翌日の火影室は、いつもとは違う緊張感に包まれていた。
窓から差し込む朝日は穏やかだが、部屋の中央にある執務机を挟んで向かい合う三人の表情は硬い。書類の山に埋もれていた四代目火影・波風ミナトは、手を止め、真剣な眼差しで息子とかつての部下を見つめている。
「……そうか。そんなことがあったんだね。」
ミナトの声は静かだが、その奥には押し隠せない動揺が滲んでいた。フミとカカシからの報告――昨日の異空間での出来事、そして仮面の男の正体についての推測は、里の長として、そしてかつての師として、あまりに重い事実だった。
「はい。確証はありませんが、私の神威と奴の時空間忍術がリンクした事実、そしてフミの言葉に対する反応……状況証拠としては十分かと。」
オビトが生きていた……。そして、九尾事件に関与していた可能性が高い、と。
ミナトは目を伏せ、握りしめた拳を机の上に置いた。彼の脳裏に、神無毘橋での別れ、そしてあの忌まわしい夜の記憶が交錯する。自分の教え子が、里を、そして家族を襲った張本人かもしれないという疑念。それは火影としての冷徹な判断と、師としての情愛を引き裂くような痛みだった。
「…フミ。君はどう感じた? 実際に彼と対峙して。」
ミナトがフミの方を向く。その瞳は、いつもの優しい父親のものではなく、一人の忍として意見を求めるものだった。
「……彼は、怒っているように見えました。でも、それ以上に……泣いているようにも見えました。仮面の下で、ずっと一人で。」
フミは昨日の光景を思い出しながら、慎重に言葉を選んだ。
「それに、彼は僕やカカシ先生を本気で殺そうとは思っていなかった気がします。その気になれば僕なんて瞬殺できたはず。だから、昨日のあれは……ただの「八つ当たり」というか、自分の存在を確かめるための……。」
「……そうか。」
ミナトはふっと表情を緩め、小さく息を吐いた。
「ありがとう、フミ。君の洞察は鋭いね。……クシナも昨夜、似たようなことを言っていたよ。「あの子は迷子になってるだけかもしれない」って。」
ミナトは立ち上がり、窓の外に広がる里の景色を眺めた。
「カカシ、この件は極秘事項だ。他言無用で頼む。調査は僕が直接指揮を執る。……もし彼がオビトなら、僕が責任を持って向き合わなければならないからね。」
「…御意。」
「それと……フミ。」
ミナトが振り返り、いつもの爽やかな笑顔をフミに向けた。しかし、その笑顔の裏には、父親としての「威厳」がチラついていた。
「今回の件、大変な目に遭ったね。よく無事で帰ってきてくれた。……ところで、その騒動の発端となった「例の本」については、何か報告はないかい?」
フミの背筋が凍りついた。シリアスな報告が終わった瞬間、話題は急転直下、家庭内の「不祥事」へとシフトした。
「クシナから聞いたよ。「フミがまた『あの本』を持って逃げ回った挙句、異空間まで飛び込んだ」って。……父さんとしては、君のその情熱と行動力は評価したいところだけど、母さんを悲しませるのは良くないなぁ。」
ミナトは笑顔のまま、机の引き出しを開けた。そこには、昨日クシナによって没収されたはずの『イチャイチャパラダイス』最新刊(泥汚れあり)が収められていた。
(な、なぜここに!?)
「ママがね、「私が処分すると里ごと吹き飛ばしかねないから、あなたが責任を持って処理して」って渡してきたんだ。……で、どうする、フミ?」
ミナトは本を手に取り、パラパラとページをめくった。
「……ふむ。なるほど。今回の自来也先生は、心理描写に力を入れているようだね。特にこの……温泉のシーンにおける葛藤描写は、なかなか……。」
四代目火影の目が、一瞬だけ「男の目」になったのを、フミは見逃さなかった。
「パパ…もしかして、読みたかったの?」
その一言が、執務室に流れていた空気を一瞬で凍りつかせた。パラパラとページをめくっていたミナトの指が止まる。その爽やかな笑顔のまま、額には明確な汗が滲んでいた。
「……フミ。聞こえが悪すぎるよ。父さんはただ、火影として里の風紀を乱す可能性のある出版物を、その、検閲しているだけだよ? 」
しどろもどろになりながら、ミナトは不自然なほど丁寧に本を閉じ、机の端へ避けた。カカシは完全に気配を消し、天井のシミの数を数えることに専念している。
「そう、これは仕事なんだ。忍の精神的な鍛錬というか……自来也先生の思想を分析するというか……だってばね。」
ついクシナの口癖を真似するほどに動揺しているミナトを見て、フミは確信した。この父にしてこの息子あり。英雄・四代目火影といえど、男の性には抗えないのだ。
「……コホン。とにかく! この本は父さんが預かっておく。何度でも言うけど、君にはまだ早すぎるからね。……もしどうしてもと言うなら、三年後の誕生日まで待ちなさい。」
ミナトは威厳を取り戻そうと胸を張るが、その手はしっかりと『イチャイチャ』の表紙を握りしめていた。
「先生……それ、私もまだ読んでないんですけど。」
「カカシ、君は仕事に戻りなさい。」
冷たく一蹴されたカカシは、肩を落として瞬身の術で消えていった。
部屋に残された父と息子。ミナトは少し気まずそうに目を泳がせたあと、引き出しの奥深く――最も厳重な結界が施されているであろう場所――に本をしまい込んだ。
「…あと、パパ。あくまで推測で聞いてほしいんだけど。」
「なんだい、フミ。改まって。」
ミナトは穏やかな表情に戻り、自分の椅子に腰掛けて息子に向き直った。執務室の窓から差し込む光が、彼の金色の髪を輝かせている。さっきまでの気まずい空気は、もうどこにもない。
フミは一呼吸置いてから、昨日からずっと胸の内でくすぶっていた、もう一つの大きな疑問を口にした。それは、仮面の男の正体よりもさらに根深く、この里の歴史に関わる、あまりにも重い推測だった。
「もし、あの戦いで半身を潰されていたのに、その後オビトさんが生きているとしたら…柱間細胞が関連していると思わない?」
柱間細胞――その言葉が口にされた瞬間、執務室の空気が再び張り詰めた。先ほどまでの『イチャイチャ』を巡るコミカルなやり取りとは次元の違う、重く冷たい沈黙が父と子の間に落ちる。
ミナトの顔から、すっと表情が消えた。火影として幾多の修羅場を潜り抜けてきた男の顔。息子に向けるそれではない、里の闇と向き合う指導者の顔だった。
「……フミ。その名前をどこで?」
声の温度が数度下がっている。それは単なる質問ではなかった。情報源の確認と、その知識がどれほど危険なものであるかを問う、鋭い尋問だった。初代火影・千手柱間の細胞は、里にとって最高機密であり、同時に数々の悲劇を生んできた禁忌の力。まだ下忍にもなっていない息子が、その存在を知っていること自体が異常事態だった。
フミは父の圧力を真正面から受け止めながら、冷静に言葉を続けた。ここで怯んでは、ただの子供の戯言として流されてしまう。
「古書堂で初代様についての本を読んだことがあるの。人間とは思えない超人的な身体能力と人体の再生速度、その細胞一つだけでも人間を蘇生できるほどの力を持っているって書いてたから。」
ミナトは息を呑んだ。古書堂。その言葉に、彼はわずかに安堵し、同時に息子への新たな評価を固めた。自来也の著作を探しに行くような場所で、初代火影に関する学術書や歴史書を読みふける。それが、うずまきフミという少年なのだ。
「……そうか。さすがは君だな。」
ミナトは静かに目を閉じ、思索にふける。フミの仮説は、荒唐無稽に聞こえるかもしれない。だが、断片的な情報をつなぎ合わせれば、恐ろしいほどに筋が通っていた。
神無毘橋で、オビトは右半身を岩に潰された。常人なら即死だ。だが、もし誰かが彼を救い出し、或いは神威の力で脱出に成功し、失われた半身を柱間細胞で補っていたとしたら。
それは、死んだはずの人間が生き延び、あまつさえ万華鏡写輪眼の力を引き出すほどのチャクラを得る説明として、あまりに説得力があった。
だが、そうだして、誰がそんなことを、一体、何のためにする必要があるのか、ミナトにはそこが見えてこなかった。
その時、彼の脳裏に、ある一人の老獪な忍とかつて三忍と呼ばれた最悪の抜け忍の顔が浮かび上がる。かつて二代目火影の側近であり、里の暗部、根を創設し、今なお木の葉の闇に君臨する男――志村ダンゾウ、そして非道な人体実験を繰り返した末に里を抜けた男ーー大蛇丸、彼らはそれぞれ、柱間細胞の研究に執心していた。
「……フミ。君の推測は、もしかしたら真実の一端を突いているのかもしれない。だが、この話は今日、ここで終わりだ。いいね?」
ミナトの声には、有無を言わせぬ響きがあった。それは息子を危険から守ろうとする父親の愛であり、これ以上深入りすれば、たとえ火影の息子であろうと無事では済まないという、冷徹な警告でもあった。
「君が思う以上に、この里の根は深い。そして、そこには光の届かない場所もたくさんある。君が火影になるナルトを支えたいと願うなら、今は力を蓄える時だ。闇雲に真実を追うことだけが、正義じゃない。」
ミナトは椅子から立ち上がると、フミの肩に手を置いた。その手は大きく、温かかった。
「父さんも、火影として、そしてオビトの師として、全力を尽くしてこの謎を解明する。約束するよ。……だから、君は君のやるべきことをしなさい。強くなりなさい、フミ。兄さんのため、里のため、そして……いつかまたオビトに会った時に、彼を止められるくらいに」
「…はい!」
それは、父から息子へ託された、重く、そして明確な道標だった。
駆け足でうずまき家の玄関を開けると、家の中からはトントンと小気味良い包丁の音と、香ばしい味噌の匂いが漂ってきた。フミがリビングに足を踏み入れると、エプロン姿のクシナが夕食の準備をしている最中だった。
その背中は、昨日の九尾のチャクラを纏った姿とは似ても似つかない、どこにでもいる優しい母親のものだった。しかし、フミの気配に気づいて振り返った彼女の顔には、まだ少しだけ複雑な感情が浮かんでいる。
「……おかえり、フミ。パパとの話は終わったの?」
声は穏やかだが、どこか探るような響きがある。昨日の出来事を、まだ彼女の中で完全に消化しきれていないのだろう。フミはまっすぐに母のもとへ歩み寄り、その前で深々と頭を下げた。
「ママ、昨日は…ごめんなさい!」
素直な謝罪の言葉。言い訳も、屁理屈もない。ただ、自分の行いを悔いる純粋な気持ちが、その声に滲んでいた。
クシナは何も言わず、ただじっと頭を下げている息子の赤い髪を見つめていた。包丁の音が止まり、家にはしばしの沈黙が流れる。やがて、彼女はふぅーっと長いため息をついた。
「……まったくよ。」
その声には、怒りよりも呆れと、そして深い安堵が混じっていた。
「あんたが無事だったから、よかったものの……。ママがどれだけ心臓が縮む思いをしたか、わかってるの? 異空間に吸い込まれたって聞いた時、本当に……本当に、気が狂いそうだったんだからね!」
クシナはエプロンの裾で目頭をぐいっと拭うと、しゃがみ込んでフミと視線を合わせた。その瞳は少し潤んでいる。
「あんたが自来也先生の本が大好きなのはまだ良いわ。でもね、フミ。ママにとって、あんたは本よりも、何億倍も、何兆倍も大事なの。あんたにもし何かあったら、ママは……。」
言葉が詰まり、クシナはフミをぎゅっと強く抱きしめた。その腕の力と、震える背中が、彼女の愛情の深さを何よりも雄弁に物語っていた。九尾事件の日、生まれたばかりの息子が危機に晒され、自分は死にかけた。だからこそ、愛する子どもたちの危険な行為は看過できないのだ。
「だから…怒られるのが嫌だからって、もうあんな危ない真似はしないで。これだけは…約束してちょうだい。」
母の温かい体温と、シャンプーの優しい香りに包まれながら、フミはこくこくと頷く。クシナはようやく肩の力が抜けたのか、いつもの笑顔を見せた。
「よし、じゃあこの話はおしまいね。さっ、夜ご飯作らなきゃ。」
「あっ、待ってママ!ご飯の後…お仕置きして。」
その突拍子もない言葉に、クシナの体がピタリと硬直した。感動の抱擁シーンは一瞬で霧散し、彼女はフミの肩を掴んでその顔をじっと覗き込んだ。
「…え?」
彼女の大きな瞳が数回またたき、驚きから困惑へ、そして次第に呆れを含んだ笑みへと変化していく。
「あんた、本気で言ってるの? 」
散々怒られるのが嫌で昨日追いかけっこしたのにも関わらず、この対応である。
「うん。だって、あんなに心配させたんだもん。ちゃんと叱ってもらわないと、僕の気が済まないんだ。」
フミのどこか「確信犯」じみた真っ直ぐな瞳。クシナは思わず噴き出した。この子は時々、悟ったような顔をして、とんでもなく突拍子もないことを言い出す。それがまた、愛らしくてたまらない。
「もう……本当に変な子! 素直に反省してればいいのに、わざわざ叩かれに来るなんて。」
クシナは立ち上がり、またフライパンを握った。心なしか、その背中はさっきよりもずっと軽やかだ。
「わかったわ。そこまで言うなら、ご飯の後にたっぷり「お仕置き」してあげるわよ。覚悟しておきなさい! 今夜はあんたの好きなハンバーグだから、しっかり食べて力をつけときなさいよ。」
「う、うん!」
ジューッ、と威勢のいい音が響く。クシナは鼻歌まじりに料理を再開した。叱られることを予約するという奇妙な解決策は、うずまき家の母の心を解きほぐしたようだ。
「ごちそうさまでした!」
「はーい、お粗末さまでした。」
夕食のハンバーグを綺麗に平らげた後、リビングの空気は少しだけ特別な緊張感に包まれていた。テレビの音も消し、部屋には時計の針が刻む音だけが響いている。今日はミナトもナルトも家には帰らない、2人だけの時間が流れる。
「さて…そろそろ始めなくちゃね。」
クシナはソファにどっしりと腰を下ろすと、少し照れくさそうに、けれどどこか楽しげに、自分の膝をポンポンと叩く。
「さ、約束通り「お仕置き」の時間よ。フミ、こっちに来なさい。」
フミは素直に歩み寄り、母の膝の上にうつ伏せになった。子供の頃から慣れ親しんだ母の温もり。しかし、これから始まることが「罰」であることを思い出し、フミの心臓が少しだけ速く脈打つ。クシナは躊躇うことなく、そのズボンとパンツを膝下まで下ろした。
「全く、自分からお尻を出しに来るなんて……ママも長く生きてるけど、こんなおねだり初めてだわ。でも、お願いならちゃんと応えてあげなくちゃね。……いくわよ、フミ! 」
フミがギュッとクシナのエプロンの裾を握るのを合図に、クシナが大きな手のひらを振り上げる。
パァンッ!
静かなリビングに、小気味よい音が響いた。クシナは加減を知っているとはいえ、元くノ一。その一撃はフミの幼いお尻にしっかりと重みを伴って伝わり、じわじわとした熱い痛みが広がっていく。
「これが、エッチな本を隠して散々逃げ回った分!」
パァンッ!
「こっちが、パパの手を焼かせた分! 」
一発、また一発と落とされる母の手。フミはそのリズムに身を任せながら、自分の罪が痛みに形を変えて消えていくような不思議な感覚を味わっていた。叩かれるたびに、クシナの手の温もりがお尻を通じて心まで染み込んでくる。
「最後に、これが……ママを心配させた分!」
最後の一撃は、これまでで一番大きな音を立てた。フミは思わず「あぅっ!」と声を漏らす。
クシナの手が止まった。彼女はそのまま、叩いた場所に優しく手を置き、撫でるように擦る。
「……痛かった? フミ。」
クシナの声は、いつもの優しいお母さんのものだった。彼女はうつ伏せのフミをひょいと抱き上げ、今度は正面から抱きしめる。
「お仕置きはこれでおしまい!明日からはまた、真っ直ぐな良い子でいるのよ。……わかった? 」
「うん…!」
元気のいい返事を聞いたクシナは、フミの頬に優しくキスをした。お尻はヒリヒリと熱いが、フミの心はこれ以上ないほど満たされていた。
「ママ…大好き。」
不意に紡がれた、あまりに真っ直ぐで無垢な告白。クシナは目を見開き、一瞬だけ言葉を失った。叩かれたばかりで少し目を潤ませ、それでも幸せそうに微笑む息子の顔。その愛おしさに、彼女の胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「……もう、反則だってばね。」
クシナは照れ隠しにフミの頬を両手で挟み、むにーっと横に引っ張った。顔を赤くしながらも、その瞳には溢れんばかりの慈愛が湛えられている。
「ママだって……世界で一番、あんたのことが大好きよ。ナルトも、パパも……そしてフミも。みんなママの宝物なんだから。」
彼女はフミを再び強く抱き寄せ、その赤い髪に自分の顔を埋めた。母親の体温が、お尻の熱い痛みさえも心地よい余韻へと変えていく。
「だから、あんまり早く大人にならないでね。あんな本に夢中になるのは、まだ先でいいの。……もう少しだけ、ママの可愛いフミでいてちょうだい。」
外では夜風が木々を揺らし、平和な木の葉の里を包み込んでいる。異空間での死闘も、仮面の男の陰謀も、今は遠い出来事のように感じられた。
クシナはフミを抱いたまま、ゆりかごを揺らすように優しく体を揺すった。それは、うずまき家のリビングに流れる、何物にも代えがたい穏やかな時間。
しかし、その幸せな空気の中で、クシナはふと思い出したようにフミの耳元で囁いた。
「ところで、フミ? さっきパパのところで見かけたあの本……まだ処分してないみたいだけど、どこにあるか、あんた知ってる?」
その声は優しかったが、どこか逃げ場を許さないような「ハバネロ」の気配が混じっていた。
「し、知らないよ?」
「……ふーん? 知らないんだ?」
クシナの細い指先が、フミの頬を優しく、だが逃がさないように撫でる。その微笑みは聖母のようだが、瞳の奥に宿る「赤い血潮のハバネロ」としての鋭い直感までは隠せていない。
「パパと二人で何かコソコソ話してたのも、ママはお見通しなんだから。……あの人があんなに分かりやすく動揺する時って、大抵ろくなこと考えてないのよね。」
クシナはフミを膝から降ろし、腰に手を当てて仁王立ちになった。夕食後の団らんモードは一転し、家庭内捜査官としてのスイッチが入ったようだ。
「いい? フミ。ママはパパの「隠し場所」の癖なんて、結婚して何年経ってると思ってるの? あの人は嘘が下手だし、結界を張れば張るほど「ここに大事なものがあります」って言ってるようなものなのよ。」
彼女はクスクスと笑いながら、とんでもないことを言い出す。
「……今夜、パパが寝静まった後にでも、火影室に一斉捜索(ガサ入れ)してみようかしら。フミ、あんたも協力する? 正直に場所を教えてくれたら、罪一等減じてあげるわよ?」
究極の二択だった。父・ミナトとの男の約束(と本)を守るか、それとも母の圧倒的な追及に屈して身の安全を優先するか。
クシナはフミの顔を覗き込み、意地悪そうに片目を瞑る。母の勘から逃げ切るのは、火影の護衛よりも難しい難題だった。しかし、考えた末にフミは叫ぶ。
「ダメ、4代目火影様との約束だもん。内緒っ!」
「…へぇ。」
クシナの口元が、にんまりと弧を描いた。それは怒りではなく、むしろ面白い玩具を見つけた猫のような、愉悦に満ちた表情だった。
「四代目火影様との約束ねぇ。いつの間にそんな大層な密約を交わしたのかしら。あんた、パパが火影だってこと、こういう時だけ都合よく使うんだから。」
クシナはわざとらしく肩をすくめると、フミの前にしゃがみ込み、その小さな鼻を指でつんと突いた。
「いい度胸じゃない、フミ。ママに逆らってまで、パパとの約束を守るって言うんだ。……男の子らしくて、ちょっと感心しちゃったわ。」
その言葉は本心だった。ただの子供だと思っていた息子が、いつの間にか「男」としての義理や約束を重んじるようになっている。その成長が、母親として誇らしくもあり、少しだけ寂しくもあった。
「さてと!それじゃあ、一緒にお風呂に入ろっか!」
クシナは楽しそうに笑いながら、フミの手を引いて洗面所へと向かう。その横顔はまるで少女のように美しく、フミは思わずドキッとした。
脱衣所が湯気でほんのりと暖かく、石鹸の香りが満ちていく。クシナは手際よく自分の服を脱ぎ、見事なプロポーションを惜しげもなく晒すと、フミの服も手伝って脱がせていく。その手つきはどこまでも優しく、先ほどまでの「ハバネロ」の気配は微塵も感じられない。
「さ、入った入った。」
クシナは先に湯船にざぶんと浸かり、フミを手招きした。フミが隣にちょこんと座ると、お湯がざぁっと溢れ出す。母の豊かな胸がフミの背中に柔らかく触れ、その温かさに緊張していた体が少しずつほぐれていく。
「ふぅー……やっぱりお風呂はいいわねぇ。一日の疲れが全部飛んでいくみたい。」
彼女は気持ちよさそうに目を細め、フミの濡れた赤い髪を優しく撫でた。
「あんたの髪、本当にママそっくりね。昔はこの色が嫌で嫌で仕方がなかったけど……今は、あんたやナルトと繋がってる証みたいで、大好きよ。」
湯船に反射する光が、彼女の横顔を柔らかく照らす。それは、ただただ息子を愛する、一人の母親の顔だった。
「…ねぇ、フミ。もし、本当にあの仮面の人がオビトだったら……あんたはどうしたい?」
問いかけは、静かだった。まるで世間話でもするかのように、しかしその実、非常に重い意味を持つ質問だった。クシナは、息子が一人の人間として、この問題にどう向き合おうとしているのかを知りたかったのだ。
「里を危険に陥れるなら…倒すしかないよ。初代様ならきっとそうすると思う。」
その言葉は、湯気に満ちた浴室の中で、刃のような冷たさを持って響いた。
まだ幼いフミの口から紡がれたのは、木の葉の里の歴史そのものと言える「火の意志」の、最も峻烈で容赦のない側面だった。初代火影・千手柱間は友であるうちはマダラを殺すことを選び、二代目火影・千手扉間は里の安寧のために感情を排して秩序を敷いた。フミの答えは、その血塗られた歴史書を読み解いた末の、論理的で冷徹な結論だった。
クシナの手がピタリと止まった。湯をすくっていた手のひらから、ポタポタと雫が落ちる音だけが聞こえる。彼女は驚いたように、そして少し悲しそうに目を見開いた。
「フミ…」
彼女はフミの背中を流す手を止め、その小さな肩を後ろからそっと抱きしめた。温かいお湯の中で、母の肌が密着する。
「……強い子ね、フミは。」
クシナの声は震えていた。それは恐怖ではなく、あまりに早く「忍」としての非情な覚悟を決めてしまった息子への切なさだった。彼女は元くノ一であり、里のために命を懸けることの意味を知っている。だからこそ、自分の子供にはもっと、迷ったり悩んだりする時間を持ってほしかったのだ。
「初代様や二代目様は、確かに立派な火影だったわ。里を守るために、一番辛い選択をした偉大な人たちよ。……でもね、フミ。」
クシナはフミの耳元で、諭すように囁いた。
「ママはね、あんたたちには「パパみたいな火影」を目指してほしいの。」
「…パパみたいな?」
フミの前には、優しく微笑むミナトの顔が浮かぶ。敵ですら理解しようとし、里の仲間を家族のように守ろうとする男。
「パパならきっと、倒す前に「どうしてそんなことをするんだ」って聞くはずよ。……オビトくんがもし、道に迷って泣いているだけなら、手を差し伸べてあげるのがパパのやり方。それが「四代目」の強さなの。」
クシナはフミの頬に自分の頬をすり寄せた。
「里を守るために戦う覚悟は立派よ。でも、誰かを倒すことだけが答えじゃない。……時には、誰かを許すことの方が、戦うことよりもずっと勇気がいることもあるんだから。」
母の言葉は、お湯のように温かく、そして深くフミの心に染み渡っていった。書物で読んだ冷徹な英雄譚と、目の前にある母の温もり。フミの中で、二つの「強さ」が揺れ動く。
「ま、難しい話はおしまい! せっかくのお風呂なんだから、もっとリラックスしなさい。……ほら、背中流してあげるから、じっとしてて。」
クシナは明るく話題を変え、再びタオルを手に取った。ゴシゴシと背中を擦る感触と共に、彼女はいつものおしゃべりなクシナに戻っていく。だが、その言葉の端々には、息子がただの「忍」になるのではなく、「心ある人間」として育ってほしいという、母としての切なる願いが込められていた。
湯船の揺らめきの中に、フミは自分の顔を見た。そこにはまだ、あどけなさが残っていた。
(パパみたいな火影……か。)
フミは心の中で反芻した。それは、本に書かれたどんな英雄よりも難しく、そして優しい道のりなのかもしれなかった。ふと、横目で見ると、母がリンスを取ろうと立ち上がっていた。その目線の先には、美しく、豊満なお尻。フミの脳内を悪戯な心が一瞬支配した刹那。
「えいっ!」
ペチッ!という小気味のいい音が響く。
その瞬間、静止画のような沈黙が、浴室を支配した。湯気がゆらりと立ち上る中、クシナは背中を流そうとしていた手の動きを止め、驚愕に目を見開いたまま静止している。今、自分の背後で何が起きたのか。その柔らかな感触と、耳に残る小気味よい音の意味を、彼女の脳が処理するまでに数秒の時間を要した。
「…え?」
クシナはゆっくりと首を回し、真後ろにいる息子を見た。フミの顔には、まだ「いたずら成功」と言わんばかりの、どこか晴れやかな笑みが残っている。
「……フミ、ママのお尻……叩いたってばね?」
声のトーンが、スッと低くなった。それは怒りというよりも、信じられないものを見た時の驚愕に近い。クシナの長い赤い髪が、お湯を吸って重たげに浴室の床へと広がり、その周囲に立ち込める湯気が、どことなく不穏な熱気を帯び始める。
「……お仕置きしてっておねだりしてきたのは自分の方なのに……まさか、お返しするつもりだったなんて。」
クシナの濡れた白い肌に水滴が滴り、浴室の灯りに反射して輝く。彼女は腰に手を当てて仁王立ちになると、湯船の中にいるフミを上から見下ろした。
「いい度胸じゃないの、フミ……! ママをからかうなんて、十年、いいえ、二十年早いわよ!」
クシナの口元が、ニヤリと吊り上がる。それは「ハバネロ」が獲物を追い詰める時の、恐ろしくも楽しげな笑顔だった。
「さあ、覚悟しなさい! 「目には目を、お尻にはお尻を」よ! 逃げたって無駄なんだから!」
クシナは再び湯船に飛び込み、逃げようとするフミをガシッと抱え込んだ。石鹸の泡が飛び散り、浴室には「やめてー!」というフミの悲鳴と、クシナの豪快な笑い声が響き渡った。クシナはフミを自分の膝の上に乗せ、まるで赤ん坊をあやすような、それでいて容赦のない「お返し」を敢行していた。
「はい! これがママの分! これもママの分! だってばね!」
パシッ、パシッ、と濡れた肌同士が触れ合う高い音が響く。クシナの手は温かく、その叩き方もどこか愛情に満ちていた。フミは「やだやだー!」と手足をバタつかせて抗議の声を上げるが、その表情には隠しきれない喜びが滲んでいる。
「ふふん、参った!? ママのお尻を叩くなんて、一生かかってもフミはママには勝てないんだからね!」
クシナはひとしきりお仕置きを楽しんだ後、フミを抱き上げて再びお湯の中にポチャンと沈めた。フミはわざとらしく「あぅー」と声を漏らしながら、ほんのり桃色になったお尻をさすってみせる。
「もう、本当にあんたって子は……。パパに似ておとなしいかと思えば、急にこういうことするんだから。」
クシナはフミの体を再び引き寄せ、今度は優しく包み込むように抱きしめた。お湯の温かさと、お尻に残るヒリヒリとした余韻が混じり合い、フミは母の胸の中で深く息を吐く。
「……でも、いいわよ。あんたが元気で、こうして笑っていられるなら、ママは何度でもお尻くらい貸してあげる。」
クシナはフミの耳たぶを甘噛みするようにいたずらっぽく笑い、その広い浴室を幸せな湯気で満たしていった。
「さ、しっかり温まったら、一緒に寝ようね。」
親子の団らんは、夜遅くまで続いた。一冊の本から始まった騒動は、こうして母子の絆をより深く、そして少しだけ「刺激的」に再確認する形で収束していった。
浴室での激しくも愛情のこもったじゃれ合いの後、すっかり満足して疲れたフミは、ベッドで母の腕の中に収まるとすぐに深い眠りに落ちていった。すー、すー、と穏やかな寝息を立てる息子の顔を、クシナは月の光の下で飽きることなく眺めていた。その赤い髪を優しく撫でながら、心の中で呟く。
(本当に……寝顔は天使みたいなんだから。時々、あんなに生意気で、ママのお尻まで叩くような小悪魔なのにね…)
クシナはフミの額にそっとキスを落とした。自分とそっくりな赤い髪、ミナトによく似た涼しげな目元。そして、誰にも似ていない、時折見せる達観したような表情。その全てが愛おしくてたまらなかった。
(……オビトくんのこと、里のこと、そしてパパみたいな忍になること。この小さい頭で、色んなことを考えてるのね。強くなりなさい、フミ。でも…優しさは絶対に忘れないで)
母としての切なる願いを胸に、クシナは息子を抱く腕に力を込めた。この温もりだけは、何があっても自分が守り抜くと、改めて心に誓う。
そして…3年の月日が経過する。
はい、これにて幼少期篇終了です。次回から一気に時間が飛びます。シリアスな展開の幕開け、どうかお楽しみください。