学園一の美少女は、キモデブの俺から絶対に離れない 作:ドン・ドナシアン
「ねえ、昨日の〈ホウ恋〉の配信、見た?」
「見た見た。最後のあれ、絶対にやばいって」
「だよねえ。あたし、思わず叫んじゃった」
制服に着替えながら、幸恵と蓮が昨夜のネット番組の話で盛り上がっている。
陽奈も、ときどき相槌を打ちながら、脱いだ練習着を鞄に押し込んでいた。
桜瀬学園中等部の女子陸上部の更衣室は、練習を終えた二十人ほどの部員たちで賑わっていた。
「ねえ、あんたたち、これから暇?」
そのとき、背後から声が掛かった。
振り向くと、同じ三年生で女子陸上部の副キャプテンを務めるみゆきが立っていた。すでに夏服の制服に着替え終わり、肩にはスポーツバッグを掛けている。
「どうしたの、みゆき?」
幸恵が訊いた。
「高等部の体育祭、見に行かない?」
「ああ、今日だったっけ」
蓮が顔を上げた。
「そう。お姉ちゃんからメッセ来たんだけど、まだ最後の対抗リレーが始まってないんだって。いまなら間に合うじゃん」
「ああ、そういえば、あの一条先輩が女子でアンカーを走るんだっけ? 見たい、見たい」
「工藤先輩も走るみたいだよ」
「藤本先輩は?」
三人がにわかに盛り上がり始めた。
陽奈は、その会話を横で聞きながら、制服のスカートを整えていた。
みゆきには、高等部二年生の姉がいる。みゆきと同じで背が高く、なかなかの美人さんだ。さっきのメッセージも、そのお姉さんから届いたものらしい。
もちろん、今日が高等部の体育祭であることは、陽奈も知っていた。
なにしろ、あのきもデブが高等部に通っているのだ。
ただ、高等部に兄がいることは、親友の幸恵と蓮にだけ教えていた。でも、その兄が誰なのかは、二人にも教えていない。
ましてや、あのきもデブが自分の兄だなんて、絶対に知られたくなかった。
陽奈は小さく嘆息した。
あんなきもデブが兄でさえなければ、真白姉ちゃんと実の姉妹同然の仲だということも、堂々と自慢できるのに。
でも、真白姉ちゃんとの関係を話せば、兄のことを説明しなければならなくなる。
なにしろ、真白姉ちゃんは昔からあのきもデブと仲がよく、いつも一緒にいる。どんな関係なのかと訊ねられれば、どうしても兄の存在を口にしなければならない。
ましてや、いまでは、真白姉ちゃんはあのきもデブの奥さんなのだ。
真白姉ちゃんが結婚したという話は、中等部にもとっくに伝わっていた。相手が高等部三年の木許大悟という男だということも、いまでは結構知られている。
幸い、あのきもデブの顔まで知っている中等部の生徒は、そう多くない。同じ名字だからといって兄妹とは限らないし、いまのところは、どうにか秘密を守れている。
もっとも、いつまで隠し通せるかは、わからないけれど。
これも、すべて、あのきもデブのせいだ──。
「あたし、行く」
幸恵が応じた。
「もちろん、あたしも」
蓮も笑顔で応じる。
「陽奈は?」
みゆきが顔を向けてきた。
「えっ、あたし?」
陽奈は少し考えた。
高等部の体育祭か……。
せっかく今日は練習が早く終わって、体育祭の最後に間に合いそうなのだ。
真白姉ちゃんの雄姿を見たいに決まっている。
今回の体育祭では、男子も出場する対抗リレーで、女子の真白姉ちゃんがアンカーを務めるのだ。
真白姉ちゃんがスポーツ万能で、足が速いことは知っている。小さい頃から一緒に遊んできたし、運動神経が抜群なのもよく知っていた。
でも、実際に男子の運動部員を相手に走る姿は、ほとんど見たことがない。
果たして、どのくらい速いのだろう。
陸上部員としても、純粋に興味がある。
「……うん。あたしも行こうかな」
「じゃあ、決まりね。ほかの子たちにも声を掛けてみる」
みゆきはそう言って、更衣室の奥にいる部員たちの方へ歩いていった。
「ねえ、陽奈。そういえば、高等部にお兄さんがいるんだよね?」
幸恵が思い出したように小さな声で訊ねてきた。
「……うん」
「体育祭、出てるんじゃない?」
「さあ。たぶん、なにも出てないと思う」
「ええ、せっかくの体育祭なのに?」
「そういうの、あんまり好きじゃないから」
陽奈は適当に答えた。
実際、あのきもデブが体育祭の競技に出場するなんて、想像もできない。
それに、体育祭の運営係で忙しいとか言っていた。
確か、得点板を作るとか、そんな話だった。
どうせ、どこかの隅っこで地味な仕事でもしているのだろう。人前に出るようなことは、まずないはずだ。
「行こうよ。リレーが終わっちゃう」
蓮が鞄を肩に掛けた。
「そうだね」
陽奈もロッカーを閉めた。
……まあ、会わなければいいだけだ。
陽奈はそう考えて、幸恵たちと一緒に更衣室を出た。
高等部のグラウンドに着くと、すでに大勢の生徒たちで賑わっていた。
グラウンドの周囲には、数段のコンクリート製の見学席が設けられている。反対側に赤組、白組、青組の応援席が並ぶこちら側には、中等部の生徒たちのほか、保護者や近所の住民らしい大人たちも、ちらほらと腰を下ろしていた。
「そこ、空いてるよ」
幸恵が見学席の一角を指さした。
結局、みゆきが声を掛けた他の女子陸上部の部員たちも加わって、十人ほどの集団になっていた。
陽奈たちは、空いている一角に並んで腰を下ろす。
「わっ、なにあれ?」
突然、蓮が声を上げた。
指さした先は、高等部の校舎だった。
校舎の二階のバルコニーに、三台の大きなモニターが設置されている。
その画面には、赤い龍、白い虎、そして青い肌をした海神を思わせるキャラクターが、次々と現れていた。
三台のモニターを行き来するように、キャラクターたちが動き回っている。
「ああ、なんか、高等部の三年生に詳しい人がいて、あの応援アニメを作ったんだって」
みゆきが言った。
「へえ、すごいねえ……。ていうか、アニメなんて作れるの?」
「うん。なんか、すごい人だって、お姉ちゃんが言ってたよ。その人の作ったスマホゲームも配信されてるんだって」
「げ、まじ?」
蓮は目を丸くしている。
……えっ?
スマホゲームを作って、配信されている三年生?
そんな人間に、心当たりは一人しかいない。
まさか……あのきもデブ?
陽奈は唖然となった。
確かに、得点板を作っているとは聞いていた。でも、こんな大掛かりなものだなんて、一言も聞いていない。てっきり、木の板の看板に数字の大きな文字を貼る係なのだと……。
しかも、兄のことを語りながら、友人たちが揃って感心している。
なんだか、ひどく落ち着かない。
陽奈はもう一度、校舎のモニターを見上げた。
赤い龍が大きく翼を広げ、画面いっぱいに咆哮していた。
……あのきもデブが、これを?
「あっ、あれ、一条さんだ──」
突然、陸上部のひとりがグラウンドを指さした。
「えっ、どこどこ?」
「あそこ。赤いタスキをつけてる人」
陽奈も慌てて視線を向けた。
トラックの内側、ゴール地点から少し離れたところに、三人の選手が並んでいた。いずれも各組のアンカーらしく、それぞれの組の色のタスキをつけている。
その中に、真白姉ちゃんがいた。
真白姉ちゃんは赤いタスキをつけ、まっすぐ前を見つめていた。ときおり小刻みに足踏みをしたり、軽く膝を曲げたりして、身体の調子を確かめている。
その表情は、いつになく真剣だった。
「うわあ、やっぱり綺麗だねえ……」
幸恵が感嘆の声を漏らした。
「ねえ、隣の二人って、男子だよね?」
「……あれ、青組の人、尾崎先輩じゃない?」
幸恵が身を乗り出した。
「あっ、本当だ。高等部の陸上部の二百の県代表じゃん」
蓮も気づいたらしい。
陽奈も青いタスキをつけた男子生徒に眼を向けた。
尾崎先輩だ──。
高等部の陸上部に所属する三年生で、二百メートルの県代表に選ばれたこともある選手だった。陽奈も、練習中に何度か走っている姿を見たことがある。
「ええ、尾崎先輩が相手なの? 一条先輩、大丈夫かなあ」
幸恵が心配そうに言った。
陽奈も、同じことを考えていた。
真白姉ちゃんの足が速いことは、よく知っている。運動神経だって抜群だ。
でも、相手は男子の二百メートルを専門に走っている選手なのだ。
陸上部員の陽奈には、その差がどれほど大きいものか、よくわかる。
それなのに、真白姉ちゃんは少しも緊張しているようには見えなかった。
ただ静かに、これから始まる競技を待っている。
陽奈は膝の上で両手を握りしめた。
そのとき、ふと、真白姉ちゃんから少し離れたところに立っている一団が眼に入った。
番号の付いた旗を持っているので、順位係なのだろう。
その中に、眼鏡をかけた小柄な女子生徒がいた。三本の旗をまとめて抱え、隣にいる男子生徒となにやら話している。
陽奈は何気なく、その男子生徒に眼を向けた。
……げっ──。
小柄で、ずんぐりとした体型。カエルに似た横顔。
間違いない。
……あのきもデブだ。
陽奈は思わず顔をしかめた。
どうして、あんなところにいるのだろう。得点板の操作でもしていればいいのに、よりによって、真白姉ちゃんの近くに立っているなんて。
しかも、眼鏡の女子生徒と楽しそうに話している。
女子生徒がなにかを言うと、きもデブは少し呆れたように肩を竦めた。それを見て、女子生徒が笑っている。
……へえ……。
陽奈は少し意外に思った。
あのきもデブが、真白姉ちゃん以外の女子と、あんなふうに普通に話しているなんて……。
もっとオドオドして、まともに眼も合わせられないものだと思っていた。
ところが、遠目に見る限り、そんな様子はまるでない。
むしろ、ずいぶん親しそうだ。
……なんだ。普通に話せるんじゃん。
そのとき、グラウンドにアナウンスが響いた。
『選手の皆さん、スタートの準備をしてください』
それまで賑やかだった応援席が、次第に静かになっていく。
『位置について──』
トラックの向こう側のスタート地点で、三人の選手がクラウチングスタートの姿勢を取った。
号砲が鳴った。
リレーが始まった。
白組が先頭に立ったかと思えば、赤組が追い抜き、今度は青組が追い上げる。三組の順位は目まぐるしく入れ替わり、応援席からはそのたびに大きな歓声が上がった。
やがて第十走者にバトンが渡った。
白組がわずかに先頭を走り、赤組、青組がほとんど差のないまま追いかけている。
「ねえ、次って、サッカー部の工藤先輩じゃない?」
蓮がトラックの向こう側を指さした。
「あっ、本当だ。一条さんの前が工藤先輩なんだ」
幸恵が声を弾ませた。
そのときだった。
赤組のアンカーとして待機していた真白姉ちゃんが、不意に右手を高く掲げた。
人差し指を一本、まっすぐ天に突き上げている。
「きゃあ、見て。一条先輩、格好いい」
仲間たちが一斉に盛り上がった。
真白姉ちゃんの合図に応えるように、工藤先輩も片手を高く掲げた。
「俺に、任せろおお──」
グラウンドに工藤先輩の雄叫びが響いた。
赤組の応援席が、ひときわ大きな歓声に包まれた。
「うわあ、工藤先輩、気合い入ってるねえ」
「そりゃあ、一条先輩にあんなことされたら、頑張っちゃうよね」
幸恵たちが笑っている。
だが、陽奈は面白くなかった。
……もう、真白姉ちゃんったら。
陽奈はちらりと兄の方を見た。
すぐ近くに、ちゃんときもデブがいるのに……。
いくらきもデブだからって、あんなに格好いい工藤先輩を、わざわざあんなふうに応援しなくたっていいじゃん。絶対に気にするに決まっている。
お兄ちゃんが見てるんだよ──。
陽奈は、ちょっとむっとして、真白姉ちゃんを睨みつけてしまった。
……だって、お兄ちゃんがかわいそうじゃん。
第十走者がトラックの向こう側のバトンゾーンに近づいた。
白組がわずかに先頭を走り、そのすぐ後ろを赤組が追っている。
工藤先輩が片手を上げ、バトンを受け取る準備をした。
「早く、来い──」
赤組の走者が駆け込んでくる。
白組とほとんど同時にバトンが渡った。
工藤先輩が勢いよく飛び出した。
「あっ、工藤先輩、速い」
幸恵が声を上げた。
工藤先輩はあっという間に白組の男子に並びかけ、そのまま追い抜いてしまった。
「きゃあ、抜いた、抜いた」
「工藤先輩、格好いい──」
幸恵も蓮も立ち上がった。ほかの陸上部員たちも次々と腰を浮かせ、工藤先輩に向かって歓声を上げている。
工藤先輩は力強く地面を蹴り、ぐんぐんと白組との差を広げていった。
『赤組、先頭に立ちました。工藤選手、速い。白組を引き離していきます』
放送席の声に、赤組の応援席が大きく沸いた。
でも、陽奈は立ち上がらなかった。
視線は、工藤先輩ではなく、トラックの内側に立っている兄に向いていた。
誰も、あのきもデブのことなんて見ていない。
みんな工藤先輩に夢中だ。
……お兄ちゃん、大丈夫かな。
さっきの真白姉ちゃんの行動、やっぱり気にしているんじゃないだろうか。
でも、遠目に見る限り、そんな様子はなかった。
兄は、いつの間にか、眼鏡の女子生徒が持っていた三本持っていた旗のうち一本を押しつけられている。
旗には、大きく「1」と書かれていた。
……なんだ。普通じゃん。
陽奈は少し拍子抜けした。
あんなに格好いい工藤先輩を真白姉ちゃんが応援していたのに、気にならないのだろうか。
それとも、気にしていないふりをしているだけなのか。
……まあ、いいけど。
陽奈は再びトラックへ視線を戻した。
工藤先輩は最後のコーナーを抜けようとしていた。
「うわあ、すごい差がついたね」
「これなら一条先輩、かなり有利じゃない?」
幸恵たちが興奮した声を上げている。
工藤先輩の先には、赤いタスキをつけた真白姉ちゃんが待っていた。
すでにバトンゾーンに移動し、走り出すタイミングを計っている。
「真白おおお──」
工藤先輩が叫んだ。
真白姉ちゃんが走り出した。
工藤先輩も速度を緩めることなく、その後を追う。
二人の距離がみるみる縮まった。
「はっ」
工藤先輩が声を上げる。
真白姉ちゃんは振り返ることなく、右手を一瞬だけ後ろへ差し出した。
その手に、工藤先輩のバトンが渡った。
「あっ、うまい」
陽奈も思わず声を上げた。
走り出すタイミングも、バトンを渡す位置も、ほとんど完璧だった。
真白姉ちゃんは少しも速度を落とすことなく、そのまま加速していく。
「きゃあ、一条先輩、行けえ──」
仲間たちの歓声が、再び大きくなった。
少し遅れて、白組のアンカーにもバトンが渡った。
さらに、そのすぐ後から青組の尾崎先輩もバトンを受け取った。
「あっ、尾崎先輩も行った」
みゆきが声を上げた。
真白姉ちゃんはすでに第一コーナーへと向かっている。
「すごい、一条先輩、速いじゃん」
「このまま逃げ切れるんじゃない?」
幸恵たちが歓声を上げた。
しかし、陽奈は青組の尾崎先輩から眼を離せなかった。
尾崎先輩は凄まじい勢いで加速すると、前を走る白組との差をぐんぐん縮めていった。
「あっ、尾崎先輩、速い」
「うわっ、追いつくよ」
半周を過ぎたところで、尾崎先輩が白組の男子に並びかけた。
そして、一気に追い抜いた。
『青組、二位に浮上。さあ、先頭の赤組を追います』
尾崎先輩の勢いは止まらなかった。
今度は真白姉ちゃんとの差が、少しずつ縮まり始めたのだ。
……まずい。
陽奈は思わず身を乗り出した。
尾崎先輩は、ここからが速い。
……真白姉ちゃん、逃げて。
陽奈は膝の上で両手を握りしめた。
真白姉ちゃんは必死に走っていた。
大きく腕を振り、長い脚で力強く地面を蹴っている。
それでも、尾崎先輩との距離は少しずつ縮まっていた。
「一条先輩、頑張ってえ──」
「尾崎先輩、行けえ──」
見学席でも、応援席でも、誰もが立ち上がって声を張り上げていた。
陽奈も、いつの間にか立ち上がっていた。
真白姉ちゃんが、あんなに必死に走っている。
でも、尾崎先輩が迫ってくる。
最後のコーナーを入ったときには、もう二人の差はわずかしかなかった。
尾崎先輩が外側に進路を取った。
抜くつもりだ。
……真白姉ちゃん、頑張って。
グラウンドは大歓声に包まれていた。
すぐ横で幸恵たちがなにか叫んでいる。でも、その声さえ聞き取れないほどだった。
そのときだった。
陽奈は、ふとトラックの内側に眼を向けた。
お兄ちゃんが、すっと身体を伸ばすようにして、真白姉ちゃんの方を見ていた。
そして、大きく口を開いた。
「真白おおおお──抜かれるなあ──」
陽奈は眼を見開いた。
お兄ちゃんの、あんな大声を聞いたことがなかった。
もちろん、その叫びはグラウンドを包む大歓声に紛れていた。周りの誰も、お兄ちゃんが叫んだことなんて気づいていないだろう。
でも、陽奈には聞こえた。
確かに、お兄ちゃんが叫んだのだ。
その瞬間だった。
真白姉ちゃんの顔が、一瞬だけ、嬉しそうに微笑んだように見えた。
……え、うそっ──。
次の瞬間、真白姉ちゃんが加速した。
ほんのわずかだった。
でも、確かに、それまでとは違う。
尾崎先輩が懸命に追っている。それなのに、もう距離が縮まらない。
「真白姉ちゃん、頑張れえええ──」
陽奈の口からも大声が迸っていた。
ゴールまで、あとわずか。
尾崎先輩が最後の力を振り絞るように迫った。
しかし、届かない。
「真白姉ちゃああああん──」
絶叫する。
胸ひとつの差。
真白姉ちゃんが先頭のまま、ゴールテープを駆け抜けた。
『ゴール。赤組、一位です。木許選手、青組の猛追を振り切りました』
割れんばかりの歓声が上がった。
陽奈は立ち尽くしたまま、ゴールした真白姉ちゃんを見つめていた。
しかし、その姿はあっという間に狂喜乱舞した赤組の選手たちに囲まれてしまっていた。
……勝った……。
真白姉ちゃんが、尾崎先輩に勝った。
でも、陽奈の頭からは、さっきの光景が離れなかった。
お兄ちゃんが叫んだ。
その直後、真白姉ちゃんが微笑んで、加速した。
……まさか、ね。
そんなこと、あるわけない。
それでも陽奈は、もう一度、トラックの内側に立っている兄の姿を探していた。
だが、とんでもない光景がグラウンドで起こっていた。
「大悟──」
突然、真白姉ちゃんの声が響いた。
赤組の選手たちに囲まれていた真白姉ちゃんが、その輪を抜け出して駆け出したのだ。
……えっ?
陽奈は思わず眼を見開いた。
真白姉ちゃんが向かっている先には、一位の旗を持ったお兄ちゃんが立っていた。
お兄ちゃんも驚いたように、真白姉ちゃんを見つめている。
次の瞬間だった。
真白姉ちゃんが、お兄ちゃんの胸に飛び込んだ。
「ええっ?」
陽奈の口から素っ頓狂な声が漏れた。
真白姉ちゃんはお兄ちゃんの首に両腕を回し、ぎゅっと抱きついている。
そして──しばらく抱きついていたかと思ったら、いきなり、お兄ちゃんにキスをした。
……えええええっ?
陽奈は完全に固まった。
すぐ横からも、悲鳴のような声が上がった。
「きゃあああ、キスしたあ」
「えっ、なに、あれ?」
「一条先輩だよね? あの人、誰?」
幸恵も蓮も、眼を丸くしてグラウンドを見つめている。
「えっ、もしかして、あの人が旦那さん?」
「うそっ、あの太ってる人?」
「ええっ、あの人が一条先輩の旦那さんなの?」
驚きの声が次々と上がった。
「だって、一条先輩が?」
「そうだよ。なのに、なんであんな人と……」
「ちょっと、信じらんないんだけど」
幸恵たちが口々に言い合っている。
陽奈は、なにも言えなかった。
グラウンドでは、赤組の選手たちも呆気に取られたように二人を見つめていた。
応援席からは口笛や冷やかしの声まで飛んでいる。
それなのに、真白姉ちゃんはお兄ちゃんから離れようともしない。いまだにキスを続けている。
その姿を見つめているうちに、陽奈はふと気がついた。
……あれ?
真白姉ちゃんは、リレーに勝って感極まったように見える。
でも、違う。
陽奈にはわかった。
あれは、かなり冷静だ。
真白姉ちゃんは、興奮して我を忘れるような人ではない。少なくとも、あんな大勢の前で、自分がなにをしているのかわからなくなるような人ではなかった。
……もしかして、わざと?
陽奈は改めて、二人を見つめた。
お兄ちゃんは一位の旗を持ったまま、すっかり面食らっている。
ところが、真白姉ちゃんには少しも慌てた様子がない。
……ああ、そういうことか。
陽奈はようやく理解した。
真白姉ちゃんは、リレーに勝った喜びを利用しているのだ。
学園中の生徒が見ている前で、あのお兄ちゃんが自分のものだと、堂々と見せつけている。
……もう、信じらんない。
真白姉ちゃんが、あのきもデブに異常なほど執着していることは、陽奈もよく知っている。
どうしてそこまで好きなのか、いまだにまったく理解できないが……。
でも、ここまでやるとは思わなかった。
陽奈は鼻白んだ。
「……ねえ、まだキスしてる」
横で蓮がぼそりと呟くのが聞こえた。
真白姉ちゃんは、さらに顔を押しつけている。
……ちょっと、舌まで入れてない?
陽奈は呆れて眼を細めた。
……ああ……あれ、絶対に調子に乗ってる……。
さっきまで、あんなに格好よく走っていたのに。
学園一の美少女が、みんなの憧れの一条先輩が、今はあのきもデブに夢中になっている。
しかも、それを隠すどころか、全校生徒に見せびらかしているのだ。
陽奈は溜息をついた。
……もう、好きにすればいい……。
陽奈は半ば呆れながら、二人を眺めていた。
「ねえねえ、あの人って誰なの? どんな人?」
突然、みゆきが悲鳴のような声を上げた。
「一条先輩の旦那さんなんでしょ? 誰か知ってる?」
ほかの陸上部の友人も叫ぶ。
「確か、木許って名字だったよねえ……」
「でも、あんな人、高等部にいたんだね」
幸恵も蓮も、興奮した様子で話している。
陽奈は、もう一度グラウンドに眼を向けた。
やっとキスだけはやめたけど、真白姉ちゃんは、いまだにお兄ちゃんに抱きついている。
お兄ちゃんは困ったような顔をしているけれど、真白姉ちゃんは本当に幸せそうだった。
……もう、しょうがないなあ。
「……あたしのお兄ちゃん……」
陽奈はぽつりと呟いた。
「……え?」
幸恵が振り返った。
「いま、なんて言ったの、陽奈?」
「陽奈、なに?」
蓮もみゆきも、陽奈の顔を見つめている。
陽奈は少しだけ唇を結んだ。
そして、グラウンドの二人を見つめたまま、今度は少しはっきりと答えた。
「あたしのお兄ちゃんよ」