「良いんだよ?だって君は俺を助けようとしてくれた…何故それを責められる?」
子供特有の、柔らかで瑞々しい手が、頭を撫でる。
「君は嘆く心を邪魔に思うのは仕方ない、けどね…あの頃はそれすら失ってた君…変かな…今の桜ちゃんが後悔してくれてるのが嬉しい」
「…おじさん?」
「嬉しいんだ」
小さな身体で、出来る限り桜を抱きしめる。
万感の思いを、ありったけ込めて。
桜も抱きしめ返す。
ありったけの想いと、力を込めて。
「おかえりなさい、雁夜おじさん」
「ただいま、桜ちゃん」
桜は泣いた。
十年ぶりに心の底から泣いた。
■■■■■
「さて、桜ちゃん」
桜が落ち着くのをみた雁夜は、立ち上がるとどこから取りだしたのか着物を纏い、なんでも無い事の様に恐ろしい言葉をいう。
「爺を殺しに行こうか」
確信する。
雁夜は、以前の雁夜では無い。
否、雁夜であるが…なんというか違う。
迷いが無い。
余分なものを、とっぱらってしまった感じがする。
桜には、判らない。
なにが無くなったか−…なんて。
だって、彼から感じる自分に向ける愛情は、昔から変わらない。
…それで充分だから。
そうして二人は手を繋ぎ、蟲蔵から出て行った。
間桐の怪物を屠る為に。〟I《アイ》〝に満ちた化け物は異端の館を闊歩する。
「こんな愉しいのは初めてだ!」
建前?間違い? 正義?嗚呼なんて下らない!思うまま、理性は要らない!俺は俺の為だけに行動する。
もう我慢は無い。
枷は無い。
そんなもの、この身に入る余地は無い。
悔恨と、憎悪と、苦痛と、悲哀と、逃避に、まみれた人間は死んだ。
甦ったのは、全ての己を肯定する有りのままの自分!
「桜ちゃん…」
愛しい少女を見上げる。
「何?」
自分はもう、決して自分以外の願望は叶えようとしないだろう。
そう…願いこうしているのだ。
果たしてこの少女は、そんな雁夜を受け入れるか?
「俺がこれからするの全部…赦せる?」
桜は微笑む。
「…うん」
どんな行いも雁夜が望むなら…。
正邪なんて関係無い。
我慢して我慢した結果を、知っているから…。
故に止めない。
はなから、そんな考えは無い。
たった一人の大事な『雁夜』だから。
雁夜も同じだから。
「さぁ行こう?おじさん」
「うん!」
夢は、醒めるべきものだから夢。
悪夢なら尚さら。
醒めさせてくれないなら?
雁夜は嘲笑う、桜も微笑う。
二人は破顔する。
惨劇は直ぐそこに迫っていた。
■■■■
月も恐々とし、御簾に隠れた姫君の如く、拝謁叶わぬ深夜…。
相も変わらず、陰鬱とした洋館は、館の主の性質を写し顕していた。
獄卒すら怯え逃げ出す館内を、ある場所ー蟲蔵ーを目指し、儚い花の様な手弱女と、浮世離れした雰囲気を持つ子供が、迷いなく進む。
「ん?」
その異様な二人を、反対側から来た青年が気付く。
桜の義兄・間桐慎二だ。
妹はいつもの陰気さがなりを潜め、名前の通り閑雅な美しさが彼女を包んでいた。
その妹に手繋がれ、歩く振り袖を着た子供。
如何にこの館が異常とはいえ、怪しい光景に慎二は大声で呼び止める。
「オイ!!桜っっ」
「あら…?今晩は兄さん」
おどおどとしたいつもの口調はなく、落ち着いた話し方。
「お前こんな夜中に何してんだよっ勝手にそんな餓鬼を屋敷に入れて!お祖父様に御叱りを受けるぞっっお前のせいで僕まで巻き込まれるなんてごめんこうむるぜ?」
苛立った慎二は、桜の身体を力まかせに突き飛ばす。
寸前で桜が雁夜の手を離し、幸い雁夜は無事だ。
だが、桜はしたたかに壁に打ち付けられ、痛みに座り込む。
うめき声に嗜虐心を刺激された慎二は、桜が連れている子供…雁夜にその目を向ける。
(苛々するよっ全く!取り敢えずぶん殴って…)
と、義妹の代わりにこの子供で憂さ晴らしをしようかと思ったが、止めた。
(フ〜ン?よく見ればそこそこ可愛いじゃないか…)
上から下までゆっくりと検分する。
ぱっと見ればその異彩に目がいくが…それが魅力になっている。
髪は絹糸の如く真白。
肌は淡く陶器の様。
右目は夜色。
左目は青い月の色。
容姿は普通だが、まろい顔は愛らしい。
身長は桜の半分ほど。
身体は振り袖のせいで判らないが、細い部類だろう。
淡い藤色の着物地に灰色の帯が似合っている。子供は慎二に、にっこり笑い掛け笑顔と真逆の言葉を吐く。
「こっち向くんじゃねーよ、チンカス。イカ臭いのが移んだろうが?」
絶句する。
幼い子供から暴言を吐かれた慎二は、無駄に高いプライドが傷つき怒り心頭だ。
「このメス餓鬼っっ!!」
雁夜の小さな片腕を掴み、ひねり上げる。
「生意気な口を訊きやがって…年上に逆らうとどうなるか教えてやるっっ」
それを視た桜は、痛む身体を無視し、慌てて止めに入る。
「やめて下さい!兄さんその人に手を出さないで!!!」
「黙れっ愚図は黙ってろヨ!」
「お願いやめて下さいっっ」
普段ならこんな反抗はしない義妹が、必死に義兄から子供を庇うのを、ただ事でないと感じた慎二はニヤリと心中で嫌な笑いをする。
「よっぽど大切なんだな〜?良いぜ?やめてやる。僕は優しいからな」
掴んでいた手を離し、雁夜を放り投げると、桜の顎を掴み、
「なら口で奉仕してくれよ…今ここでこのメス餓鬼の前で」
桜は青ざめた顔で慎二をみる。
慎二はその絶望的な顔に、胸のすく思いがした。
無論、そんな事冗談だ。
本気でそんな考えは無く、ただ恥を掻かされた仕返しに過ぎない。
満足した彼は、冗談であると言葉にする前に、そばにいた子供…雁夜が慎二に云う。
「流石兄貴の卑屈遺伝子だな?まぁお前は更に屈折して小物どころか雑魚にもなれねぇ感じだけど?」
雁夜は、桜から慎二の手を離し後ろに庇う。
あまりの言いぐさに、怒りで真っ白になった慎二は、雁夜を力任せに殴りつけ様とした瞬間、あり得ない状況に固まる。
「俺としては初対面の野郎なんか頸り殺してもいいんだけど、桜ちゃんの話を訊く限り芯から腐ってる訳じゃないみたいだから…これで勘弁してやるから…今までの事ゆっくり時間かけて懺悔しろよ?」
子供の纏う雰囲気は闇になり、慎二を『何か』が取り囲む。
恐怖のあまり叫ぶも、『何か』と雁夜により隔絶された空間は、それを封じる。
『何か』が慎二を完全に覆い空間が閉じる瞬間、雁夜の声が慎二に届く。
「あ、そうだお前なんか勘違いしてるけど…俺…」
空間が完全に閉じた。
「お前の叔父さんだから…って聞こえてないかな?」
「おじさん出てきたら教えてあげたら?」
「あ〜そうだね片付けた後で良いか!」
「うん。でも兄さん大丈夫かな…」
「優しいな、桜ちゃん」
ひしっと桜の腰に抱きつく。
「安心して?一時的に放り込んだだけだから」
それにね、と雁夜は続ける。
「俺の蟲蔵はここに比べたら優しいからな〜ちょっと痛い目みるだけ」
えっへんと胸をはる雁夜に、桜は自分から抱きつく。
「そうだね!私達から比べたらましだね」
「うん!出てきたらきっと桜ちゃんの望む優しい兄貴になってるよ」
「ありがとう…おじさん」
もう桜の頭から、慎二の事は抜け出ていた。
そう…二人にとって些末な事。
臓硯のいる蟲蔵まであと少し…。