女の子にひどいことする短編集 作:純愛滑りするレイプものを忌み嫌うゴブリン
放課後の旧校舎は、死に絶えた巨大な生物の体内を思わせるほどに静まり返っていた。窓から差し込む夕陽は、舞い上がる埃を黄金色に染め上げ、どこか現実味を欠いた美しさを演出している。
健一が忘れ物を取りにその廊下を歩いていると、突き当たりの空き教室から、湿り気を帯びた嫌な音が響いてきた。
「ねえ、なんで声を出さないの? 自分が特別だって思ってるから、私たちの言葉なんて聞こえないのかしら」
「ち……違います……私、ただ……こんなことやめて欲しくて……」
甲高い、嘲笑を含んだ女の声。それに続いて、ばしゃり、と水が跳ねる音がする。
(……また、やっているのか)
健一の胸の奥が、重苦しく沈んだ。ターゲットは決まっている。あの少女だ。
彼は迷いを振り払うように、半開きの扉を強く押し開けた。
視界に飛び込んできたのは、冷たいコンクリートの床に膝をつき、ぐしょ濡れになったクラスメイト──白雪結菜の姿だった。
透き通るような銀髪は、頭から被せられた泥水で無残に汚れ、制服のブラウスは肌に張り付いて、彼女の華奢な輪郭を露骨に浮き彫りにしている。彼女の不安に揺れる青い瞳が、潤んだままこちらを向いた。
「あら、瀬戸くん。あなたも彼女を『掃除』しに来たの?」
いじめの主犯格である女子学生が、空のバケツを揺らしながら勝ち誇ったように笑った。周囲の取り巻きたちも、さも愉快そうに肩を揺らしている。
「……もう、そのくらいにしておけよ。見ていて気分が悪い」
「なによ、正義の味方のつもり? つまらない男」
健一の冷徹な視線に毒気を抜かれたのか、彼女たちは捨て台詞を吐きながら、結菜を足蹴にして教室を去っていった。
静寂が戻った教室で、結菜は身動きひとつせず、ただ床に零れた水溜まりを見つめていた。震える指先が、無残に引き裂かれたスケッチブックの残骸を、愛おしそうになぞっている。
「……大丈夫か」
健一は歩み寄り、自身のジャケットを脱いで彼女の肩にかけた。
「…………っ」
結菜の肩が大きく跳ねた。彼女は怯えたように顔を上げ、潤んだ瞳で健一を見上げた。その瞳は、夕陽を反射して宝石のように輝く青緑色をしていた。この世の汚れを何も知らないような、あまりにも清廉な色彩。
「ごめん、なさい……汚れちゃうから……」
掠れた、消え入りそうな声。彼女は自分の汚れが彼に移ることを恐れるように、必死に身を縮めた。
「気にするな。服なんて洗えば済む……立てるか?」
健一が差し出した手。結菜はその手を震える眼差しで見つめた。彼女にとって、他人の手は殴られるか、突き飛ばされるためのものでしかなかったからだ。
「どうして……私に、優しくするの……?」
「……自分でも分からないけど。君を助けてあげたいと思ったんだ」
健一はぶっきらぼうに答えながら、彼女の細い手を優しく、だが力強く握った。
結菜の指先は氷のように冷たかった。しかし、健一の手の温もりが伝わった瞬間、彼女の大きな瞳から、溜まっていた涙が溢れ出した。
「う、あ…………っ、ひぐっ……」
声を押し殺し、嗚咽する彼女が、そっと寄り添うように身体を預けてきた。泥水の臭いと、彼女自身の淡い花のよう香りが混ざり合い、鼻腔をくすぐる。
「……もう大丈夫」
その言葉は、健一自身も無意識に発したものだった。ただ、目の前のあまりにも美しく、そして壊れそうな魂を、放っておくことはできなかった。
結菜は彼の胸に顔を埋め、子供のように縋り付いた。彼女の銀髪が、健一のシャツを濡らし、汚れを広げていく。だが、彼はそれを不快に思うことはなかった。
(この子を守りたい)
その時、健一の心に芽生えた感情は、一点の曇りもない純粋な庇護欲。肩を震わせる少女の、絹のような銀髪を、控えめに撫でた。
窓の外では、夕陽が地平線に沈み、灰色の夜は静かに月明かりに開かれていた。
旧校舎北側に位置する旧館図書室は、学生たちの間では「幽霊が出る」という使い古された噂と共に、半ば忘れ去られた場所となっていた。しかし、瀬戸健一にとって、そして今の白雪結菜にとっては、そこはこの残酷な世界に唯一残された、透明な硝子の壁で隔てられた「聖域」だった。
突き動かされる衝動に任せて結菜を庇ったあの日から、健一は彼女と行動を共にすることを心がけている。彼女の心は軋みを上げていて、もう苛烈ないじめには耐えられない。少しでも、彼女の止まり木になりたかった。
放課後の柔らかな陽光が、高い窓から斜めに差し込み、積もった塵を無数の光の粒に変えて舞わせている。古い紙の匂いと、微かな蜜蝋の香り。その静寂の中で、二人は机を並べて座っていた。
「……あ、あの……瀬戸、くん……」
隣に座る結菜が、蚊の鳴くような声で健一を呼ぶ。昨日ボロボロに引き裂かれたスケッチブックをセロハンテープで繋ぎ止められ、そこに描かれた彼岸花の写実絵の薄く滲んだインクを、細い指先が撫でている。
「どうした?」
「これ……直してくれて、ありがとうございます……私、もう駄目だと思ってたから……」
結菜の視線の先には、健一が昨夜、寮の自室で丁寧にアイロンをかけ、汚れを落とした彼女の制服のブラウスと、指先でいじくる絵が並んでいる。健一は手元に広げた専門書から目を離さず、短く答えた。
「気にするな。俺も暇だっただけだ」
「嘘……です。こんなに、綺麗にするの……大変だったはず、なのに……」
結菜はそっと、自分の肩にかかる銀髪を指で弄んだ。昨日の泥水は跡形もなく消え、彼女の髪は本来の、月の光を織り込んだような神々しい輝きを取り戻している。その美しさに、健一はふと胸の奥を締め付けられるような感覚を覚えた。
(……この子は、ただそこにいるだけで周囲を拒絶させてしまうほどに、綺麗すぎるんだ)
周囲の学生たちが彼女に向ける悪意。それは、自分たちが決して手に入れることのできない「純粋さ」、「美しさ」への、醜い嫉妬の裏返しであることを健一は理解していた。
その醜悪な心こそ、彼女と悪意あるもの達との決定的な違いだ──結菜の純朴な視線を見つめ返す。
「結菜、これを使え」
健一は鞄から、小さな小箱を取り出して机に置いた。中には、色とりどりの画材と、まだ真っ白な新しいスケッチブックが入っている。
「え……っ、これ……」
「壊された方は、思い出として取っておけばいい。新しい絵は、こっちに描いた方がいい……美術はよく分からないけれど、君の絵は綺麗だ……と、思う」
昨日、床に散らばっていた破片を拾い集めた際、健一は彼女の描いた彼岸花を目にしていた。一般的な彼岸花の、どこか恐ろしいイメージとは違う──鮮烈な赤と、抜けるような青空の絵。彼女の目に映る色彩の、瑞々しいコントラストは、泥水に汚されてなお心を打つに値する。世界をどこまでの美しく感じる、結菜の温かな心が伺えた。
結菜の大きな瞳が、みるみるうちに潤んでいく。彼女は新しいスケッチブックを、壊れ物を扱うように両手で抱きしめた。
「……いいんですか? 私、みたいな……人間が、こんな……素敵なもの……」
「自分を卑下するな。君は、すごいやつだよ」
健一の言葉に、結菜は驚いたように顔を上げた。これまでの人生で、そんな言葉をかけてくれた人間は一人もいなかった。彼女にとって、世界は常に自分を否定し、削り取るための刃の集まりだったからだ。
「……瀬戸くんは、不思議……私を見ても、汚いものを見るような……目を、しないから……」
「俺には、お前が汚いようには見えない。むしろ、その逆だ」
健一は嘘偽りのない本心を口にした。その瞬間、図書室を包む空気が、ほんのりと熱を帯びたように感じられた。
結菜は顔を赤らめ、俯きながらも、唇に小さな、本当に小さな微笑みを浮かべる。それは、灰色の雲の隙間から一筋だけ差し込んだ、陽光のような笑顔だった。
「……じゃあ、私、瀬戸くんを……描いても、いいですか?」
「俺を? 描いても面白くないだろう」
「ううん……描きたいんです。私を、助けてくれた……ヒーロー、なので……」
ヒーロー、という言葉に、健一は微かな気恥ずかしさと、それ以上の充足感を覚えた。誰かに必要とされること。それも、これほどまでに無垢で、美しい存在に。
「好きにしろ」
健一が短く許可を与えると、結菜は嬉しそうに頷き、真新しいページを開いた。鉛筆が紙をなぞる、さらさらという心地よい音が静かな部屋に響き始める。
健一は読書を再開したが、実際には文字を追うことはできなかった。目の前から伝わってくる、彼女の微かな体温と、安堵の溜息。それが、何よりも心地よい音楽のように彼の意識を支配していたからだ。
二人だけのこの空気の中なら、彼女に外の世界の暴力も、悪意も、届くことはない。
(ずっと、こうしていられればいい)
目を細めてスケッチブックに黒鉛を走らせる結菜を見て、健一もわずかに頬を緩めた。
夕暮れが図書室を茜色に染め上げていく。二人の影は、床の上で寄り添うように長く伸び、重なり合っていた。
アカデミーの屋上へと続く階段は、いつも錆びついた鉄の匂いが漂っている。最上階の重い扉を開けると、そこには遮るもののない広大な空が広がっていた。
放課後の喧騒を地上に置き去りにして、健一と結菜はフェンスの影に身を潜めるように座っていた。ここへ来るのは二人の秘密だ。いじめっ子たちの視線から逃れられる絶好の場所だった。
「……瀬戸くん、見てください。今日は、雲がすごく速いです」
結菜が細い指で空を指差す。風にたなびく銀髪が健一の頬をかすめ、花のような、甘く切ない香りが鼻腔をくすぐった。以前よりも少しだけ血色の良くなった彼女の横顔を、健一は眩しそうに見つめた。
「ああ、そうだな。もうすぐ冬が来る」
「冬……私、冬は嫌いじゃありません。すべてが白くなって、汚いものが全部、隠れてしまうから……」
結菜は膝を抱え、遠くの山並みを見つめた。その瞳には、一抹の寂しさが宿っている。彼女にとっての平穏は、どこか「逃避」に似ている。
「……あの、瀬戸くん。これ、受け取ってくれませんか」
結菜は顔を赤らめながら、小さな包みを取り出した。震える手で差し出されたのは、丁寧に折り畳まれた紙に包まれた、手作りのしおりだった。
「これ……」
「図書室で、瀬戸くんが難しい本を読んでるのを見て……押し花、なんです。この間、屋上の隅に咲いてた小さな花……私、花が好きなので……その、少しでも、あなたと共有できたらな、って……」
紙を広げると、そこには透明なフィルムで保護された、純白の小花が収められていた。不器用ながらも、健一のために時間をかけて作ったことが伝わってくる、温かな贈り物だった。
「……ありがとう。大切にするよ」
「……っ、嬉しい、です……」
結菜は顔を綻ばせ、今にも泣き出しそうな、それでいて幸福に満ちた笑顔を見せた。彼女にとって、自分の存在が誰かの役に立ち、受け入れられるという経験は、砂漠で一滴の水を拾い上げるような奇跡に等しかった。
健一はしおりを愛おしそうに眺め、それを胸のポケットに収めた。その時、ふとした疑問が口をついた。
「結菜。君は……ここを卒業したら、どうしたいんだ?」
結菜の動きが止まった。彼女は困ったように視線を泳がせ、やがて力なく首を振った。
「……考えたこと、ありませんでした。私は……明日も、生きているかどうかわからなかったから……卒業なんて、ずっと遠い、夢の話みたいで……」
彼女の言葉に、健一は胸を刺されるような痛みを覚えた。思春期を過ぎ、未来に希望を抱くはずの時期に、彼女はただ今日一日を「耐え抜く」ことだけで精一杯だったのだ。
「なら、今考えればいい。もし、どこへでも行けるとしたら。何がしたい?」
健一は努めて明るい声で問いかけた。結菜はしばらく黙り込み、風に吹かれるままになっていたが、やがて消え入りそうな声で答えた。
「……誰も、私のことを知らない場所に行きたいです。そこで……瀬戸くんと、一緒に、ずっと……本を読んだり、絵を描いたりして……暮らせたら……」
それは、あまりにもささやかで、あまりにも切実な願い。それすらも過ぎた願いかのように、結菜は口をつぐむ。
「……それだけか?」
「それだけで、いいんです。それ以上は……神様に怒られてしまうから……」
結菜は健一の袖口を、縋るようにぎゅっと握りしめた。その指先から伝わってくる微かな震えが、彼女の抱える巨大な孤独と、健一への依存の深さを物語っている。
健一は無意識のうちに、彼女の手を上から包み込んでいた。
「わかった……約束しよう」
「え……?」
「卒業したら、ここを出よう。誰もいない、静かな場所へ。そこで二人で暮らすんだ。俺がその場所を作る……君を守る。もう、誰にも傷つけさせない」
健一の言葉は、彼自身の正義感と、彼女への深い親愛から溢れ出したものだった。結菜の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。
「約束……して、くれるんですか? 私、みたいな……価値のない……」
「価値なら、俺が決める。お前は、俺にとって一番大切な……親友だ」
健一がそう言うと、結菜は声を上げて泣き始めた。それは悲しみの涙ではなく、凍てついた心が溶け出した瞬間の、魂の叫びだった。
「う、ああ……っ……ありがとう、ございます……瀬戸、くん……健一、くん……っ……」
初めて呼ばれた下の名前に、健一の心臓が大きく跳ねた。彼は飛び込んで来た結菜を力強く抱き寄せ、その銀髪に優しく触れる。
夕陽が沈み、世界が濃密な紫に染まっていく。フェンスに囲まれた屋上という狭い檻の中で、二人は確かに「自由」な未来を夢見ていた。
(ずっと、一緒だ。何があっても……)
健一は心の中で繰り返しす。風が冷たさを増し、夜の帳が静かに二人を包み込んでいった。
季節は秋の深まりとともに、アカデミーを鮮やかな朱と金に染め上げていた。
この数週間、不思議なほどに結菜への嫌がらせは鳴りを潜めていた。執拗だったいじめグループも、健一という「守護者」が常に傍にいることに警戒しているのか、遠巻きに冷ややかな視線を送るだけに留まっている。
二人は、寮の裏手にある小さな温室の跡地にいた。今は使われていないその場所は、枯れかけた蔦が這い、外の世界から完全に遮断された、彼らだけの秘密の避難所だった。
「……健一くん、見て。昨日教わったところ、全部解けました」
結菜が、膝の上で広げたノートを嬉しそうに見せる。かつて震えていたその指先は、今ではしっかりとペンを握り、力強い文字を刻んでいる。
「ああ、正解だ。飲み込みが早いな、結菜は」
「健一くんが、教えるのが上手だから……私、勉強なんて、ずっと自分には関係ないものだと思ってた。でも、わかるようになると……少しだけ、明日が来るのが怖くなくなるんです」
結菜は、健一の顔を覗き込むようにして微笑んだ。その頬は秋風に少し赤らみ、瞳には確かな生気と、彼への全幅の信頼が宿っている。
「……なあ、結菜。俺の夢を、話してもいいか」
健一は、手元にあった古びた建築雑誌を閉じ、遠くを見つめるように言った。結菜はノートを閉じると、正座をして居住まいを正した。
「はい。聞きたいです……健一くんのこと、もっと」
「俺は、このアカデミーを卒業したら、国立の建築研究所の特別枠に応募するつもりだ……そこは、歴史的な建造物を修復する技術を学ぶ場所で、俺みたいな家柄も何もない人間が潜り込むには、在学中の成績と、推薦状が絶対条件になる」
健一は、胸の内にある熱い渇望を言葉にした。
「古い建物を直して、また誰かが住めるようにする……そんな仕事に就きたいんだ……結菜と約束した、あの『静かな場所』を、俺自身の手で作りたい。誰にも壊されない、頑丈で、美しい場所を。それが俺の、たった一つの目標なんだ」
「健一くんが作る、家……」
結菜は、うっとりとした表情でその言葉を繰り返した。
「素敵です……健一くんは、私を直してくれたみたいに、建物も直してあげるんですね」
「大げさだよ……でも、そのために俺はこの三年間、誰とも群れずに、評価を積み上げてきた。あと数ヶ月、このまま無事に卒業して推薦をもらえれば、道は開ける。そうすれば、君を腐った環境から、連れ出してやれるんだ」
健一の手が、結菜の華奢な肩に置かれた。
彼は、自分の未来を確信していた。結菜を守るという責任感が、彼の学習意欲をさらに燃え上がらせていた。彼にとっての「夢」は、もはや自分ひとりのものではなく、結菜の救済と不可分なものになっていたのだ。
「私……健一くんの夢を、ずっと応援します。私が、健一くんの邪魔にならないように、もっと、ちゃんとして……」
「邪魔なんて思うわけないだろう。君がいるから、俺は頑張れるんだ」
健一は結菜を優しく抱きしめた。結菜はくすぐったそうに身を捩らせ、そっと身体を預けてきてくれる。
結菜の体温が、厚手のニット越しに伝わってくる。彼女の銀髪からは、最近彼が贈った石鹸の、清潔で甘い香りがした。
「ずっと、一緒にいてくれますか……?」
「ああ。約束しただろう。俺がお前を、どこへでも連れて行く」
二人の間に流れる時間は、あまりにも穏やかで、満ち足りていた。
温室の硝子越しに差し込む夕陽が、二人を黄金色の檻に閉じ込めている。この瞬間、健一は確かに、世界は自分たちの味方であると錯覚していた。
しかし、温室の影に潜む、歪んだ悪意の視線には気づいていなかった。
二人の純粋な絆を、吐き気を催すような「娯楽」として見つめる、冷たく光る瞳。そして、自分の心の弱さにも。
季節が冬へと向かうように、彼らの運命もまた、取り返しのつかない凍てついた夜へと、静かに、だが確実に滑り落ちようとしていた。
穏やかだった小春日和は唐突に終わりを告げ、アカデミーには刺すような冬の予感が漂い始めていた。
温室での誓いから数日後、健一が登校して自身のデスクを見た瞬間、心臓が嫌な跳ね方をした。
机の上には、黒いマジックで『偽善者のゴミ箱』と殴り書きされ、大切にしていた建築雑誌や参考書が、無残にページを引きちぎられて散乱していた。さらには、推薦状のために心血を注いで書き上げていた設計図のポートフォリオに、真っ黒な墨汁がぶちまけられている。
「……これは……」
視界がわずかに歪む。指先が震え、奥歯がガチガチと鳴った。
これは単なる悪戯ではない。彼の「未来」への明確な宣告だった。
「あら、せっかくの傑作が台無しね。瀬戸くん」
背後から、クスクスと忍び笑う声が聞こえる。結菜をいじめているグループのリーダー、飯島だった。彼女は取り巻きを引き連れ、勝ち誇ったような笑みを浮かべて健一を見下ろしている。
「あの女と仲良くするってことは、こういうことなの……ねえ、彼女一人のために、自分の人生を棒に振るなんて、どんな気分?」
「…………黙ってろ」
健一は冷たく吐き捨てて、ただ汚されたポートフォリオを静かに拾い上げた。
どろりと滴る墨汁が、彼の指を汚していく。その黒い汚れは、まるで自分の未来そのものが塗り潰されていくように見えた。
(……このために、俺はどれだけの時間を費やしてきたと思っているんだ)
胸の奥で、どす黒い感情が鎌首をもたげる。
結菜を助けなければ、こんなことにはならなかった。彼女と関わらなければ、こんな仕打ちは受けなかった。なぜ、あんな爪弾きに肩入れしてしまったのか。
……そんな理不尽な怒りが一瞬だけ頭をよぎり、健一はすぐに激しい自己嫌悪に陥った。
(違う。結菜は悪くない。悪いのは、この連中だ……)
そう自分に言い聞かせるが、一度芽生えた不満の種は、彼の心の奥底に根を張り、毒を滴らせ始めていた。
放課後、いつものように旧館の図書室に向かうと、そこには既に結菜が待っていた。彼女は健一の姿を見るなり、青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「健一くん……っ。ごめんなさい、聞きました、私のせいで、健一くんの大切なものが……」
結菜の瞳には、大粒の涙が溜まっている。彼女は震える手で健一の汚れた指を拭おうとし、その手に残った墨の跡を見て、悲鳴のような吐息を漏らした。
「……私のせい。私のせいで、健一くんの夢が……もう、私と一緒にいちゃ、駄目。健一くんまで、壊されちゃう……っ」
彼女の謝罪は、今の健一にとって最も聞きたくない言葉だった。
謝られるたびに、自分の損失が「彼女のせい」であると再確認させられる。彼女の健気さが、逆に健一の心の余裕を削り取っていく。
「…………っ」
思わず、彼女の細い手首を振り払いそうになる衝動を、健一は必死に抑え込んだ。拳を固く握りしめ、数秒間の沈黙の後、彼は顔を上げた。
そこには、いつもの微笑みがあった。
「……何を言ってるんだ、結菜。別に、あんなものまた書き直せばいいだけのことだ」
「でも……」
「いいから。お前がそんな顔をしていたら、俺まで辛くなる……君を守るって、決めたんだからな」
健一は優しく結菜の頭を撫でた。
その手の温もりに、結菜は安心したように顔を埋め、彼の胸元で嗚咽を漏らす。
「ありがとう……ありがとう、健一くん……。やっぱり、健一くんは私のヒーローです……」
縋り付いてくる結菜の体温を感じながら、健一は窓の外のどんよりとした曇り空を見つめていた。
(ヒーロー、か……)
そう呼ばれるたびに、彼の中の何かが摩耗していく。
腕の中の少女を愛おしいと思う気持ちに嘘はない。しかし、それ以上に、彼女の存在によって失われていく「自分の人生」への執着が、静かに、確実に彼の精神を蝕み始めていた。
「そんなっ……! 納得できません!」
「君の納得なんて重要じゃないんだ、とにかく、決まったことだよ──残念だ、瀬戸くん。君には期待していたんだがね」
アカデミーの事務局長室から閉め出されるように出てきた健一の足取りは、幽霊のように覚束なかった。
手元には、一枚の書面が握りしめられている。そこには無機質なフォントで、彼が心血を注いできた「建築研究所への推薦取り消し」と、素行不良を理由とした「無期停学処分」の決定が記されていた。
(……全部、終わったんだ)
頭の中が真っ白になり、次いで耳鳴りが激しく鳴り響く。
飯島たちが捏造した「瀬戸健一が白雪結菜を脅迫し、金品を要求している」という悪質な噂。そして、細工された盗撮動画。教育機関としての体裁を重んじるアカデミーにとって、真偽などどうでもよかったのだ。ただ、波風を立てる「問題児」を排除できればそれでいい。
健一はフラフラと、かつて結菜と過ごしたあの温室の跡地へと向かった。
だが、そこに広がっていたのは「聖域」などではなく、ただのゴミ溜めだった。
硝子窓はことごとく叩き割られ、冬の乾いた風が容赦なく吹き込んでいる。健一が彼女のために用意した真新しいスケッチブックは、無残にページを破り捨てられ、泥の中に踏みにじられていた。彼が昨日まで大切に胸ポケットに入れていた、あの白い花のしおりも、今はどこかの瓦礫の下で土に塗れているだろう。
「はは……っ」
乾いた笑いが、喉の奥からせり上がってきた。
笑いが止まらない。笑うしかない。
この三年間、彼は一度も羽目を外さず、誰とも衝突せず、ただひたすらに「未来」という名の光を目指して泥水を啜るような努力を続けてきた。そのすべてが、たった一人の少女を助けたという、その程度の「善意」によって灰燼に帰したのだ。
(どうして、俺がこんな目に遭わなきゃいけない?)
泥の中に座り込み、健一は自分の汚れた手を見つめた。
爪の間には、昨日彼女のために洗った制服から移った墨の跡が、未だに黒くこびりついている。
(あいつを助けなければ、今頃俺は……暖かい研究室で、未来の図面を引いていたはずなのに)
心の中に、一滴のどす黒い毒が滴り落ちた。
それは急速に広がり、彼の純粋な親愛を腐食させていく。
(結菜。お前のせいだ……お前さえ、お前さえいなければ……!)
一度溢れ出した恨み言は、もう止まらなかった。
彼女のあの儚げな笑顔も、消え入りそうな声も、縋り付いてくる細い指先も。今では自分を地獄へ引きずり込む悪魔の誘いのように思えてくる。
追い詰められた心は、本当に憎むべき敵ではなく、手にかけやすい弱い存在へと怒りを向けていく。
(俺は、お前のための生贄じゃない……っ!)
理不尽な怒りが、煮えたぎるマグマのように胸を焦がす。
その怒りは、彼女をいじめた飯島たちに向かうのではなく、自分を頼り、自分を不幸にした「原因」である結菜へと一点に集中していった。
弱くて、美しくて、健気な彼女。その「無力さ」そのものが、今の健一にとっては耐え難い暴力だった。
(お前が悪いんだ。お前が、俺を……)
健一が強く拳を握る。
これまでの純粋な善意が、親愛が、愛情が──内側からボロボロと、腐って崩れ落ちていく。
残ったのは、すべてを失った男の、剥き出しの絶望と怒り。
呼応するように、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
飯島からの着信。それは、彼が地獄の門を潜るための、最後の一押しだった。
(……ああ、いいさ。どうせ全部壊れたんだ。なら、徹底的に壊してやる……)
健一はゆっくりと立ち上がった。
冷たい冬の風が、彼の心に空いた巨大な穴を吹き抜けていく。
もはや、そこに親友を想う瀬戸健一は存在しなかった。
ただ自棄になって怒りをぶちまける、醜悪な獣がそこにいた。
旧校舎の地下に位置する、今は使われていない武道場。冷え切ったコンクリートの床に、銀髪を振り乱した結菜が押さえつけられていた。
「離して……っ、お願い、やめて……!」
結菜の四肢を、飯島たちのグループが笑いながら地面に縫い止めている。
そこへ、扉が重く軋んだ音を立てて開いた。逆光の中に立つ人影を見た瞬間、結菜の絶望に染まりかけていた瞳に、最後の、そしてあまりにも儚い希望が灯った。
「健一くん……っ! 助けて、健一くん……!」
必死に名を呼ぶ彼女の声を、健一は冷徹な眼差しで切り捨てた。
彼は無言のまま歩み寄り、ポケットからスマートフォンを取り出した飯島の横に立つ。
「あら、ようやく来た……さあ、瀬戸くん。約束通り、こいつをめちゃくちゃにしてくれたら、あなたの『冤罪』は晴らしてあげてもいいわよ?」
飯島はくすくすと喉を鳴らし、レンズを結菜へと向けた。
健一はゆっくりと膝をつき、結菜の顔を覗き込んだ。その瞳には、かつての慈しみなど微塵も残っていない。ただ、どす黒く濁った怒りと、すべてを失った男の虚無だけが渦巻いている。
「……健一、くん……?」
結菜が恐怖に頬を強張らせた。
健一は彼女の柔らかな頬を、まるで愛でるように、しかし爪が食い込むほど強く撫で下ろした。
「結菜。お前のせいで……俺の人生は、もうめちゃくちゃなんだよ」
「え……っ、あ……」
「推薦も、将来も、全部なくなった。お前みたいな欠陥品を助けたばかりに、俺は地獄に落ちたんだ……なあ、どう責任をとってくれるんだよ?」
健一の低く、地を這うような声。
結菜の目が大きく見開かれ、絶望が滲むように涙が溢れた。信じていた唯一のヒーローが、自分を呪う言葉を吐き出した。その事実が、彼女の心を死よりも深く傷つけた。
「……ごめんな、さい……健一、くん……そんな、つもりじゃ……」
「黙れよ。お前のその卑屈な謝罪が、一番反吐が出るんだ」
健一は乱暴に結菜のブラウスを掴み、一気に引き裂いた。
白い布地が弾け飛び、露わになったのは、雪のように白く、一点の汚れもない柔らかな双丘だった。薄く膨らんだ華奢な丸みに、飯島は下卑た笑みを浮かべてカメラを向ける。結菜の頬が赤らみ、恐怖で喉が締まった。
寒さに震え、きゅっと硬く蕾を閉ざしたその先端を、健一は憎しみを込めて指先で弾いく。
「あ……っ、やだ……っ、健一くん……!」
「結菜……っ、お前の、お前のせいで……!」
健一が結菜に覆い被さり、強引に唇を奪う。彼女は四肢をばたつかせるが、飯島たちが強く抑え込み、抵抗すらままならない。
無理やり味わう結菜の口内は、甘く、熱い唾液に満ちている。健一は怒りと本能的な性欲に突き動かされ、彼女の口内を下で犯し尽くす。雪のように白い肌に手形が残るほど控えめな乳房を力強く握るたび、結菜の腰が恐怖に跳ねた。
「んん、っ、む、やめっ、こんな、のっ……んっ、ぶぅっ……!」
「きゃはっ、白雪さん腰ビクビクしてる! レイプされて感じてるの? ヤバっ!」
結菜はできる限り身体を捩って抵抗するが、複数人がかりで押さえつけられて、非力な少女が逃れられるはずもない。
健一は自身のベルトを乱暴に外し、欲望を剥き出しにした。
それは理不尽な怒りに比例して、今にもはち切れんばかりに熱く猛っている。飯島がそれを見て、下卑た笑い声を上げた。
「あはは! 見てよ、瀬戸くんもノリノリじゃない。……良かったねえ、結菜ちゃん。大好きな男に抱いてもらえてさ」
「ああ……っ、うあ……っ!」
結菜が首を横に振り、涙を溢れさせながら抵抗する。
こんなのは嫌だ。大好きな健一に、こんな形で「初めて」を捧げることになるなど。もっとロマンチックに、もっと甘い、二人だけの時に──結菜の抵抗が激しくなる。
だが、飯島たちに手足を抑え込まれた彼女に逃げ場はない。健一は彼女の細い腰を引き寄せると、潤いも何もない、閉ざされたままの秘部へ、怒りを象徴するような熱い楔を強引に突き立てる。
「いぎっ……!」
「結菜ぁっ……!」
みち、みちっ……ぐちゅり──ぶちっ、と。
逃げ場のない肉壁を無理やり割り裂く、生々しい音が静かな武道場に響き渡る。
「……っ、痛い……っ! 健一くん、痛いよ……っ!」
「痛い? 当たり前だろう。俺の痛みは、そんなもんじゃないんだよ……っ!」
結菜の股座から、真っ赤な鮮血がこぼれ落ちるのもお構いなしに、健一は腰を激しく打ち付けた。奇しくも血が滑らかさを生み、処女を失ったばかりの結菜の膣が、健一の暴力になすがままになる。
愛おしむ余裕などない。ただ、彼女の中に自分の絶望をぶち撒けることだけを目的とした、暴力的なまでの衝動。
結菜の内部は熱く、震えながら彼の剛毅を締め付ける。そのあまりにも甘美で清純な感触が、逆に健一の加虐心をさらに煽り立てた。
「ひぐっ……あ……あぁっ、あぁ……っ!」
「苦しめっ、もっと痛くしてやる……! 結菜ぁ!」
ばちんっ、ばちんっ、と激しく水音の伴った肉を叩きつける音が、いじめっ子たちの下卑た笑いの中に溶ける。泣き腫らした彼女の顔に頬を寄せ、ぷるぷるの赤い唇を欲望の舌で突き割り、口内を蹂躙する。
結菜の白銀の髪が、埃っぽい床の上で激しく揺れる。
彼女を抑え込む女たちが、スマホの画面越しにその醜態を指差して笑っている。信頼していた男に蹂躙され、尊厳をズタズタに引き裂かれながら、彼女の肉体は健一が与える激しい摩擦によって、痛みと恐怖に震える。
「見て、結菜ちゃんの足、ガクガク震えてる。本当は気持ちいいんじゃないの?」
飯島の揶揄うような言葉が、結菜の精神をさらに追い詰める。
健一の腰の動きがさらに早まる。腹の中で一層膨らんだ感覚に強張る彼女の細い首に手をかけ、自分を見上げるように顎を逸らさせた。
「……お前のことなんて、助けるんじゃなかった。……ずっと、あいつらに弄ばれて死ねば良かったんだ」
「あ…………っ……」
その言葉が、最後の一刺しだった。
結菜の瞳から涙が止まり、ただ空虚な天井を見つめるだけの死人のような目へと変わる。
健一は彼女が壊れたことを確信しながら、さらに腰の動きを早めた。
ぬぷり、どろり。
秘部から溢れ出した蜜と、結菜の絶望が混ざり合い、淫らな音を立てて撒き散らされる。
健一は彼女の耳元で、さらに呪詛を吐き出しながら、内側の一番深い場所を何度も何度も突き上げた。
「あ、は……っ、あぐ……っ、はぁ、はぁ……っ!」
結菜の小さな口から、言葉にならない悲鳴が漏れる。
それはかつて彼を呼んだ甘い声ではなく、魂が削れる音だった。
健一は自らの人生を狂わせた怨念をすべて注ぎ込むように、彼女の奥底に杭を打ち込む。限界まで張り詰めたそれを、ぐりぐりと最奥に捩じ込んだ。
「ああ……っ、イク……! 結菜ぁ……! クソ女が……! 孕みやがれ……」
「……だ、め……なんで、こんなことに……なっちゃったの……?」
ぐちゃっ、ぐちゅっ、どちゅっ──結菜の乳首に噛みついて獣のようにぺニスを捩じ込む健一の腰が熱く震える。そして──どくんっ、どくんっ、どくんっ──どろりと、彼女の無垢な胎内を、熱い液体が汚していく。身体に染み渡る熱い生命の濁流を受け、結菜の身体から完全に力が抜けた。
健一が肉茎を引き抜くと、逆流するように白濁液がどぽぉっ、と膣から溢れ出す。まだ硬い、汚れた肉の塊を、抜け殻のように横たわった美しい少女の口内に突っ込み、舐め取らせる。
「……健一……くん……」
「……はぁ……あぁ……いい、気分だ……」
見下す健一に、結菜は口を閉ざすのみ。ぜぇぜぇと肩を上下させ、自分の下に転がっている、物言わぬ人形の美しさを、憎しみと共に睨みつけていた。
ただ、フラッシュの光が、彼女の虚無的な瞳を何度も無慈悲に照らし出していた。
二人の聖域は、完全に汚濁の中に沈んだ。
もはや、朝日が昇っても、この汚れが消えることは二度とない。
数日後、凍てつくような冬の朝。瀬戸健一は、薄暗い自室でスマートフォンの画面を見つめたまま、石のように固まっていた。
画面の中では、無機質なノイズと共に、この世のものとは思えない醜悪な光景が再生されている。
四肢を抑え込まれ、絶望に瞳を濁らせながらも、自分をヒーローと呼び縋ろうとした少女。そして、その少女に罵詈雑言を浴びせ、獣のようにその肉体を蹂躙する、一人の男の姿。
(……これは、俺か?)
震える指先が画面に触れる。
動画のコメント欄には、飯島たちが煽った嘲笑と、正義の面を被った野次馬たちによる誹謗中傷が、止まることなく流れ続けている。
だが、健一の耳に届くのは、画面の中で泣き叫ぶ結菜の、魂を削り取るような悲鳴だけだった。
賢者タイムと共に訪れたのは、猛烈な嘔吐感だった。
理不尽な怒りに身を任せ、彼女にすべての責任を転嫁して、最も残酷な形で裏切った。あの日、自分が犯したのは単なる肉体的な暴力ではない。彼女が人生で初めて手に入れた「希望」という名の魂を、その手で握り潰したのだ。
「……あ、あああああああぁぁぁっ!」
健一は喉が裂けるほどの咆哮を上げ、スマートフォンを壁に叩きつけた。
冷静になればわかる。彼女は何も悪くなかった。彼女もまた被害者であり、自分こそが彼女にとっての唯一の光でなければならなかったのに。
(謝らなきゃ……。今すぐ、あいつに……!)
健一は、震える足で部屋を飛び出した。
冬の冷気が肺を刺すが、そんな痛みなど、胸を焼き尽くす後悔に比べれば微々たるものだった。
結菜が住む古いアパートの前に着いたとき、周囲は不気味なほどに静まり返っていた。
呼び鈴を何度鳴らしても、返事はない。不吉な予感に急かされるように、健一は鍵のかかっていないドアを押し開けた。
「……結菜? 結菜、いるのか……!」
室内は、彼女そのもののように整然としていた。
奥の部屋、微かに開いた扉の向こうから、冷たい風が流れてくる。そこに入ってはいけないと、本能が言っている気がし。
健一が息を呑んでその部屋へ足を踏み入れた瞬間、時間は永遠に止まった。
そこには、白銀の髪をシーツに広げ、まるで深い眠りについているかのような結菜がいた──その首はカッターナイフで無惨に切り裂かれ、彼女が大事そうに撫でていた、彼岸花の絵のように、ベッドに鮮血の花びらを狂い咲かせて。
窓から差し込む冬の陽光が、彼女の抜けるような白い肌を神々しく照らしている。頬に赤みはなく、唇は薄い紫に染まっていた。凄惨な出血に似つかわしくないほどに、その表情は驚くほど穏やかで、ただの「死」と呼ぶにはあまりにも美しすぎた。
「……うそだろ……結菜、おい、結菜……っ!」
健一は彼女の傍らに膝をつき、その氷のように冷たい手を握りしめた。
彼女の指先は、あの日図書室で彼の手を握った時のように、もう二度と温まることはなかった。
枕元には、一通の封筒と、あの日健一が贈った、泥にまみれてボロボロになったスケッチブックが置かれていた。
震える手で封筒を開けると、そこには結菜の、消え入りそうなほど繊細で、しかし一文字ずつ丁寧に綴られた遺書があった。
健一くんへ
ごめんなさい。
私のせいで、健一くんの素敵な未来を奪ってしまいました。
私さえいなければ、健一くんはあんなに恐ろしい顔をして私を傷つけずに済んだのに。
私があの日、図書室で健一くんに声をかけてしまったから。
私が弱くて、健一くんに甘えてしまったから。
あの日、健一くんに抱かれたとき。
痛かったけれど、本当は少しだけ嬉しかったんです。
やっと、健一くんと一つになれた気がしたから。
健一くんが私にぶつけた怒りは、全部、私が受けるべき罰だったんだと思います。
健一くん。
最後にわがままを言ってもいいですか。
どうか、自分を責めないでください。
健一くんが私にくれた時間は、私の人生で一番幸せな「箱庭」でした。
あなたが私を助けてくれたあの日のことは、地獄に落ちても忘れません。
健一くん。あなたの作る「静かな場所」に、私は一緒に行けなくなっちゃったけれど。
どうか、あなたの夢を、いつか叶えてください。
私は、ここでずっと、健一くんの幸せを祈っています。
大好きです。
さようなら。
──白雪 結菜
「…………っ、が、あぁぁぁっ!」
健一は手紙を胸に抱き、獣のような声を上げて泣き崩れた。
最後まで、彼女は自分を恨んでいなかった。自分を蹂躙し、人生を壊した男に謝罪し、愛したまま逝ったのだ。
(俺が……俺が、君を殺したんだ……!)
手紙には、彼女の涙の跡が点々と残っていた。
どれほどの絶望の中で、彼女はこの文字を綴ったのだろう。自分に向けられた暴力すら「自分が悪いからだ」と納得させてしまうほどに、彼女の愛は無垢で、そして残酷なまでに純粋だった。
ふと見ると、彼女の開かれたスケッチブックの最後のページには、健一の寝顔が描かれていた。
そこには、あの日屋上で語った「誰もいない静かな場所」で、幸せそうに微笑む二人の姿があった。
窓の外では、雪が静かに降り始めていた。
すべてを白く染め上げ、汚れも、罪も、悲しみも、すべてを隠してしまうかのように。
健一は、冷たくなった彼女の体を強く、強く抱きしめた。
だが、どれほど叫んでも、どれほど涙を流しても、あの銀髪の少女が目を開けることは二度となかった。
世界はただ、白銀の沈黙の中に沈んでいった。