学園一の美少女は、キモデブの俺から絶対に離れない【完結】 作:ドン・ドナシアン
「……じゃあ、俺ら、向こうに戻るわ」
大悟は居間に向かってそう言った。お父さんとお母さんと真白のお母さんは、まだ酒を続けている。
笑い声が重なり、グラスが触れ合う音が響く。入籍の夜。三人とも上機嫌でまだ盛りあがっていた。
玄関へ向かう。
隣までは数歩だ。昔から行き来は当たり前で、境界なんてあってないようなものだった。
それでも今日は、妙に意識する。
向こうで寝る、と言い出したのは真白だった。
『今日は、あたしの家』
静かに、そう言った。
大悟は特に反対しなかったが戸惑いはした。
なにしろ、木許家側には、二階には真白の部屋もある。制服も鞄も、ほとんど木許家側に置きっぱなしだ。
実質、こちらで生活しているようなものだったので、いつの間にか、大悟と妹の陽奈の部屋のほかに、真白の部屋も作られていたのだ。
だが、一条家側には、二階には真白の部屋しかない。
わざわざ、真白が一条家側にというのは、つまりは、そういうことなのだろうか……?
妙に緊張する。
けれど、その理由を聞くほどでもないと思った。
「あれ、どこ行くの? 風呂空いたよ」
声がして振り向く。
陽奈が立っていた。パジャマ姿で髪はまだ濡れている。首元にタオルを掛けたまま、こちらを見ている。
「今日は向こうで寝る……ことになった」
大悟は、できるだけ普通に言う。
「え、なんで? 部屋で寝ないの?」
まっすぐな疑問だった。
言葉に詰まる。
そのとき。横の真白が大悟の半歩前に出た。
「ひなちゃん」
真白が呼ぶ。
低い声だった。穏やかで、きれいで、でも温度が少しだけ下がった気がした。
だが、なぜか、陽奈の顔がたじろいだようになる。
「……大人の話……。詮索はだめ」
同時に、真白が後ろに手を伸ばして大悟の手を取った。
指が絡む。
強い。
反射的に握り返そうとしたが、その必要はなかった。真白のほうが、先に力を込めている。
親指が、指の付け根に食い込む。
「う、うん……ごめんね……」
陽奈が小さく言って、ほんのわずかに後ずさる。
そんなに、怖がるようなことか、と大悟は思う。
真白は怒っていない。怒鳴ってもいない。ただ静かに言っただけだ。どんな表情なのかわからないが……。
「行こ」
振り返った真白が微笑む。あまり表情の変わらない真白だが、大悟だけに見せるいつもの笑顔だ。きれいで、落ち着いていて、なにも変わらない。
ただ、握られた手が、離れない。
絡めた指が、ほどけない。
靴を履くときには一度離されたが、すぐにまた握ってきた。玄関の戸を開けたときも、外に出たときも、そのままだった。
隣の家まで、ほんの数歩。
そのあいだずっと、手は握られたまま。
放す気配がない。
「実際、どうして、真白の部屋なんだ?」
真白が一条家の玄関を開けるときに訊ねた。
「……大悟は上手だから……」
すると、ほんの囁くような小さな声が返ってきた。
「えっ?」
「声が出る。恥ずかしい……」
真白が握る手にさらに力が加わり、熱くなった。
ふと、横を見る。
玄関の電灯に照らされる真白の耳は真っ赤になっていた。
真白の部屋は六畳の和室だ。
入口は襖。入って右手に窓。窓の下に低い本棚。正面の壁際に小さな机と椅子。左手に箪笥がひとつだ。いつ来ても整然としていて、畳の目までまっすぐに揃っているように見える。
机の上には余計な物がない。教科書とノートが端を揃えて重ねられ、シャープペンはペン立てに一本だけ立っている。読みかけの本すら、しおりがきちんと挟まれて閉じられていた。
窓際のカーテンは半分だけ閉められ、外の街灯の光が細く差し込んでいる。夜の空気は静かで、この部屋だけ時間が止まっているみたいだった。
真白が大悟の家に来ることが圧倒的に多いので、実は、そんなに真白の部屋に来たことはないが、散らかったところをほとんど見たことがない。
そして、中央の畳に、ひと組だけ布団が敷かれている。
白い敷布団に、掛け布団。枕は二つがぴたりと並んでいた。
大悟は机の椅子に座り、その光景をぼんやりと眺めていた。
自分がシャワーを浴びているあいだに、真白が準備したものだ。この部屋は昔から変わらないのに、中央に置かれた布団だけが、今日の意味を主張しているように見えた。
背もたれに寄りかかり、足を組みかけてやめた。
膝の上で指を組み直す。
畳の中央にある布団を、どうしても視界から外せない。
『声が出る。恥ずかしい……』
さっきの言葉が、遅れて浮かぶ。
そのとき、階段を上る足音がした。
止まる。
襖の向こうで、衣擦れ。
襖が、静かに開いた。
「えっ?」
思わず声が漏れた。
襖の向こうから入ってきた真白は、濡れた髪をそのまま下ろしていた。肩を越えて、背中の半ばまで落ちる黒髪から、まだ水気が残る。首筋が細く、鎖骨が白く浮いている。
そして──。
着ているのは、白いTシャツ一枚だった。
胸元のロゴに見覚えがある。
洗い立てではない、さっきまで大悟が着ていたものだと、すぐにわかった。
「それ……俺の……」
「うん。借りた」
真白は何でもないことのように言う。
太っている大悟のTシャツは真白の体には少し大きいはずなのに、なぜか胸の輪郭は隠れきれてない。薄い布が、身体の線に沿って静かに落ちている。
部屋に入ってきた真白が動いた拍子に、胸元の布がわずかに張った。
息が止まる。
薄い布の下、胸の膨らみの中心に、かすかな乳首の輪郭が浮かんでいる。上はTシャツの下には、なにも着けていないのだと、遅れて理解する。
慌てて逸らす。
「……見ていいよ。あたしは大悟のものだから…….……その代わり、大悟はあたしのもの……」
「えっ?」
言葉よりも、逃がさないと告げるような静かな圧に、大悟は思わず視線を真白へ引き戻された。
その真白が大悟の前の布団のそばに膝をついた。Tシャツの裾が持ち上がる。
一瞬、Tシャツの裾の下、太ももの付け根近くに、白い布が見えた。ほんのわずかに青い刺繍があり、下着だとわかるその縁が、すぐに布の陰へと隠れた。
呼吸が乱れる。
見えたのは一瞬なのに、目に焼き付いて離れない。
「……な、なんで、俺の脱いだシャツなんて……。俺、汗かきだから、汗臭いだろう?」
大悟はかすれた声で言った。
「問題ない」
真白は頷く。
「なにがだよ。折角、身体洗ってきたのに」
「大悟の匂いがいい……。それに、どうせ、あとで同じ匂いになる」
「えっ?」
思わず絶句する。
真白は布団に膝をついたまま、椅子に腰掛けている大悟を静かに見上げてくる。
いつもと同じ、落ち着いた目……。
だが距離が近い。
大悟はどうしても視線を動かしてしまう……。Tシャツの盛り上がりと小さな乳首の陰……裾からのぞく脚……。
心臓がやけにうるさい。
整然とした六畳の中央に、ひと組の布団と、その上に、自分のTシャツだけを着た真白。
息が熱い……。
「……改めてよろしく、旦那様……。それとも、ご主人様?……」
真白が布団の上に正座になり、身体の前に手を置いて頭をつけた。
布団に伏せた背中が弓なりに反り、裾の下から、青い刺繍の入った白布が覗く。
「わっ、頭をあげてくれ」
慌てて言った。
真白が顔をあげる。
「……ありがとう、結婚してくれて……。だから、約束……、大悟はあたしに好きなことしていい……。その代わりに、あたし以外に触っちゃ駄目」
静かな声だった。
甘さよりも、条件の提示に近い。
「……俺がほかの女に相手にされるわけないだろ……。この俺だぞ」
苦笑いのつもりだった。
「さっき、ひなちゃんに触った」
声がすっと低くなる。
「ひなって……さっきのことか?」
婚姻が成立したと知って、陽奈が思わず抱きついてきただけだ。
妹だぞ、と言いかける。
だが……真白の眼を見た瞬間、言葉が止まる。
凍ったように澄んだ瞳。
責めていない。
けれど、譲らない。
「……わ、わかった」
それだけを口にする。
「うん」
真白が満足したように頷く。
ほんのわずかに、口元が緩む。
その変化を見たとき、大悟は、胸の奥に小さな冷たさが走るのを感じた。
甘いはずなのに。なぜか、少しだけ怖い気がした。
だが、大悟は首を横に振って、おかしな思念を振り払う。
大悟は椅子から降りて、真白の前に同じように正座になった。
大悟は、改めて真白を見る。
六畳の中央。ひと組の布団。その前に正座している真白──。
白いTシャツ一枚の姿なのに、なぜかだらしなさがない。むしろ整いすぎている。濡れた髪が肩を越えて落ち、細い首筋と鎖骨の線を際立たせる。街灯の光が横から差し込み、輪郭を淡く縁取っていた。
背が高く、脚も長い。顔立ちは整いすぎているほど整っている。無表情に近いのに、目だけが強い。
学園一の美少女──。
高嶺の花──。
自分とは無縁の存在だと、ずっと思っていた。
そんな真白が、自分の妻になりたいと暴走して、入籍までしてくれた。
……勝手にされたのだけど……。でも、ものすごく嬉しく感じてはいる。この真白と結婚できたのだ。いまでも、どこか現実感がない。
「お、俺、努力する。少しでも真白の夫に相応しいように」
思わず口に出ていた。
「はあ?」
しかし、なぜか、真白の眼が細くなって、不満そうな声が戻ってきた。
「えっ……俺……なんか、変なこと言った?」
「努力って、なにするの……?」
やはり、声は冷たかった。
明らかに、気に入らないときの声色だ。
「……え、ええっと、まずは見た目とか……きもデブをどうにかして……勉強も……」
言いながら、自分で情けなくなる。
真白の目が、さらに、すっと冷えた。
「なに、それ……」
声は低い。
「なんで、見た目を変えるの?」
畳の上に置いていた手が、ゆっくりと動く。
「な、なんでって……こんなきもデブ……いやだろう? あまり変わりばえしないかもだけど……しっかりと運動して……髪とかちゃんとして、服も……」
「必要ない──」
真白が大悟の言葉を遮る。
「え……?」
「格好よくなってどうするつもりなの? ほかの女とも仲良くするの?」
「いや、そんなわけ……」
「だったら、変わる必要ないでしょう──。格好よくなる必要ない。いまのままでいい。問題ない──」
淡々としている。
怒鳴っているわけじゃない。
けれど、圧がある。
大悟は口を閉ざした。
真白が一歩、膝でにじり寄る。膝と膝が接する。
「大悟は、そのままでいい」
真白がきっぱりと断定する。
「……努力するなら、あたしだけを見る努力をして」
目が逸らせない。
畏れ多いほど綺麗な顔で、真白は当然のように言う。
「大悟は、あたしの夫なんだから」
大悟の喉が鳴る。
「で、でも……いまのままじゃ……真白も笑われるし……。真白に嫌な思いを……」
「くどいよ──」
真白がほんの少し声を大きくした。
それだけで、大悟は身体をびくりと震わせてしまった。
「ご、ごめん──」
思わず返す。
「大悟は努力しなくていい──。努力するのはあたし……。こんな綺麗な女が大悟の恋人で妻なんだって、大悟が自慢できるように、あたしは自分を磨いている。でも、大悟はなにもしちゃだめ……」
「なにもって……」
「それとも、まだきもデブって、大悟を笑って苛める人がいる? だったら教えて──。また、あたしが排除してあげるから──」
真白が珍しく感情を乗せて言った。
大悟は、その一言に引っかかった。
「えっ、“また”、って言った?」
視線を向けると、真白は一瞬だけ目を逸らした。ほんのわずかに。だが、誤魔化すときの癖だった。
「なんでもない」
短く切る。
それ以上は語らない顔だ。
大悟は、胸の奥に引っかかりを残したまま、ふと思い出す。
中等部の頃、陰で絡んできた連中がいた。持ち物を隠されたり、笑い者にされたり。陰で蹴られたりされていた。真白と親しくしていたことも、気に入らなかったらしい。
その連中は、ある時期を境に、急にいなくなった。
公立中学校に転校だと聞いた。理由は知らない。
ただ、その頃から、真白は学園では距離を取るようになった。
家では変わらないのに。
大悟は真白を見る。
無表情──。
なにも読めない。
偶然だろうか、と自分に言い聞かせる。
だが、「また」という言葉だけが、静かに残った。
「……それよりも、大悟」
真白が立ちあがる。
押し入れになっている襖を開いた。
その下段には、小さな本棚があった。
見覚えのある装丁が、ずらりと並んでいる。
「えっ……あれ?」
大悟は、思わず声をあげた。