※この作品はR-18です。

禁忌の書庫アポクラ ~書庫の主とガチ恋するまで出られない部屋~   作:とくめい

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2話

──ねぇ、誰かを愛するって、どういうこと?

 

 

フリーレンの前を歩いていたハイターとアイゼン、そしてヒンメルが振り向く。フリーレンが唐突に問いを発することは珍しくなかったが、今回は問いの内容そのものが突拍子もなかった。

 

「どうしたフリーレン」

 

「腹でも減ったのか」

 

「お小遣いならこの前あげたでしょ」

 

 

誰がどの台詞を喋ったのかについては、ここでは些事に属する。

 

 

「そうじゃなくて」

 

 

とフリーレンは首を振るが、なぜそんなことを三人に訊いたのか、フリーレン自身も動機は今一つ分からない。

 

つい数日前、数週間に及んだ遺失物の捜索依頼が完了したということは、少なからず関与しているはずだった。

 

宿泊先の村で知り合った老女から依頼された、騎士団長であり彼女の伴侶であった人物の形見の回収。

 

魔物が跋扈する渓谷の底には、確かに遺骸と共にペンダントはあった。

死に別れの喪失感は、フリーレンにも理解できた。

 

短命種(にんげん)にとって生がどれだけ死別との連続であるのかも。

ただそれはそれとして、死者の記憶や記録に固執し続ける意味についてはよく分からなかった。ましてや財産や生命を賭けてまで価値のあるものだとはとても思えない。

 

しかし旅の最中で受け取る依頼のほとんどは、突き詰めれば故人との因果に関わるものだった。それがフリーレンにとっては不思議でたまらない。

 

 

「私は僧侶ですから、生涯独身です。だから情愛という意味では無縁ですね」

 

 

フリーレンは笑われると思って訊ねたのだが、ハイターは存外、真面目に問いに応じた。

 

 

「女神様に愛を誓ったということ?」

 

「どうでしょう。信仰は確かに愛と言えるのかも知れませんが、個人に手向ける感情とは趣が異なります。この世界は女神の寵愛によって成されたというのが、聖典の語るところになりますが、これもやはり情愛とは違いそうですね」

 

 

ふうん、とフリーレンは腕を組む。信仰心は死者の在り方を上書きする。

「寵愛」の解釈を巡っては、国単位での戦争が引き起こされることすらある。

だが確かに、それはフリーレンの知りたい「愛」とは少し異なった。

 

万物に向けられた無条件の愛ではなくて、もっと条件的で複合的で内向的な──そういう愛だった。

 

 

「アイゼンもそういうのとは無縁そう」

 

 

フリーレンの言葉に、失礼な、とアイゼンは鼻を鳴らす。

 

 

「これでも昔はモテていたんだ」

 

「昔って何年前ですか」

 

 

とハイター。ドワーフはエルフほどでないにしろ、人間を遥かに超越した寿命を持つ。

 

 

「ドワーフ族にとって愛するに値する魅力とはなんだい?」

 

 

ヒンメルの問いに、アイゼンは腕っぷしを見せ、

 

 

「当然、戦士としての誉れだろうな。戦いの中で自らを誇示し、死線を潜り抜けた名誉がそのまま魅力となる」

 

「力は手段で、愛はひとつの結果か」

 

 

フリーレンは呟く。

 

フリーレンには戦士の精神など分からなかったが、しかしその明快な観念には好感を覚えた。

生は力への希求で、求心は力への憧憬で、葬送は力との惜別に過ぎない、物理運動のように単純な世界。

神秘と言葉に鎖された女神の愛よりは、フリーレンの知りたい愛にずっと近いような気がした。

 

 

「ヒンメルはどうなんだ?」

 

 

アイゼンが問うと、ヒンメルは前髪をかき上げて、

 

 

「僕も当然モテるからな。昔も、今もだけど」

 

「こいつに訊いたのが間違いだったな」

 

「そうじゃなくて、愛とはどういうものかが知りたいんだよ」

 

 

そう冷酷に切り捨てるフリーレンとアイゼンに、ヒンメルはみるみる内に萎れた顔になった。

 

ハイターは快活に笑っている。

 

 

「まあ、別に是が非でも知りたいわけじゃないからいいんだけどね」

 

 

溜息をつくフリーレンに、ヒンメルは顔を正した。

うーん、と悩むように首を反らして、

 

 

「上手く言葉にできないかも知れないんだけど」

 

 

そう前置きした上で、ヒンメルは言葉を紡いだ。

 

 

 

 

 

◆

 

 

 

 

 

──あのとき、ヒンメルは何と言ったんだっけ──。

 

 

 

 

フリーレンの脳裏で、かつての三人の会話が蘇る。

だがどうしても記録の最後、ヒンメルのターンになったときの記憶が掠れていた。

ヒンメルはどう答え、そのとき自分はどう思ったのか──。

大切なことだったような気がするし、そうでもなかったような気もする。

 

 

フリーレンはふわりと浮かぶ金色の文字で、アポクラの主が言葉にしたことの逐一を、備忘録として虚空に記していた。その最後にはこう綴られている。

 

 

『アポクラの主に対し、魂の底から恋焦がれること』

 

「これが……ここから出るための条件」

 

 

フリーレンの声に、主は宙に記述された文字を見つめて小さく唸った。

 

 

「……魂の底からねぇ。まあ、うんと愛し合えればいいってことかな?」

 

 

顎に手を当て、うんうんと考え込む主に、フリーレンは呆れたように半眼になる。

 

まるでこの男は他人事のようだが、実際、アポクラから出るための手段は主自身にも操作できるものではないらしい。

 

 

「あんな立派な書庫の主なのに、なんだか頼りにならないね」

 

「突然のディス。返す言葉もないけど……これは感情とか心の問題だろ? システム管理……書庫の主の俺には、そういう不確定なものはどうしようもないんだ」

 

 

そこで主の視線が、浮遊する文字そのものへと移った。

 

 

「……それにしてもこの魔法、綺麗だな。光る文字が浮かんでいるなんて、幻想的ですごく素敵だ」

 

 

唐突な話題転換に、フリーレンは眉をひそめかけたが――主がただ純粋に魔法の構造に見入っているのを悟り、わずかに口元を緩めた。

 

 

「ふふん。これはね、書いた文字が宙に浮かび上がる魔法。民間魔法の応用だけど、色も変えられる。色んな装飾にも使えるんだ」

 

 

得意げに胸を張って説明すると、主は「すごいな」と目を輝かせた。

 

 

「戦闘用の魔法や厳重な結界術の記録ばかり見てきたからな。こういう、ただ生活を彩るための魔法って、見ていて楽しいな」

 

 

その直後だった。

主の掌に、ふわりと金色の文字が浮かび上がった。

 

 

(……まさか、模倣した? いまの一瞬で?)

 

 

しかも、魔力の流れがフリーレンの卓越した魔力探知をもってさえ、まったく感じられなかった。

 

単なる見よう見まねではなく、ほとんど別物と言って良いほど高度な運用によって、魔法が実現していた。

 

 

「今のは……」

 

「うん。構造を見れば、複雑な魔法じゃないし。このアポクラの中なら、ある程度どんなものも再現できるよ」

 

「ここの主としての特権、みたいなもの?」

 

「そんな感じかな。ただ、俺かアポクラの承認を受けた者でも可能だよ。便利そうに見えて意外と欠点が多いんだけどね」

 

わかってしまう。

 

この主は魔力を全く消費していない。

 

 

アポクラには、様々な世界から流れ着いた膨大な知識の結晶が集約されている。

 

それはフリーレンの知る魔法だけではなく、別世界で流通している、まるで構造や理論の異なる力や技術をも包括している。

 

だが、ただ知識を有したところで、その力を行使できるわけではない。

 

楽譜の読み方を知ったからといって、即座に楽器を奏でられるわけではないのと同様に。

 

だがこの主の話によれば、アポクラという空間ではその制約が無効化されるという。

 

力は知に、知は力に。

 

エントロピーを無視して、機会無制限に相互変換できる。

 

筆記魔法くらいであれば良いが、この主が仮に戦争のためにアポクラを利用した場合、ひとつひとつが未知である兵器を無尽蔵に放ち続けられる武器庫になるということだ。

 

フリーレンを纏う魔力が数百年ぶりに意識せず揺らぐ。

 

大陸を何度も滅ぼせるだけの規格外な力が、この飄々とした男にはある。

 

 

「でもこんな空間に来訪者を置くなんて、感心しないね。数年いるだけで絶対的な力が得られるような場所なのに。私がこんなことを言うのもあれだけど、来訪者は外に出すべきではない。『ガチ恋』に協力なんてせず、殺すか永遠に閉じ込めるのが得策だと思うけど」

 

「心配はご無用に。俺はいつまでもここにいられるけど、来訪者はそうはいかない。例えどんなにここを気に入っても、滞在は一年が限界だ」

 

「……一年?」

 

「ああ。もっとも“ここの時間”での一年だ。アポクラの時間は外よりずっと遅く流れていて……一年過ごして元の世界に戻っても、経っているのはせいぜい数日、場合によっては数分なんてこともある」

 

「一年過ごしても、ほんの数分……。便利すぎて、逆に怖いね」

 

「考えようによってはそうだな。だから外の時間を気にせずにいられる分、つい夢中になって……気づけば期限が迫ってる、なんてこともある」

 

「期限を過ぎたら?」

 

 

そこで主の声が、わずかに低くなる。

 

 

「わからない。みんなその前に条件を達成して帰るから。……でも妥当に考えれば、知識の海に溶けて自我を失うか、空間の塵になるか……じゃないかと思う」

 

 

フリーレンは小さく息を吐く。

ここでいつまでも知識を得続けることができないというのは、自分にとっては残念な話だが、世界にとっては間違いなく朗報だろう。神の量産化が懸念されないということなのだから。自分だって、あの書庫に居続けて自己を保持し続けられる自信なんてない。

 

 

「一年なんて、私にとっては一瞬だよ。でも……溶けてなくなるのは、さすがに御免だけど」

 

「もっとも、帰ったあとでも自分の意思で戻ってこられる。ただし、ここにいられる来訪者は一人だけだ。誰かが滞在している間は他の者は入れない」

 

「……自由にここに戻れるの?」

 

 

それなら話は別だとフリーレンは思う。

危険域に入るまではアポクラに滞在し、条件を満たして帰還した後、再び出直すことが可能ということだ。寿命が尽きるまで何度もアポクラに入り、知識と力を得ることができる。

しかも元の世界では体感よりも時間が消費されていない。

 

 

「扉を開く鍵を持っていればね。どこの扉からでも入れるよ。ただ、また帰還するには条件が必要になるけど」

 

 

例え幾度目かの訪問であれ、必要な条件は変わらず、『ガチ恋』すること。

しかし一度ガチ恋を経験しさえすれば、二度目はそれほど難しくないように見える。

それとも同じ人物に二度心酔することは困難なことなのか──フリーレンには見当がつかない。

 

様々な制約はある。危険も。

 

とはいえ仮にそれらを上手く攻略できれば、この空間はフリーレンにとって何物にも代えがたいほど理想郷だった。

 

それだけに、なんとか攻略することはできないかとフリーレンは考える。

 

例えば『主』がアポクラを支配する権限全般を意味するのなら、その権限を移譲する手立てはあるのだろうか。

 

 

「さて、フリーレン。君のためにも、君には俺に魂の底から恋焦がれてほしい。そのためなら俺はなんでもしよう」

 

 

アポクラの主は面白くてたまらないとでも言うように、にやにやと笑いながら手を差し伸べる。

 

フリーレンは少し考え、こう言った。

 

 

「じゃあ、デートしようか」

 

 

 

 

 

 

 

◆

 

 

 

 

 

 

「フリーレン様。シュタルク様にデートに誘われてしまいました」

 

 

城塞都市ハイスで、フェルンとシュタルクの双方からデートの内容に関する相談を受けたことを、フリーレンは思い出す。

シュタルク側にはフェルンが好きそうなスポットを教え、フェルン側にはファッションやトークの選定を手伝った。

 

 

「私はお姉さんだからね。デートくらい何度も経験があるよ」

 

 

そう二人の前では豪語したものの、フリーレンにはデートの経験がなかった。

 

別に経験がないからといってフリーレンはそのことにコンプレックスを抱いているわけではなかったし、体験の有無はアドバイスの正確性や信憑性に直接寄与するわけでないとも思っている。

 

実際、フェルンとシュタルクのデートはそこそこ上手く進んだはずだ。

 

恋をするからデートするのか、デートの中で恋をするのかという問いもまた、フリーレンの中ではどうでもいい。

 

相互融通することくらいはあるだろう。

 

こんなことになるのだったら、「デートが必ず成功する魔法」の用意はしておくべきだったかも知れないとフリーレンは思うが、そんな魔法があるのかは知らないし、自分がアポクラを出られない以上はアポクラ内のデートということになる。

 

ひとたび魅入られれば自力での脱出が難しくなるあの『書庫』を、案内人付きで探索できる。

 

これがデートと強弁し得るのならば、フリーレンにとっては間違いなく最上のデートプランだった。

 

そう考えていたところで、隣を歩いていた主が真面目なトーンでフリーレンに言った。

 

 

「覚えておいてほしいことがある」

 

 

フリーレンは首を傾げる。柔らかな声に反して、男の瞳には鋭い真剣さが宿っていた。

 

 

「アポクラは広すぎて、俺でも全部を見きれない。流れ着く知識の中には危険なものもあって、まれに自律して動く『異常な本』が、警備をすり抜けて書庫を徘徊することがある」

 

 

そこで主は言葉を区切り、はっきり告げる。

 

 

「だから、少しでも“おかしい”と感じたら、迷わず逃げよう。できる限りは君を守るつもりだが、ここに入り込める異常は、君より厄介な存在である可能性がある」

 

 

続いて、落ち着いた声で補足した。

 

 

「アポクラに入った来訪者には、自動で安全措置の術式が付く。命に関わる攻撃を検知すると、一度だけ攻撃を無効化する結界が展開され、同時に『客間』に強制転移する。最低限の命の保証はある」

 

 

主は、ポケットから一枚の真新しい銀貨を取り出し、フリーレンに手渡した。

 

 

「でも、精神までは守れるかどうか怪しい。未探索の区域には幻覚を見せる怪異もいる。もし自分の認識がおかしいと思ったら、そのコインを弾いてみてほしい。異常があれば、絶対に『縁で立つ』から。……君のためのお守りだ」

 

 

フリーレンはコインを上着のポケットにしまい、小さく頷いた。

その仕草に、主の表情はようやく少しだけ緩む。

 

同時に、主の脳裏に、忘れられない過去の光景がフラッシュバックした。

 

 

 

 

 

◆

 

 

 

 

 

『主様も、一緒に死にましょう?』

 

 

虚ろな瞳で微笑む青髪の少女は、底なしの崖へ踵を浮かせたまま、ふわりと手を差し伸べた。

 

 

『……俺は死ねないんだ、――』

 

『なら、どうか見届けてください。――が目を覚まして、―――くんのところへ還るのを』

 

『このコインを見てくれ!』

 

 

主は震える手で一枚の銀貨を投げ落とした。

澄んだ音を立てたコインは、パタンと冷たい石畳に平たく倒れる。

 

 

『縁で立たずに倒れただろう! ここは現実だ。ここで死んでも元の世界には絶対に帰れない!』

 

 

だが、虚無に沈んだ彼女の瞳にコインは映らない。

言葉が届かない絶望の中、主は必死に手を伸ばす。

どんな魔法の知識も、この少女の心を救う役には立たなかった。

 

『生きなければ、いけないんだ。辛くても、苦しくても……心が擦り切れて軋んでも!』

 

『理引尽ばかりで決して楽じゃない……っ! それでもきっと人生は素晴らしい。生きてさえいれば、きっと……! だから――、俺を見ろ! それはダメだ……ッ!』

 

 

――だが、少女は愛おしそうに幻影に微笑みかけ、そのまま暗い虚空へと身を躍らせた。

 

 

『ありがとう』

 

 

それが最後の彼女の言葉だった。

 

 

 

 

 

◆

 

 

 

 

 

 

 

ギュッと無意識に拳を握りしめ、主は静かに息を吐き出す。

 

 

 

「……どうかした?」

 

 

不意に黙り込んだ主を不思議そうに見つめ、フリーレンが首を傾げる。

その声にハッと我に返った主は、曖昧に微笑んで首を振った。

 

 

「いや、なんでもないよ。行こうか」

 

 

そう答えた主の横顔に、一瞬だけ深い影が落ちていたのをフリーレンは疑問に思いながら見つめる。

 

(……それにしても……気楽なデートだと思ってたのに、そう単純でもないか)

 

魅力的な書庫。しかしその管理主と同行してさえ、好きなように歩き回れない危険もある。

探索済みの区域だけでも相当な広さを持つ空間。未探索の場所も含めれば、その全容はとても計り切れるものではない。

 

魅力的な書庫。しかしその管理主と同行してさえ、好きなように歩き回れない危険もある。

探索済みの区域だけでも相当な広さを持つ空間。未探索の場所も含めれば、その全容はとても計り切れるものではない。

小さくなっていた好奇心の火が、再び強く輝こうとしているのを感じる。必死に冷静を保とうとするフリーレンを見透かすように、男は口を開いた。

 

 

「興味が勝るのは理解できるよ。だが好奇心は猫を殺すものだ。俺から離れないことがこのデートのルールだよ。いいね?」

 

「それはいいけど。……主は本当に戦えるの?」

 

 

フリーレンは値踏みするように目を細める。

仮に戦闘になった場合、逃げるにしろ立ち向かうにしろ、男の力量を把握しておくことは肝要だった。

それによって、可能な戦術やサポートの方法も変わってくる。

痛いところを突かれたように、主は苦笑交じりに頷いた。

 

 

「魔法や剣術の知識は完璧に引き出せるけど、命の取り合いになる『本当の実戦経験』がないのが弱点でね。いざ二人で戦うとなった場合、俺は君に後れを取るだろう」

 

 

自分の弱点を隠さない誠実さに、フリーレンは小さく頷いた。

 

 

「……わかった、じゃあ、私を守れないと思ったら、迷わず私の後ろに隠れて」

 

「ありがとう」

 

 

アポクラの主は胸に手を当て、真っ直ぐな感謝を述べる。

生まれて初めて出逢うタイプの性格類型に、フリーレンはやりにくさを感じた。

言葉には上手くできないが、心の内奥を叩かれるような居心地の悪さを覚える。

 

 

「しかし、アポクラの案内なんて久しぶりだ。フリーレンほどの戦闘経験者でなければ、客間の外には連れて行かないようにしているからね。正直俺も、ワクワクしているよ」

 

「一体、今はどこに向かっているの? どこまでも書棚が続くのなら、どこに行こうとも同じだと思うけど」

 

「『外』に向かっている。もちろん、アポクラの外ではないけどね。俺がそう呼んでいるところさ。そこで、夜景が見たい」

 

「夜景?」

 

 

窓がないこの『書庫』で、どう景色を見るのか分からないまま、フリーレンは段々と明度を落としていく書棚の狭間を歩いていく。

はぐれたらまずいなと考えていると、いつの間にかアポクラの主はフリーレンの手を握っていた。

 

 

「大丈夫。もうすぐだよ」

 

 

ほぼ暗闇の中で、男の声だけがする。恐ろしいことに、闇はやがて瞼の裏よりもずっと暗くなった。フリーレンは諦めて目を瞑り、男の手を誤って離さないことだけに注力した。もしこの手を離せば、自分自身をも手離してしまうことになるだろうとなぜか思った。

 

 

「よし、目を開けていいよ」

 

 

フリーレンが目を恐る恐る開けると──眼前に広がった景色に、思わず息を呑んだ。

 

そこには、現実と幻のあいだを漂うような街の姿があった。

 

二人はいつの間にか、切り立った崖の上に立っていた。

 

目を開いたことで時間が再開したかのように、風がフリーレンの髪を後方に引っ張った。

 

二人の対向側にもまた、こちらよりも幾分か低い崖があり、街はそれと一体化する形で展開されている。

 

崖の縁に沿って家々が段々に積み重なって、まるで岩肌そのものが光を灯しているようだった。

 

細い路地が糸のように絡み合い、その合間を縫うように灯りが瞬く。

 

窓や街灯の光は一つひとつが柔らかく、色も形もわずかに異なり、まるで人々の息づかいがそのまま外に漏れ出しているかのようだった。

 

遠くの丘の稜線は淡く霞み、その向こうにも、まだ幾重もの光の層が広がっている。

 

崖下の川沿いにも灯りが連なり、ゆったりと流れる水面に映って揺れている。

 

見ているだけで、心の奥がやさしく包まれるような感覚を覚えた。

 

これまでにも数えきれない景色を見てきた。高山の頂から望む朝焼けも、海に沈む黄金色の夕日も。

 

それでも、目の前の光景はどれとも違った。

 

静かで、やわらかくて、見ていると心の奥まで光が染み込んでいくような――そんな美しさだった。

 

 

「『書庫』の……外?」

 

「いや、ここも『書庫』の中だ。向こうに見える街もね。君が編んだ金色の文字と同じ、ある力によって結ばれた印象さ」

 

「すごくいい眺め」

 

「嬉しいよ。これを君に見せたかった」

 

 

主は愛おしそうに眼下の灯りを見つめた。

 

 

「ずっと一人でこの無機質な空間にいると、たまに人の暮らしの明かりが無性に恋しくなる時があってね。『外』がほしかったんだ。これが、俺がアポクラで最初に望んだ力だよ」

 

 

笑うかい、という男の問いに、フリーレンは首を横に振った。

 

 

「分かるよ。私が一番好きなのも、花畑をつくり出す魔法だから」

 

「へえ」

 

 

と心底興味深そうな声音で感嘆する彼。

 

 

「良い魔法を知っているね。ぜひ今度、見せてほしいな」

 

 

アポクラの主はそれから、街を臨めるように据え置かれたテーブルと椅子にフリーレンを招いた。

椅子は二人分あり、今までも誰かを招待したことがあるようだった。

丸く小さなテーブルの上には一本の美しい細工が施された瓶とグラスがある。

 

 

「アポクラが誇るのは、書物だけじゃない。異世界の魔道具や嗜好品も揃ってる。……もっとも、その八割はガラクタで、まともなのは二割くらいだけど」

 

 

瓶を軽く振り、琥珀色の液体が灯りに透ける。

 

 

「その二割の中でも、かなりの当たりが――この酒だ」

 

 

ゆっくりと注がれた液面から、果実と蜂蜜を思わせる甘い香りがふわりと漂う。

グラスを渡す主の顔はどこか得意げで、同時に相手の反応を楽しみにしているようだった。

 

 

「この理不尽な空間と、素敵で綺麗なエルフのお姉さんとの出会いに──乾杯」

 

 

フリーレンは渡されたグラスを持ったまま、わずかに目を丸くした。

 

 

「……変なこと言うね」

 

「変じゃないさ。本気で思ってる。実際にフリーレンは綺麗だよ」

 

 

真顔でさらりと言ってのける主に、フリーレンは小さく息を吐いた。

昔、馬鹿な勇者にも似たようなことを言われた気がする。

あの時も今も、人間の美的感覚はよくわからない。

 

 

「……乾杯」

 

 

あえてその言葉には触れず、グラスを合わせる。

軽い音が響き、琥珀色の液面がわずかに揺れた。

酒を口に含んだ瞬間、フリーレンは小さく目を見開く。

甘くてほんのり苦く、それでいて果実のような香りが鼻を抜け、喉を心地よく通っていく。ハイターが隠し持っていた秘蔵の酒よりも、ずっと洗練された味だった。

 

 

「……美味しい」

 

 

思わず零れた言葉に、主は満足げに頷く。

二人はそれから、言葉を交わした。

話題はとりとめがなかったが、それゆえにいつまでも続いた。

旅の途中で見た珍しい魔物の話、互いの好きな食べ物、書庫で見つけた変わった本の内容……。

主はとても聞き上手で、フリーレンが口にした些細な話題さえ、興味深そうに耳を傾けた。

 

その心地よさに、気づけばフリーレンの肩の力が抜けていた。

 

初対面の、得体の知れない空間の管理者。

 

それなのに、まるで長い付き合いの友と話しているようで、時間の流れさえ忘れてしまいそうだった。

 

笑い声が一段落し、場の空気がふっと静まる。

軽く回された琥珀色の液面が、窓の向こうの夜景を揺らして映す。

 

 

 

「……フリーレン。君はエルフで、ずっと長く生きてきたんだよな」

 

「うん」

 

「千年を生きるって……あっという間だった?」

 

 

唐突な問い。ただ純粋に――そして、ほんの少しの怯えを滲ませて。

彼は、手元のグラスを見つめたまま、ゆっくりと言葉を探す。

 

 

「もしこの先、何百年、何千年って生きていったら……今の時間も、誰かと過ごした大切な時間も、全部……思い出せなくなるんじゃないかって、ふと考えるんだ。忘れたくないのに薄れていくのが、想像するとちょっと怖いなって」

 

 

訊けば、男はアポクラの主になってから、そう時間が経っていないのだという。

体感の範囲では百年程度しか経過していない。

その間、若さは凍結したまま、寿命が進んでいる気配はない。

男の見立てでは、自分はこれから何千年と生きていくことになるということだった。

 

それがアポクラの主になるということであり、その宿命なのだと。

 

永遠に近い時間を管理することになる彼から漏れた、ひどく人間臭い不安。

 

フリーレンは、忘却を恐れたことなどあまりなかった。

 

人間の一生は束の間で、自分を知っている者は瞬く間に地上から拭い去られる。

 

それはそういうものであり、自然の摂理なのだと考えていた。

 

だがヒンメルたちとの旅を経て、人がどれだけ誰かに忘れ去られることを恐れ、忘れてしまうことを恐れているのかを知った。

 

それは勇者ヒンメルでさえ、そうだっただろう。

 

そして彼はその恐怖を乗り越えた上で、更には忘却を恐れる者たちの道標であろうと努めた。

ヒンメルの像は大陸の各地に存在する。

 

人々はそれを見ることで、現在が過去との一続きであることを痛感し、災厄と平和が連続していることを知る。

 

自分が眠っていたそのときでさえ、時間は流れていたのだと思う。

死者から生者は生まれ、だから死者は存在していたのだと感じる。

 

 

『僕は、誰かを愛するということは、自分の生を記録してくれる対象を選ぶ行為だと思う。もちろん、人は死んでも、存在しなかったということにはならない。どこかでその痕跡はいつまでも残り続ける。でも人は、遺し方を選ぶこともできるんだ。自分が生きていたという証をどのようにして遺すか、手段を選択できる。そしてその対象が誰かひとりに向けられるとき、それはきっと愛と呼ばれることなんだろう』

 

 

あのとき語ってくれたヒンメルの言葉が、しばらく思い出せなかった続きが、フリーレンの頭の中で再生される。

 

フリーレンにはその言葉の意味が、ヒンメルが語ってくれたときよりもずっと、今ではよく分かるような気がした。

ハイターはフェルンを遺し、アイゼンはシュタルクを授けた。

フェルンやシュタルクが彼らの形見であるとは思わないが、二人がこの世界に存在した証であることに違いはない。もっとも、アイゼンはまだ存命ではあるけれど。

 

 

「……大丈夫だよ」

 

 

フリーレンは、手元のグラスを置き、静かに告げた。

 

 

「思い出は……ちゃんと残ってる。千年生きた私が言うんだからね。でも、もし不安になったら、その思い出を私に語るといいよ。そうしたら、私が主の思い出をいつまでも記憶し続ける。形見を失くしてしまったのなら、私がそれを見つけに行こう。こう見えても、失くしもの探しは経験豊富でね」

 

 

その言葉は、静かで、凛としていて、迷いがなかった。

その響きに、主はわずかに目を見張る。

彼の言葉の奥に覗いた孤独や不安が、どこか他人事に思えなくて。

自分と同じ時の流れの果てに立つかもしれないこの男が、急に、ひどく幼い子供のように見えた。

 

 

「……ん」

 

 

気づけば、フリーレンは無意識に手を伸ばしていた。

少し身を乗り出して、男の頭にぽん、と手を乗せる。

そして、かつてハイターやヒンメルが自分に、あるいは自分がフェルンにしたように、不器用な手つきで彼の髪を撫でた。

 

 

「……フリーレン?」

 

 

予想外の行動に目を丸くする主。

フリーレンは、撫でる手を止めないまま、わずかに得意げな顔を作った。

 

 

「私はお姉さんだからね」

 

 

それは、恋愛感情などという甘いものではない。

千年の時を生きるエルフから、永遠の孤独に怯える若き管理者へ向けた、純粋な慈愛と慰めだった。

アルコールで少しだけ緩んだ心が、いつもなら絶対にしないような行動を引き出していた。

主は呆気にとられていたが、やがて困ったように眉を下げ、くすりと笑った。

 

 

「……そういうふうに撫でられるのは、初めてだよ」

 

「そう。光栄に思いなよ」

 

 

返しは淡々としていたが、男の髪を梳く指先には、確かな温もりがこもっていた。

窓の外の夜景が、穏やかに二人の輪郭を照らしている。

 

 

「フリーレン。短くなるか、長くなるか分からないけれど、今日からよろしく」

 

 

主は、静かにそう言った。

それは条件をクリアするための打算ではなく、同じ永い時を歩く者に対する、純粋な敬意のようだった。

 

 

「こちらこそ、よろしくね」

 

 

フリーレンは撫でていた手を下ろし、まっすぐに主の瞳を見返す。

 

その穏やかな表情に、フリーレンの胸の奥にも、ほんの少しだけやわらかな熱が宿るのを感じた。

 

それもまた、決して「恋」と呼べる代物ではない。

 

だが、巨大で無機質な書庫の管理者が、ただの「ひとりの人間」として、彼女の目に映った瞬間だった。

 

 

 

 

 

――カチャリ、と。

 

どこか遠くで、錠前がひとつ外れるような微かな音がした。

 

ふたりは気づかない。

 

その音が、決して開くはずのなかった出口の扉に、確かな変化をもたらしたことを。

 

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