数年の時が流れ、うずまき家のリビングには以前とは異なる種類の静寂が漂っていた。
窓から差し込む陽光が、一人の青年を照らし出している。かつて母の膝で甘えていた少年は、いまや凛々しく成長し、その身には木の葉の里のエリート中のエリートだけが袖を通すことを許される、灰色のベストと漆黒のインナー――「暗部」の装束を纏っていた。
胸には入隊の証である螺旋の刺青。腰には真新しい小太刀。そして手には、動物を模した白狐の仮面が握られている。
クシナはキッチンの入り口に立ち、少し眩しそうに、そしてどこか寂しそうに息子を見つめていた。
「……似合いすぎてて、文句も言えないってばね。」
彼女はため息交じりに歩み寄ると、フミの乱れた襟元を慣れた手つきで直した。その指先が、冷たい防具の感触に触れて一瞬だけ強張る。
「ミナトも…いくら優秀だからって、可愛い息子を自分の直轄部隊(懐)に入れるなんて……。過保護なんだか、スパルタなんだか。後で説教決定ね。」
口では文句を言いながらも、クシナの瞳は誇らしげだった。アカデミーを歴代最速で卒業し、首席の栄誉を勝ち取った息子。その才能は、かつての「黄色い閃光」と「赤い血潮のハバネロ」の血が見事に融合した結晶だ。
「……ねぇ、フミ。暗部のお仕事は、表の任務とは違う。汚れ仕事も、誰にも言えない秘密も増えるわ。」
クシナはフミの赤髪につけられた、あの日のお手製のヘアピンを指で弾いた。それは成長した今も、変わらず彼の髪を留めている。
「でも、そのヘアピンをつけてる時は、ただの「フミ」でいなさい。仮面を被っても、心を殺しちゃダメ。……辛くなったら、いつでもママの所に帰ってくるのよ? 美味しいご飯作って待ってるから。」
彼女は背伸びをして、背の高くなったフミの額にコツンと自分の額を当てた。
「行ってらっしゃい、フミ。……絶対に、生きて帰ってくるのよ。」
「大丈夫だよ。“忍者であり、人であれ”、僕なりの答えが通じるかどうか、試してみる価値はある」
「忍者であり、人であれ、か…」
クシナは、フミの口から紡がれた言葉を静かに反芻した。それは、かつて彼女が風呂場で語り聞かせた、「パパみたいな火影」という理想の姿を、フミなりに解釈し、昇華させた答えだった。
彼女は驚いたように、しかしすぐに納得したように、ふっと息を漏らした。そして、その表情は誇らしげな母親の笑顔に変わる。
「フフ……あんた、いつの間にそんなカッコいいこと言えるようになったのよ。ママ、ちょっと感動しちゃったじゃない。」
クシナはフミの胸板を軽くポンと叩いた。それは暗部の装束の上からだったが、確かに息子の成長した肉体の感触が伝わってくる。
「いいわ。それがあんたの答えなら、ママは信じて見守るだけ。……でも、一つだけ約束して。」
彼女は真剣な眼差しでフミを見上げる。
「人であることを忘れそうになったら、すぐに帰ってきなさい。どんな任務の最中でもよ。パパにはママから言っておくから。……分かった?」
それは母親として譲れない、最後の砦だった。里の忍である前に、自分の大切な息子であってほしい。その願いが、彼女の瞳に強く宿っていた。
「…ナルト兄さんが修行から戻ってきても、暗部に入ったことは内緒にしておいてね?」
兄、ナルトはサスケとの壮絶な一騎打ちの果てに敗れ、力をつけるべく、自来也と3年間の修行に出ている途中である。勝利したサスケは、フガクに自身の力を認めさせる一心で大蛇丸の元へ。ナルトは、サスケの里抜けを止めることができなかったのだ。
「………」
兄の名前が出た瞬間、クシナの表情がわずかに曇る。楽しそうにおしゃべりしていた空気が一転し、母親としての深い憂いがその顔に影を落とす。友達を止められず、さらに力を求めて里を離れた長男。そのことを思うと、今でも胸が締め付けられるようだった。
「…分かってるわよ。あの子が知ったら、絶対に「ずるいってばよ!オレも暗部に入る!」って騒ぎ出す姿が目に浮かぶわ。」
クシナはため息をつき、窓の外に広がる青い空を見上げた。今頃、自来也先生とどこでどんな無茶な修行をしているのだろうか。怪我はしていないだろうか。ちゃんとご飯は食べているだろうか。母親としての心配は尽きない。
「あいつは、太陽みたいな子だからね。暗部の影の中じゃなくて、日の当たる場所で笑っていてほしいの。……あんたが、その分まであの子の見ていない影の部分を背負うって言うなら、ママは何も言わないわ。」
彼女はフミの方に向き直り、その肩を力強く掴んだ。
「でも、一人で全部背負い込もうなんて思わないで。あんたにはパパも、私も、そして里の仲間たちがいるんだから。……それに、あいつだって、あんたが思うよりずっと強くなって帰ってくるわよ。なんたって、私とパパの子なんだからね!」
クシナはいつもの強気な笑顔を取り戻し、ニッと歯を見せて笑った。それは自分自身に言い聞かせるような、力強い宣言だった。
「さ、もう行きなさい。初日から遅刻したら、火影様に何を言われるか分かったもんじゃないわよ!」
「うん!行ってきます!」
彼女はフミの背中をバンッと景気良く叩き、玄関へと送り出した。その背中が見えなくなるまで見送ると、クシナは一人リビングに戻り、静かに呟いた。
「……サスケくんも、早く目を覚ましてくれればいいのにね。」
飛来神を使うまでもなく、あっという間にフミは火影室の前に辿り着くと、扉をノックする。
「失礼します。」
その重厚な扉が開かれると、そこには書類の山に埋もれながらも、凛とした空気を纏う四代目火影・波風ミナトの姿があった。
彼は入室したフミを一瞥すると、ペンを置き、父親としての顔ではなく「里の長」としての穏やかで鋭い眼差しを向ける。だが、その口元には僅かに誇らしげな笑みが浮かんでいた。
「よく来たね、フミ。……その姿、なかなか様になっているよ。クシナにはたっぷりと心配されただろうけどね。」
ミナトは椅子から立ち上がり、窓際へと歩を進める。その視線の先には、歴代火影の顔岩が見える。
「君を僕がの直轄にしたのは、単に息子だからじゃない。君の能力と、その冷静な判断力を評価してのことだ。……そして、君の「背中」を任せるパートナーも、僕が最も信頼する忍を選んだ。」
ミナトの言葉が終わるか終わらないかの刹那、フミの背後に、音もなく空間が歪んだかのような錯覚と共に、一人の影が現れた。気配を完全に遮断したその身のこなしは、まさに暗部の手練れ。
灰色のベストに、漆黒の髪。そして背中には、誇り高き「うちは」の家紋。
「あなたは…!」
その男はゆっくりと狐の面を外し、陶器のように整った素顔を晒した。深淵のような黒い瞳が、懐かしむようにフミを見つめる。
「……久しぶりだな、フミ。」
うちはイタチ。かつてうちはの屋敷で、共に団子を頬張りながら、夢を語り合った敬愛すべき先輩だ。
「まさか、君とツーマンセルを組むことになるとは。……あの日、君が語った夢に、少しは近づけたかな?」
「…まず、ビックリしてます。木の葉の最高戦力と組ませていただけるなんて。」
「まあ、驚くのも無理はないか。火影様から直々にこの話を聞いた時は、俺も驚いたからな。」
イタチの表情はほとんど変わらない。しかし、その黒い瞳の奥に、ほんのりと温かい光が灯っているのをフミは見逃さなかった。かつて、アカデミーの訓練場や屋敷で手合わせをしてくれた時と同じ、弟分を見守るような優しい眼差しだった。
「イタチは、今の暗部の中でも特段優秀な忍の一人だ。そして、君のことを弟のように可愛がってもいた。君が「人であること」を忘れないためには、彼以上に適任なパートナーはいないと私は判断した。」
ミナトの言葉が、その人選に込められた深い意図を明らかにする。それは、単なる戦力としての組み合わせではない。息子の心を、その魂を守るための、父親としての配慮だった。
「……四代目は買い被りすぎです。だが、君となら良い仕事ができると信じているよ、フミ。」
イタチはフミの肩にそっと手を置いた。その手は少し冷たかったが、不思議な安心感があった。
「あの頃とは違う。俺たちはもう、ただ夢を語る子供じゃない。この手で、里の平和を掴み取るための「力」だ。……これからよろしく頼む、後輩。」
「は、はいっ!宜しくお願いします!」
イタチはそう言うと、口元に微かな笑みを浮かべた。それは、これから始まる過酷な任務を前にした、二人だけのささやかな誓いのようにフミには感じられた。
それから1ヶ月が経過した。多少の覚悟はしていたとはいえ、暗部の任務は、フミが夢見ていた英雄譚とは程遠いものだった。初めての任務は月のない、冷たい雨が降る夜。静まり返った路地裏で執行される「掃除」。
「はあっ…!はあっ…!うぐっ…!」
返り血の生臭さ。命が消える瞬間の、泥のように重い感触。フミは建物の陰で膝をつき、激しく嘔吐する胃の中は空っぽなのに、せり上がる不快感が止まらない。震える指先で口元を必死に拭う。
(分かっていたはずなのに…!自分が…情けない…!)
情けなさと恐怖で視界が歪む。火影を支えるどころか、自分はただの「人殺し」ではないかという疑念が頭をよぎる。その時、肩に静かな、しかし確かな重みが加わった。
「……顔を上げろ、フミ。」
イタチは血に汚れた自分の手袋を外し、汚れのない素手でフミの肩を掴んでいた。その瞳には、かつて団子を食べていた時の優しさはなく、代わりに深淵のような覚悟が宿っている。
「すいません…すいません…!」
「初めての時は、誰もがそうなる。吐くのは、君にまだ「人の心」が残っている証拠だ。それは恥じることではない。……だが、涙で視界を曇らせれば、死ぬのは君だ。」
イタチは懐から清潔な布を取り出し、フミの頬を拭うと、目線を合わせ諭す。
「苦しいなら、俺を見ろ。俺が君の「盾」になり、君の「影」になる。……君は、君が守りたかった里の光を忘れるな。」
その言葉は、冷たい刃のように鋭く、同時に薬草のようにフミの傷ついた心に染み渡った。彼は何度もイタチの背中に救われ、その大きな背中を追うことで、辛うじて自分を保っていた。
「…大丈夫です。こんなことで…立ち止まってられませんから。」
「……そうか。」
イタチはフミの言葉を聞くと、何も言わずに立ち上がった。そして、建物の屋根の縁に立ち、眼下に広がる夜の木の葉の里を静かに見下ろす。その背中は、里の全ての闇を一人で背負っているかのように大きく見えた。
「その強さは、誰かを思う心から来ている。ナルトを……そして、サスケを。……それは、何よりも尊い力だ。決して手放すな。」
イタチはフミに背を向けたまま、静かに言った。その声には、弟であるサスケを思う、兄としての深い感情が滲んでいる。
「だが、忘れるな。俺たちの力は、時に愛する者を傷つける刃にもなる。……その力を振るう時、お前が何のためにその仮面を被っているのかを、片時も忘れてはならない。」
イタチはそう言うと、再び鴉の仮面を顔に着け、彼の全ての表情を覆い隠した。
「行くぞ。夜はまだ長い。俺たちの仕事は、まだ終わっていない。」
イタチは屋根の縁を蹴り、音もなく闇の中へと消えていった。フミは一人残され、彼の言葉を噛みしめる。そして、汚れた仮面をしっかりと被り直し、覚悟を決めた目で先輩の背中を追った。心の痛みは決して消えない。だが、進むべき道は、もう迷わない。
「ぎゃあっ!」「なにやっ…うぐっ!」
闇を裂く閃光。敵が術を発動する隙すら与えず、赤い髪をなびかせた影が戦場を駆け抜ける。返り血を浴びる間もなく標的を沈めるその身のこなしは、かつての「黄色い閃光」の系譜を感じさせつつも、より獣じみた鋭さを孕んでいた。
「アイツは…神速の妖狐‼︎」「逃げろ!逃げ…グワっ‼︎」
狐の面を被り、父譲りの速度で死を運ぶその暗部を、周辺諸国の忍たちは恐怖と共にそう呼んだ。ほんの数週前、吐瀉物と涙にまみれていた少年は、もうどこにもいない。倒れ伏した敵の骸を冷静に見つめ、刀を仕舞う。
「もう俺が前を走る必要もなさそうだ、成長したな、フミ。」
イタチが音もなく横に並び立つ。二人の足元には、里を狙った他国の工作員たちが、音もなく物言わぬ肉塊と化していた。
「ありがとうございます。でも、まだ足りません。兄さんや、サスケさんが戻ってくる場所を……もっと完璧に守れるだけの力が。」
明らかに冷たい、感情が消えかけている声に、イタチは僅かな危惧を抱く。実績が積み上がっていくことと引き換えに、フミの瞳から光が消え、研ぎ澄まされた刃のような鋭利さだけが際立っていくように見えていた。
「……フミ、あまり自分を追い詰めるな。火影様も、そしてクシナさんも……お前がそんな「壊れた刀」のような顔になることを望んではいない。」
イタチはそう言ってフミの肩を叩く。だが、フミはその温もりを感知しつつも、心の奥底ではすでに次の任務、次の標的を見据えつつ、愉しさに取り憑かれていた。
それは、全てが自分の思い通りに進むという、全能感に近い陶酔。イタチとの完璧な連携で敵の布陣を崩し、父譲りの「瞬身の術」で敵の死角に滑り込み、急所を一突きにする。その一連の流れは、まるで精密な芸術品を創り上げるかのようであり、フミはその完璧な遂行に、ある種の快感を覚え始めていた。
(ああ…なんて良いんだ…!)
「神速の妖狐」の名は、恐怖の対象であると同時に、フミにとっては誇りであり、自分の存在価値そのものになっていた。
そして、功績を順調に積み上げていったある日の任務、2人は敵の潜伏する砦の屋根に潜んでいた。だが、イタチが月明かりの下に見えたフミの横顔は。
「……笑っているな、フミ。仮面の下で。」
イタチの指摘は、静かだが鋭くフミの胸を突いた。フミはハッとして、自分の口角が微かに上がっていることに気づき、慌てて表情を消す。
「……気のせいです。任務に集中しましょう。」
「……そうか。ならいい。」
イタチはそれ以上追及せず、眼下の砦に視線を戻した。だが、その心中には拭い去れない懸念が渦巻いていた。
(着実につけてきた力が、お前の心を蝕み始めている。フミ、その道は、行き着く先が地獄だということにお前はまだ気づいていない。)
イタチの瞳に、深い憂いが宿る。彼はフミの中に、うちはの血を引く者が陥りがちな「力の誘惑」に似た危うさを見て取っていた。そしてそれは、彼自身が最も恐れている道でもあった。
今回の任務は、木の葉の機密情報を盗み出した抜け忍一派の殲滅。木の葉の天才2人にかかれば、なんてことはない難易度だった。
あっという間に最後の砦に追い詰めた一派を、イタチとフミは、毎度の如く完璧な連携で制圧していく。大勢は決し、残党は散り散りになって逃げ出した。通常ならば、深追いはせず、主犯格の首だけで任務完了とするのが定石だった。だが…
「……もういい、フミ! 追うな!」
イタチの制止の声が、森の中に響く。しかし、フミの耳には届いていなかった。彼の目は、必死に逃げ惑う最後の一人の抜け忍――まだ子供と言っていいほどの若い少年――の背中に、釘付けになっていた。
(まだだ……まだ足りない。一人でも逃せば、それが新たな火種になる)
飛来神で一気に距離を詰め、逃げる少年の目の前に立ちはだかる。
「ひっ……! や、やめてくれ! もう何もしない! 頼むから……!」
少年は恐怖に顔を歪め、地面にへたり込んだ。その瞳には、絶望と命乞いの色が浮かんでいる。フミは一顧だにせず、無言で小太刀を抜き放ち、その切っ先を震える少年の喉元に突きつけた。そこへ、イタチも駆けつける。
「そこまでだ、フミ! そいつはもう戦意を喪失している!」
「甘いですよ、イタチさん。生かしておけば、いつか里に牙を剥く。禍根は、根絶やしにしなければ。」
その言葉、その思想。最早、里を守る忍のものではなく、ただ破壊と殲滅を求めるだけの狂気に染まりかけていた。
「……お前、自分が何を言っているのか分かっているのか⁉︎」
イタチの瞳に、初めて怒りの色が浮かぶ。それは、弟分が人ならざる道へ足を踏み入れようとしていることへの、悲痛な叫びだった。
「え…?」
その時、閃光のようにフミの脳裏を駆け巡ったのは、あの日、お風呂上がりの温もりの中で交わした母との会話、そして旅立つ前の母に宣言した自分自身の言葉。
“忍者であり、人であれ”
「あ…あぁ…」
その言葉が、凍てついていたフミの心に熱い鉄槌を下した。小太刀を握る指先が激しく震え、視界を覆っていたどす黒い興奮が、潮が引くように消えていく。目の前で失禁し、ガタガタと震える少年の姿が、かつての無力だった自分や兄の姿と重なった。
フミは、喉の奥からせり上がる嫌悪感に耐え、小太刀を鞘に収める。狐の仮面の裏には、冷や汗が滝のように流れていた。
イタチは、掴んでいたフミの腕から、力が抜けるのを感じて、静かに手を離した。
「……気づいたか。」
イタチの声は、どこまでも慈悲深かった。彼はフミが闇に呑み込まれる寸前で、踏み止まったことを確信する。
「……すみません……僕は……僕は……」
腰が抜けた少年は、フミの殺気が消えた隙に、這うようにして森の奥へと消えていった。それを追う者は、もう誰もいない。
「立て、フミ。……今日はもう、里へ帰ろう。」
「はいっ…!ありがとう…ございます…ッ!」
イタチはフミの肩を支えるように引き寄せた。月の光が、二人の暗部を静かに照らし出す。フミはその温もりに、自分がまだ「人」の側にいられたことを、涙が出るほど痛感していた。
その日からしばらくは、ミナトからの指令は来ず、いつも通りの生活を平行して送る。そんなある日のこと、フミは暗部の資料室に足を運んでいた。本来なら、下位の隊員には閲覧すら許されない「Sランク機密」の棚。しかし、火影の直轄であり、その息子であるフミには、特別な権限としていくつかの閲覧許可が下りていた。
「これは…うちは一族の。」
手元の巻物に記されていたのは、数年前に里を揺るがせた「うちは一族反乱未遂事件」の全貌。
*『武力制圧ヲ回避。説得ト内部工作ニヨリ、無血デ解決ス』*
その報告書の末尾には、父・ミナトと、うちはを束ねるイタチの父、フガクの署名が並んでいた。だが、実際はイタチの奮闘によるところが大きかった。一族を殺して止めるのではなく、一族を裏切り、泥をかぶりながらも、結果として誰一人死なせずに「家族」と「里」の両方を守り抜いた、奇跡のような記録。
「…こんなことが。」
フミは震える手で巻物を閉じ、視線を上げると、壁に寄りかかって目を閉じているイタチの姿があった。
「イタチさん。貴方が背負っているものの重さ……僕はずっと、何も知りませんでした。」
フミの声は、懺悔に似ていた。先日の任務で敵を惨殺しようとした自分が、いかに浅はかで、イタチの掲げる「平和」のレベルに到達していなかったか。
一族という巨大な「個」と、里という「公」。その板挟みの中で、感情を殺して最善の解を導き出し、名前を出すことなく影で奮闘した男の背中は、どんな英雄譚よりも雄弁に「火影の器」とは何かを物語っていた。
「……僕も、いつか貴方みたいになれますか? 誰も傷つけず、誰も失わせない……そんな、本当の意味で強い忍に。兄さんを支える影に。」
「……俺のようには、なるな。」
イタチは閉じていた瞳をゆっくりと開くと、そう呟いた。その漆黒の双眸は、静かな湖面のように穏やかだが、底知れぬ深淵を湛えている。彼は壁から背を離し、フミの元へと歩み寄る。
「あの事件……「無血」という結果だけを見れば、美しい物語に見えるかもしれない。だが、その裏でどれだけの嘘を重ね、どれだけの信頼を裏切り、泥を飲んだか……。それは決して、誇れるような強さではないんだ。」
イタチは自嘲気味に微笑んだ。一族を守るために一族を欺き、里を守るために心を殺した日々。それは、フミが目指すべき「英雄」の姿とは程遠い、孤独な綱渡りだった。
「フミ。お前には、俺が持てなかったものがある。真っ直ぐな両親の愛と、太陽のような兄……そして、一度は闇に堕ちかけながらも、自力で踏み止まれたその心だ。」
イタチの手が伸び、フミの額を指先でトン、と突いた。それはかつて、彼が愛する弟・サスケにだけ見せていた、親愛の情を示す特別な仕草だった。
「俺のコピーになる必要はない。……お前は、お前だけのやり方でナルトを支える「影」になればいい。誰かを切り捨てる冷たい影ではなく、木陰のように……誰かを休ませ、守ることができる優しい影に。」
イタチの言葉は、フミの心にあった迷いを霧散させるように響いた。
「お前ならなれるさ。いや……俺を超えていけ、フミ。」
「あなたを…超える…」
その言葉は、最強の幻術使いからの、これ以上ない承認だった。フミの胸に、新たな、そして確かな「火の意志」が灯るのを感じた。
さて、終末の谷でのナルトとサスケの死闘から、丁度3年が経過した。風が木の葉を揺らし、里に新しい季節の到来を告げる。その風に乗って、二つの懐かしい気配が帰ってきた。一人は、師である自来也と共に回り道をしながらも、たくましく成長した太陽の化身。もう一人は、綱手の下で医療忍者としての才能を開花させた、春の息吹。
火影の息子であるナルトと、伝説の三忍の教え子、サクラの帰還は、里に益々の活気をもたらした。新編成された第七班は、ヤマトを隊長代理とし、新たな仲間として暗部出身のサイを加えて、蠢動する「暁」の影を追い始める。
その華やかな表舞台の裏側、火影執務室は、夜の帳が下りてもなお、煌々と明かりが灯っていた。書類の山はなく、部屋にはミナトとフミ、ただ二人きり。
「四代目、兄は僕の想像以上に強くなっています。母が言ってました、頼もしくなったって。」
「…そうか。ナルトは、少しは大人になったようだね。だが、僕から見れば、まだまだ危なっかしい。サクラちゃんやヤマト隊長がいてくれて、本当に良かった。」
ミナトは穏やかに言うと、フミに向き直った。その顔から、父親としての表情が消え、四代目火影としての冷徹な光が宿る。
「フミ。君に、極秘の単独任務を与える。」
「はい…なんなりと。」
空気が張り詰めた。イタチすら同席していない、父と子だけの密命。
「志村ダンゾウと、彼が率いる「根」の内偵だ。」
「……!」
ダンゾウ。三代目火影の盟友にして、木の葉の「闇」を体現する男。ミナトが火影に就任して以来、表向きは解体されたはずの非公式組織「根」。だが、その活動は水面下で続いているという噂が絶えなかった。
うちはの事件、そして大蛇丸の件……全ての裏には、常にダンゾウの影がある。表の光が強くなるほど、闇もまた濃くなる。……僕は、ナルトたちを対暁の任務に集中させたい。そのためには、里の内部にある「膿」を、誰かが処理しなければならない。
ミナトはフミの目を真っ直ぐに見据えると、はっきりとした口調で告げる。
「これは、火影としてではなく……この里を愛する一人の忍、波風ミナトからの個人的な依頼だ。……息子にこんな役目を負わせる父を、どうか許してくれ。だが、今の木の葉で、僕の本当の意図を汲んでこの任務を遂行できるのは……君しかいない。」
暗部に入って半年近く、フミは火影からここまで信頼を置かれる人間にまで成長していたのだ。当然、断るつもりもなかった。
「…承知しました。ただし、条件をいくつかつけさせていただきたい。」
ミナトの表情が、微かに緩んだ。それは安堵のようでもあり、同時にどんな言葉でも受け止めるという覚悟の表れでもあった。
目の前に立つ暗部の仮面を被っていない息子の顔を見つめる。何度も闇を苦しみながら乗り越えた漢の瞳。無理難題を押し付けたのは自分の方、条件の一つや二つ、あって当然だと思っていた。
「……言ってくれ。今の僕に叶えられることなら、なんだって聞くよ。」
ミナトの声は静かだが、そこには火影としての権限と、父親としての愛情の両方が込められていた。彼はフミの唇が動くのを、じっと待った。
「まず、内偵ではなく、状況に応じた処断とさせていただきたい。そして…単独ではなく、イタチさんとのツーマンセルをお願いしたい。」
火影室の空気が、一瞬にして凍りついた。フミの要求は、事実上の「暗殺許可」であり、同時に里の最大戦力であるイタチを巻き込むという、あまりにも重い決断だった。
「…そうか。」
ミナトは驚愕に目を見開き、フミを凝視した。内偵という安全圏を超え、自らの手を血で汚す覚悟。そして、かつて一族の闇を共に処理したイタチを相棒に指名する狡知。それは、ミナトが想像していた以上に、フミが「影」として完成してしまったことを示していた。
「……処断か。君は、彼を殺す覚悟ができていると言うんだね。それが里のためになると信じて。」
ミナトは深い沈黙の後、ゆっくりと目を閉じた。火影として、秩序を乱すダンゾウを排除したい気持ちはある。しかし、息子を「人殺し」の最終執行人にすることへの、父親としての激しい葛藤が彼を苛んだ。長い沈黙の後、ミナトは決断する。
「…分かった。イタチを君のサポートにつけよう。だが、こちらからも条件だ。」
ミナトは目を開け、厳しい火影の顔で告げた。
「処断はあくまで「最終手段」だ。もし彼が里への叛意を明確に示し、止める術がないと判断した場合のみ、許可する。……そして、この任務の責任は全て、この四代目火影が持つ。君たちがどんな汚名を着ようとも、私が必ず守り抜く。」
「御意。ありがとうございます。」
「行ってきなさい、フミ。……イタチによろしく。そして……。」
言葉を切り、ミナトは一瞬だけ、慈愛に満ちた父親の顔に戻った。
「……クシナには、この任務の内容は絶対に内緒だよ。赤い血潮のハバネロに怒られるのは、僕一人で十分だからね。」
「…ハバネロ発言、伝えてもいい?」
その瞬間、四代目火影の顔からすべての威厳が消え去った。ミナトは素っ頓狂な声を上げ、冗談だろ、と言わんばかりに目を丸くしてフミを見る。まるで、アカデミーの生徒が悪戯を告げ口するような、そんなフミの言葉に、歴戦の英雄であるはずの「黄色い閃光」は完璧に動揺していた。
「ちょ、ちょっと待ってくれフミ! それだけは、それだけは勘弁してくれ!」
彼は慌ててデスクから身を乗り出し、フミの肩を掴んだ。その顔は、敵国の忍軍を一人で壊滅させた男とは思えないほど、必死だった。
「クシナの怒り具合を君も知っているだろう!? 今夜の夕食がハンバーグじゃなくて、味のしないお粥になるだけならまだいい! 最悪、僕の小遣いが3ヶ月停止されて、自来也先生の新作コレクションが没収されるんだぞ!? 里の危機より深刻な事態だ!」
ミナトは切実な顔で訴える。彼にとって、妻であるクシナの逆鱗に触れることこそが、あらゆるS級任務を超える最高難易度の脅威なのだ。
「……分かった! 分かったから! 任務が終わったら、君の好きな甘味処の団子、好きなだけ奢ってあげるから! だから、ハバネロの件は君の胸のうちに……!」
「…ふふっ、らしくないですよ、四代目?もちろん冗談です。」
父の情けない懇願を前に、フミは仮面の下で静かに笑った。闇の中での任務が続く日々の中で、こうした何気ない家族のやり取りだけが、彼の心を「人」の側に引き留めてくれる唯一の光だった。
「よ、よかった……。」
ミナトは心底ホッとしたように、その場にへたり込みそうになるのをなんとか堪えた。額には冷や汗が滲んでいる。里の平和を脅かすダンゾウより、妻の機嫌を損ねることの方がよほど恐ろしいというのは、彼にとって紛れもない事実だった。
「では…行ってきます。」
フミが背を向けて火影室を去ろうとした、その時。
「……フミ。」
呼び止める声は、もう情けない父親のものではなく、威厳と愛情に満ちた火影の声に戻っていた。
「無理はするなよ。……生きて帰ってくること。それが君への、父としての唯一の命令だ。」
「…はい、父さん!」
フミは振り返らず、片手を軽く上げて応えた。その背中が闇に消えていくのを、ミナトは複雑な表情で見送る。そして、一人残された火影室で、彼は窓の外に広がる里の夜景を見つめながら、静かに呟いた。
「……すまないな、フミ。……俺の火影としての仕事が、お前にばかり重荷を背負わせてしまう。」
その呟きは、誰に聞かれることもなく、夜の静寂へと溶けていった。
「さて、待ち合わせの場所は…と。」
フミは火影室を後にし、音もなく里の屋根を渡った。目指すは、暗部が非公式に集合場所として使う、南門を見下ろす古い鐘楼の頂上。月の光だけが、その古びた瓦を白く照らし出している。
フミが鐘楼に辿り着くと、そこには既に一つの人影があった。夜の闇に溶け込むように、しかし圧倒的な存在感を放ちながら、その男は里を見下ろしていた。
「イタチさん、お待たせしました。」
「……遅かったな。火影様と随分話し込んでいたようだが。」
イタチは振り返らない。だが、フミが纏う空気の変化――父とのやり取りでほんの少しだけ和らいだ気配を、敏感に感じ取っていた。
フミが隣に並び立つと、イタチは静かに口を開く。
「任務内容は聞いた。志村ダンゾウ……「根」の調査、そして「処断」の権限付き。……四代目も、随分と思い切ったことをする。」
その声に非難の色はない。むしろ、ようやくこの時が来たか、というような静かな覚悟が滲んでいた。
「お前が俺を指名したそうだな。……俺のような男を、まだ信じてくれるのか。」
イタチはそこで初めてフミの方を向き、その黒い瞳で静かに問いかけた。それは、相棒としての信頼を確かめる、儀式のような問いだった。
「…貴方がどれだけ一族と里の板挟みになってきたか、この半年でよく分かりました。シスイさんの件も含めて。」
「シスイ」という名前が出た瞬間、イタチの纏う空気が一変した。それまで凪いでいた湖面に石が投げ込まれたように、彼の内面で激しい動揺が走ったのを、フミは肌で感じる。
イタチは目を見開き、フミを凝視した。その瞳には、驚愕と、警戒と、そして拭い去れない深い悲しみが渦巻いていた。うちはシスイ。親友であり、兄のように慕っていた男。その死の真相は、イタチが心の最も深い場所に封印した、決して触れられてはならない聖域だった。
「……どこで、その名を。火影様の資料室に、シスイの記録は無かったはずだ。」
イタチの声は、夜風のように冷たく、鋭かった。フミが一体どこまで知っているのか。ダンゾウがシスイの右眼を奪ったこと、シスイが自らの意志で死を選び、左眼をイタチに託したこと――その全てを知っているのか。
「……フミ。お前が、俺をこの任務に指名した本当の理由は何だ?」
その問いかけは、もはや相棒への信頼確認ではなかった。それは、自分の最もデリケートな過去に踏み込んできた者に対する、真意を探るための尋問に近い。
「ダンゾウは、俺にとって親友(とも)の仇だ。お前は、俺の私情を利用して、任務を遂行するつもりか?」
イタチの瞳の奥で、三つ巴の文様がゆっくりと回転を始める。写輪眼。それは彼の心の揺らぎを映し出す鏡だった。彼はフミが、自分と同じように復讐心という闇に囚われていないか、その真偽を見極めようとしていた。
「いいえ、違いますよ。」
即答による否定。それは決して焦りから出るものではなく、ある種の確信を持って放たれる言葉。
「あの男は里のためと言いながら、その行動全ての根底にあるのは一つの要素しかない。それは、何だと思います?」
「…要素だと?」
イタチはわずかに目を細めた。フミのその声音には、かつての子供じみた純粋さでも、任務に酔う狂気でもない、本質を射抜くような鋭い理知が宿っていた。フミはただの「神速の妖狐」としてではなく、この里の暗部(闇)を構造的に理解し始めた一人の忍として、かつての先輩と対等に向き合っている。
「自らの正義への陶酔か……あるいは、火影の椅子への執着か。」
イタチは自らの答えを口にしつつも、フミが提示しようとしている「答え」の重さを待った。フミは、鐘楼の手すりを軽く叩き、里の夜景を、そしてその地下に広がるであろう闇の拠点を冷ややかに見据えている。
「それもありますね、でも…もっとも重要な要素があります。」
「ならば…言ってみろ、フミ。お前がその瞳で、あの男の根底に何を見たのか。」
夜風が二人の間を吹き抜け、暗部の装束を激しく揺らす。イタチの瞳に宿る写輪眼が、フミの次の言葉を逃さぬよう、静かにその輪郭を捉えていた。
「答えは…ヒルゼン様への劣等感、それが奴の正体です。中身なんて何も無いんですよ。現に木の葉崩しの時も、アイツは何も動かなかった。そんな人間が…里の影を背負っていいわけがない。」
夜の静寂の中に、フミの言葉が鋭く突き刺さる。それは政治的な野心や大義名分といった虚飾を剥ぎ取り、一人の老人の醜い深淵を暴く残酷なまでの真実だった。イタチは息を呑み、言葉を失う。
「ヒルゼン様への劣等感」
三代目火影・猿飛ヒルゼン。かつてダンゾウと共に二代目火影の門下で学び、常に自分の一歩先を歩み続けた親友であり、最大のライバル。ダンゾウがどれほど冷徹な策を弄そうとも、その根源にあるのは、常にヒルゼンが持ち得た「光」への嫉妬と、彼になれなかった自分への埋められない欠落感だった。
「……フミ。お前は……。」
イタチの瞳から写輪眼の文様が消え、一人の人間としての驚きが露わになる。彼は自分自身、そして父ミナトすらも、ダンゾウという存在を「必要悪」としてどこかで過大評価していたのかもしれないと気づかされた。
「実態のない空っぽな老害、それが奴の正体です。」
「……そうか。中身のない虚飾、俺たちは…その劣等感が生み出した影に、シスイを、そして一族を翻弄されてきたというのか。」
イタチは自嘲気味に、だが低く重い笑みを漏らした。その声には、長年抱えてきた「闇」への呪縛が、フミの言葉によって解き放たれていくような解放感が混じっていた。
「納得したよ。……お前の言う通りだ。そんな矮小な男に、この里の未来をこれ以上汚させるわけにはいかない。」
イタチは懐から鴉の面を取り出し、ゆっくりと顔に当てた。フミもまた、すっかり馴染んだ狐の仮面を被る。
「行こう、フミ。……劣等感の塊(かかし)を、あるべき場所へ還しに。」
「はい、貴方となら負ける気しませんから。」
二つの影が、鐘楼から夜の街へと溶け込むように飛び出していく。かつてお団子を食べ、将来を語り合った二人の忍が、いま、里の真の浄化のために動き出した。
「あ、全部終わったら、ミコトさんのお団子と母さんの手料理、一緒に食べましょうね、約束ですよ!」
フミの言葉は、夜の風に乗ってイタチの耳に届いた。それは、これから始まる血腥い任務とはあまりにもかけ離れた、温かく、日常に満ちた「約束」だった。
闇へと飛び出す寸前だったイタチの動きが、一瞬、本当に僅かな時間だけ止まる。
「………」
うちはミコト。自分とサスケの母親にして、クシナと並ぶ、木の葉の料理名人。彼女が作る甘いあんこの団子は、イタチにとって、そして弟にとっても幸せな家族の象徴だった。
フミの約束という名の念押しが、イタチの胸に深く突き刺さる。それは、生きて帰ってこい、というミナトの言葉よりも、もっと強く、もっと優しい呪縛だった。
「……ああ、約束だ。」
短い返事。だが、そこにはイタチの全ての感情が凝縮されていた。この任務を必ず成功させ、そして「生きて」帰るという、彼自身の強い意志が。
「母さんの団子は、クシナさんの手料理には敵わないかもしれないがな。……だが、それでも良ければ。」
イタチはそう言い残し、今度こそ迷いなく闇の中へと身を躍らせた。フミもまた、その後を追う。二つの影は、里の地下深くに存在する「根」の拠点へと向かって、一直線に降下していく。その背後には、静かに二人を見守る月が浮かんでいた。
次回、木の葉の天才コンビvsダンゾウ、どのような戦いになるのか、ご期待ください。