※この作品はR-18です。

うずまきフミ物語〜その果ては地獄か楽園か〜   作:陽炎=蜻蛉

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大切な人と急にお別れすることになったら、私は多分立ち直ることはないと思います。心の穴をずっと開けたまま生きる、そんな風になると思います。それでも生きなきゃならないのが人間の性なのかもしれません。


第12話「涙」

 

2組の結婚式から数ヶ月、フミとヤマトの2人でナルトとヒナタのために新居が建築されたばかりの頃。木の葉の里内にある温泉郷に漂う湯煙の向こうで、蝦蟇仙人の自来也は原稿用紙に筆を走らせていた。

 

「……いかんな、これは。」

 

かつては力強く紙面を駆け回った筆致が、近頃はどこか震えを帯びている。肝臓の数値は綱手に見せれば卒倒されるような代物、咳き込むたびに痰に混じるものから目を逸らすのも、もう慣れた。筆を止め、湯呑みに手を伸ばす。中身は勿論、茶ではなく酒である。

 

「こいつが、最後の一冊になるかもしれんの。」

 

誰に言うでもなく呟いた声は、湯煙に溶けて消えた。ガマブン太との口寄せ契約の感覚が年々薄れていることも、仙人モードの維持時間が目に見えて短くなっていることも、全部わかっていた。それでも筆を止める理由にはならない.自来也が書き続ける訳は、もうとっくに印税や名声のためではないのだ。

 

第一のファンを自称するあの赤髪の少年が、「先生の本、母さんやハナビに見つからないように隠すの大変なんですよ」と笑っていた顔を、自来也は原稿用紙の向こうに見ていた。

 

「…読んでくれるやつがいる限り、物書きは死なねえのさ。」

 

酒を一口含み、また筆を取る。木の葉に届くはずの最新刊は、あともう少しで完成だった。

 

 

 

 

 

火影室の窓を、雨粒が不規則に叩いていた。木の葉の里を覆う鈍色の雲は、まるで誰かの胸の内を映したかのように重く垂れ込めている。

 

「………」

 

綱手の書類の山に判を押す手が、ふと止まった。その視線は窓の外、雨に煙る里の景色を透かすように遠くへ向けられている。

 

六代目火影カカシが書類から顔を上げた。マスクの上の目が、綱手の横顔をちらりと捉えている。

 

「綱手様、その書類まだ三束残ってますよ。」

 

「ああ…わかってるよ。」

 

返事は素っ気なかったが、判を持つ指先に力が入らなかった。最後に自来也と酒を酌み交わしたのはいつだったか。あの馬鹿は出された肴に文句をつけながら、結局全部平らげて笑っていた。その時の顔色が妙に土気色だったことを、医療忍者の目は見逃していなかったのに、何も言えなかった。

 

綱手が小さく息を吐いた。雨粒が窓ガラスを伝い落ちる軌跡を、琥珀色の瞳が追いかけている。

 

「あの馬鹿、ちゃんと飯食ってるのかね。」

 

カカシは何も訊かなかった。ただ黙って自分の湯呑みを綱手の前に差し出し、新しい茶を注いだ。聞こえてくるのは雨音と、紙を捲る微かな音だけだった。

 

(結局…カッコつけさせてやる機会も訪れなかったな…)

 

綱手が自来也に対して抱えてきたものは、忍の世界において珍しくもない類の感情だった。言わなくても伝わると思い込み、伝わらなくても明日があると高を括り、その明日が有限であることに気づいた頃には、もう手遅れに片足を突っ込んでいる。

 

(……情けない話だ、酒に溺れる馬鹿1人止められないなんて。)

 

医療忍者として数え切れないほどの命を繋ぎ止めてきた指が、たった一人の襟首を掴んで引き留めることすらできない。そっと判子を置き、綱手は額に手を当てると、百豪の印がその掌の下で微かに脈打っていた。

 

「私も…歳を取ったもんだ。」

 

カカシの片目が、書類越しにそっと綱手を見た。何か言いかけて、やめた。代わりに窓の外へ視線を流す。

 

「雨、しばらく止みそうにないですね。」

 

その言葉が天気の話だけではないことを、綱手は察していた。湯呑みの茶が冷めていくのを眺めながら、唇の端だけで笑った。

 

「そういえば自来也の新刊、もうじき届くらしいじゃないか。あの馬鹿、まだ懲りずに書いてるのかい。」

 

「ええ、俺もフミも、楽しみにしてるんですよ。」

 

声は軽かったが、雨音に紛れた吐息の震えまでは隠しきれなかった。火影室の空気が、判子のインクと古い紙と、ほんの少しの後悔の匂いを含んで淀んでいる。

 

「そうかい…ま、今度会ったら酒の一つでも奢って…」

 

その時、火影室の扉が蹴破るような勢いで開いた。シズネの顔からは血の気が引き、額に張り付いた前髪が雨に濡れている。

 

「綱手様っ……!」

 

息を整える間も惜しむように、シズネは言葉を絞り出した。

 

「自来也様が、温泉宿で意識を失って倒れたと……!今、病院で処置を始めています!」

 

火影室の空気が凍りついた。さっきまで冗談めかして口にしていた名前が、今度は全く違う重さで部屋の中に落ちた。

 

「何だと……ッッ⁉︎」

 

綱手の顔から表情が消えた。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、琥珀色の瞳が揺れた。それは医療忍者の目ではなく、ただの女の目だった。

 

だが次の瞬間には椅子を蹴って立ち上がっていた。湯呑みが倒れ、冷めた茶が書類の上に広がるのを誰も気にしなかった。

 

「シズネ、容態は⁉︎」

 

「肝臓と、それから喀血も……詳しくはサクラが検査中ですが、かなり……」

 

シズネの声が途切れた。「かなり」の先を口にする勇気が出なかった。綱手は羽織を掴み取ると、窓枠に足をかける。雨など目に入っていなかった。

 

「すまん、カカシ、後は任せる!」

 

カカシが頷いた時には、もう綱手の姿は雨の中に消えていた。屋根から屋根へ跳ぶその速度は、五代目火影の全盛期と何ら変わりなかった。

 

 

 

「…………今、なんて?」

 

知らせを持ってきたのは日向家の分家の者だった。玄関先で雨に濡れた肩を震わせながら、事務的に、しかしどこか申し訳なさそうに用件を伝えた。フミの隣で、ハナビが息を呑んだ。

 

「自来也様が……?」

 

ハナビの声は小さかったが、フミの耳にははっきり届いた。彼女の白眼がフミの横顔を捉え、そこに浮かんだ表情を読み取ろうとしている。外の雨脚は強くなっていた。軒先から落ちる雫が、石畳を叩く音がやけに大きく響いている。

 

「ナルト様には別の者がお伝えしました。既に病院へ向かわれたとのことです。」

 

フミの胸元で、クシナ手製のヘアピンが雨粒を弾いた。赤い髪が額に張り付くのも構わず、フミは雨の向こう、木の葉病院がある方角を見据えていた。 

 

「……飛来神ッッ‼︎」

 

「あ、フミ…!」

 

フミの姿が掻き消えた。父ミナトから受け継いだ時空間忍術が、雨粒が地面に着く間もなく発動する。ハナビが伸ばしかけた手は空を掴んだ。

 

「…待ってるからね。」

 

木の葉病院の廊下に、黄色い閃光が走ると同時、消毒液の匂いがフミの鼻を突く。蛍光灯の白い光、濡れた足跡を残しながら駆ける看護忍の背中。その奥の集中治療室の前に、金髪の背中が見えた。

 

「フミ……!」

 

ナルトが振り返った。いつもの底抜けに明るい青い目が、今は揺れていた。拳を握りしめたまま壁に背を預け、扉の向こうから漏れる緑色のチャクラの光を見つめている。

 

「エロ仙人が……急に倒れたって…サクラちゃんが今診てるけど、まだ何も……」

 

言葉が途切れた。ナルトの唇が震えるのを噛み殺すように、奥歯を強く噛んだ音がした。

 

「大丈夫だよ…先生がこんなところで…こんなところで……!」

 

扉の磨りガラス越しに、綱手の背中のシルエットが見えている。その肩が微かに上下しているのは、呼吸を整えているのか、それとも別の理由か。サクラの張り詰めた声が、くぐもって漏れ聞こえてくる。廊下の窓を雨が叩き続けていた。兄弟二人の影が、蛍光灯の下で長く伸びている。

 

「………」

 

どれくらい経っただろうか。サクラが集中治療室から出てきた時、その翡翠色の目には隈が刻まれ、額の百豪の印が薄く光を帯びていた。手袋を外しながら、二人の前に立つ。

 

「サクラちゃん、エロ仙人は…⁉︎」

 

「……正直に言うわ。」

 

サクラの声は、医療忍者としての冷静さを保とうとして、それでも僅かに掠れていた。

 

「ペイン戦と忍界大戦の時の複数の傷が、完治しないまま慢性化していた。加えて長年の飲酒で肝硬変の進行速度も早まってる。腎臓にも負担がきてて、もうチャクラの循環系統自体…」

 

サクラがフミとナルトを交互に見た。弟弟子と、頼れる同期の顔を。

 

「綱手様が今、百豪の術で進行を抑えてるけど……根本的な治療は……」

 

言葉の先を、誰も求めなかった。求める必要がなかった。

 

「そんな………」

 

磨りガラスの向こうで、綱手の掌から溢れる緑色の光が、心電図の弱々しい波形を照らしていた。あの伝説の三忍の一人が横たわるベッドは、その巨体には些か窮屈で、はみ出した片腕の指先が微かに痙攣している。

 

「……フミ。」

 

サクラが後輩の赤い髪を見つめた。その目に、医療忍者としての問いかけが浮かんでいる。

 

「あんたも診てみる? 私が見落としてる可能性だって、ゼロじゃないから。」

 

「……いいえ、綱手様がああも取り乱してる以上….疑う必要もないです。」

 

フミの声は静かだった。だがその赤い瞳が、磨りガラスの向こうの綱手の背中を射抜くように見つめていることに、サクラは気づいていた。

 

「この馬鹿っ…‼︎ 絶対に死なせんぞッッ‼︎」

 

あの綱手が取り乱している。それだけで十分だった。医療忍者として頂点に立つ女が、冷静な判断を手放すほどの状況。それ以上の診断など、何の意味があるのか。

 

ナルトが壁を拳で叩くと、鈍い音が廊下に響き、壁に蜘蛛の巣のようなひびが走る。

 

「くそ……っ、エロ仙人のやつ、なんで黙ってたんだってばよ……!」

 

サクラがナルトの拳をそっと包んだ。血が滲んだ指の関節に、緑色の光が灯る。

 

「ナルト、ここは病院よ。」

 

「すみません、姐さん。木遁……」

 

ひびを即座に補修し終えたと同時、集中治療室の扉が開き、綱手が出てきた。白い羽織の袖が汗で肌に張り付き、額から顎にかけて汗が伝い落ちている。百豪の印から広がる紋様が、首筋まで這い上がっていた。綱手の琥珀色の瞳が、次世代の若き忍び達を捉える。

 

「……意識が戻った。」

 

綱手の声には、安堵も絶望もなかった。ただ事実だけが、乾いた唇から零れた。

 

「会いたいそうだ。お前たち二人に。」

 

言うが早いか、2人は治療室へ駆け込んでいた。

 

「先生ッッ‼︎」

 

「エロ仙人ッッ‼︎」

 

兄弟が集中治療室に飛び込むと、消毒液と、それでは隠しきれない病の匂いが鼻腔を満たすされていく。

 

「うそ……だろ……?」

 

ベッドの上の自来也は、2人の記憶にある姿とはまるで別人だった。あの山のように大きかった体躯が二回りは縮み、頬はこけ、白い髪が枕の上に力なく広がっている。それでも口元だけは、あの不敵な笑みを浮かべていた。

 

「おう……随分と早ぇ到着じゃねえか、2人とも。」

 

声は掠れ、途切れがちだったが、目だけは生きていた。フミとナルトの顔を交互に見て、喉の奥で笑う。

 

「そんな顔すんな、二人とも。まるで葬式みてぇだぞ。」

 

ナルトが唇を噛んだ。目の縁が赤くなっているのを、必死に堪えている。

 

「葬式みたいな顔させてんのは、どっちだってばよ…!」

 

自来也が片方だけ目を細めた。震える手を持ち上げ、ナルトの頭をぽんと叩こうとして、途中で力が抜けた。ナルトがその手を掴んで、自分の頭に乗せた。

 

「フミ、お前に…渡したいもんがある。」

 

自来也の視線がフミに向いた。枕元の風呂敷包みを、骨ばった指が示していた。

 

「新刊の原稿だ。最後の一冊になるかもしれねえが……まあ、最高傑作ってやつだ。」

 

「最後だなんて……もっと早く……僕たちが気づいていたら……こんなことには…….!」

 

自来也が鼻で笑った。いつもの豪快さには程遠い、掠れた息混じりの笑いだったが、その目は真っ直ぐフミを見ていた。

 

「馬鹿言え。気づいてたところで同じさ。」

 

咳き込んだ。サイドテーブルの水差しが微かに揺れるほどベッドが軋み、それが収まるまで暫くかかった。

 

「ワシが好き勝手に飲んで、好き勝手に戦って、好き勝手に生きた結果だ。誰のせいでもねぇんだ。」

 

心電図の電子音が、規則的に、しかし弱々しく病室に響いていた。窓の外では雨が止む気配もなく、灰色の空が木の葉の里全体を覆い尽くしている。

 

自来也の目がフミの胸元、赤い髪に留まったヘアピンを捉えた。クシナお手製のそれを見て、何か懐かしいものに触れたように目を細める。

 

「フミは…クシナに益々似てきたな。髪だけじゃねえ、そうやってすぐ自分を責めるところも。ナルトは…まあ、あんなに綺麗な嫁さん貰っても馬鹿のままだがの。」

 

「先生……!」  

 

「うるせえってばよ…!馬鹿のままでいいって決めたのは俺だ…!」

 

溢れる涙を抑えることなど、できなかった。

 

「はは…そう泣くな…物書きってのはな、最後の頁まで読んでもらえりゃ本望なんだよ。」

 

その声は優しかった。師としてではなく、孫を見守る老人のような穏やかさが滲んでいた。そして、自来也は治療を続けようとする綱手に声をかける。

 

「綱手、もう良い。これ以上…ワシのために力を使うな。」

 

病室の空気が、確実に凍った。綱手の手が止まる。緑色のチャクラが指先から霧散し、消えていく。琥珀色の瞳が見開かれ、そこに映る自来也の顔を凝視していた。

 

「何を、言ってるんだ。」

 

声が震えていた。五代目火影の威厳も、伝説の三忍の矜持も、その一言には欠片も残っていなかった。

 

自来也はベッドの上で天井を見つめたまま、静かに口を開いた。

 

「お前が百豪の力を削って延命させたところで、ワシの体はもう保たん…分かってるだろ?」

 

咳が一つ。それから、穏やかに笑った。

 

「それにな……お前の命を削ってまで生き延びるなんざ、格好悪いだろうが。」

 

綱手の拳がベッドの柵を掴んだ。金属がぎしりと悲鳴を上げ、指の形に歪む。

 

「ふざけるな……ふざけるなよ、自来也ッ! 私の医療忍術を舐めてるのか! まだ方法は……っ」

 

自来也の手が、綱手の拳に重なった。歪んだ柵の上で、骨ばった指が震えながらも確かに綱手の手を包む。

 

「お前にはまだ、歴代火影として里を見守る仕事が残ってる。ワシなんぞに力を割く必要ないさ。」

 

綱手の肩が崩れた。声にならない嗚咽が、消毒液の匂いに満ちた病室に落ちる。

 

「そんな…ダメです先生!綱手様だけじゃない、僕やサクラ姉さんだって…!」

 

自来也がフミの方を向いた。枯れ木のような首が枕の上でゆっくりと動き、あの黒い瞳がフミを真っ直ぐに捉える。

 

「フミ。」

 

たった一言。だがその声には、有無を言わさぬ重みがあった。かつて忍界を渡り歩いた伝説の三忍の、最後の威厳だった。

 

「お前も医療忍者だから、ワシの体がどうなってるか、わかるだろ?」

 

「ッッ……‼︎」

 

フミの拳が白くなるほど握り締められた。わかっていた。サクラの診断を聞いた時点で、綱手の取り乱し方を見た時点で、とうに頭は理解していたはずだった。チャクラ循環系統の崩壊は不可逆であり、延命はただ苦痛を引き伸ばすだけに過ぎないと。

 

自来也が天井に視線を戻した。雨音が窓を叩く中、穏やかな声で続けた。

 

「ワシはな、書きたいものは書いた。育てたい奴は育てた。惚れた女の顔も最後に見れた。」

 

ちらりと綱手を見て、いたずらっぽく口角を上げる。綱手の肩がびくりと跳ねた。

 

「これ以上…何を望めってんだ。十分すぎる人生だったよ。」

 

自来也の視線がナルトとフミに戻った。

 

「そして、お前たち兄弟が立派になったのを見届けられた。物書きとしちゃ、これ以上ない結末じゃねえか。」

 

二人の頬を伝い続けた涙が、顎から落ちて白いシーツに染みを作った。もはや声は出なかった。頭では理解していることと、弟子として心が受け入れられることの間には、どうしても埋められないほどに深い溝がある。

 

「エロ仙人の……ばかやろう……っ!」

 

自来也が二人を見つめた。愛弟子の息子たち。ミナトの血を引き、クシナの赤い髪を受け継いだ弟と、師の面影を色濃く宿す兄。その二人が泣いている姿を、自来也は目に焼き付けるように見ていた。

 

「ったく……泣くなって…言ったろうが。」

 

そう言いながら、自来也自身の目尻にも光るものがあった。枯れた指がナルトの金髪をくしゃりと撫で、それからフミの方へ手を伸ばした。震える掌がフミの赤い髪に触れ、ヘアピンのあたりを不器用に撫でた。

 

「なあフミ…あの原稿、ちゃんと読んでくれよ…お前の感想が聞きてえんだ。」

 

咳が混じった笑い声が、雨音の隙間に溶けた。

 

「時間、かかりますよ…涙で……上手く読めないでしょうから……!」

 

自来也の顔に、皺だらけの笑みが広がった。歯を見せて笑おうとして、途中で咳に変わったが、それでも目元だけは柔らかいままだった。

 

「ああ…急がなくていい。ワシもまだちっとは……」

 

それが嘘であることは、自来也自身が一番わかっていた。だがフミの泣き顔を前にして、それ以外に何が言えるのだろう。

 

「このバカが……!」

 

綱手が顔を背けた。唇を噛み締め、肩を震わせながら窓際に歩み寄る。その背中は、里の誰もが仰ぎ見た五代目火影のものとは思えないほど小さく見えた。雨に濡れた窓ガラスに、綱手の歪んだ顔が映り込んでいる。

 

自来也の視線が綱手の背中を追った。長い沈黙の後、掠れた声が病室に落ちた。

 

「……綱手。」

 

綱手は振り向かなかった、いや…振り向けなかった。

 

「最後…賭けをしよう。お前の好きな賭けだ。」

 

綱手の肩がぴくりと動いた。

 

「ワシの最後の本が歴代最高の売上を叩き出す方に、ワシの全財産を賭ける。」

 

綱手が振り向いた。涙で滅茶苦茶になった顔のまま、唇が震えながら言葉を絞り出した。

 

「あんたの賭けに乗ったことなんか、一度もないよ。」

 

「ああ…だから、今回が最初で最後だ。」

 

自来也が笑った。あの若い頃と何も変わらない、どうしようもなく馬鹿で、どうしようもなく優しい笑顔で。

 

「……なあ、エロ仙人。」

 

ナルトの声は震えていた。鼻水も涙もぐちゃぐちゃのまま、それでも真っ直ぐ自来也を見つめて口を開いた。

 

「俺……エロ仙人がいなかったら、今の俺はいなかったってばよ。」

 

握った手に力が込もる。自来也の骨ばった指が、ナルトの掌の中でこんなにも細くなっていたことに、今更気づいた。

 

「忍術の基礎も、螺旋丸も、仙術も、全部エロ仙人が教えてくれた。でも……それだけじゃねえ。ガキの頃、落ちこぼれだった俺を誰も見向きもしなかった時に、一番最初に俺を認めてくれたのは……」

 

言葉が詰まった。喉の奥で嗚咽が塊になって、うまく息が通らない。

 

「エロ仙人だってばよ……っ!」

 

ナルトの慟哭が病室に満ちた。心電図の電子音すら掻き消すほどの、剥き出しの感情だった。サクラが廊下で唇を押さえ、目を伏せている。

 

「そうか………」

 

自来也の目から、一筋の涙が枕に落ちた。震える手でナルトの金髪をもう一度くしゃりと掴み、引き寄せるように頭を撫でた。*

 

「上出来だよ、ナルト…お前は、ワシの最高傑作だ。」

 

その声は囁きに近かったが、病室の誰の耳にも、雨音よりはっきりと届いた。そして、一ファンとして、フミは問うた。

 

「先生、一つだけ、聞かせてください……楽しかったですか?」

 

病室が静まり返った。雨音と心電図の微かな電子音だけが、時間の流れを証明している。

 

自来也は天井を見上げたまま、暫く黙っていた。その目に映っているのは白い天井ではなく、もっと遠い景色だったのかもしれない。大蛇丸や綱手と肩を並べて走り回った日々、友との別れ、ミナトという天才に出会った夕暮れ、ナルトに螺旋丸を教えた滝壺の飛沫、数多の戦場を駆け抜けた日々、各地の温泉街で原稿用紙を広げた夜。

 

そのすべてが、自来也の瞳の奥で走馬灯のように巡っていた。

 

「聞くまでもねぇだろ、そんなもん。」

 

自来也の口元が綻んだ。震える息の合間に、噛み締めるように言葉を紡ぐ。

 

「最高に、楽しかったよ。」

 

咳が一つ混じった。それでも笑みは消えなかった。

 

「美人は山ほど見たし、酒は腐るほど飲んだ。弟子には恵まれすぎて罰が当たるくらいだ。本だって好きなだけ書けた。それに…」

 

自来也の目が兄弟を捉える。金髪と赤髪、あんなに小さかった少年たちは今や英雄と称されるほどに逞しく育ってくれた。

 

「孫弟子たちが泣いてくれるんだ。これぞ、物書き冥利に尽きるってもんだろう。」

 

自来也は笑った、ただ、静かに笑った。その顔には悔いの影など欠片もなかった。

 

「先生……なっ……⁉︎」

 

心電図の波形が乱れ始めた。規則的だった電子音が不規則に跳ね、サクラが廊下から駆け込もうとしたのを綱手が片手で制した。もう、いいと。その背中が語っていた。

 

「エロ仙人!」

 

「兄さん……もう……休ませてあげよう……‼︎」

 

兄を必死に制する中で、自来也の呼吸は浅くなっていく。胸が上下する間隔が長くなり、指先の温度は急速に失われていく。それでも自来也の瞳には兄弟が映り続けていた。

 

「あとは……全て、託すぞ……!」

 

その声は吐息のように細かったが、それの重さは、この場にいた誰もが受け止めるに十分なものであったことは言うまでもない。

 

ナルトが自来也の手を両手で包んだまま、声にならない声で頷いた。フミの指が自来也の袖を掴んでいた。離すまいと、子供のように。

 

「……ああ……」

 

自来也の目が、最後に綱手を見た。窓際に立つ綱手が、ようやく振り向いていた。涙を拭いもせず、ただ真っ直ぐにこちらを見つめる琥珀色の瞳。

 

「綱手。やっぱり……お前が一番の……」

 

最期の言葉が紡がれることはなかった。その瞳が閉じられると同時、心電図は長い一本の線を示す。

 

雨は止んでいた。雲の切れ間から一筋の光が差し込み、病室の窓を通って自来也の穏やかな顔を照らす。口元には、あの笑みが残ったまま。豪快に生き、沢山の物語を紡いできた蝦蟇仙人の生き様が、静かに幕を下ろした瞬間だった。

 

フミの嗚咽が病室に響いた。自来也の袖を掴んだ指が離せないまま、額をベッドの縁に押し付けて泣いた。医療忍者としての冷静さも、元暗部としての達観した振る舞いも、何もかもが剥がれ落ちて、ただの子供に戻っていた。

 

ナルトは自来也の手を握ったまま、声を上げて泣いていた。火影を目指す男の矜持も、里の英雄としての体面も関係なかった。鼻水と涙でぐしゃぐしゃの顔を隠しもせず、一楽のラーメン屋で、妙木山で、そして戦場でいつも隣にいてくれた大きな背中を想って泣いた。

 

二人の泣き声が重なり合い、もう動かない自来也の体を挟んで兄弟は泣き続けた。

 

そして、綱手は自来也の顔に手を伸ばした。まだ温もりの残る頬に触れ、笑みの形のまま固まった口元を指先でなぞる。

 

「馬鹿野郎……最後の最期まで…格好つけやがって……!」

 

声は掠れ、途切れ途切れだった。涙が綱手の指を伝い、自来也の頬に落ちる。

 

廊下では、サクラが崩れ落ちるように壁に背を預け、両手で顔を覆い、シズネにその背を摩られていた。カカシはいつの間にか病院に到着しており、窓の外の空を片目で見上げている。マスクの下で唇が動いたが、その言葉は誰にも届かない。

 

雲間から差す光の中で、枕元の風呂敷包みが静かに佇んでいた。自来也最後の一冊が、沢山のファン達に読まれる時を待っていた。

 

「これは……遺書……?」

 

自来也の遺言書は、枕元の風呂敷包みの中に原稿と共に入っていた。あの豪快な筆跡で、しかし妙に丁寧に書かれた一枚の紙。

 

『葬式はいらん。念仏より蛙の合唱のほうがワシには似合う。骨は妙木山に撒いてくれ。あそこの風呂は最高だった。』

 

それだけだった。自来也らしいと言えばあまりに自来也らしく、綱手はその遺言書を読んだ時、泣きながら笑っていた。

 

翌日、火葬の参列者は少数。綱手、ナルト、フミ、サクラ、カカシ、シズネ。自来也が望んだ通り、形式ばった弔辞も焼香もない。そして、骨壷を手に、妙木山にはナルト、フミ、綱手が向かうことになった。妻達には連絡していないが、今回ばかりは仕方ない。

 

「じゃ、行ってきますね。」

 

「サクラちゃん、ヒナタとハナビちゃんに宜しく伝えてくれ。」

 

「ええ、任せて。」

 

妙木山への道中、フカサクとシマが口寄せで迎えに来た。小さな仙蝦蟇の老夫婦は、骨壺を見て長い沈黙の後、ただ一言ずつ呟いた。

 

「よう頑張ったのう…自来也ちゃん。」

 

シマが目元を袖で拭った。

 

「晩飯……用意してやれんかったな…」

 

妙木山の頂、風が吹き抜ける断崖の上でナルトが骨壺の蓋を開け、フミがその隣に立つ。白い灰が風に攫われ、蝦蟇たちの棲む翠の谷へ舞い降りていく。

 

どこかで蛙が鳴いた。一匹が鳴くと、次々と声が重なり、やがて妙木山全体が合唱に包まれた。坊主の念仏より余程賑やかな、自来也への餞だった。

 

「最後に、これだけはやらせてください。せめてもの…手向です。兄さんも乗って。」 

 

「おう…!」

 

フミの目元に朱色の隈取りが浮かび上がった。仙人チャクラが全身を巡り、赤い髪が風もないのに揺れる。両手を合わせた瞬間、背後に巨大な千手の影が現れた。勿論、自然を破壊しないように配慮した上で。

 

「ありがとうございました、先生。」

 

「またな……エロ仙人。」

 

神数千手の掌が一斉に開かれると、そこから溢れ出したのは破壊の力ではなく、無数の花弁だった。桜、藤、椿、菖蒲、名も知れぬ野花。色とりどりの花々が妙木山の風に乗って舞い散り、自来也の灰が消えていった谷へ降り注いでいく。

 

蛙たちの合唱が、花吹雪の中でひときわ大きくなり、フカサクが目を見開いた。長い仙蝦蟇の生涯でも見たことのない光景に、老いた口が僅かに開く。

 

「こりゃあ、自来也ちゃんも照れとるじゃろうな。」

 

花弁が谷底に積もり、翠の苔を覆い、滝壺の水面を彩った。まるで妙木山そのものが自来也を抱きしめるかのように、花々は風に踊り続けた。兄弟の涙の跡が乾いた頬に、花弁がひとひら張り付く。

 

綱手は何も言わなかった。花弁が白い髪に降り積もるのを払いもせず、ただ谷の底を見つめていた。あの馬鹿が眠る場所が、こんなにも美しく飾られていく様を。

 

 

 

 

 

 

「……溜まるもんだね。」

 

2日ぶりに戻ってきた日向家の居間。ただいまの声もなく、任務の報告書を広げ、何事もなかったかのように筆を走らせるフミの背中を、ハナビはしばらく黙って見つめていた。

 

肩が強張っている。筆を持つ指先が、微かに震えている。それを白眼で見抜けなくとも、妻にはわかっていた。ハナビは何も言わず、後ろからフミの背中にそっと額を預け、両腕を回すと、一言だけ呟く。

 

「……おかえり。」

 

たった一言だった。労いでも慰めでもなく、ただそこにいることを伝えるだけの声。

 

フミの筆が止まった。墨が紙に滲んで黒い染みを作るのを、止める気力がなかった。ハナビの温もりが背中から伝わった瞬間、気丈に保っていたものが全部崩れ、報告書の上に、ぽたりと雫が落ちる。

 

「ごめん、ハナビ……!」

 

「大丈夫、私はここにいるから。いくらでも泣いていいから。全部…受け止めるから。」

 

フミは声をあげて泣いた。人目も構わず、愛する妻の胸で泣き続けた。

 

---

 

同じ頃、うずまき家新居。ナルトがリビングのソファに座り、天井を見上げて黙り込んでいた。いつもなら帰宅と同時にヒナタの手料理を楽しみに聞く男が微動だにしない。

 

「…………」

 

すると、ヒナタがナルトの隣に座った。何も訊かず、ただその大きな手を両手で包み込む。

 

「ナルトくん。」

 

その声に、ナルトが唇を噛んだ。震える息を吐いて、ヒナタの手を握り返そうとして、その瞬間に全部溢れた。

 

「ヒナタぁ……っ」

 

ヒナタの胸に顔を埋めて、里の英雄は子供のように泣いた。ヒナタの細い指がナルトの金髪を梳き、何度も何度も優しく撫でていた。

 

「大丈夫…大丈夫だよ……一杯泣いていいんだよ。」

 

 

 

 

この日、うずまき兄弟は、大切な師を喪った。




自来也の最期をどうするか、正直悩んでいました。次世代以降も生き続けるパターンも考えていました。そのプロップも用意していました。ただ、あれだけ己を顧みない豪胆な生活をして、戦場で数多の傷を負った人が、果たして10年以上生きられるのか、悩み続けた結果こういった形になりました。感想、お待ちしています。
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