日向家の書斎。障子から差し込む午後の陽が、畳の上に格子模様を描いていた。フミは文机に向かい、風呂敷から取り出した原稿用紙の束を前にしていた。
「……初めて見るな、これ。」
あの豪快な、しかし流麗な筆跡。インクの染みや書き直しの跡、欄外に走り書きされたメモ。「ここはもっとエロくする」「読者泣かす」「ワシ天才」。自来也の息遣いが、原稿の一枚一枚に残っていた。イチャイチャシリーズ最終巻、そこにタイトルは付けられていない。
「ハハっ…流石は先生だね。」
フミは涙の跡が残るまま、ページを巡り続ける。物語は、長い旅を終えた男が故郷に帰るところから始まる。そこで待っていたのは、若い頃に想いを告げられなかった女。二人の間に横たわる数十年の歳月と、戦で負った傷と、それでも永劫に消えることなく残り続けた一つの感情。
フミの指が頁を追うごとに、自来也の筆致が変わっていくのがわかった。序盤は軽妙な語り口で笑わせ、中盤は情熱的な濡れ場で読者を煽り、しかし終盤に近づくにつれ、文章が静かに、深く、優しくなっていく。
そう、それはまるで、自来也自身の人生をなぞるように。もしかすると、この最後の一冊はフィクションの皮を被った、彼の遺書でもあったのかもしれない。
「きっと…これも一つの愛の形なんですね、先生?」
誰もいない書斎に、フミの声だけが落ちた。返事はない、当たり前だ。もうあの豪快で、掠れた笑い声が返ってくることはない。
そうして、じっくりと読み続けていたフミの指が最後の数枚に差しかかった。物語の男は、女に看取られながら逝く。その最期の台詞は短かった。
「お前に会えて、良かった」
それだけだった。それだけで十分だった。原稿用紙の隅に、自来也の走り書きが残されていた。薄いインクで、震えた筆跡で。
『綱手、読むなよ。読んだら怒るだろうが、まあ怒ってくれ。お前が怒ってる顔も好きだったからの。』
「…………せん、せっ……‼︎」
フミの視界が滲んだ。また泣いていた。数日経っても涙の泉は涸れてくれなかった。原稿用紙に雫が落ちないよう、咄嗟に顔を上げて天井を仰ぐ。
障子の向こうで足音がした。ハナビが茶を淹れて持ってきたのだろう。気配だけ残して、入ってこない。フミが一人で読み終えるのを待ってくれている。フミは袖で目元を拭い、最後の一枚を捲った。白紙だった。ただ中央に一行だけ。
『この物語を、すべての愛する者たちに捧ぐ』
「先生……タイトル、勝手ながら決めさせていただきます。名無しの最終作になんて、絶対させませんからね。」
そして、数週間後に刊行されたシリーズ最終巻、『イチャイチャ・フォーエバー』は、発売初日に各地の書店で記録的な売り上げを叩き出した。重版が決まるまでに半日もかからない。
「重版の準備、フル回転で進めてください。足りなければ僕もサポートしますので。」
忍界大戦を経て平和を享受する五大国の民が、伝説の三忍が遺した最後の恋物語を求めて列をなしているのだ。忍も、民間人も、老若男女も関係なかった。
書評も絶賛の嵐だった。「シリーズ最高傑作」「自来也先生の集大成」「読み終えた後、大切な人に会いたくなる」。各国の新聞が取り上げ、異例の五カ国同時重版という記録を打ち立てた。
木の葉病院の綱手の執務室にも、一冊が届いた。差出人の名はなかったが、表紙を見た瞬間に綱手は全てを察した。フミが変えたタイトルを指でなぞり、暫くの間、本を胸に抱いたまま動かなかった。
「………お前の勝ちだよ、自来也。」
日向家の書斎で、フミは窓の外を見上げた。抜けるような青空に、どこかで蛙が鳴いている一声が聞こえた。
「蛙が帰る…か、なんてね。」
フミの唇が微かに綻んだ。涙の跡が残る頬に、陽光が暖かく差し込んでいる。
「フミ、読んだわよ…一応。」
そこへハナビが書斎の障子を開け、茶盆を手に入ってきた。フミの文机の上に置かれた見本刷りの表紙を一瞥し、小さく息を吐く。その頬は僅かに赤い。
「悔しいけど、泣いた。あなたの先生、やっぱりすごい人だったのね。」
「そりゃあ…僕の心の師匠だもの。」
同じ頃、うずまき家の居間。クシナがソファに座り、膝の上にイチャイチャ・フォーエバーを開いていた。傍らにはティッシュの山が築かれ、目は真っ赤に腫れている。
「もう……自来也先生の馬鹿……こんなの反則だってばね……!」
鼻を盛大にかんでから、クシナはふと本を閉じて表紙を見つめた。フミが変えたタイトルを指でなぞる。
「フォーエバー…永遠、いいタイトルつけたわね、フミ。母さんがイチャパラで泣く日が来るなんて思わなかったってばね。」
くしゃっと笑って、また目元を拭った。
「自来也先生、どこかで見てるでしょ?フミ、ちゃんと皆んなに貴方の思い、全部届けてくれたってばね。」
クシナが本を胸に抱くその仕草は、綱手のそれとどこか似ていた。
そして、遺言書のもう一つの項目。自来也の全著作の印税は、最終巻を含めすべて千手綱手に贈られることが記されていた。走り書きしたであろう追伸も添えられている。
『賭けの借金の足しにしろ。足りなかったらあの世で待ってるから取り立てに来い』
五カ国同時重版を重ね、歴代最高売上を叩き出したイチャイチャ・フォーエバーの印税は、綱手が一生かかっても使い切れないほどの額に膨れ上がっていた。皮肉にも、綱手の天文学的な賭博の借金さえも完済して余りあるほどに。
「……とんでもないな。」
火影室で印税の報告書を受け取った綱手は、数字の羅列を暫く見つめた後、報告書を裏返しに伏せた。
「あの馬鹿、死んでからも私を泣かせる気か。」
声は笑っていた。しかし、報告書を持つ指先が震えていたことを、傍らのシズネたちは見逃さなかった。
「カカシ、先代火影として提案だ。」
窓際で報告書を読んでいたカカシが顔を上げた。
「自来也の名義で、奨学金制度や児童養護施設の建設、既存施設の支援を行う。戦災孤児や、身寄りのない忍志望の子供たちのための環境を整えてやりたい。未来に託そうとした自来也の思い、あいつが一番喜ぶ使い方にしてやらないと。」
「ええ…きっと、喜びますよ。勿論承認します。」
綱手が窓の外を見る。晴れ渡った空の下で、忍者学校の子供たちが走り回っていた。彼らがすくすくと元気に育つ環境を作ること、それが里の未来を創ることに繋がっていく。
「お邪魔します、カブトさん、ウルシさん。」
木の葉の里の外れ、かつての音隠れのアジトを改装した建物に、子供たちの笑い声が響いていた。壁は明るい色に塗り直され、庭には小さな畑と手作りのブランコがある。
「やあ、フミくん。よく来てくれたね。」
「うおっ、また凄い差し入れを…いつもありがとな。」
玄関先で迎えた男の名は薬師カブト。エプロン姿で手には洗い物のスポンジ、額には泡が一つ付いている。忍界大戦で様々に暗躍し、うちは兄弟と死闘を繰り広げたことを知る者が見れば、まず目を疑う光景だった。
彼は戦後、すべてを贖うかのようにこの孤児院を引き継ぎ、幼馴染のウルシと共に運営している。その眼鏡の奥の目はかつての冷徹さを失い、子供に泥団子をぶつけられても苦笑するだけの男になっていた。
「あ、ちょっと待ってくださいね…よっと!」
「おお…これはまた。」
フミの背後には段ボール箱が二つ。中身は医療キットと、子供向けの絵本、それから栄養補助食品の類だった。日向家の家計から出しているのか個人の任務報酬からか、ハナビは何も訊かなかった。
「あ、フミにーちゃんだ!」
「フミにーちゃん遊んでー!」
「お、みんな〜!」
庭で遊んでいた子供たちがフミに気づき、わっと駆け寄ってきた。赤い髪を引っ張る子、足にしがみつく子、抱っこをせがむ子。フミが来る日は孤児院の子供たちにとって祭りのようなものだった。
「フミにーちゃん! 今日は忍術見せてくれる? ねえ、あのおっきい手のやつ!」
「おっけー!でも、ちょっとだけ待っててね〜」
木分身とウルシの2人で子供たちに簡単な術を見せ盛り上がっている中、本体のフミはカブトと縁側でお茶を啜っていた。
「自来也先生の支援の件、聞いたよ。ここの子たちの中にも、アカデミーに行きたがってるのが何人かいてね。色々とありがとう。」
カブトの目が、庭で遊んでいる子供たちに向けられた。その眼差しには、かつて孤児だった男の静かな感慨が滲んでいた。
「正直、こうしてあなたと語り合える日が来るなんて、思ってもみませんでしたよ。」
「はは、僕もだよ。あの頃の僕が見たら、エプロンつけて鼻水を拭いてやってる自分を信じないだろうね。」
乾いた笑いが混じった。自嘲ではなく、どこか清々しい響きだった。
「君とナルトくんが繋げてきた縁が無ければ、僕は今ここにいられなかった…それは間違いない。」
庭先で子供が転んだ。泣き声が上がる前にカブトが立ち上がりかけ、しかし別の年長の子が駆け寄って砂を払ってやるのを見て、また腰を下ろした。
「僕は里を滅茶苦茶にしようとした側の人間だ。その上で今ここにいることは…本当に幸せに思う。誰かになり変わることしか考えられなかった頃に比べたらずっとね。」
風が吹いて、庭の洗濯物がばたばたと揺れた。子供用の小さなシャツが、陽光の中で踊っている。
「貴方のこと、色々と後で知りました。僕がもっと早くダンゾウの根を断ち切れていれば、貴方にあんな残酷な思いをさせることは…」
カブトの手が止まった。眼鏡越しの目が、一瞬だけ遠くを見た。根の暗部として過ごした日々、自分が何者かもわからなかった頃の記憶が、一瞬だけ喉元をかすめたのだろう。
「よしてくれ、フミくん。君が負うべき責任なんて微塵もない。」
膝の上で指を組み、空を見上げる。
「僕が道を踏み外したのは、僕自身の弱さだ。ダンゾウに利用されたのは事実だけど、大蛇丸様の元に走ったのも、穢土転生に手を染めたのも、全部僕の選択だった。誰かが早く助けてくれれば良かったなんて、そんな都合のいい話にしちゃいけない。」
カブトが立ち上がり、庭で転んだ子供の膝についた泥を払いに行きかけて、振り返った。
「それに……あの遠回りがなかったら、ここにいる子たちの気持ちは多分わからなかった。居場所がないって感覚、自分が何者かわからない恐怖。あれを知ってるから、この子たちに嘘をつかずに向き合えるんだ。」
カブトが微かに笑った。穏やかで、けれどどこか寂しい笑みだった。
「だから、謝らないでくれ。君が気に病む必要なんて、どこにもないんだからさ。」
胸の支えの一つが取れたように、フミは息を吐くと、正直な思いをそっと伝える。
「貴方とこうして、話せるようになって良かったと心から思っています。今後とも、どうぞよしなに。」
「ああ、こちらこそね。」
エプロンの裾で手を拭きながら、照れたように頭を掻いた。かつて大蛇丸の右腕として忍界を震撼させた男の仕草とは思えない、素朴な動作だった。
「今度来る時は、医療忍術の勉強会でもやらないかい。ここの年長の子たちに基礎だけでも教えてあげたいんだ。僕一人じゃ手が回らなくてね。」
「ええ、喜んで。」
庭から「カブトにーちゃん、おなかすいたー!」と甲高い声が飛んできた。カブトは苦笑して立ち上がる。
「はいはい、今行くよ。」
数歩歩いてから、もう一度振り返った。
「フミくん。改めて…君たちには感謝してる。居場所をくれたこと、ありがとう。」
それだけ言って、カブトは子供たちの輪の中に戻っていった。泥だらけの小さな手に引っ張られながら、厨房の方へ消えていく。
縁側に残されたフミの膝元に、庭から飛んできた白詰草が一輪落ちた。子供たちの笑い声と、カブトの「こら、走らない!」という声が、午後の陽射しの中に溶けていく。
木の葉の里は今日も平和だった。誰かが蒔いた種が、少しずつ、確かに芽吹いている。
それから数日後、ナルトとヒナタ、フミとハナビ。二組の夫婦が並んで一楽のカウンターに腰を下ろしていた。
「親父ー! いつものみそチャーシュー大盛、麺硬めで! あとヒナタは……」
ヒナタが小さく微笑んだ
「醤油の、普通盛りで。煮卵追加お願いします。」
「私は塩。ネギ多めで。」
ハナビがメニューも見ずに注文し、フミの方をちらりと見た。
「フミは?豚骨?」
「そうだね、豚骨大盛チャーシュー追加で。」
「あいよ!いつもありがとね。」
テウチが慣れた手つきで麺を茹で始め、アヤメが水を四つ並べた。湯気と出汁の香りが暖簾の隙間から通りに漏れ、道行く人の足を止めている。
「なあフミ、カブトの孤児院どうだったってばよ? この前行ったんだろ。」
「楽しかったよ、やっぱり彼は陽の光を浴びる側でないとね。」
ナルトが大きく頷いた。割り箸を指先でくるくる回しながら、懐かしそうに目を細める。
「だよなぁ。あいつ、エプロン似合いすぎて逆に怖いってばよ。」
水をぐいっと一口飲んで、にかっと笑う。
「今度、俺も顔出すわ。子どもたち相手に影分身で遊んでやったら喜ぶだろ。」
ヒナタがナルトの袖を軽く引いた。
「もう…ナルトくん、前に影分身で遊んであげた時、子供たちが興奮しすぎて夜寝なくなったってカブトさんに怒られたの、忘れたの?」
「あー…忘れてたってばよ。」
ハナビが水を啜りながら、呆れた目で義兄を見た。
「学習能力ゼロね、この人。」
アヤメが湯気の立つ丼を四つ、手際よくカウンターに並べた。味噌チャーシューの巨大な丼がナルトの前に鎮座し、その隣にヒナタの上品な醤油、ハナビの塩、そしてフミの丼が続く。
「なあフミ。エロ仙人の本、すげー売れてるって聞いたぞ。五刷目だってばよ。」
ナルトが丼の湯気越しにフミを見た。
「タイトル考えたの、お前だろ。いいセンスしてるってばよ。きっとエロ仙人も喜んでる。」
「はは、そりゃどうも。しかしここのラーメンはいつ食べても………ハナビ?」
ハナビの箸が止まった。塩ラーメンのスープを一口啜った瞬間、顔色がさっと変わる。口元を手で押さえ、カウンターに突っ伏すように俯いた。
「……ッ!」
同じ瞬間、ヒナタの箸からも煮卵が滑り落ちた。丼の縁を掴み、もう片方の手で口を覆う。穏やかだった表情が青白く強張っている。
「ごめんなさい、少し……」
ヒナタが席を立ち、慌てて暖簾の外へ駆け出した。ハナビもフミの腕を掴んだまま、同じ方向へよろめくように立ち上がる。
ナルトが箸を咥えたまま固まった。味噌チャーシューの麺が口元から垂れ下がっているのも気づかず、目を丸くしている。
「え…… おい、大丈夫かってばよ⁉︎」
「ちょ、やばいやばい!」
慌ててフミが外へ出る中、テウチとアヤメが顔を見合わせた。アヤメの口元に、何かを察したような微笑みが浮かぶ。長年この店を切り盛りしてきた女は、この手の光景に覚えがあった。
ナルトの前に温かいほうじ茶を置いた。意味ありげに微笑んで、一言だけ。
「おめでとう、かもね。」
ナルトの脳が数秒のフリーズを経て再起動した。麺が丼に落ちて汁が飛び散るのも構わず、勢いよく立ち上がった。椅子が後ろに倒れてガタンと鳴る。
「え、え……待って、今の、つまり……ヒナタが……ハナビちゃんも……?」
アヤメの含み笑いを見て、ようやく全てが繋がった。
「う、うおおおおお!! サクラちゃん! サクラちゃんだってばよ‼︎」
ナルトは大急ぎで外へ出ると、懐から通信用の巻物を引っ張り出そうとしてポケットをまさぐり、焦りすぎて二回落とした。
暖簾の外でハナビが壁に手をつき、浅い呼吸を繰り返していた。ヒナタが妹の背中をさすりながら、自分も顔色が優れないまま苦笑している。フミは態々影分身を出してまで2人のフォローに入っていた。
ハナビが額の汗を拭い、振り返った。白眼で自分の腹部を透視しようとして、すぐにやめた。怖かったのか、それとも確信があったのか。
「……フミ。」
壁にもたれたまま、ハナビの目がフミを捉えた。青い顔のまま、それでも唇が震えるように笑みの形を作った。
「……え?」
ヒナタもまた、そっと自分のお腹に手を当てた。淡い頬の赤みが戻りかけている。
「な、ナルトくん、落ち着いて…まだ確定じゃ……」
通信巻物をようやく開いたナルトが、震える手で術式を発動した。
「さ、サクラちゃん! 今すぐ病院来てくれ!緊急だってばよ‼︎」
「テウチさん、お代だけ!すみません!」
「あいよ!良いニュース待ってるよ‼︎」
そして向かった先は、木の葉病院の産婦人科待合室。ナルトが膝を揺すりながら椅子に座り、フミが隣で腕を組んでいた。二人とも昼食を半分残したまま駆けつけた格好で、ナルトのジャケットには味噌スープの微かな染みが残っている。
診察室の扉が閉まってから、体感では永遠のような時間が流れていた。
ナルトが五回目の貧乏揺すりを始めた。
「おせー……サクラちゃんおせーってばよ……何でこんな時間かかるんだ……」
「兄さん、子どもじゃないんだから。」
やがて、診察室の扉が開き、サクラが出てきた。その顔には、医療忍者としての冷静さと、友人としての喜びが同居した表情が浮かんでいる。その手にはカルテが2枚。
「サクラ姐さん、2人は…」
サクラが二人の前に立ち、一度大きく息を吸った。それからカルテを一枚ずつ、フミとナルトの前に差し出した。
「うん…2人とも、おめでとう。」
サクラの翡翠色の目が輝いていた。
「ヒナタもハナビも、妊娠してる。ほぼ同時期ね。」
ナルトが固まった。口が開いたまま閉じない。カルテを持つ手がわなわなと震え始め、目に涙が滲んだ。
「お、俺……父ちゃんに、なる……?」
振り返ってフミの肩を掴んだ。
「フミ! 俺たち…父ちゃんだってばよ‼︎」
「………ッッ‼︎」
フミの赤い瞳から、音もなく涙が溢れた。カルテを持つ手が微かに震えている。声は出なかった。ただ静かに、静かに泣いていた。
自来也を喪った涙とは違う。これは喜びの涙だった。命が終わる悲しみを知った後に、命が始まる奇跡を突きつけられて、フミの心はその落差に耐えきれなかったのだ。
ナルトがフミを抱き締めた。ぐしゃぐしゃの泣き顔のまま、弟の背中をばんばん叩く。加減を忘れた手のひらが容赦なく肩甲骨を打ったが、そんなことはどうでもよかった。
「やべー……やべーってばよ……エロ仙人に報告してぇ……!」
サクラが目元を拭いながら、それでも医療忍者の顔を保とうとした。
「ほら、二人とも泣いてないで。奥さんたちの方が先でしょ。入ってあげなさい。」
診察室の中で、ハナビとヒナタが並んでベッドの縁に座っていた。姉妹で顔を見合わせ、どちらからともなく笑い合っている。ハナビの目が僅かに潤み、ヒナタが妹の手を握っていた。
「……あ。」
まず、弟が診察室に入った瞬間、ハナビの白い瞳がフミの涙を捉えた。
ハナビが小さく息を吐いた。泣き顔のフミを見て、自分まで泣きそうになるのを堪えるように唇を噛む。
「そんな顔しないでよ…もう。」
声が掠れた。堪えきれず、ハナビの目尻からも一筋の涙がこぼれる。
「よかった…!ほんとによかったぁ…!」
ハナビがベッドから立ち上がり、フミの胸に顔を埋めた。小さな肩が震えている。泣かないと決めていたはずなのに、フミの涙声を聞いた瞬間に全部崩れた。
「……うん。」
それだけ言うのが精一杯だった。フミの服を握る指に力が入る。
ヒナタが穏やかに微笑みながら涙を流す中、次に診察室に飛び込んできた兄が勢いよく転びかけ、ベッドの角に膝をぶつけて悶絶しながらもヒナタの手を取った。
「いってぇ……! で、でもヒナタ! 俺、ちゃんとやるから! 父ちゃんやるってばよ! 絶対……!」
ヒナタがナルトの頬に手を添え、笑顔で返す。
「うん……知ってるよ、ナルトくん。」
ヒナタがナルトの手を握ったまま、ふと視線を上げた。診察室の入り口に立つサクラの横顔を白眼が無意識に捉えていた。
「サクラさん。」
「ん?なーに、ヒナタ?」
ヒナタの声が柔らかく、しかし確信を帯びていた。
「もしかして……サクラさんも?」
サクラの手がぴたりと止まった。カルテをファイルに戻そうとしていた動きが中断され、翡翠の瞳が泳ぐ。頬にじわりと朱が差した。*
「え、ええと…何のこと?」
誤魔化そうとして、しかしその声の裏返り方が全てを物語っていた。サクラが無意識に自分の下腹部に手を当てているのを、この場にいる全員が見ていた。
「おい……まさか、サクラちゃんも……?」
「姐さん…マジですか?」
サクラが観念したように肩を落とし、それから照れくさそうに笑った。前髪を耳にかけ、少し上目遣いに皆を見る。
「今日、あんたたちの検査する前に自分でも確認して……言うタイミング逃しちゃっただけよ。サスケくんには、まだ言えてないんだけど。」
ハナビがフミの胸から顔を上げ、目を丸くした。涙の跡が残る頬に、呆れと喜びが混じった笑みが広がる。
「……三人同時って何。この里どうなってんの。」
「おめでたいじゃない、本当に…!」
午後の陽光が診察室の窓から差し込み、5人の影を長く伸ばしていた。ハナビの髪にフミの涙が落ちて、ヒナタの指がナルトの手を包んでいて、サクラがケラケラと笑う。この狭い部屋の中に3つの家族が新しい形で息づき始めていた。
新たな命が、今ここにいる全員の未来を書き換えようとしている。自来也が遺した意志を継ぐ者たちの物語が。
今回もあまり大きくは進みませんでしたが、次回から次世代の物語が始まっていきます。では、またお会いしましょう。