学園一の美少女は、キモデブの俺から絶対に離れない 作:ドン・ドナシアン
夜の八時過ぎ──。
陽奈がお風呂から上がって二階に戻ろうとしたときだった。
ダイニングキッチンからグラスの触れ合う音が聞こえた。明るい笑い声も混じっている。
扉を開けて中を覗くと、お母さんとお父さんの向かいに、隣の家の一条麗子さんが座っていた。
「おばさん、こんばんは」
「あら、陽奈ちゃんこんばんは。またおじゃましているわ。午後にイベント会社主催の食事会があったのよ。余りものだけど食べて食べて」
テーブルの上には夕食のおかずだった鶏の唐揚げとサラダの大皿があって、その横に折り詰めが無造作に広げられている。食べかけで箸が何本か入っていた。ほかにも大きめの透明パックにぎっしりと詰め込まれたお摘まみの容器がふたつ置いてある。
大人三人で飲んでいるらしい。飲みかけの缶ビールやワインの瓶がテーブルに散らばっている。
「うわっ、すごっ。バイキングみたい」
「一応は一流ホテルが会場だったから、それなりだと思うわ。お偉いさんたちがいなくなったら、ホテルの人にパックもらって、みんなで争奪戦よ。おばさん、頑張ったんだから」
「おいしそ。いただきまーす」
陽奈は空いている席に腰を下ろした。お母さんがグラスに麦茶を注いでくれる。
麗子さんは椅子の背に黒いスーツのジャケットを無造作にかけていて、シャツのボタンがひとつ外れている。ネクタイは外して、鞄と一緒にそばの棚に置いてある。
お酒が入っているため頬がほんのりと赤い。
あの真白姉ちゃんの母親だけあって、やっぱり美人だ。
四十代後半には見えない。首の線がすっと伸びていて、シャツの襟元が余っている。化粧は薄いのに、いるだけで空気が引き締まる感じは、真白姉ちゃんと同じだ。
麗子さんは、ネット販売を主体にしたファッションブランドの会社を経営している女社長さんだ。
小さなネットショップから始めて、気がつけば年商数十億を超える企業に育てたそうだ。いまではアパレルメーカーを傘下に収め、海外の一流ブランドとも提携して、ネット上でしか買えない限定ラインを展開したりしているらしい。
正確な数字は知らないけれど、とにかく儲かっているのは間違いない。
たまたま家が隣同士というだけで、一条家は家も庭も広く、家政婦さんを雇っているような高級住宅だ。ごく普通の庶民世帯の木許家とは全く違う。
それなのに、なぜか麗子さんはかなり頻繁にここにやってくる。夕食など三日に一度は一緒じゃないだろうか。
一条家は母親ひとりで、麗子さんは社長業で忙しい。
だから真白姉ちゃんは小さい頃からほとんどうちで育った。ご飯も一緒、お風呂も一緒、宿題も一緒。気づいたらリビングのソファで寝ていて、お母さんに毛布をかけられていたなんてこともしょっちゅうだった。
いつの間にか、木許家に真白姉ちゃんの部屋ができたくらいだ。
陽奈が物心ついたときにはすでに、朝から夜までずっとこの家にいたので、真白姉ちゃんのことを本当のお姉ちゃんだと思い込んでいたほどだ。
麗子さん自身も、仕事帰りに寄ってうちのご飯を食べて、ちょっとだけワインを飲んで、それから帰っていく。ワイン好きで麗子さんが集めているワイン用の保管容器が、なぜかこの家に置いてある。
「麗子さんは、今日は早かったんだね」
夜の八時というのは、忙しい麗子さんにとっては早い方だ。いつもは十時近いことが多い。ちなみに、ただのサラリーマンのお父さんは、夜の七時には大抵晩酌が始まっている。
「ええ。イベントが終わって、そのまま来ちゃった。あの子たちのこともあるしね」
「あの子たちって、真白姉ちゃんたち?」
「そう。中間考査が終わったからお祝いしなきゃって、真白が張り切ってたの」
麗子さんがワイングラスを揺らして笑う。頬の赤みが少し濃くなった気がした。
「ああ、そう言えば、真白姉ちゃんたちは、今日まで中間考査だったんだっけ」
言いながら折り詰めの蓋を開けた。握り寿司がぎっしり並んでいる。箸を伸ばしてひとつ取る。もうひとつ。もうひとつ。
「晩飯食ったばっかだろ」
お父さんが缶ビールを傾けながら言った。
「大丈夫よ。陽奈は陸上部なんだから。いくら食べても全部消化されちゃうわよ」
お母さんがさらりと返す。
「これ、絶品なのよ。ひとつしかとれなかったんだけど」
麗子さんが指したのは、透明パックの中にあった伊勢海老の塩焼きだった。
「じゃあもらい」
陽奈は迷わず、その伊勢海老を箸で自分の小皿に載せた。
「陽奈ちゃんは、中間考査はどうだったの? 中等部は少し前に終わったんでしょう」
麗子さんがワイングラスを飲みながら言った。
「ううん……。まあ、いつも通り。特別よかったことも悪かったこともないかな。まだ、全部戻ってないけど」
「陽奈は安定してるからいいわよね。真白ちゃんは別格として、大悟はねえ……」
お母さんが少し困ったように笑う。
「あいつはむらがあるなあ。自分の好きな内容のときだけはいいんだけど、興味ないときには思い切り手を抜くからなあ」
お父さんが笑った。
「でも、赤点だけはとらないわよね。陽奈と同じで要領はいいのよね」
「あのきもデブと一緒にしないでよ」
陽奈がぼそりと言った。
「ほら、またきもデブって」
お母さんが呆れたように陽奈を見る。
「だってきもデブだし……」
「……でも、まあ、大悟君のこと好きでそう呼んでるんでしょう」
麗子さんがくすりと笑った。
「そんなわけないし」
陽奈は伊勢海老を口に運んで誤魔化した。
「まあどっちにしても大悟は問題ないだろう。卒業さえしちまえば仕事はあるみたいだしな」
お父さんが缶ビールを片手に、口を挟んだ。
「えっ、そうなの?」
陽奈は箸を止めた。
きもデブの兄に就職のあてがあるなんて聞いたことがない。
「ああ、知らなかったか。大悟が作ったゲームのプログラミングを、なんか、そういう会社に持ち込んで買い取ってもらったらしいぞ」
お父さんが言った。
「え?」
「しかも、なんか知らんが、そこの社長さんが大悟はすごい才能だって絶賛でなあ。それで、絶対に、うちに来てくれって。社長さんが俺たちにも挨拶に来たくらいだ」
「……は?」
陽奈は箸を持ったまま固まった。
あのきもデブが……。オタクのきもデブが……ゲームのプログラミングを会社に持ち込んで、買い取ってもらって、社長が挨拶に来た?
「へえ、すごいじゃないの。大悟くんは、プログラミングができるのね。確かに、すごく難しい本ばっかり読んでいると思ったけど。ねえ、ゲームって、どんなゲーム?」
麗子さんも目を丸くしている。
「忘れた──。なんだったっけ、母さん?」
お父さんがお母さんを見る。
「あたしも覚えてないわよ。でも、売れてるって言ってたわ」
お母さんの前にもワインがある。お母さんがぐびりと飲んだ。
「……ふうん」
陽奈は、まだ残っていた伊勢海老の身を全部口の中に入れた。でも、味がよくわからなかった。
全然知らなかった。
あのきもデブが……。
でも、買い取ってもらったと言っていたくらいだから、お金はもらったのだろう。今度、なにかを買わせよう。
「とにかく、あいつ、部屋に引きこもってなにやってるんだかと思ってたら、そういうことだったんだな」
お父さんが上機嫌に手元の寿司を口にする。
「知らなかったのね、陽奈ちゃんは?」
麗子さんが陽奈に顔を向ける。
「うん……全然」
きもデブのくせに、いきなり社長に挨拶に来られるような話をしているなんて……信じられない。
──でも……。
確かに、きもデブはきもデブだし、オタクはオタクだ。
だけど、あの真白姉ちゃんが、あのきもデブにあそこまで夢中になる理由が、もしかしたら少しだけ、わかった気がした。
……いや、やっぱりわからないか……。
陽奈もずっと、あのきもデブと一緒にいるが、これから、どんなにお金を稼ぐようになったとしても、あのきもデブとの結婚だけはあり得ない。
「……それにしても、六月は忙しいわねえ。高等部の体育祭があるでしょう。中等部の体育祭は五月だったけど、六月には球技大会あるのよね」
麗子さんがワイングラスを置いた。
「ああ、そうなの? 陽奈はなにか出るの?」
お母さんが陽奈を見る。
「まだ決まってない……。でも、多分、バレーかなあ」
陽奈は答えた。
球技大会は全部で三種目であり、その中から選ぶことになるが、おそらく、バレーボールになると思う。
「そうか、頑張れよ……。まあ、大悟のときは、そもそも、球技大会も、体育祭もまったく関係なかったからなあ」
お父さんが声をあげて笑った。
「まあ、そんなことないですよ。大悟君も頑張ってますよ」
「そうかなあ……。どうせ、今度の体育祭もなにも出ないんだろう?」
お父さんが首を横に振った。
「いえ、なんかやるって言ったわ。だから忙しいって、言ってたような……。ええっと……確か、得点板を作るとか……」
お母さんが一生懸命に考えながら言う。
「いや、お母さん……、それ、裏方だから。競技じゃないよ」
陽奈は呆れて言った。
「あいつはともかく、真白ちゃんは、なにに出るんです? なにをさせても華があるから、愉しみですよね」
お父さんが麗子さんに視線を向ける。
「色々と頼まれてるみたいですけど、最後のリレーには出るみたいです。アンカーを走るって言ってましたわ。珍しく張り切っていて」
麗子さんが答えた。
「え、真白姉ちゃん、アンカーを?」
陽奈は思わず声を上げた。
「どうかしたの?」
お母さんが陽奈を見る。
「だって、高等部の最後のリレーって、対抗リレーのはずよ。男女混合だけど、普通はアンカーは運動部の男子だもん」
陽奈は説明した。
「へえ……。まあ、あの子、なにをやらせてもできるから……」
麗子さんが言う。真白姉ちゃんは確かに完璧だ。成績もトップ、運動も万能。脚も確かに速い。顔だって──。
でも、女子でアンカーを走るなんてすごい……。
そのとき、ふと思った。
──そういえば、兄たちはどこだろう?
「ねえ、お兄ちゃんたちは? まだ、戻ってないの?」
陽奈が訊くと、お母さんが箸を止めた。
「ああ、大悟と真白ちゃんなら、一緒に風呂に入ってるわよ」
「……お風呂って、あたし、いままで入ってたんだけど……」
陽奈は首を傾げた。
「向こうの風呂よ」
「ああそっち……」
向こう、というのは一条家のことだ。二階の窓から見える隣の家だ。
「でも、いま、一緒にって言った?」
「うん」
お母さんは、なんでもないことのように言った。
「え、また?」
陽奈は思わず言う。
きもデブの情事なんて、想像したくないが、相手はあの真白でもある。毎日毎日、ほぼ一緒にいるし、真白姉ちゃんは、この家だと堂々と、あのきもデブにいちゃつく。
きもデブではなく、真白姉ちゃんの方が、きもデブにくっつきたがるのだ──。
あの感情のわかりにくい、真白姉ちゃんが感情豊かにきもデブに気持ちを伝えようとする。
世界の七不思議だ。
ただ、この一週間は、風呂も寝るのも別だった。だから、そろそろ真白姉ちゃんもきもデブに飽きたのかと心配したが、また元に戻ったようだ。
ほっとしたような、苛つくような……。
「またって。新婚なんだからいいじゃない」
お父さんが笑う。
「いやいや若いからねえ」
麗子さんも笑う。
──一緒にお風呂。
さっき、兄が実はすごいのかもしれないと、少しだけ思い直しかけたところだったのに。
やっぱりだめだ。
きもデブの兄と、あの真白姉ちゃんが、一緒のお風呂に……。
想像しようとしてやめた。
ちょうどそのとき、玄関の方から音がした。ドアが開く音。パタパタと足音が近づいてくる。
「あ、来たわ」
お母さんが立ち上がろうとしたとき、ダイニングキッチンの扉が開いた。
「ただいまー」
兄の声だった。
振り向くと、濡れた髪のままの兄と、その隣に立つ真白姉ちゃんがいた。
ふたりとも半袖と半ズボンのパジャマであり、真白姉ちゃんは、濡れた髪をタオルで包んでいた。
それはともかく、ふたりのパジャマは、薄い青色のお揃いだ。だが、全くそう見えないのが不思議だ。
真白姉ちゃんは、首から肩、袖口までどこもすっとしている。それでいて、出るところは出ていて、ただの薄い青いパジャマが、真白姉ちゃんが着るとそれだけで高そうに見える。
一方、きもデブのは……。
同じ色なのに腹のあたりがぱつんぱつんではち切れそうになっている。ボタンが今にも飛びそうだ。いや、ひとつ飛んでいる。
図々しくもお揃いを着るというだけで、真白姉ちゃんへの冒涜だろう。
「まあ、あんた、その格好で、玄関から来たの?」
麗子さんが真白姉ちゃんを見て、眉をひそめた。
いやいや、その格好という言葉は、真白姉ちゃんよりも、横のきもデブこそが相応しいだろう。
このふたりがすでに夫婦……。
まさに、世界の七不思議だ。