※この作品はR-18です。

うずまきフミ物語〜その果ては地獄か楽園か〜   作:陽炎=蜻蛉

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フミはお仕置きされる頻度こそ、ナルトよりずっと下ですが、その分やらかす規模が大きいのが特徴です。では、逃走中第二弾、始まります。


第二話「予想外の出会い」

あの大騒動から三日が過ぎ、木の葉の里はすっかり日常を取り戻していた。うずまき家でも、クシナの作る美味しい手料理を囲む平和な日々が続いていた。

 

フミもまた、アカデミーでの授業を終え、友人たちと別れて家路につこうとしている。夕暮れの光が、生徒たちのにぎやかな声をオレンジ色に染めていた。

 

「うずまきフミ様。」

 

音もなくフミの背後に現れたのは、動物の面をつけた暗部だった。その声は感情を一切排しており、周囲の喧騒から切り離されたかのように、フミの耳にだけはっきりと届いた。アカデミーの生徒たちが何事かと遠巻きに見ている。

 

「火影代行、綱手様がお呼びです。火影室までご同行願えますか?」

 

有無を言わせぬ口調。暗部はそれだけ告げると、フミの返事を待つこともなく、屋根の上へと跳躍した。一緒に来るようにという無言の合図だ。

 

「……わあ。」

 

フミはごくりと唾を飲み込んだ。綱手からの呼び出し。その理由は、十中八九、あの「新刊」のことだろう。この三日間、何事もなかったのが不思議なくらいだ。一体、どんな裁きが下されるのか。あるいは、まさか……あの本の感想でも聞かされるのだろうか。

 

様々な憶測を胸に、フミは決意を固め、暗部の後を追って走り出した。

 

火影室の重厚な扉の前に立つと、暗部は「我々はここまでです」とだけ告げて姿を消した。フミは深呼吸を一つして、意を決して扉をノックする。

 

「入りな。」

 

中から聞こえてきたのは、少しばかり機嫌の良さそうな、しかし威厳のある声だった。フミが扉を開けて中に入ると、綱手は火影の執務机にどっかりと腰掛け、足を組んでいた。その手には、見覚えのある茶色の紙袋――ではなく、中身が抜き取られ、表紙が露わになった『あの本』が握られていた。そして、彼女の表情は……なんとも言えない、満足げな笑みを浮かべていた。

 

「よう、来たなフミ。まあ、そこに座りな。少し……興味深い話がある。」

 

「…随分と楽しそうですね?」

 

フミの直球すぎる質問に、綱手の眉がピクリと動いた。彼女は手に持っていた本をパタンと閉じ、机の上に置いた。その動作は冷静そのものだったが、どこか慌てたような空気も漂っている。

 

「……フン。ガキが生意気なことを言うんじゃない。」

 

綱手はフミを睨みつけたが、その目にはいつものような鋭い殺気はない。むしろ、どこか気まずさと、妙な高揚感が入り混じっていた。彼女はゴホンとわざとらしく咳払いをし、椅子に座り直した。

 

「これはだな、あくまで里の健全な風紀を守るための「検閲」だ。代行として、この書物が未成年にどれほどの悪影響を及ぼすかを、詳細に、かつ慎重に精査する必要があった。……あくまで、公務だ。」

 

綱手はそう言い張るが、机の上には半分ほど減った高級そうな日本酒の瓶と、つまみ代わりの乾き物が置かれている。「公務」というにはあまりにもリラックスした雰囲気だ。

 

「だがまあ……内容は、悪くなかった。自来也にしては、なかなかどうして、人間心理の機微というものを捉えている箇所も……なくはなかったな。」

 

彼女は視線をフミから逸らし、窓の外の夕日を眺めるふりをする。その横顔は、微かに、本当に微かに赤らんでいるようにも見えた。

 

「それでだ、フミ。お前、これをどこで手に入れた? 古書堂のオヤジからか? それとも自来也から直接か? ……この本の続き、あるいは「別冊」の存在について、何か知ってることはないか?」

 

綱手は身を乗り出し、小声でフミに尋ねた。その目は、火影としての威厳よりも、続きが気になって仕方がない一人の読者の目そのものだった。どうやら、検閲官はすっかりこの禁断の書物の虜になってしまったらしい。

 

「いえ、僕は先生に合言葉を教えてもらって、その本をもらっただけです。本当はカカシ先生と回し読みする予定だったんですが、お店を出たところでばったりママに会って。」

 

「ふむ……カカシもか。アイツも大概だな…」

 

綱手は顎に手を当て、フンと鼻を鳴らした。自来也の悪癖が、弟子たちに脈々と受け継がれている現実に呆れつつも、どこか面白がっているようでもある。

 

「なるほどな。じゃあ、お前はこの一冊しか知らないわけか。……チッ」

 

彼女は小さく舌打ちしたが、すぐに気を取り直した。

 

「まあいい。自来也の居場所はだいたい見当がつく。後で問い詰めて、在庫をすべて没収……いや、確保してやろう。」

 

綱手はニヤリと笑い、机の上に置いていた本をポンと指で叩いた。

 

「で、だ。本題はここからだ、フミ。お前の処分についてだが……」

 

綱手は急に真面目な表情に戻り、フミを真っ直ぐに見据えた。火影代行としての厳格な空気が、部屋に再び張り詰める。

 

「今回の騒動、原因の一端はお前にある。母親を欺き、里の備品を破壊する一因となった。本来であれば、それ相応の罰を与えねばならん。……だがな。」

 

彼女は一旦言葉を切ると、フミの顔をじっと観察した。

 

「お前が使った「飛雷神の術」。あれは誰に教わった? ミナトか?」

 

綱手の質問の意図が読めず、フミはただ黙って彼女の言葉を待つ。

 

「いえ、書物と父さんの真似をしながら自力で。」

 

「アカデミーの生徒が、あの術を実践で使えるとはな。しかも、クシナの金剛封鎖から逃れるほどの速度と判断力……。正直、驚いたよ。」

 

綱手は感心したように頷くと、意外な提案を口にした。

 

「お前の罰は、保留だ。その代わり、私のもとで医療忍術を学ぶ気はないか? お前のその才能、ただイタズラに使うには惜しい。チャクラコントロールの精密さ、咄嗟の判断力……それは、人の命を救う力にもなる。」

 

綱手はフミの目を見つめる。それは、一人の忍びの才能を見出した、師としての目だった。

 

「どうだ? 私の弟子になれば、修行は厳しいが……あの本の貸し出しを、特別に検討してやらんでもないぞ。」

 

「ホントですか⁉︎」

 

フミの目が一瞬、期待に輝いた。憧れの綱手からの誘い、しかもあの禁断の書物を読めるかもしれないという甘い誘惑。だが、その輝きはすぐに落ち着きを取り戻し、思慮深い色へと変わった。

 

彼の脳裏に、いつも「火影になって里のみんなを守る」と豪語する兄、ナルトの笑顔が浮かぶ。そして、初代火影の弟であり、里の礎を築いた偉大なる補佐役、二代目火影・千手扉間の姿が重なった。

 

フミは知っていた。ナルトは真っ直ぐで、太陽のような強さを持っているが、それだけでは足りないことも。影となり、知恵となり、時には厳しい現実を処理する存在が必要だということを。今のミナトを支えるシカクや暗部の人々のように、あるいはかつて兄を支えた扉間のように。

 

「……ありがとうございます、綱手様。」

 

フミは静かに口を開いた。その声には、年相応の幼さを残しつつも、揺るぎない芯が通っている。

 

「医療忍術は学びたいです。綱手様のように、人を救える力が必要だから。……でも、僕はただの医療忍者になりたいわけじゃありません。」

 

フミは綱手を真っ直ぐに見つめ返し、続ける。

 

「僕は将来、ナルト兄ちゃんが火影になった時、それを一番近くで支える忍になりたいんです。だから、医療だけじゃなくて、もっと色んなことを……政治や、里の守りについても学びたい。」

 

彼は一瞬言葉を切り、少しだけ照れくさそうに、しかし真剣な表情で付け加えた。

 

「それに……本で釣られるような安い男にはなりたくありません。それは、兄ちゃんを支える男として、カッコ悪いから。」

 

綱手は目を見開いた。まさか、子供からそんな言葉が返ってくるとは思っていなかったのだ。「本で釣られる安い男にはならない」。その言葉は、自来也や今の自分への皮肉にも聞こえたが、それ以上に、フミという少年の早熟な覚悟を如実に表していた。

 

 

「……くくっ。」

 

沈黙の後、綱手は喉の奥で笑い声を漏らした。そして、それは次第に大きな笑いへと変わっていった。

 

「はっはっは! こいつはいい! さすがはミナトとクシナの子だ!」

 

綱手は愉快そうに机をバンと叩いた。

 

「いいだろう、フミ! お前のその生意気な心意気、気に入った! ただの医療忍者じゃ満足できないってか? 上等だ。なら、私がお前に教えてやるのは「忍びの全て」だ。」

 

綱手は立ち上がり、フミの前に歩み寄ると、その小さな肩に手を置いた。

 

「覚悟しておけよ。私の修行は、アカデミーの比じゃない。泣こうが喚こうが、二代目火影を超えるような補佐役になるまで、私が叩き上げてやる。……その代わり。」

 

綱手はニヤリと悪戯っぽく笑い、耳元で囁いた。

 

「あの本の感想くらいは、修行の合間に語り合ってもバチは当たらんよな? なあ、一番弟子?」

 

夕日が差し込む火影室で、新たな師弟の契約が結ばれた瞬間だった。

 

「ありがとうございました!失礼します!」

 

火影室を出たフミの足取りは、宙に浮きそうなほど軽かった。その顔は夕日のせいだけではなく、興奮と満足感で赤く染まっている。

 

「修行の第一段階」と称して綱手から特別に許可されたその時間――わずか30分ほどの読書タイムだったが、フミにとっては永遠にも似た濃密な体験だった。大人の世界、禁断の知識、そして自来也先生の進化し続ける独特すぎる言い回し……。脳内はまだその余韻で沸騰していた。

 

(さ、更にすごかった……。あれが、大人の……!)

 

フミはニマニマする口元を必死に抑えながら、うずまき家への道を急ぐ。ポケットの中には何もないが、心の中には「秘宝」を得たような充足感があった。しかし、家の扉が見えてきたところで、フミはハッと我に返った。

 

(いけない、顔に出てる! ママに見つかったら大変!)

 

フミは慌てて両頬をパンパンと叩き、表情を引き締めた。「僕はただ火影室で真面目な話をしてきただけだ」「将来のために厳しい修行の話をしてきただけだ」と自分に言い聞かせ、深呼吸を繰り返す。

 

そして、何食わぬ顔を作って、自宅のドアノブに手をかけた。

 

 

「た、ただいまー……」

 

恐る恐るリビングへ入ると、そこには意外な光景が広がっていた。

 

「あ、フミ! おかえり! 遅かったじゃない!」

 

クシナは仁王立ち……ではなく、なぜか鏡の前でポーズを取っていた。彼女が身につけているのは、普段のエプロン姿ではない。現役時代の、体にぴったりとフィットした忍装束だった。赤い髪を高く結い上げ、額当てをしっかりと締めている。

 

「どう? 久しぶりに着てみたんだけど、まだイケるでしょ? ……ちょっと胸元がきついけど。」

 

クシナは自身の胸元を気にしながら、フミに向かってウィンクしてみせた。その後ろでは、ミナトが「うんうん、似合ってるよ」とデレデレしながらカメラを構える。

 

「ママ、どうしたのその格好?」

 

予想外の出迎えに、フミの「賢者タイム」ならぬ「読書後の余韻」は一瞬で吹き飛んだ。

 

「ふふん、聞いて驚きなさい! 今度、ママもアカデミーで特別講師をすることになったのよ! 家庭科の調理実習でね。」

 

でん、とクシナは得意げに胸を張る。

 

「あんたたちが頑張ってるのを見てたら、ママもじっとしてられなくなっちゃって。綱手様に頼み込んだのよ。……で、綱手様からのお呼び出しは何だったの? お説教?」

 

クシナの鋭い視線がフミを射抜く。フミは心臓が止まりそうになったが、ここで動揺してはいけない。彼は綱手との「密約」を胸に秘め、冷静に答えた。

 

「ううん、違うよ。……綱手様の弟子にしてもらうことになったんだ。医療忍術とか、いろいろ教えてもらうことになった。」

 

嘘ではない。むしろ、誇るべき事実だ。クシナの目が大きく見開かれた。

 

「ええっ⁉︎ あの綱手様の弟子に⁉︎ すごーい‼︎」

 

クシナは忍装束のままフミに飛びつき、勢いよく抱きしめた。

 

「やったじゃないフミ! すごいわ、さすが私の息子! ママ、嬉しくて泣いちゃいそう! 今日はお祝いね! またご馳走よ!」

 

フミは母の胸の中で、安堵と罪悪感の入り混じった複雑なため息をついた。とりあえず、バレなかった。そして何より、これから始まる綱手との「秘密の修行」が、別の意味で波乱に満ちたものになりそうな予感がしていた。

 

さて、綱手との修行をしつつも過ぎていく日々の中、穏やかなある日の午後、木の葉の中でも格式高い一族が住まう、うちは地区。その一角にあるイタチの家の縁側で、フミは温かいお茶をすすっていた。庭には手入れの行き届いた木々が静かに佇み、時折、風が笹の葉を揺らす音だけが聞こえてくる。

 

今日はアカデミーはお休み、ミナトは火影室で業務、ナルトはカカシ班での任務、クシナは買い物で、フミは留守番の予定だったのだが、母の友人であるうちはミコトから「イタチとお団子作って待ってるから、遊びにいらっしゃい」と誘われたのだ。

 

「……綱手様の弟子になったそうだな。おめでとう、フミ。」

 

隣に座るイタチが、静かな声で言った。まだ10代だが、その落ち着き払った態度は、まるで成熟した大人のようだ。全てを見透かすように深く穏やかな漆黒の瞳が煌めいている。

 

「だが、あの人の修行は厳しいと聞く。医療忍術の習得は、並大抵のことではない。」

 

「ですね…ギャンブルも覚えさせられたりしなきゃ良いですけど、なんて。」

 

イタチは自分の湯呑みを静かに置き、フミを見つめた。その視線には、純粋な心配と、友人の成長を喜ぶ気持ちが同居している。

 

「フミは将来、どんな忍になりたいんだ?やはり火影かな?」

 

「いいえ、未来は三代目様みたいにどんな術でも使える万能な忍者になって、火影になる兄を支えたいんです。まだまだ先は長いですけど…」

 

流石は兄弟、とイタチは感心するが、フミは小さく頭を下げる。

 

「それはそうと、先日は大変ご迷惑をおかけしました…」

 

フミの謝罪に、イタチはわずかに口角を上げ、静かに笑った。その微笑みは、いつも張り詰めた天才としての顔ではなく、年相応の少年のものだった。

 

「いや、気にするな。父上が話していたが、警務部隊にとっても良い訓練になったそうだ。……クシナさんの暴走を止めるのは、うちは一族にとっても骨が折れる任務だったらしいからな。」

 

イタチは茶菓子に手を伸ばし、上品に口へ運んだ。先日の一件は、里中で伝説として語り継がれている。うちはの警務部隊が出動しようとした矢先に、フミと自来也の「逆ハーレム」によって鎮圧されたという結末も含めて。

 

「兄を支えたい、か。……俺とお前は、立場が少し似ているな。」

 

イタチは遠くを見るような目をした。彼にとって、7班で頑張っている弟のサスケは守るべき存在であり、同時に一族の期待や重圧を背負う立場でもある。

 

「ナルトは真っ直ぐで、人を惹きつける力がある。だが、光が強ければ影も濃くなる。お前がその影となり、支柱となるなら……最強の火影が誕生するだろう。」

 

イタチは再びフミに向き直り、真剣な眼差しを向けた。

 

「俺も、協力できることがあればいつでも言ってくれ。幻術の対策や、手裏剣術なら教えられる。……それに、たまには息抜きも必要だろ?」

 

イタチはミコトから三色団子の串を受け取ると、フミに手渡す。

 

「甘いものは、頭の疲れを取るのにいいからな。」

 

普段は完璧超人に見えるイタチの、意外な一面。フミは思わず笑みをこぼし、差し出された団子を受け取った。

 

「ありがとうございます。甘いもの、お好きなんですね?」

 

「……まあな。」

 

少し照れくさそうに目を逸らすイタチ。縁側には、穏やかな時間と、互いに兄や弟を想う二人の少年の優しい空気が流れていた。

 

「ごちそうさまです…あれ?」

 

三色団子を一本食べ終えた頃、ふと静寂が訪れた。イタチが言葉を止めていた。フミが横を向くと、そこには壁に背を預けたまま、静かな寝息を立てているイタチの姿があった。

 

「…お疲れみたいですね。」

 

天才、暗部、一族の期待の星。普段、どれほど重いものをその細い肩に背負っているのだろうか。眠っている彼の顔は、戦場や任務での鋭さを失い、ようやく実年齢に近い少年の幼さが戻っていた。

 

「あらあら……。」

 

廊下の奥から、足音もなくミコトが現れた。彼女は手にした毛布を広げると、壊れ物を扱うようにそっとイタチの肩にかけた。その手つきは慈愛に満ちており、母親としての温かさが溢れている。

 

「ふふ、フミくんの前だから、安心しちゃったのかしらね。この子、家でもあまり弱音を吐かないから……」

 

ミコトは眠る息子の顔を愛おしそうに眺めた後、フミに向かって人差し指を口に当て、「内緒ね」というようにウィンクした。

 

「フミくん、ごめんなさいね。せっかく話し相手になってもらってたのに。良かったら、もう少しゆっくりしていって。今、お茶のお代わりを淹れてくるわね。」

 

「ありがとうございます、ミコトさん。」

 

ミコトは音を立てないようにキッチンへと戻っていった。フミは毛布に包まれたイタチの横で、冷めかけたお茶を手に取る。

 

「そういえば…ママって僕が生まれる前からあんな感じだったんですか?」

 

キッチンからお茶の香りと共に戻ってきたミコトは、フミの問いかけに思わず「ふふっ」と吹き出した。彼女はフミの隣に座り、懐かしむような目で庭を眺めた。

 

「そうね……。クシナは、一言で言えば「嵐」のような子だったわ。」

 

ミコトは昔を思い出すように、ゆっくりと語り始めた。

 

「アカデミーの頃から、あの赤い髪をなびかせて、自分を馬鹿にする男の子たちを片っ端から投げ飛ばしていたのよ。……「赤い血潮のハバネロ」なんて呼ばれてね。私は少し離れたところからそれを見て、「なんて元気な子かしら」って思っていたわ。」

 

彼女は湯呑みを手に取り、穏やかな微笑みを深くする。

 

「ミナトくんと付き合い始めてからは、少しは落ち着くかと思ったけれど……逆だったわね。ミナトくんが優しすぎるものだから、クシナのパワフルさがより強調されるようになっちゃって。」

 

今の家庭内パワーバランスを見れば、残念でもないし当然の結果かもしれない。思わずフミはでしょうね、と相槌を打つ。

 

「でもね、フミくん。あの子、実はとっても寂しがり屋で、愛情深い人なの。渦の国を失って、一人でこの里に来たから……。だから、自分の家族ができたことが、本当に嬉しかったのよ。」

 

ミコトはフミの頭を優しく撫でながら続ける。

 

「ナルトくんやフミくんが生まれた時、クシナがどんなに喜んでいたか。……あんなに騒がしいのは、それだけあなたたちのことが大好きで、守りたくて仕方がないからなの。」

 

自分が生まれた時、皆大粒の涙を流して喜んでくれた光景が朧げながら浮かぶ。

 

「まあ、ちょっと……表現が極端なのは昔から変わらないけれど。お母様、お料理は上手になったわよね? 昔は、味見もせずに辛いものをたくさん入れて、ミナトくんを困らせていたのよ。」

 

ミコトは楽しそうに笑いながら、フミにクシナの意外な「黒歴史」を語って聞かせた。母の親友から語られる「おてんば娘」としてのクシナの話は、フミにとって、いつも見ている「怖いお母さん」のイメージを少しだけ変えるものだった。

 

「意外です…ママ、普段はすっごく優しいし料理も全部美味しいけど…怒らせたら大変ですから。この間の追いかけっこの時なんて、もし気絶させてなかったら何回お尻ペンペンされたことやら…」

 

フミの言葉に、ミコトは口元を手で押さえて上品に笑った。その笑い声は、風鈴の音のように涼やかだが、どこかクシナへの共感も含んでいた。

 

「あらあら、お尻ペンペンだなんて、懐かしい響きね。でも、クシナのことだから、きっと手加減なんてしないでしょうね……。」

 

ミコトは少しだけ身を乗り出し、フミの耳元で囁くように続けた。

 

「実はね、クシナったら昔、ミナトくんとの初デートに遅刻しそうになって、里の屋根をものすごい速さで駆け抜けたことがあるのよ。その時も、邪魔な看板をいくつかなぎ倒して……後でビワコ様にこっぴどく怒られていたわ。」

 

ミコトの瞳が楽しげに細められる。

 

「あの子、一度スイッチが入ると周りが見えなくなっちゃうのよね。その情熱が、今は全部フミくんたちに向けられているのよ。……まあ、向けられる方は命がけでしょうけど。」

 

「ま、まあ…嬉しくも怖くもありますね、はい。」

 

苦笑いするフミに対し、ミコトは穏やかながらも真剣な眼差しで告げる。

 

「でもね、フミくん。あの子が本当に怒るのは、あなたたちが「危険な目に遭った時」か、「自分自身を大切にしなかった時」だけよ。……あの子にとって、あなたたちは、自分の命よりも大切な「宝物」なんだから。」

 

ミコトは眠っているイタチにちらりと視線を向け、それからフミに向き直った。その眼差しは、母としての優しさに満ちていた。

 

「だから、たまには許してあげてね。あんなにパワフルなお母さん、他にはいないでしょう?」

 

そう言って微笑むミコトの背後で、眠っていたイタチが「……ううん」と小さく寝言を漏らした。どうやら、甘い夢でも見ているようだ。

 

(命よりも大切、か……)

 

フミはミコトの言葉を反芻した。あの大騒動の裏にあった、母の不器用で激しい愛情。それを改めて第三者から聞かされると、なんだか少しだけ心が温かくなるような気がした。

 

「ええ。世界一のお母さんだって、僕も思います。」

 

フミは照れ隠しにお茶を啜り、庭の緑を見つめた。その横顔は、少しだけ大人びて見えた。

 

さて、それから数ヶ月が経ち、季節は巡った。木の葉の里は鮮やかな緑に包まれ、アカデミーの生徒たちもまた一つ成長の階段を上っていた。綱手との修行も順調で、チャクラコントロールも上手くなってきた。

 

だが、男の「探究心」に季節外れは存在しない。

 

「さて…行こう。」

 

アカデミーの授業を終えたフミは、いつもの帰り道とは違う路地裏へと足を踏み入れていた。その瞳には、かつてないほどの決意が宿っている。前回の大騒動、母の激怒、父の負傷、綱手との修行……それら全ての苦難を乗り越え(あるいは喉元過ぎて熱さを忘れ)、フミは再び「聖地」を目指す。

 

自来也の新刊発売日。それは、里の一部マニアたちにとって、火影就任式にも匹敵するビッグイベントなのだ。

 

(今度こそ……今度こそ、誰にも見つからずに持ち帰ってみせる!)

 

フミは忍具ポーチの奥底に隠した、綱手との修行で得た小遣いを握りしめる。前回の失敗を教訓に、今回は完璧な計画を立てていた。

 

①変装 赤い髪を目立たなくするための帽子と、地味な私服。

②逃走ルート クシナの買い物ルートと重ならない裏道のみを選定。

③カモフラージュ 参考書を買ったように見せかけるためのダミーカバー(店主に共有済み)

 

やがて、古書堂の暖簾が見えてくると、心臓が高鳴る。フミは周囲を警戒しながら、店の中へと滑り込んだ。

 

「いらっしゃ……おや、坊主。また来たのかい?」

 

店主のじいさんが、眼鏡の奥から呆れたような、しかしどこか歓迎するような目を向ける。

 

「どうも…来ちゃいました。」

 

「懲りないねえ。……ま、自来也先生の新作は、そこの棚の奥だ。「数学の参考書」カバーをつけておいたから、安心して持っていきな。」

 

(よっしゃあ!)

 

フミは心の中でガッツポーズをし、震える手でその本を手に取った。カバーは確かに難解な数式の羅列だが、その厚みと紙の質感は、紛れもなく「至高の芸術品」のものだ。

 

会計を済ませ、店を出る。ここからが本番だ。フミは息を潜め、第一関門である路地裏の出口へと向かった。あとは帰宅するだけ…だったのだが。

 

(……ッッ⁉︎)

 

フミの優れた感知能力(綱手の修行の成果)が、微かな、しかし強烈なチャクラの気配を捉えた。

 

(まさか……!?)

 

角を曲がろうとしたその瞬間、聞き覚えのある元気な声が、風に乗って聞こえてきたのだ。

 

「クシナさん、ご無沙汰しています。」

 

「あら? イタチくんじゃない! 今日はミコトちゃんとお買い物?」

 

「ええ、近くのスーパーが特売日だったので。クシナさんも?」

 

「そうなのよ、流石に見逃せないってばね!」

 

(マ、ママだーーーッ!!)

 

フミは瞬時に壁にへばりつき、冷や汗を流した。なんと、裏道を選んだはずが、クシナが偶然にもイタチ兄弟と遭遇し、話し込んでいる現場に出くわしてしまう。 

 

しかも、その場所は、フミの逃走ルートのど真ん中。進めば見つかる。かといって長居してもいずれはバレてしまうだろう。

 

(どうする……!? 飛雷神で飛ぶか!? いや、ママに気づかれるかもしれない……!)

 

フミは絶体絶命のピンチに、再び脳をフル回転させ始めた。手には禁断の書、目の前には最強の母。数ヶ月前の悪夢が、走馬灯のように脳裏をよぎる。

 

(…やってやる、何としてもやってやる!)

 

フミの判断は、電光石火だった。躊躇は敗北を意味する。彼は綱手のもとで培った精密なチャクラコントロールを総動員し、存在感を極限まで消した。

 

「……シュッ」

 

衣服の擦れる音さえさせず、指先で弾かれたクナイが、遥か遠くの森の中――かつて自来也と落ち合った修練場の方角へと飛び去る。フミはそのクナイが空を切る軌道を見つめ、自身の魂をその一点に集中させた。

 

(……今だ!)

 

クシナが不意にフミのいた方向に視線を移す寸前。

 

(飛雷神の術!)

 

フミの体が、空間を歪めて消失した。火花も音も発生させない、ミナトと同格クラス、或いは凌駕するような洗練された転移。 

 

数秒後、フミは鬱蒼とした森の中、修練場の草むらの上に着地していた。木に刺さった投げたクナイを引き抜くと、そのまま華麗に地面に降り立つ。

 

「…ふぅ。」

 

心臓が、耳元で鳴っているかのように激しく打っている。フミは荒い息を整えながら、まずは胸元の戦利品が無事であることを確認した。折れてもいない、汚れてもいない。完璧な勝利だ。

 

(やった……。ママの感知を出し抜いた……!)

 

フミは勝利の余韻に浸りながら、人気のない修練場の木陰に座り込んだ。ここなら誰にも邪魔されず、最初の数ページを拝むことができる。と、そこへ。

 

「……おやおや。今の飛雷神は、なかなかキレがあったのぅ。」

 

頭上から降ってきたのは、飄々とした、しかしどこか悪戯っぽい老人の声だった。

 

フミが驚いて顔を上げると、そこには大きな巻物を背負い、下駄を鳴らしながら木の上に腰掛けている白髪の忍――自来也が、ニヤニヤしながらこちらを見下ろしていた。その手には、フミが持っているものと同じ本が握られている。

 

「自来也先生!」

 

「よう、フミ。新刊の味はどうだ? 発売日に手に入れるとは、なかなかの目利きじゃな。」

 

自来也はヒラリと木から降り立ち、フミの隣にどっかりと座った。

 

「しかし、クシナから逃げるためにまた飛雷神を使うとは……ミナトも草葉の陰……いや、あいつはまだ生きてるな。……まあ、あいつが見たら複雑な顔をするじゃろうて。」

 

自来也はフミの肩を叩き、豪快に笑った。

 

「安心せえ。わしは味方じゃ。……で、どうかの、今回のヒロインの心理描写は?わしの自信作なんじゃが……。」

 

木漏れ日が差し込む静寂な森の中、伝説の三忍と将来有望な若き忍が肩を並べている。端から見れば修行の合間の休息に見えなくもないが、その実態はあまりにも不純だ。

 

フミは震える指先でページをめくる。――『イチャイチャパラダイス』最新刊の本文が、ついに露わになった。

 

冒頭から、自来也節が炸裂していた。今回の舞台は湯の国。主人公の忍が任務中に潜入した温泉宿で、美しきくノ一と秘密の密会を重ねるという、王道にして至高のシチュエーションだ。

 

「……こ、これは……!」

 

ページをめくる手が止まらない。湯けむりの中で交わされる熱い視線、濡れた肌の描写、そして任務という緊張感がもたらす禁断のスパイス。フミの頬は、熟れたトマトのように赤く染まっていく。

 

特に中盤、主人公とくノ一が狭い道具部屋に隠れ、追手の気配を感じながら密着するシーン。その緊迫感と扇情的な描写の巧みさに、フミは思わず息を呑んだ。

 

(す、すごい……! 文字だけなのに、情景がありありと浮かぶ……! まるで自分がそこにいるみたいだ……!)

 

「ガッハッハ!いい反応じゃのぅ、フミ! その顔が見たかったんじゃ!」

 

自来也はフミの真っ赤な顔を見て、我が意を得たりとばかりに膝を叩いて爆笑する。

 

「そこの「追手が襖(ふすま)一枚向こうにいるのに、互いの鼓動が重なって止められない」くだり、苦労したんじゃよ。スリルこそが恋の最大の媚薬じゃからな!」

 

自来也は得意げに鼻の下をこすりながら、さらに身を乗り出して解説を始めた。

 

「ちなみに、そのくノ一のモデルはな……いや、それは野暮というものか。……ん?」  

 

その時、自来也の表情がふと真面目なものに変わった。彼は鼻をひくつかせ、風の匂いを嗅ぐような仕草をする。

 

「どうしました?」

 

「フミ、ちとマズイ気配がするぞ。」

 

自来也の声のトーンが落ちる。彼の視線は、森の奥――フミが飛んできた方角ではなく、里の中心部へと向けられていた。

 

このチャクラの圧……それも、怒気をはらんだ凄まじい重圧……。

 

ゴゴゴゴゴ……。

 

まるで地響きのような音が、遠くから近づいてくる。鳥たちが一斉に木々から飛び立ち、森全体が畏怖に震えているかのようだ。

 

「ま、まさか…⁉︎」

 

「クシナ……じゃな。しかも、あの時よりも格段に「キレて」おる。」

 

自来也は額に冷や汗を浮かべ、フミの方を向いた。

 

「お主、飛雷神で飛んだ時、何か痕跡を残したか? 例えば……そうじゃな、慌てて落としたレシートとか、あるいはクシナに「感知」されるようなヘマを……」

 

フミはハッとして自分のポケットを探る。本は無事。財布もある。クナイも回収した。完璧なはずだ。…しかし、一つだけ足りないものがあった。

 

(あ、偽装のカバー置いてきた…いやでも!それだけじゃ…)

 

フミは恐る恐る、手に持っている本を裏返した。そこには、値札シールが無い。もし、値札が偽装カバーの方に貼っていたとしたら。

 

(…やってしまった!)

 

そして、フミの脳裏に、飛来神を使った際、カバーが落ちたことを思い出す。路地に面したあの場所、音は意外と響くのだ。

 

もし、あの時、近くにいたクシナの超人的な聴覚が、その声を拾い、値札のついたあのカバーを見つけていたら。だが、そう考えるよりも先に、遥か遠くから、しかし耳元で囁かれたように鮮明に声が聞こえる。

 

「フ~ミ~く~ん~?」

 

森の木々がざわめく。それは風のせいではない。殺気だ。

 

「逃げるぞ、フミ! 捕まったらわしまで巻き添えだ!」

 

自来也は素早く立ち上がり、印を結ぼうとする。しかし、フミの足は恐怖ですくんで動かない。母の「ハバネロ」モードは、里の上忍ですら震え上がらせる恐怖の象徴なのだ。

 

赤い髪が逆立つ鬼神の姿が、森の向こうから急速に接近してくる気配を感じる。今度こそ、無事では済まないかもしれない。

 

「せ、先生、こういう時は逃げるが勝ち、ですよね?」

 

「ったりめーよ! 相手は「赤い血潮のハバネロ」じゃぞ!? 前回のことを考えたら、逃げる以外にない!逆ハーレムなんてもってのほか!」

 

自来也は顔色を変えて叫ぶと、素早く親指を噛み切り、地面に叩きつけた。

 

「口寄せの術!」

 

ボンッ! という白煙と共に、巨大なガマガエル――ガマブン太……ではなく、手乗りサイズのガマ吉が現れた。

 

「なんだよエロ仙人、またオヤツか?」

 

「馬鹿モン! 緊急事態じゃ! 逆口寄せで妙木山へ……いや、間に合わん!」

 

その時、森の木々がドミノ倒しのように次々と薙ぎ倒されていく音が響き渡った。バリバリバリ! ドドオォォン! まるで巨大な猛獣が一直線にこちらへ突進してきているかのようだ。赤いチャクラの残滓が、遠くで不気味に揺らめいている。

 

「せ、先生、僕の残存チャクラじゃ、もう一度長距離の飛雷神は……!」

 

「ええい、ならば走るしかあるまい! 「陽動」を使うぞ!」

 

自来也は懐から数冊の『イチャイチャパラダイス』のバックナンバーを取り出し、フミに押し付けた。

 

「これを森のあちこちにばら撒け! クシナの奴、怒りで頭に血が上っておるが、同時にこの「表紙」を見れば反射的に焼却しようとして足が止まるはずじゃ! その隙に里の外へ抜ける!」

 

(なんという……なんという作戦だ! 自分の作品を囮にするなんて……!)

 

フミは作家の矜持を犠牲にした師匠の決断に涙しそうになったが、今は感傷に浸っている場合ではない。

 

「わ、わかりました!」

 

フミは本を受け取ると、修練場の草むらに向かって全力で駆け出した。背後からは、木々をへし折る音と共に、地獄の底から響くような母の声が迫ってくる。

 

「待ちなさぁぁぁい!! ママを騙して……しかも、またそんなエッチな本を……!! 絶対に許さないってばねぇぇぇ!!」

 

クシナの背後からは、封印術の鎖――金剛封鎖の鎖が、まるで生き物のようにうねりながら伸びてきていた。その鎖は正確にフミと自来也を狙っている。

 

フミは走りながら、手にしたバックナンバーを放り投げた。ピンク色の表紙が空を舞い、草むらに落ちる。

 

シュパンッ!

 

金剛封鎖の鎖の一本が、落ちた本に反応して突き刺さり、瞬時にそれを粉砕する。

 

「よし! 引っかかった! 今じゃ、フミ! 川の方へ飛べ! 気配を消す!」

 

二人は必死の形相で森の中を疾走する。これはもはや「買い物」ではない。命を懸けたSランク任務だ。

 

だが、フミは走りながら、胸に抱いた最新刊だけは絶対に離さなかった。この恐怖とスリルこそが、この本の価値をさらに高めているのだと、どこか冷静に(あるいは錯乱して)感じていたのだ。

 

ドォォォォォン!!

 

フミが駆け抜けた直後、彼が先ほどまでいた地面に、クシナの拳が深々とめり込んだ。衝撃波で周囲の木々が放射状に倒れ、土煙が舞い上がる。

 

煙の中から、クシナは髪を八本に分かち、まるで炎のように逆立てて姿を現す。

 

「逃がさない……逃がさないってばね……! フミ……自来也先生……覚悟はできてるんでしょうねぇ!?」

 

クシナの瞳には赤い輪が浮かび、その殺気は物理的な圧力となってフミの背中を押し潰そうとする。

 

「ひぃぃ! 本気じゃ! あのハバネロ、完全にリミッターが外れとる!」

 

自来也はガマガエルのような跳躍で金剛封鎖の鎖を回避しながら、フミの並走を促した。

 

「フミ、そのまま全開で突っ走れ! 突き当たりの滝から飛び降りるんじゃ! 下にわしの口寄せガマを待機させてある!」

 

「は、はいっ!うおおおおおおッッ‼︎」

 

フミは脇目も振らず、最新刊を抱えたまま崖っぷちへと突進する。足の筋肉が悲鳴を上げ、肺が焼けるように熱いが、止まれば「死(お仕置き)」あるのみ。

 

眼下に広がる豪快な滝。フミは迷わず空へと身を投げ出した。滞空時間、わずか数秒。背後からは、空を裂いて伸びる無数の鎖が迫る。

 

ザバァァァァァン‼︎

 

水面に激突する寸前、巨大なガマの口が開き、フミと自来也を飲み込んだ。そのまま深く、深く水中へと潜行していく。

 

水面に届くクシナの怒号。しかし、水底の静寂がそれを遠ざけていく。フミは暗いガマの腹の中で、ぐっしょりと濡れた本を抱きしめ、勝利を確信した。

 

「フミ。生き延びたら、次は「変態の術」でも教えたるからな。……ま、生きていれば、じゃが。」

 

「はは…遠慮しときます…」

 

十分後、口寄せガマは里の外れ、演習場から数キロ離れた川岸に二人を吐き出した。ドロリとした粘液にまみれ、ずぶ濡れになった二人の姿は、まさに敗残兵のそれだった。 

 

「ぜえっ…ぜえっ…あぁきつかった…」

 

フミは地面に膝をつき、肩で息をする。だが、その手にはまだしっかりと「聖書」が握られている。水濡れ対策として油紙で二重に梱包されていたのが幸いし、中身は奇跡的に無事だった。

 

自来也は髪を絞りながら、空を見上げた。夕日が空を赤く染め始めている。その赤さが、先ほどのクシナの髪色を連想させ、二人は同時に身震いした。

 

「まあ、なんだ。結果オーライじゃ。本は手に入り、命もあった。上出来よの?」

 

自来也はニカッと笑い、親指を立てる。その顔には、死線をくぐり抜けた者だけが浮かべる爽やかさ(と無責任さ)があった。

 

「フミよ。堂々と胸を張れ。男には、引くに引けぬ戦いがある。お主は今日、その一つに勝利したんじゃ。」

 

そう言うと、自来也は懐から一冊の小さな手帳を取り出し、何かをメモし始めた。

 

「今日の逃走劇、次の巻のネタに使わせてもらうぞ。「鬼嫁からの脱出 ~愛と狂気のハバネロチェイス~」……うん、売れそうよの!」

 

「先生…本当に逞しいですね。」

 

フミは苦笑しつつ、濡れた服を絞った。今は、この苦労して手に入れた戦利品をどう隠すか、そして家に帰った時の言い訳をどうするかを考えなければならない。

 

(……帰ったら、ミナト父さんに泣きつこう。父さんなら、きっと……いや、父さんもママには逆らえないか……)

 

その時、里の方角から、再びドォォォォォンという爆発音が響いた。どうやら、クシナの怒りはまだ収まっておらず、何か(おそらく岩や木、あるいは不運な誰か)に八つ当たりをしているようだ。

 

「……さて、わしは取材旅行に出るとするかの。ほとぼりが冷めるまで、里には戻らんほうがよさそうだ。」

 

自来也は素早く荷物をまとめ、逃げるように反対方向へと歩き出した。

 

「あばよ、フミ! 健闘を祈る!」

 

「あ、先生、ちょっと待ってくださ……!」

 

師匠に見捨てられ、一人取り残されたフミ。手には禁断の書、後方には激怒する母、そして行く先には不透明な未来。

 

だが、彼の瞳には不思議と後悔の色はなかった。むしろ、この逆境こそが、綱手の弟子として、そしてうずまき一族の男としての試練なのだと、自分に言い聞かせていた。

 

(……とりあえず、この本を読むまでは死ねない。)

 

フミは決意を新たに、こっそりと続きのページを開いた。川のせせらぎ、夕暮れの静寂、全身びしょ濡れ、そんな環境など、今のフミには関係なかった。

 

彼が食い入るように見つめる先、そこには自来也が「自信作」と豪語した真骨頂が描かれていた。

 

「うおおおおっ! これは! これはすごいっ!」

 

文字の羅列が、フミの脳内で極彩色の映像へと変換される。ヒロインのくノ一が、忍装束の紐を一本ずつ、震える手で解いていく情景。冷たい夜風に晒された白い肌と、対照的に熱く火照った吐息。自来也の筆致は、もはや忍術の域に達していた。

 

(心理描写の深みが……前回までとはまた違う……! 忍としての葛藤と、女としての情熱が、この一行に凝縮されてる……!)

 

フミは陶酔し、ページをめくる指が止まらない。あまりの興奮に、額からは大粒の汗が流れ落ちる。

 

だが、その熱気は果たして、本の内容によるものだけだっただろうか。

 

「…え?」

 

ふと、フミの首筋に、ゾクリとするような冷たい感触が走った。物理的な冷たさではない。それは、魂を凍りつかせ、細胞の一つ一つに「死」を予感させる、圧倒的な上位捕食者の気配。

 

「嘘でしょ…⁉︎」

 

背後の茂みが、ゆっくりと左右に割れる。

 

「……へぇ。ずいぶん「熱心」にお勉強してるじゃない、フ・ミ・くん?」

 

その声は、驚くほど静かだった。怒声よりも、絶叫よりも、何百倍も恐ろしい。凍てつくような凪。

 

(心臓が跳ね上がり、全身の血の気が引く。ロボットのような動きで、首だけを後ろへ回す)

 

「ま、ママ……?」

 

そこには、全身を泥と木の葉で汚し、しかしその瞳だけをらんらんと輝かせた、文字通りの「鬼」が立っていた。金剛封鎖の鎖が、彼女の周囲で重々しく、死神の鎌のように鎌首をもたげている。その顔は笑っているが、こめかみには青筋がバキバキに浮き出ている。

 

「飛雷神や口寄せで逃げれば安心だと思った? ……残念だったわねぇ。ママの感知能力は、里の誰よりも優れてるのよ。特に、あんたのその……「スケベなチャクラ」の乱れは、遠くからでも丸見えだってばね。」

 

クシナの手が、ゆっくりと、しかし逃れようのない速度でフミの肩に置かれた。

 

「さあ、フミ。その……「参考書」を、ママに見せてくれるかしら? 今すぐ。」

 

――ボフッ。

 

クシナの手が掴んだのは、フミの肩ではなく、ただの空気だった。白い煙がポワンと上がり、そこに残されたのは丸太が一本。

 

変わり身の術、アカデミーで習う基本中の基本。しかし、この極限状態において、母の圧倒的なプレッシャーの中で、その一瞬の隙を突いて発動させたフミの機転と度胸は、もはや下忍レベルを超越していた。

 

「……あら?」

 

クシナは一瞬きょとんとして、自分の手の中の丸太を見つめた。そして、その丸太に貼り付けられた一枚のメモに気づく。そこには、走り書きでこう記されていた。

 

『ママへ 愛してるけど、今は探さないでください フミ』

 

ビキッ。

 

クシナの手の中で、丸太が悲鳴を上げて粉々に粉砕された。周囲の空間が歪むほどのチャクラを放出されていく。

 

「 …………フミィィィィィィッ!! ナメるんじゃないわよぉぉぉぉぉ!!」

 

母の怒声が響く中、そこから数百メートル離れた川の中流。岩陰から顔を出したフミは、全身ずぶ濡れになりながらも、その瞳には生存への渇望が燃え上がっていた。

 

変わり身の術で稼げる距離は知れている。母が再び感知して追いつくのは時間の問題だ。だが、フミにはまだ切り札があった。綱手との修行で鍛えたチャクラコントロールによる「水面歩行」と、川の流れを利用した「気配遮断」だ。

 

(川を下るんだ……! 水の中なら匂いも消えるし、チャクラも紛れるはず……!)

 

フミは本を頭の上に掲げ、忍装束のまま川へと飛び込んだ。冷たい水流が体を打つが、今はそれが心地よい。

 

だが、彼が川の流れに身を任せようとしたその時、対岸の木の上から、冷ややかな声が降ってきた。

 

「……騒がしいと思ったら。やっぱり君か、フミ。」

 

フミが見上げると、そこには額当てを斜めにかけ、『イチャイチャ』シリーズを片手に持った、銀髪の忍――はたけカカシが立っていた。

 

「まったく……。せっかくの読書タイムが台無しだよ。あんな殺気をまき散らされたら、落ち着いてヒロインの肢体を想像できないじゃないか。」

 

カカシは呆れたようにため息をつき、しかしその隻眼は鋭くフミの手にある「新刊」を捉えていた。

 

「……それ、新刊だよね? またクシナさんと追いかけっこかい?」

 

「先生、読むのとママから逃げるの同時並行中です。付き合います?」

 

隻眼を細め、フミと背後の森を交互に見やる。

 

「…やれやれ。またクシナさんと鬼ごっことは、Sランク任務以上の難易度だよ。」

 

カカシはふっと笑うと、パチンと本を閉じた。

 

「でもまあ、新刊のネタバレを食らう前に君が捕まって没収されるのも困るしね。……いいよ、付き合おう。ただし、逃げ切れたらその新刊、僕にも読ませてもらうからね?」

 

カカシの姿が霞むように消え、次の瞬間にはフミの隣の水面に着地していた。チャクラを足裏に集中させ、水の上にピタリと立っている。

 

「交渉成立です! 先生、必ず逃げ延びますよ!」

 

その時、上流から轟音が響いた。クシナが川の流れそのものをチャクラで堰き止めようとしているのか、水位が異常な速度で変化している。もはや災害レベルだ。

 

「おいおい……冗談だろ。川ごと吹き飛ばす気か? 急ごう、フミ。僕の「土遁・心中斬首の術」の応用で、地下水脈を通って里の反対側へ抜けるルートがある。」

 

カカシが素早く印を結ぶと、川岸の土壁がズズズと音を立てて開き、暗い空洞が口を開けた。

 

「さあ、行くよ。泥だらけになるけど、ハバネロに焼かれるよりはマシでしょ?」

 

フミは頷き、カカシに続いて穴の中へ飛び込んだ。背後で土壁が閉じる寸前、クシナの金剛封鎖の鎖が水面を突き破り、ついさっきまで二人がいた場所を激しく打ち据えるのが見えた。

 

(危なかった……! さすがカカシ先生!)

 

地下水脈の湿ったトンネルの中を、二人の「読書家」が進んでいく。外の騒ぎが嘘のように静まり返っているが、二人の心臓はまだ高鳴っていた。

 

「で、どう? 今回の作品は?やっぱり今回も「温泉」から始まるのかな?」

 

「最高でしたよ。でも、先生。逃げ延びた後、ご自分の目で確かめてください。」

 

地下の闇の中で、二人の男たちの熱い共犯関係が再度結ばれた瞬間だった。しかし、彼らはまだ知らない。クシナの「母の勘」が、地下の微細なチャクラ変動さえも捉え始めていることを。

 

「…先生、下手すると神威の出番かもしれません。」

 

フミの言葉に、カカシはマスク越しでも分かるほど苦い顔をして肩をすくめた。

 

「よしてくれよ。万華鏡写輪眼を、母親からの逃走劇……それもエロ本の死守に使うなんて、オビトに合わせる顔がないってば。まあ、背に腹は代えられないけどね。」

 

暗い地下水脈を進む二人の頭上で、ドォォォォォンという凄まじい振動が響いた。地上の土砂がパラパラと落ち、カカシの額に冷や汗が流れる。クシナが上から「根こそぎ」掘り返そうとしているのだ。地面越しに、地響きのような声が伝わってくる。

 

「逃がさない……地下に潜ったって無駄よ……! フミィ!! カカシも、また手伝ってるなら同罪よぉぉぉ!!」

 

「……参ったな。あの感知能力、完全に「九尾」のチャクラが混じり始めてないかい? 冗談じゃなく、ここが僕たちの墓場になるかもしれないよ。…ほら、来た。」

 

カカシは足を止め、壁に背を預けた。前方からは水が溢れ出し、爆音と共に後方からは母の鎖が迫る。文字通りの袋の鼠だ。

 

「煙の中から、赤い長髪を八本の蛇のように蠢かせて現れる) ……見ーつけた。」

 

暗闇の中で赤く光る母の瞳。フミはカカシと顔を見合わせ、同時に悟った。もう、小細工が通用する段階は終わったのだと。カカシは、覚悟を決めたように溜息をつき、額当てを跳ね上げて写輪眼を露わにする

 

「ったく。ミナト先生には内緒だよ、これは。」

 

暗い地下水脈に、カカシの写輪眼が赤く怪しく灯る。対するは、怒りで髪を逆立て、金剛封鎖の鎖を蠢かせるクシナ。その背後には九尾のチャクラを彷彿とさせる圧倒的な圧。

 

「カカシ、そこをどきなさい。……フミを……その「不潔な紙の束」ごと、根性焼きしなきゃ気が済まないってばね!」

 

「ヒイイイイッ!先生、今です!」

 

「万華鏡写輪眼……神威!」

 

カカシの視線が一点に集中し、クシナとフミの間の空間が、渦を巻くように歪み始める。

 

「……!? 空間が……!?」

 

しかし、カカシが狙ったのはクシナ本人ではない。彼はフミが抱えている「新刊」の、まさにその物体だけを異空間へ転送しようとした。

 

「フミ、本を離せ! 一時的にあっち(異空間)へ飛ばす! クシナさんをやり過ごしてから後で……!」

 

「嫌だ! 離せません、先生! 本は僕の命だ! 僕も一緒に飛ばしてください!」

 

「何言ってるんだ、人間を飛ばすと俺のチャクラが――!」

 

その一瞬の押し問答が致命的だった。クシナの鎖が、雷光のような速度でフミの足首を絡め取る。

 

「やばっ…!」

 

「逃がさないって言ったでしょ……?」

 

空間の歪み、母の鎖、そしてカカシの術が複雑に混ざり合い、激しい閃光が地下道を包んだ。煙が晴れた時、そこには呆然と立ち尽くすカカシと、鎖を握ったままのクシナだけが残されていた。フミの姿も、そしてあの「新刊」も、影も形もない。

 

 

「……あ。」

 

 

「……え? フミ……? フミはどこへ行ったのよぉぉぉ!!」

 

静まり返った異空間。フミが目を開けると、そこは荒涼としたブロックが積み重なる、カカシの「神威」の内部だった。そして彼の目の前には、転送の衝撃で無残にも開いたままの最新刊が。

 

「助かった、のか? 」

 

静寂の中、フミはゆっくりと本を手に取った。もはや誰も邪魔する者はいない。母も、カカシ先生も、自来也先生もいない。ここは、世界で一番贅沢な「一人きりの読書室」だった。

 

「よし…続きを読もうか。」

 

フミの独白が、奇妙な空間の静寂に吸い込まれていく。直方体のブロックが無限に浮遊する無機質な世界。本来なら、こんな場所でエロ本を読むなどという発想に至る者はいないだろう。しかし、フミは違った。

 

(カカシ先生の神威の空間……。ここならママの感知も届かない。まさに完璧な避難所……!)

 

フミは安堵のため息をつき、念願のページに指をかけた。さあ、続きだ。ヒロインの心理描写の先にある、禁断のクライマックスへ。

 

「……おやおや?」

 

声のした方向に眼を向けると、その視線が凍りついた。遠くのブロックの上に、誰かが座っている。オレンジ色の渦巻き模様の仮面をつけ、黒いマントに赤い雲の模様を描いた装束をまとった男。彼は片膝を立て、リラックスした様子でこちらを見下ろしている。

 

「カカシの奴、ゴミを捨てるにしても、もう少し選別しろよな。……まさか、こんな場所で子供と、その……なんだ、不埒な本と対面することになるとはな。」

 

男は立ち上がり、ゆっくりとフミの方へ歩いてくる。その一歩ごとに、空間が歪むようなプレッシャーが増していく。

 

「なあ、坊や。ここは君の部屋じゃないんだが……入場料は持ってるのかい?」

 

(誰だ……!? 暁の……!? どうしてここに!?)

 

フミは本能的に後ずさるが、背後は虚空。そして手には、決して手放せない「聖書」が。究極のピンチ、その第二ラウンドのゴングが、異次元空間で鳴り響く中で、フミの脳裏にミナトの言葉が呼び起こされる。

 

「ナルトが生まれた時、仮面の男が九尾をママから引き剥がして大変なことになった。」

 

間違いなく、目の前の男は関係している、本能でフミは悟った。

 

「あなたが…九尾事件の?」

 

その単語が出た瞬間、仮面の男の足がピタリと止まる。フランクな態度は一変し、仮面の奥にある隻眼が鋭くフミを射抜いた。重苦しい沈黙が、浮遊するブロックの間に降り積もる。

 

「…ほう。」

 

男の声から、先ほどまでの道化じみた軽薄さが完全に消え失せた。低く、冷徹な声色が響く。

 

「ミナトの息子か。……なるほど、面影がある。特にその、妙に肝が座っているところと、場違いな状況適応能力はな。」

 

男はゆっくりと手を伸ばし、空中で指を鳴らすような仕草をする。その瞬間、フミの周囲の空間が微かに軋んだ。

 

「俺の正体を知っているわけではなさそうだが……その口ぶり、ただの子供じゃないな?」

 

(まずい……! 思わず口に出しちゃったけど、この人、本当にヤバイ……!)

 

フミは冷や汗を流しながら、それでも本能的に「聖書」を背中に隠した。九尾事件の首謀者とされる男と、エロ本を片手に対峙するこのシュールな構図。だが、男から放たれる殺気は本物であり、フミの肌をチリチリと焼くようだ。

 

「フッ…まあいい。偶然迷い込んだネズミだとしても、ここで始末すれば済む話だ。……だが、その前に一つ聞こう。」

 

男は仮面の穴からじっとフミの手元を見つめた。

 

「その、背中に隠した本……。『イチャイチャ』シリーズの最新刊か?」

 

「…へ?」

 

気の抜ける返答に、仮面の男はポツリと呟く。

 

「……実はな、俺もまだ読んでいないんだ。任務が忙しくてな。」

 

男は少しだけ肩の力を抜き、あろうことか手を差し出した。

 

「命が惜しければ、それを置いていけ。そうすれば、カカシへの「置き土産」として、お前は見逃してやらんこともない。」

 

まさかの展開。世界の脅威と目される男が、最新刊を要求してきている。フミの脳内で、忍としての使命と、読者としての独占欲が激しく火花を散らした。

 

(命か、本か。……くそっ、選択肢が重すぎる!)

 

少考の末、フミは決断した。

 

「…わかりました、まだまだ生きたいのでこの本は渡します。」

 

「フッ…懸命な判断だな。」

 

「でも、一つだけ教えてくれませんか?」

 

「なんだ、言ってみろ。」

 

静寂の中、フミの好奇心は、禁断のワードを口にした。

 

「あなたは…オビトさんですか?」

 

その名が放たれた瞬間、異空間の全てが停止したかのような錯覚に陥った。仮面の男の体が、目に見えて硬直する。差し出された手は虚空で止まり、仮面の奥に灯っていた写輪眼の紅い光が、一際強く、そして不気味に揺らめいた。

 

長い、永遠にも感じられる沈黙。男の周囲の空気が、ドロリとした負の感情で濁っていく。彼はゆっくりと、しかし確かな殺意を込めて、首を傾げた。

 

「……なぜ、その名を知っている?」

 

その声は、地底の奥底から響くような地鳴りにも似ていた。

 

「ミナトか? それともカカシか? ……いや、どのみち同じことだ。その名を知る者は、この世にはもう必要ない。」

 

男の右腕から、不気味な白い触手のようなものが蠢きだす。本と安全の交換という「交渉」は、今この瞬間に完全に決裂した。

 

「その本と一緒に、お前の存在もこの空間の塵にしてやろう。死んでから後悔しろ。知らなくていいこともあるのだとな……!」

 

男が地面を蹴り、フミに向かって肉薄する。空間をすり抜ける能力を持つ彼に対し、逃げ場のないこの場所で防御は不可能に近い。

 

だが、その時。

 

「フミ!! 伏せろ!!」

 

空間の裂け目から、血走った写輪眼を剥き出しにして飛び込んでくるカカシの姿が目に映った。その叫びと同時に、彼の必殺技の一つ、雷切が暗い異空間を真昼のように照らし出し、男の仮面へと、突き出される。

 

「雷切ッッ‼︎」

 

鋭い駆動音が異空間に爆ぜる。カカシの雷光が男の体を貫こうとした瞬間、仮面の男の体は陽炎のように揺らぎ、その腕は虚しくその胴体をすり抜けた。

 

「……遅い。」

 

カカシは距離を取ると、背後のフミを庇うように立ち塞がる。

 

「大丈夫か、フミ! 」

 

「先生!」

 

フミはカカシの背中にしがみつき、必死に「聖書」を抱えた。目の前には、暁の一員であろう仮面の男。そして今、命懸けで護ろうとしている教え子。あまりに複雑な因縁が、この閉ざされた空間で火花を散らす。  

 

「お前は…何者だ⁉︎ どうやって俺の時空間に入った⁉︎」

 

「ふん…どうやら、カカシよりもそこの小僧の方が、見えているらしいな。」 

 

「なんだって…⁉︎ フミ、暁のこの男、何か知っているのか⁉︎」

 

「せ、先生、今はそれどころじゃ……!」  

 

カカシの問い詰めにしどろもどろになるフミ、と、その時、再び空間が歪んだ。

 

「何…⁉︎」

 

今度はカカシの術ではない。外部からの圧倒的な力による「こじ開け」だ。次元の壁を力技で引き裂き、赤い髪を逆立てて空間へ乱入してくるのは…クシナだ。

 

「私の息子を、こんな薄暗いところに連れ込んだのはどこのどいつだってばねぇぇぇ‼︎」

 

クシナが金剛封鎖の鎖を四方八方に放ち、異空間のブロックを次々と粉砕する。怒り狂った母親の参戦により、異次元の読書室は一瞬にしてカオスな戦場へと変貌した。

 

「ええええええっ⁉︎万華鏡写輪眼持ってないのに、なんでえええ⁉︎」

 

それは、忍術の理(ことわり)を超えた現象だった。万華鏡写輪眼を持たぬ者が、神威の亜空間に物理的に干渉するなどあり得ない。少なくとも、常識的な忍の世界では。

 

だが、「母の怒り」というエネルギーは、時に尾獣のチャクラをも凌駕し、時空間の法則さえもねじ曲げる。空間の裂け目から顔を覗かせ、鎖を引きずりながらヌッと這い出てくると、クシナは高らかに言い放つ。

 

「愛する我が子の気配が消えたら、「次元」の一つや二つ、気合いでぶち破るに決まってるでしょ!?」

 

クシナの背後には、九尾のチャクラが実体化し、オレンジ色の狐の顔が禍々しく笑っている。どうやら彼女は九尾の力を強引に引き出し、その膨大なチャクラを「楔(くさび)」として空間の薄い部分をこじ開けたようだ。

 

仮面の男に初めて動揺の色が浮かぶ。

 

「九尾の人柱力か……! まさか、俺の時空間忍術に干渉してくるほどのチャクラ量とは……!」

 

状況は、三つ巴ならぬ四つ巴の様相を呈していた。

 

①うずまきクシナ、エロ本没収と息子の奪還に燃える、最凶の母。

②仮面の男、フミの抹殺を企む暁所属の犯罪者

③はたけカカシ、フミと(ついでに)本の秘密を守ろうとする師。

④うずまきフミ、全ての元凶であり、このカオスの中心でひたすら本を守る男。

 

「…誰かと思えば、あの時の…!あんた、そこで何してるの? 私の可愛い息子に変な勧誘でもしてたわけ?」

 

クシナの殺気が、カカシから仮面の男へと移る。彼女にとっては、九尾事件で殺されかけ、今はフミに悪影響を与えていると判断、即ち排除対象である。

 

「フン、勧誘か。お前の息子は、既に相当「歪んで」いるようだがな。」

 

男は冷笑し、指をフミに向けた。

 

「見ろ。この状況でも、奴が必死に守っているものを。……命よりも、親よりも、奴はその本を手放していないだろう?」

 

ピキッ、とクシナは青筋を浮かべ、ゆっくりとフミに向き直る。

 

「フミくん? それ、本当?」

 

フミは顔面蒼白になり、ブンブンと首を振る。

 

「ち、違うよ!これは……カカシ先生が! カカシ先生に読ませてあげなきゃと思って!」

 

「おい、フミ!? なすりつけるのかい⁉︎」

 

最悪の責任の押し付け合いが始まった。だが、クシナの背後で揺れる九尾の尾が一本増え、空間全体がミシミシと悲鳴を上げている今、真実など些細な問題だった。

 

「もういいわ……。全員まとめて、お説教部屋(金剛封鎖)行きよぉぉぉ!!」

 

クシナが叫ぶと同時に、無数の鎖が空間を埋め尽くすように放たれた。それは敵も味方も区別なく、全てを捕縛しようとする暴風雨。

 

「ひいっ!」

 

「うわっ!」

 

「チッ……付き合いきれん!」

 

男は自身の体を渦巻かせ、逃走を図ろうとする。しかし、クシナの鎖の一本がその渦の中心を正確に貫き、男の実体化を強制する。

 

「な、何っ⁉︎」

 

「逃がさないって言ったでしょうがぁぁぁ!」

 

この異次元空間で、まさかの暁捕獲という歴史的快挙が成されようとしていた。しかもその理由が「エロ本騒動の巻き添え」という、あまりにも情けない理由で。しかし。

 

「ま、待ってママ! 大事な話があるの! 鎖を解いてあげて!」

 

フミの悲痛な叫びが、破壊と混沌の渦巻く異空間に響き渡った。その声の必死さが、わずかにクシナの金剛封鎖の手を緩めさせた。鎖の先端が、仮面の男の喉元数センチのところでピタリと止まる。クシナは肩で荒い息をしながら、怪訝そうに眉を寄せた。

 

「大事な話? どうせまた、「この本は芸術だ」とか「これは人生の教科書だ」とか、屁理屈を並べるつもりなんでしょう? ママはもう騙されないわよ。」 

 

クシナは冷たく言い放つが、フミの目は真剣そのものだった。彼は震える手で聖書を地面に置くと、震える声で言い放つ。

 

「違うの…本の話じゃない。」

 

フミは深呼吸をし、意を決して口を開く。

 

「ママ、覚えてる? 昔、パパがよく話してくれた、任務で亡くなった大切な教え子のこと。ゴーグルをつけてて、いつも遅刻してきて……でも、誰よりも仲間思いだったカカシ先生の友達のこと。」

 

クシナの表情が凍りついた。カカシもまた、息を呑んで立ち尽くす。

 

仮面の男だけが、鎖に絡め取られたまま、奇妙なほど静かにフミの言葉を聞いていた。その仮面の奥で、どんな感情が渦巻いているのかは誰にも見えない。

 

「その仮面の人は…うちはオビトさん、僕はそう思ってるの。」

 

「…え?」

 

クシナはゆっくりと視線を仮面の男へと移した。怒りに満ちていた瞳が、徐々に困惑と、そして信じられないものを見るような色に変わっていく。カカシもまた、速くなっていく心拍数を止められない。

 

「オビト……?でも、あの子は神無毘橋の戦いで……。」

 

彼女の脳裏に、かつてミナトから聞いた悲しい報告が蘇る。そして、何度も喧嘩したり、お弁当を渡した、元気いっぱいで少しドジな少年の笑顔が、目の前の不気味な男の姿と重なりそうで、重ならない。

 

「…フミ、何を…何を言ってるんだ…⁉︎」 

 

カカシの動揺にも構わず続ける。

 

「もし彼がオビトさんなら、ただの悪い人じゃないはずだよ。何か事情があって、こんな姿になって……。だから、お願い。いきなり攻撃しないで、話を聞いてあげてほしいんだ。」

 

フミの訴えは、純粋で、どこか痛々しいほど真っ直ぐだった。それは、相手の心に寄り添おうとする「うずまき」の魂そのものだった。

 

クシナの鎖が、カチャリと音を立てて男の体から離れ、地面に落ちた。

 

「あんた、本当に……オビトなの?」

 

クシナの声が震えている。怒れる母から、かつて一人の少年の死を悼んだ女性の顔へと戻っていた。かつて殺されかけたことも忘れて。

 

対し、仮面の男は、自由になった体をもてあそぶように肩を回した。そして、ふっと自嘲気味に笑った。

 

「……フン。お涙頂戴の茶番か?ガキの戯言を信じるとはな。」

 

男はゆっくりと手を伸ばし、自身の顔を覆う仮面に指をかけた。

 

「だが、そこまで言うなら見せてやろう。……絶望を知った者が、どんな顔をしているのかをな。」

 

男の手が仮面を外そうとする。カカシは固唾を呑み、クシナは口元を押さえる。フミもまた、その瞬間を逃すまいと目を凝らしていた。

 

「…とでも言うと思ったか!!

 

男の姿が、渦を巻いて空間に吸い込まれていく。

 

「しまった! 逃げる気だ!」

 

「待ちなさい!」

 

しかし、時すでに遅し。男の体は半透明になり、異空間の彼方へと消えようとしていた。だが、消え去る寸前、男の声だけが、亡霊のようにその場に残された。

 

「うずまきフミ、今日のところは預けておく。その本も、俺の正体もな。……だが覚えておけ。次に会うときはお前の最期だ。」

 

シュンッ。

 

空間が閉じ、仮面の男の気配は完全に消滅した。残されたのは、茫然とする三人だけ。

そして、地面に置き去りにされた、一冊の聖書だけだった。

 

静寂が戻った異空間で、フミはゆっくりと息を吐き出した。命拾いした、その事実が大きく脱力させる。

 

「行っちゃった……。」

 

クシナはその場にへたり込み、複雑な表情で空間を見つめていた。怒りは消えていたが、代わりに深い悲しみと混乱が彼女を包んでいた。

 

「フミ、何故あの男がオビトだと思う?」

 

カカシが静かに問いかける。

 

「貴方の写輪眼、オビトさんから譲られたものって前に言ってましたよね?時空間が繋がっていなければ…ここには入れない。」

 

フミの指摘は、鋭利な刃物のようにカカシの胸を突いた。それは、カカシ自身が心のどこかで疑い、しかし認めることを恐れ続けてきた真実だった。 

 

同じ眼を持つ者同士が共有する空間。そこに、死んだはずの親友の影を見る。天才と呼ばれたはたけカカシが、その論理的な帰結から目を背けていたことを、幼いフミに見抜かれたのだ。

 

「はは…参ったな。一本取られたよ。」

 

カカシは力なく笑い、地面に腰を下ろした。その背中は、いつもより少し小さく見えた。

 

「君の言う通りだ。俺の神威と奴の術……その根源はどう見ても同じ。つまり、あの眼は間違いなくオビトのもの…僕があの時、守れなかった友の眼だ。」

 

重苦しい空気が流れる。クシナもまた、言葉を失っていた。ミナト班の悲劇は、彼女にとっても決して癒えることのない古傷なのだ。

 

「でも、どうしてアイツが暁に…?いや、今は考えるのはよそう。」

 

カカシは首を振り、無理やり思考を切り替えた。そして、地面に落ちている聖書を拾い上げた。

 

「とにかく、今日のところはこれで手打ちにしよう。……クシナさん、フミも反省してるみたいだし、大目に見てあげてくれませんか? オビトが生きているかもしれない……その事実に免じて。」

 

カカシは本をクシナに手渡し、クシナに向かってウィンクをした(マスク越しだが)。それは、師として弟子を守るための、そしてかつての友への複雑な思いを紛らわせるための、精一杯の演技だった。

 

クシナはフミと、自らに渡った本を交互に見つめ、やがて深いため息をついた。

 

「わかったわ。今回は特別よ。」

 

立ち上がり、パンパンと服の汚れを払う。

 

「でも、勘違いしないでね。その本を許したわけじゃないわ。……オビトのことが本当なら、ミナトにも話さなきゃいけないし……今は頭を冷やす時間が必要なだけ。」

 

クシナは少し寂しげに笑い、フミの頭を乱暴に撫でた。

 

「まったく……あんたって子は、トラブル起こしたらナルト以上に大変なんだから。誰に似たのかしらね。」

 

「きっと…ママ譲りだよ。」

 

「……ふふっ、減らず口。このこのっ。」

 

息子の頬をプニプニと触りつつも笑う。

 

こうして、異次元空間での奇妙な家族会議(+カカシ)は幕を閉じた。カカシが神威を発動し、三人(と一冊)は元の世界へと帰還する。

 

オビトの生存、カカシの苦悩、そして母の優しさ。一冊のエロ本を巡る冒険は、予想もしない形で世界の真実の一端に触れてしまった。

 

(……没収されちゃったけど、命が一番だよ。)

 

自来也の描く大人のロマンスは、現実の忍たちのドラマよりもずっと甘く、そして単純なのだろうか。

 

家に帰る道すがら、フミは決めた。この本は、ただの娯楽として消費するのではなく、彼ら大人の世界を理解するための「参考書」として、心して読むことにしようと。




物語のベースがアニオリの豪傑物語なので、イタチは一族殺しをせず、暗部にとどまったままです。しかし、必ずフミと共闘する時がきます。次回は、家族会議(ミナトとフミ)、そしてR18タグを付けた理由の回をお届けします。お待ちください。
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