学園一の美少女は、キモデブの俺から絶対に離れない【完結】 作:ドン・ドナシアン
あたしには優しい兄がいる。
──残念ながら、きもデブだ。
背は低い。中三のあたしとほとんど変わらないくせに、横幅だけはしっかりある。丸い。制服はいつもどこかぱつんとしてるし、走ればすぐ息が上がる。声も小さいし、前に出るタイプでもない。
ああいうのって、いじめられる側の見本みたいな体型だし、正直、心配になる。
でも、兄は平気な顔をしている。学校の話を聞いても、特別楽しそうでもなければ、特別つらそうでもない。ただ淡々としている。大人しい。目立たない。
だから逆に、ちょっと疑う。
本当は、なにか隠してるんじゃないかって。
ただ、兄は芯だけはある。
愚図で、へたれで、決断は遅いけど、ここぞってときは絶対に引かない。昔、近所の年上にからかわれても、黙って立ってた。泣きもしなかったし、逃げもしなかった。あのときの顔は、ちょっとだけ怖かった。
だから、多分、大丈夫なんだと思う。
少なくとも、中等部まで聞こえてくる高等部のSNSの噂に、兄の名前が出たことはない。
目立つ女子の恋愛話は流れてくるし、問題児の停学も回ってくる。でも、兄のことは一度も聞いたことがない。
空気みたいな存在。
いないわけじゃない。でも、話題にはならない。
そのうち、いわゆる思春期ってやつに入った。
兄と並んで歩くのが、急に無理になった。
話すのも、なんか恥ずかしくなった。
だって、きもデブだし。
高等部に兄がいることも、できるだけ隠した。
知ってるのは、同じ陸上部の親友の幸恵と、蓮くらい。
校内で手を振ってきても、あたしは視線を逸らす。
声を掛けられても、無視するか、舌打ちで返す。
最低だと思う。
でも、やめられない。
兄は怒らない。
拗ねもしない。
懲りずに、また次の日も声を掛けてくる。
「ひな、帰り一緒にどうだ?」
その声を聞くたびに、胸の奥がざわつく。
あたしは、きもデブの兄が嫌なんじゃない。
きもデブの兄を、他人の目で見る自分が嫌なんだ。
その兄に、毎日のように通ってくる人がいる。
真白姉ちゃん。
物心ついた頃には、もう家にいた。
ランドセルを背負って帰ってきて、兄の部屋の前であの落ち着いた声が聞こえるのが普通だった。夕飯の席にも座っていたし、お父さん、母さんとも自然に話していたし、冷蔵庫も勝手に開けていた。
だから、小さい頃は、この人、あたしのお姉ちゃんなんだって、本気で思っていた。
さすがに小学校に入る頃には、隣の家の人だとわかったけど、それでもほとんど実の姉妹みたいに育った。
誕生日も知ってるし、好きな食べ物も知ってるし、怒るときの顔も知っている。
そして、真白姉ちゃんは、ずっと兄の隣にいる。
兄がすっかりきもデブになっても、変わらない。
正直、意味がわからない。
真白姉ちゃんは、あまり喋らない。笑うときも静かだし、怒るときも声を荒げない。でも、いるだけで空気が整う。背筋がすっとしていて、目線がぶれなくて、気づいたら周りが一歩引いている。
そして、大きくなるにつれて、とんでもない美人になった。
高等部だけじゃない。中等部でも有名だ。告白なんて山ほどされているって聞く。でも一度も応じたことがないらしい。誰とも付き合ったことがない。
なのに、兄とは普通に話す。
いや、普通じゃない。兄の部屋に入るときだけ、少しだけ表情が柔らかくなる。
奇跡みたいな話だと思う。
あんな人が、あのきもデブと幼馴染──。
万が一。億が一……。
兄と真白姉ちゃんが結婚でもすれば、本当に姉妹になれるわけだけど。
……まあ、無理だな。
だって、きもデブだし。ヘタレだし。
兄が真白姉ちゃんを好きなのは、見ていればわかる。
わかりやすすぎるくらいわかる。
でも、告白する度胸なんてあるはずがない。
気持ちを抱えたまま、ずっと隣にいるタイプだ。
だから、この関係は一生このままなんだろうって、あたしは勝手に思っていた。
いつか、真白姉ちゃんに恋人でもできれば、兄のところには来なくなるだろうし、自然と距離もできるはずだ。
それを考えると、少しだけ残念だった。
ほっとする気持ちと、寂しい気持ちが、半分ずつ……。
きもデブの兄と、あんな美人が並んでいる光景は釣り合わない。でも、それがなくなるのも、なんだか違う気がしていた。
だからあたしは、ずっと思っていた。
このままが一番なんだって。
変わらないほうがいいんだって。
「ちょっと待って、これ……」
帰りのバスの中だった。
女子陸上部の地区合同練習は二泊三日。さすがに全員くたくたで、車内は半分寝ていて、半分はスマホをいじっている。
その中で、ひとりが急に声を上げた。
「え、ちょっと、うそでしょ」
前の座席の子たちが身を乗り出す。
「なに? どうしたの?」
「高等部の一条さんに、婚約者ができたらしいって」
一瞬、空気が止まった。
一条真白──。
真白姉ちゃんの苗字だ。
それから、きゃああ、と黄色い悲鳴が弾けた。
「きゃああ、相手は誰よ? サッカー部の工藤先輩、それとも、生徒会長の八木先輩?」
「わかんない。名前は出てない」
「え、なにそれ?」
「高等部では箝口令だって。先生たちが止めてるらしい。だから、今度こそほんとじゃないかって」
ざわざわ、と車内の温度が一気に上がる。
「箝口令ってなにそれ、余計怪しくない?」
「そもそも、婚約ってなによ。恋人すっ飛ばして結婚? ドラマかよ」
どっと笑いが起きる。
「まじで政略とか?」
「大学生とか社会人とかじゃない?」
噂は一瞬で膨らんでいく。
あたしは、スマホを握ったまま、固まっていた。
恋人なのか、婚約者なのか、そこはよくわからない。
でも、とにかく。
ついに、真白姉ちゃんに相手ができた。
あの真白姉ちゃんに釣り合うくらいなんだから、どうせイケメンで、背が高くて、成績も良くて、スポーツもできて、家柄も良くて――そういう人に決まっている。
もしかしたら、芸能人でもおかしくない。
いや、本気で。
真白姉ちゃんそのものが、本物の芸能人より綺麗なんだから。
廊下を歩けば空気が変わる。写真に写れば、勝手に光が入る。文化祭のポスターだって、真白姉ちゃんが写っているだけで完成する。
そんな人を選ぶ相手だ。
きっと、完璧な人に決まっている。
……そして。
あのきもデブは……。
落ち込んでいるに違いない。
あんなにわかりやすく好きだったくせに、なにも言えないまま、終わる。
兄はそういうやつだ。
きっと今ごろ、部屋で一人、スマホも見ずに、天井でも見上げている。
強がりもしない。愚痴も言わない。ただ黙って受け止める。
きもデブの悲哀──。
きもデブの片想い──。
想像したら、なんだか胸が重くなった。
ざわざわしていたバスの中の空気が、急に遠く感じる。
あたしは、スマホを握りしめたまま、暗い気持ちになった。
バスの中は、もう真白姉ちゃんの話題でいっぱいだった。
「え、いつから?」
「まじで誰なの?」
「ああっ、知りたい──箝口令って、なによ──」
車内の空気がざわざわと揺れる。
でも、誰もあたしには訊ねない。
真白姉ちゃんが隣の家で、ほとんど毎日のようにうちに入り浸っていることなんて、誰にも言っていない。あたしと真白姉ちゃんの距離は、学校の中では存在しないことになっている。
だから、あたしはただの後輩だ。
とりあえず、なにか知ってないかと思って、お母さんにメッセージを送った。
『真白姉ちゃん、なんかあった?』
既読は、すぐについた。
『説明しにくいから、家で。なるべく早く帰っておいで』
『遠征、お疲れさん』
そのあと、動物が踊っているイラストが、ずらっと十個くらい並んだ。
……なにこれ?
あたしは、小さく首を傾げた。
学校にバスが到着して、すぐに解散になった。
夕方の道を歩きながら、きもデブの失恋はもう決まったようなものだと思った。胸の奥がずしんと重い。そのまま、重たい足取りで家に向かった。
玄関の扉を開ける。
「ただいま」
返事より先に、奥のリビングから笑い声が聞こえた。陽気な話し声。グラスの触れ合う音。
……え?
靴を脱ぎながら違和感が広がる。リビングの扉を開けた。
「ただいま。帰ったよ」
中には、お父さんとお母さん。それから隣の一条のお母さん。そして――きもデブと真白姉ちゃん。
テーブルの上には寿司とオードブルが並び、大人三人は酒を飲んでいて、とても楽しそうだった。
でも、それよりも、長いソファに並んで座っている二人に、あたしの目は釘付けになった。
密着している。肩と肩が触れ、手と手が近い。兄は少し困ったように笑っている。真白姉ちゃんは柔らかく笑っていた。あの真白姉ちゃんが、と二度見したくなるくらいに。
しかも、小皿にのった寿司を兄の口元に差し出している。
……なにこれ?
あたしは目を丸くした。
「ああ、ごめんね。帰ったのね」
お母さんが笑う。
「おう、とりあえず座れ。お祝いだ。もう一度乾杯だ」
お父さんがあたしの前に置かれたコップにペットボトルのお茶を注ぐ。
あたしは完全に混乱した。ソファの二人とテーブルの大人たちを交互に見る。
「……なんのお祝い?」
「お兄ちゃんと真白さんの婚約だ」
お父さんが答えた。
「違うわよ。婚約じゃないわ。結婚よ」
お母さんが笑って言う。
「ああ、そうだったな。もう籍を入れたんだったな」
お父さんがビールを飲む。
「はあ?」
あたしは兄と真白姉ちゃんを見る。
「真白姉ちゃんの婚約ってお兄ちゃんとなの?」
頭が追いつかない。
バスの中で大騒ぎになっていた真白姉ちゃんの婚約の噂。その相手が、まさか――。
あり得ない。絶対にあり得ない。億が一どころじゃない。兆が一でも足りない。
「違う。婚約じゃなくて結婚。もう籍を入れた。木許真白になった。よろしくね、ひなちゃん」
真白姉ちゃんがいつもの平坦な口調で言った。でも、頬が赤い。
あたしは、こんなふうに照れている真白姉ちゃんを初めて見た。
「えっ……籍って……?」
「ごめんね。うちの真白が暴走して。この子、大悟くんのことになると一直線なのよ。勝手に役所に婚姻届を持っていったらしくて」
一条のお母さんが苦笑する。
えっ……本当に?
「まあ、どうせ結婚するなら今でもいいか。ちょっとばかり早いがな」
お父さんが声を上げて笑う。
「真白ちゃんの行動力にはびっくりしたけどね」
お母さんが楽しそうに笑う。
あたしは目を丸くしたまま、その場に立ち尽くした。
「……そのせいで、学園では、麗子さんと一緒に叱られたんだから……。あんた、反省しているの?」
一条のお母さんがビールの入ったグラスを持ちながら、反対の手で真白姉ちゃんの肩を軽く叩く。
「……大悟は誰にも渡さない……。後悔はない」
真白姉ちゃんはまっすぐ前を向いたまま、瞬きもせずに言い切った。
部屋の空気が、ぴたりと止まった気がした。
「ええっ、ええええっ、本当のことなの──? 真白姉ちゃんが本当のお姉ちゃんになったの──?」
あたしは思わず声を上げた。胸の奥が一気に熱くなる。
「落ち着きなさいよ。ほら、とりあえず、座って」
お母さんが苦笑しながら言う。
しかし、大人しく座るなんてできない。あたしは、真白姉ちゃんとお兄ちゃんのそばに駆け寄る。
「本当に家族になるってことだよね──? えっ、えっ、えっ、じゃあ、これから、真白姉ちゃんはこっちに一緒に住むの?」
「当たり前。ひとりで寝るなんて許さない……。もう夫婦だから」
真白姉ちゃんは淡々と言った。視線は揺れない。
「……えっ、そうなの?」
お兄ちゃんが目を瞬かせる。
「だって、大悟はあたしの旦那様……」
真白姉ちゃんは静かに言い切った。
指先でお兄ちゃんの袖をつまむ。
「うわあっ、すごいじゃない──。やったね、お兄ちゃん──」
あたしはお兄ちゃんに抱きついた。
「……やめて」
真白姉ちゃんが低く言った。
次の瞬間、あたしの手首がそっと引かれる。
真白姉ちゃんの指が、お兄ちゃんからあたしの手を外していた。
「……大悟はあたしの……。陽菜ちゃんでも駄目……」
真白姉ちゃんが鋭く言う。
あたしは思わず一歩、身体を引いた。
ぞくりと背筋が冷える。真白姉ちゃんの目が、凍ったみたいに光っていた。
「こらっ、真白──いい加減にしなさい。全く……」
一条のお母さんが軽く叱る。
「ははは、惚れられてるなあ。よかったな、大悟」
お父さんが笑う。
みんなが笑う中で、あたしだけが黙っていた。
胸がどくどくと鳴っている。
お兄ちゃんと真白姉ちゃん──。
でも、この温度差は何だろう。
もしかして──
お兄ちゃんが真白姉ちゃんを好きなんじゃなくて、真白姉ちゃんが、お兄ちゃんを好きすぎるんじゃないの──?
いずれにしても、あの眼は冗談じゃない。
家族の前でも隠さない眼だった。
大悟はあたしの──。
あの一瞬、真白姉ちゃんの世界には、お兄ちゃんしかいなかった。
あたしは胸の奥をぎゅっと掴まれたみたいに息を止める。
お兄ちゃんは、まだ気づいていない。
あの人に、あんな風に好きになられていることに……。
……でも。
きもデブの兄に、あそこまで本気になる人なんて、この世にひとりしかいない。
だったら……。
あたしはちょっとだけ、誇らしくなった。
──でも、あの眼だけは、忘れられない。