!」

 

ネジは襖から手を離し、ゆっくりと振り返った。二年前にも聞いた言葉。だが今のハナビの声には、あの時とは違う重みがあった。

 

「ハナビ、理由を聞かせてくれないか。お前が宗家を継いでから、まだ数年しか経っていない。お前が宗主として積み上げた功績は、私も認めている。」

 

ヒアシの声には怒りではなく、純粋な問いかけの響きがあった。娘の決意が生半可なものではないことなど、とうに見抜いている。それでも、口から聞きたかった。

 

「今回の件で痛感しました。私には……大切なものを守りきる力が足りない。」

 

ハナビの白眼が一瞬発動し、すぐに解除された。トネリに眼を奪われた記憶が、まだ生々しく残っている。

 

「当主として里を守ることと、目の前の人を守ること。その二つを同時に追う器用さは、私にはありません。だから…!」

 

ハナビがネジを見上げた。

 

「守ることに関して、ネジ兄様以上の適任はいません。私は……隣で支える側に回りたい。」

 

「ハナビ……」

 

ヒナタが妹の手にそっと触れた。その手が微かに震えていることに気づいたから。

 

「ネジ、お前はどうだ。」

 

ヒアシの視線がネジに向いた。試すような、それでいてどこか期待を滲ませた眼差しだった。

 

「中忍試験の時、ナルトに言われたことがあります。」

 

ネジは静かに膝をつき、ヒアシと向き合った。

 

「運命は変えられると。分家だからと諦めるなと。あの時は負け惜しみだと思った。だが、あの拳は確かに俺の中の何かを壊してくれた。」

 

ネジの白眼が、一瞬だけナルトを捉えた。ナルトは黙って頷いている。

 

「そして二年前、フミにも言われました。実力が伝統のせいで潰されるなら、そんな伝統は無くすべきだと。」

 

フミは何も言わず、ただ静かにネジを見つめていた。

 

「俺はずっと、籠の鳥だと己を蔑んでいた。額のこの印を呪い、宗家を恨み、運命を憎んだ。」

 

ネジの指が額当ての縁に触れた。その下に刻まれた呪印の存在を、この場の誰もが知っている。

 

「ですが……今は違う。」

 

ネジの声が、僅かに震えた。

 

「守りたいものがあります。ハナビ様、ヒナタ様、そして日向の全ての者。宗家も分家も関係なく。もし俺にその役目を託していただけるなら……この命に懸けて、日向を導いてみせます。」

 

ネジは深く頭を下げた。額が畳に触れるほどの、深い礼だった。

 

『‼︎』

 

部屋の空気が止まった。日向ヒアシの頬を伝う一筋の涙を、誰もが息を殺して見つめていた。

 

「……ヒザシ。」

 

その呟きは、ネジに向けたものではなかった。遠い日に失った弟、日向ヒザシへの言葉だった。

 

「お前の息子は、立派になったぞ。」

 

ヒアシが目を閉じ、深く息を吐いた。畳に額をつけたまま微動だにしないネジの背中を、しばらくの間じっと見下ろしていた。

 

「面を上げよ、ネジ。」

 

ネジがゆっくりと顔を起こすと、ヒアシは居住まいを正し、当主としてではなく、一人の伯父として甥を見据えた。

 

「日向の当主に相応しいかどうかは、俺が決めることではない。だが現当主のハナビが任命した以上、異存はない。」

 

ヒナタの目にも涙が浮かんでいた。ハナビは唇を噛みしめ、必死に泣くまいとしている。けれどその白眼の縁は、とっくに赤く滲んでいた。

 

「……ネジ。」

 

ナルトが不器用に笑った。鼻を啜る音を隠しもせずに。

 

「やっと、籠の鳥じゃなくなったってばよ。」  

 

「とはいえ、前例なき指名、我々も微力ながら支援させていただければと。」

 

「……ほう。」

 

ヒアシの涙の跡が乾ききらぬうちに、その目に鋭い光が戻った。フミの言葉の意味を即座に理解したのだろう。

 

「火影候補者とその弟、ましてやうずまき一族が日向の内政に口を出すとなれば、それはそれで波風が立つぞ。」

 

「いいんだってばよ、そういうの。」

 

ナルトが腕を組んで胸を張った。

 

「木の葉の英雄として正式に日向の改革を支持するって言やぁ、長老連中も文句は言えねぇだろ。それに俺、ヒナタの旦那だし。」

 

「ナルトくん……!」

 

ヒナタが頬を染めながらも、しっかりと頷いた。宗家の長女としての発言力は、この場において決して小さくない。

 

「フミ、ナルト…ありがとう。」

 

ネジが顔を上げた。感謝の言葉を口にするには不器用すぎる男だったが、その白眼がすべてを語っていた。

 

「……ふふ。」

 

ハナビが袖で目元を拭いながら、小さく笑った。

 

「クシナの頃から、うずまき家は本当にお節介焼きの一族だが…悪くない縁だ。」

 

ヒアシが立ち上がり、襖を開けた。庭に差し込む夕暮れの光が、部屋にいる全員の顔を柔らかく照らした。長い一日が、ようやく終わろうとしていた。

 

「……旦那?」

 

が、感動的な余韻が、フミのたった一言で木っ端微塵に吹き飛んだ。

 

「あっ…」

 

ナルトの顔が見る見るうちに青ざめていく。

 

「な、ナルトくん、あの、これは……!」

 

ヒナタが真っ赤を通り越して紫に近い色になりながら、両手をぶんぶん振った。

 

「……ナルト。」

 

ヒアシの声が、先ほどまでの温かみを完全に失っていた。夕暮れの光に照らされた父の顔は、般若の面のようだった。

 

「娘と付き合うことは許したが、嫁にもらったという報告を、俺はまだ受けていないのだが?」

 

「いやっ、その、勢いっていうか、ノリっていうか……!」

 

「ナルト。」

 

ネジが静かに立ち上がった。額に浮かぶ血管が、白眼の発動を物語っている。

 

「当主就任の礼代わりに、まず一つ仕事をさせてもらおうか。」

 

「ちょ、待て、ネジ、話せばわかるってばよ!」 

 

2対1での追いかけっこが始まろうとする中で、フミはハナビに囁く。

 

「来週の日曜、空いてる?」

 

ハナビの白眼が一瞬見開かれた。騒ぎの中でフミだけが平然としていることに、まず驚いた。そして、その声色の意味を理解するのに、息ひとつ分の間があった。

 

「……空いてるけど。」

 

ハナビはフミの横顔を覗き込むように見上げた。赤い髪に留まったクシナお手製のヘアピンが、夕陽を受けて小さく光っている。

 

「なに、改まって?」

 

声が少し上擦っていた。聡い娘だった。フミが何を言おうとしているのか、勘づいていないはずがない。それでも確認せずにはいられないのは、期待と不安が胸の中で渦を巻いているからだった。

 

『待てナルトォォッッ‼︎』

 

「ひいいいいっ!母ちゃんやマダラより怖いってばよォォ!」

 

背後ではナルトがヒアシとネジの挟撃から必死に逃げ回り、ヒナタが「お父様、落ち着いて」と涙声で仲裁を試みている。その喧騒が、二人の囁きを都合よく覆い隠していた。

 

「ねえ、フミ。ちゃんと言って?」

 

ハナビの指先が、畳の上でフミの小指にそっと触れた。

 

「準備、しててほしい。今はそれだけで許して。」

 

ハナビの唇が小さく震えた。白眼を使うまでもなく、フミの横顔から伝わってくるものがあった。

 

「ずるいよ…そんな言い方されたら、一週間ずっとそわそわするじゃない。」

 

けれどその声は怒ってなどいなかった。小指がフミの指に絡みつき、離れようとしない。

 

「準備って……何を着ていけばいいかくらい、教えてくれてもいいんじゃないの。」

 

頬を少し膨らませながらも、その白い瞳の奥には隠しきれない喜びが滲んでいた。

 

「ドヒャァァァッッッ‼︎」

 

そのとき、派手な物音、悲鳴とともにナルトが襖を突き破って庭に転がり出た。ヒアシの八卦掌が背中をかすめたらしい。

 

「フミィィィ! 弟なら兄ちゃんを助けろってばよ!」

 

「自分でなんとかしなさい。」

 

「薄情者ォォ‼︎」

 

「……行ってあげたら?」

 

ハナビが小さく笑い、絡めていた指をそっと解いた。その指先が離れる瞬間の名残惜しさを、フミの皮膚はしっかりと覚えているだろう。

 

「分かった。日曜、楽しみにしてるね。」

 

最後にそう囁いた声は、当主でも忍でもなく、ただの女の子のものだった。

 

 

 

そして翌日、日向宗家の集会場にて長老たちを交えた正式な会議が開かれた。予想通り反発はあったものの、ヒアシ本人の推薦、ハナビの自発的な辞退、そして七代目火影うずまきナルトの公式な支持表明が重なれば、老人たちも渋々と矛を収めるほかなかった。何故英雄の顔が絆創膏まみれなのかは皆首を傾げていたが。

 

また、呪印の廃止については継続審議となったが、ネジの額当ての下にある印が、いずれ日向最後の呪印となる日もそう遠くはないだろう。

 

「まさか本当にこんな日が来るとはな。」

 

会議の後、ネジは日向邸の縁側でぽつりと呟いた。隣にはフミが座っている。庭の池に錦鯉が跳ね、水面に波紋が広がった。

 

「礼を言う、フミ。お前とナルトがいなければ、俺はまだ檻の中にいた。」

 

ネジは前を向いたまま、微かに口角を上げた。日向の天才と呼ばれた男にしては珍しく、穏やかな顔だった。

 

「それと、日曜のことだが。」

 

ネジの白眼がちらりとフミを捉えた。

 

「ハナビ様が朝から落ち着きがない。何か知っているか。」

 

「…秘密です。僕にとっては……最後の大勝負かもしれませんね。」

 

ネジの白眼が細められた。フミの言葉の重みを、この天才は正確に量り取っていた。

 

「そうか…」

 

ネジは庭の空を見上げた。雲ひとつない秋晴れが、どこまでも高く広がっている。

 

「大勝負、か。ならば一つだけ言っておく。」

 

ネジが立ち上がり、フミを見下ろした。その目には、当主としての威厳と、兄のような温もりが同居していた。

 

「ハナビ様を泣かせたら、八卦六十四掌では済まさん。百二十八掌だ。」

 

冗談なのか本気なのか判別がつかない声色だった。おそらく両方だろう。

 

「だが。」

 

ネジは背を向け、歩き出しながら付け加えた。

 

「改めて言うぞ。お前になら、託せる。」

 

それだけ言い残して、新当主は廊下の奥へと消えていった。足音すら立てない、日向の天才らしい去り際だった。縁側に一人残されたフミの膝の上に、庭から風に乗って一枚の紅葉が舞い落ちた。

 

 

 

 

日曜まで、あと六日。




次回、フミ一世一代の大勝負、そして…お楽しみに。
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