「ふわぁぁ……やっぱり、ベッドで寝られるって最高ね」
窓から差し込む朝日を浴びながら、ナミは大きく伸びをした。
三日間、波に揺られる小舟の上で過ごし、夜は硬い甲板に体を横たえていた。久しぶりの柔らかなベッドは、一度沈んだら二度と起き上がりたくなくなるほど心地いい。
それでも今日は、いつまでも寝ているわけにはいかなかった。
「ココヤシ村に帰らなきゃ。一億ベリーを用意して……ベルメールさんのお墓参りもしておきたいしね」
十年間続いたアーロンとの取引も、村のみんなが怯えながら暮らす日々も、今日の昼にはすべて終わる。
そう思うと、眠気などすぐに吹き飛んだ。
ナミはベッドから降りると、手早く身支度を整えた。服を着替え、髪をまとめ、机の上に置いていた荷物を確認する。
その途中で、手が止まった。
「あれ……?」
机の端に置いていたはずのものがない。
引き出しを開け、中をかき回す。机の下を覗き込み、ベッドの脇や隙間まで探した。それでも見つからない。
胸の内に、じわりと嫌なものが広がっていく。
「なんで……確かに机の上に置いたのに……」
記憶違いではない。
昨夜、部屋へ戻ってきた時、確かに机の上へ置いた。
ナミがバッグの中身を漁っていた、その時だった。
「探しているのは、これか?」
背後から低い声が落ちてきた。
振り返ると、部屋の入口にクロオビが立っていた。その手には、折り目のついた古い地図が握られている。
ナミの表情が固まった。
それは、子供の頃に描いた一枚の地図だった。
(なんで、あいつが持っているのよ)
「どうした、ナミ。随分と顔色が変わったな」
「それ、私の地図よ。返して」
ナミはすぐに歩み寄り、地図へ手を伸ばした。
だが、クロオビは腕を軽く上げただけでそれをかわした。背丈も腕の長さも違う。ナミがもう一度取り返そうとしても、地図は指先のわずか先で揺れるだけだった。
「古びた地図だが、よく描けている」
クロオビは地図を広げ、値踏みするように眺めた。
「地形を見る限り、この島全体を描いたものだな。そして、この印がついている場所は……ココヤシ村か」
地図の一角に描かれた大きなバツ印。
クロオビの目が細くなる。
「ここには何がある?」
「別に、なんだっていいでしょ!」
バシッ!
ナミは地図を奪い返し、すぐに折り畳んで懐にしまった。
「なんだってよくはない」
クロオビの声には笑いも怒りもない。ただ、獲物の嘘を探るような冷たさだけがあった。
「もしそれが財宝の在り処を示す地図なら、仲間で山分けしなければならないからな」
「残念ね。これは子供の頃、遊びで描いたただの宝の地図よ」
嘘ではなかった。
この地図は、ナミが生まれて初めて描いた宝の地図だ。
ただし、海賊が欲しがるような金銀財宝が埋まっていたわけではない。
地図に記された宝とは、ココヤシ村そのものだった。
ベルメールとノジコと暮らした小さな家。みかん畑。ゲンゾウや村のみんな。貧乏でも毎日が輝き、笑い声が絶えず、明日が来ることを疑いもしなかった日々。
あの頃のナミにとって、それ以上の宝などどこにもなかった。
だが、皮肉なことに、今では本当に宝の在り処を示す地図になっている。
アーロンから村を買い戻すため、十年かけて集めた一億ベリー。その金は、ココヤシ村にあるナミの家の裏手、みかん畑の一角に埋めてある。
隠し場所を知っているのは、ナミとノジコだけだ。
アーロンにも、幹部たちにも、手下の魚人にも教えていない。こいつらに知られれば、どんな理由をつけて奪われるかわからない。
今日まで積み重ねてきたものが、すべて台無しになる。
その危険が、今まさに目の前まで迫っていた。
ナミは懐へしまった地図を、服の上から押さえた。
「随分と信用してくれないのね。分け前はきちんと渡してきたし、アーロンに頼まれた海図だって、全部描いてきたでしょう」
「ああ。だが、俺はお前を一度たりとも信用したことはない」
クロオビは一歩、ナミへ近づいた。
「村人を裏切り、親を裏切り、金以外は何も信じない。そんなお前を俺が信用するとでも思ったか?」
言葉が胸の奥へ突き刺さる。
村を裏切った。ベルメールを裏切った。
それはアーロン一味へ入り込むため、ナミ自身が選んだ仮面だった。誰に憎まれてもいい。村のみんなに裏切り者だと思われてもいい。
一億ベリーを集め、村を解放できるなら。
そう決めたはずなのに、面と向かって言われると、何も感じずにはいられなかった。
けれど、クロオビの前で傷ついた顔など見せられない。
「今さら、あんたに信用してほしいなんて思ってないわ」
そして、わざと強く言い切る。
「今日の昼になれば、私はもうあんたたちの仲間じゃなくなるんだから」
クロオビの横をすり抜け、そのまま部屋を出る。
背後から追ってくる気配はなかった。
長い廊下を歩き、アーロンパークの門を抜けるまで、ナミは一度も振り返らなかった。
朝の海風が頬を撫でる。
昨日までなら心地よく感じたはずの風が、今日は妙に冷たかった。
「……最悪の朝ね」
懐に入れた古い地図を確かめる。
誰にも知られてはいけない。
一億ベリーをアーロンへ渡す、その瞬間までは。
ナミはココヤシ村へ向けて歩き出した。
———♢♢♢————
「不良娘が帰ってきたわ」
聞き慣れた声に、ナミは顔を上げた。
青い髪に、小麦色の肌。その露出した肩や腕からは、いくつもの刺青が覗いている。
ナミの義姉、ノジコだった。
「みんな、久しぶり」
ナミの声が、静かな村の通りに響いた。
その手には、ここへ来る途中で摘んだ色とりどりの花が束ねられている。道端に咲いていた中から、なるべく綺麗なものを選んできた。
「ナミ……」
「ナッちゃん……」
通りにいた村人たちが、一斉にナミを見る。
何人かは何かを言いたそうに口を開きかけたが、結局、誰も声をかけてはこなかった。目が合えばすぐに逸らし、荷物を抱えていた者は足早にその場を去り、家の前にいた者たちも次々と扉の向こうへ姿を消していく。
あっという間に、村の通りから人影が減っていった。
ナミはその光景を黙って見送った。
アーロン一味の仲間となった自分に関われば、どんな厄介事に巻き込まれるかわからない。村のみんなが自分を避けるのも当然だ。
そう思っているからこそ、ナミも誰かを呼び止めようとはしなかった。
「どうしたの?」
ノジコがナミの隣に並んだ。
「あんたが村の真ん中を堂々と歩いてくるなんて珍しいじゃない」
「ちょっとね」
ナミは前を向いたまま、少しだけ笑った。
「そろそろ、慣れておこうかなって思って」
アーロン一味に入ったあの日から、ナミはこの村への出入りを禁じられていた。
もっとも、それを律儀に守っていたわけではない。
村の外れには、ベルメールやノジコと暮らしていた家がある。みかん畑もあれば、ベルメールの墓もある。だから島へ帰ってきた時には、人目を避けて村の裏手から回り、家や墓へ足を運ぶことは何度もあった。
それでも、こうして村の真ん中を堂々と歩くことはなかった。
今日までは。
「ん?」
ノジコのそばにいた男が、ナミへ顔を向けた。
帽子に風車を差した、村の駐在ゲンゾウだ。
「ナミ、いつ戻ってきたんだ?」
「昨日よ、ゲンさん」
「そうか……今回は随分長かったじゃないか。なかなか帰ってこないから心配してたんだぞ。無事でよかった」
「……ゲンさん」
その言葉を聞いた瞬間、ナミは突然ゲンゾウへ抱きついた。
「お、おい!? ナミ、どうしたんだ!」
予想もしなかった行動に、ゲンゾウの体が固まる。両手を宙に浮かせたまま、どうしたものかと目を泳がせていた。
「あら」
その様子を見ていたノジコが、面白そうに笑う。
「どうしたの? 急にゲンさんに甘えたくなった?」
「……なんか、急にこうしたくなったの」
ナミはゲンゾウの胸に顔を寄せたまま答えた。
ベルメールがいなくなってからも、ずっと自分たち姉妹を気にかけてくれた人だ。
口では村に来るなと言いながら、ナミが帰ってくればいつも無事を確認してくれる。ベルメールの代わりにはなれなくても、ナミにとってゲンゾウは、ずっと変わらず自分を見守ってくれている大切な人だった。
「まったく……どうしたんだ、今日は」
困ったように言いながらも、ゲンゾウはナミを振りほどかなかった。
そこで、ナミが手にしている花束に気づく。
「その花は……ベルメールにか?」
「うん。あとでお供えしようと思って、ここに来る途中で摘んできたの」
「そうか」
ゲンゾウは花束を見て、穏やかに笑った。
「綺麗な花だ。ベルメールもきっと喜ぶ」
「……うん」
ナミの顔にも、自然と笑みが浮かんだ。
村を離れたナミとノジコは、二人で丘を登った。
村の外れにある小高い丘からは、コノミ諸島を囲む青い海が一望できる。潮風が吹き抜けるその場所に、ベルメールの墓はあった。
ナミは持ってきた花を墓前へ丁寧に供え、その前にしゃがみ込む。ノジコも隣に腰を下ろした。
しばらくの間、ナミは何も言わずに墓を見つめていた。
ベルメールを失ってから、もう十年になる。
本当に長かった。
「ベルメールさん……」
独り言のような、小さな声だった。
「ようやく、ココヤシ村を救えるよ」
そう告げて、静かに墓前へ手を合わせる。
今日の昼、一億ベリーをアーロンへ渡せば終わる。ベルメールが殺されたあの日から続いていたすべてが、ようやく終わるのだ。
「ねえ、ナミ」
隣からノジコの声がした。
「なに?」
「あんた、今日はちょっと変よ」
「変?」
「いつもここに帰ってくる時は、魚人たちへの文句ばっかり言ってるじゃない。今日はやけにおとなしいし……なんだか朝からずっと変」
ノジコはナミの横顔を覗き込んだ。
「何かあったの?」
ナミは少しだけ迷ったが、ノジコには隠しておきたくなかった。
二人は昔から、嬉しいことも辛いことも、何でも話してきた。ベルメールがいなくなってからは、なおさらだった。
「ねえ、ノジコ」
「ん?」
「私がアーロンとした約束、覚えてる?」
「もちろん覚えてるわよ。一億ベリーでココヤシ村を買い取る。そういう約束でしょ?」
「うん」
ナミは一度、大きく息を吸った。
そして、もう隠しきれない笑顔を浮かべる。
「一億ベリー、貯まったの!」
「……え?」
「全部貯まったのよ! だから今日のお昼、アーロンと取引する!」
ナミの声が弾んだ。
「一億ベリーを渡したら、ココヤシ村を解放してくれる。村のみんなも、もうアーロンたちにお金を払わなくていいの。私もアーロン一味を抜けられる!」
ノジコは何も言わなかった。
ただ、目を見開いたままナミを見つめている。
「ノジコ?」
「それ……本当に……本当なの?」
「うん。本当よ」
次の瞬間、ノジコの目から涙が零れた。
ベルメールが殺され、アーロンに島を支配されてから、もう十年になる。ゲンゾウを中心に、村のみんなで耐え忍ぶことを決めた。今は戦えない。戦えば殺される。それなら、いつかこの地獄が終わる日まで耐えるしかない。
けれど、現実はあまりにも苦しかった。
毎月、アーロンに命を買うための金を納めるだけで精一杯で、誰か一人でも払えなければ容赦なく殺される。明日を生きるためだけに働き、その金のほとんどを奪われながら、それでも村のみんなは十年間耐えてきた。
そしてナミも、ずっと戦っていた。
自分たちとは違う場所で、たった一人で。
十年間。
そのすべてが今日、ようやく報われようとしている。
「よかった……」
ノジコは泣きながら笑った。
「本当に……よかった……!」
「うん! これからは村からお金を取らないって約束もしたの。だから……」
そこまで言ったところで、ナミの声が震えた。
村は助かる。
これでもう、ゲンゾウも、ノジコも、村のみんなも、アーロンに怯えながら生きていかなくていい。
もう誰も殺されなくて済む。
「だから……みんな……」
最後まで言葉にすることはできなかった。
ナミの目からも、堪えていた涙が溢れ出す。
それを見たノジコは、すぐにナミを抱きしめた。
「ありがとう、ナミ」
耳元で、優しい声がした。
「本当に、よく頑張ったね」
その一言で、ナミの中に十年間張り詰め続けていたものが切れた。
「もう……村の誰にも死んでほしくないから……」
震える声のまま、ナミはノジコの胸に顔を埋めた。
「みんなのことを考えてたから……ここまで頑張れた……」
「うん」
ノジコは何度も頷きながら、ナミの頭を優しく撫でた。
「ナミは、本当に優しいね」
しばらく二人は、そのままでいた。
やがて涙が落ち着いた頃、ノジコが静かに尋ねる。
「このこと、ゲンさんや村のみんなにも知らせる?」
「ううん」
ナミは目元を拭った。
「ちゃんと取引が終わってから知らせる。全部終わってから、私の口からみんなに言いたいの」
「そう」
ノジコは微笑んだ。
「その方がいいかもね」
その時だった。
ぐうぅ~~~~。
静かな丘の上に、妙に大きな音が響いた。
二人の動きが止まり、ノジコがゆっくりとナミを見る。
「……あんた、朝ごはん食べてないでしょ」
「もぉ! 言わないでよ! 恥ずかしいじゃない!」
「ふふっ。だってこんな大きな音が鳴ったら、誰だってわかるわよ」
「仕方ないでしょ。朝から色々あったんだから!」
ついさっきまで泣いていたのが嘘のように、二人はいつもの姉妹のやり取りへ戻っていく。
ノジコは立ち上がると、服についた草を払った。
「お昼まではまだ時間もあるし、家に戻りましょ。なんだか私もお腹が空いてきたわ」
「そうね」
ナミも立ち上がった。
「久しぶりにノジコの料理が食べたい!」
「なら、料理を作るの手伝ってね」
「もっちろん!」
ナミはベルメールの墓へもう一度振り返った。
墓前に供えた花が、海から吹き上げる風に静かに揺れている。
その光景を目に焼きつけてから、二人は並んで丘を下り始めた。
いつの間にか、ナミの手はノジコの手を握っていた。
子供の頃と同じように、姉妹は手を繋いだまま、懐かしい我が家へと帰っていった。
——♢♢♢——
二人が家へ戻る頃には、朝の陽もすっかり高く昇っていた。
みかん畑を抜け、懐かしい我が家の扉を開ける。
「ただいまー」
「誰もいないけどね」
「いいのよ。なんとなく言いたくなったの」
久しぶりに帰ってきた家は、やはり落ち着いた。
使い込まれた家具も、歩くたびに鳴る床板も、窓から差し込む陽の匂いも、ベルメールと三人で暮らしていた頃からほとんど変わっていない。
今日の昼には、アーロンとの取引が終わる。そうなれば、もう人目を避けて村の裏から帰ってくる必要もない。村の真ん中を堂々と歩き、この扉を開けて、当たり前のように「ただいま」と言えるようになる。
「それで……何作る?」
「そうね。お祝いにはまだ早いけど、今日は奮発しちゃおうか」
「うふふ、そうこなくちゃ」
冷蔵庫や戸棚から食材を取り出し、二人で並んで台所に立つ。
「ナミ、鴨肉に添える野菜を切ってくれる?」
「わかったわ。これくらいでいい?」
「もう少し小さく。火が通りにくいから」
「はいはい」
野菜を切り終えたナミは、隣の鍋を覗き込んだ。鍋の中ではシチューが静かに煮え、柔らかな湯気とともに食欲をそそる匂いが立ち上っている。
「ノジコ、シチューはまだ混ぜた方がいい?」
「一度底から混ぜたら、あとは弱火で煮込んでおいて」
「わかった」
鴨肉をオーブンへ入れると、ノジコはみかんの果汁を使ってソースを仕上げた。小さな匙ですくい、ナミの口元へ差し出す。
「味見してみて。ノジコ特製のみかんソース」
「んんっ、おいしい! ノジコ……天才ね」
「これくらいで大袈裟ね」
「本当においしいんだから仕方ないでしょ」
ノジコは笑いながら、今度はトマトを手に取った。
「ナミ、そっちのトマトを取ってくれる?」
「何に使うの?」
「トマトのリゾット風オムライスにしようと思って」
「すごくおいしそう!」
オムライスの中身を作り終えたところで、ノジコは戸棚の奥から一本の酒瓶を取り出した。大切にしまっていたのか、瓶には薄く埃が積もっている。
「それから、とっておきのお酒」
「あっ、そのお酒、大好き!」
「これは取引が終わってからね。無事に帰ってきたら、みんなで乾杯しましょ」
「楽しみね。絶対すぐに帰ってくるから」
料理をしながら、二人の話は尽きなかった。
ノジコが特に興味を示したのは、ナミが外の海で経験した出来事だった。シェルズタウンで海図を盗んだことや、バギー海賊団に追い回されたこと、オレンジの町で騒動に巻き込まれたこと。
そして、そこで再び出会った麦わら帽子の男のこと。
鴨肉が焼き上がり、シチューが煮えるまでには、もう少し時間がかかる。オムライスの卵も、ほかの料理を食卓へ並べる直前に焼けばいい。
二人は一度手を休め、食卓の椅子へ向かい合って腰を下ろした。
「それにしても、会ってみたいわ。そのルフィって男に」
「会いたくなる要素あった?」
「あるわよ。見ず知らずの私たちを、本気で助けようとしてくれたんでしょ?」
「命知らずのお節介なだけよ」
「でも、アーロンを倒して村を救うって言った」
「事情もろくに知らないくせにね。アーロンがどれだけ恐ろしい奴なのかも知らないで、簡単に言うんだから」
呆れたように話しているのに、ナミの声はどこか楽しそうだった。
ノジコはそれを見逃さず、不意に笑い出した。
「ふふっ」
「何よ。変なこと言った?」
「あんた、ルフィの話をしてる時、ずっとニヤけてるから」
「なっ……」
「自分じゃ気づいてなかったの?」
「もう、この話は終わり! それより料理はまだ? 私、もうお腹ぺこぺこなんだから!」
図星を突かれたナミは、強引に話を打ち切った。
「はいはい。それじゃ、お皿を用意して」
ナミが食器棚を開け、皿を取り出そうとした時だった。
コンコン。
玄関の扉を叩く音が響いた。
「はーい」
ノジコが立ち上がり、玄関の扉を開ける。
「あれ? ゲンさん、どうしたの?」
そこに立っていたのは、帽子に風車を差した村の駐在、ゲンゾウだった。
ノジコは家の中に漂う料理の匂いを振り返り、からかうように笑った。
「あっ、もしかして匂いに釣られてきたんでしょ?」
「ああ……いや、そうではなくてな」
「遠慮しなくていいわよ。料理は多めに作ってるから、ゲンさんも食べていって」
いつもなら喜ぶか、揶揄うなと怒るところだった。
だが、ゲンゾウは家へ上がろうとはせず、言いにくそうな顔でノジコの向こうを覗き込んだ。
「今、ナミも一緒にいるのか?」
「え? いるけど……ナミ、ゲンさんが呼んでるよ」
ノジコに呼ばれ、ナミも玄関へ顔を出す。
「ゲンさん、どうしたの?」
「ナミ……お前に客だ」
「私に?」
ゲンゾウの言葉と同時に、みかんの木の陰から複数の海兵が姿を現した。
先頭に立つ鼠のような顔の男を見て、ナミの目つきが変わる。
「チチチチ……初めまして。私は海軍第十六支部大佐、ネズミだ」
ネズミは薄気味悪い笑みを浮かべながら、玄関先まで歩いてきた。
「すうーー……ずいぶんといい匂いだ。私も中に入れてもらっていいかね?」
「お断りよ。あんたたちに出す料理なんてないわ」
ノジコは急いで台所へ戻り、鍋とオーブンの火を止めてから、ネズミを睨みつけた。
「まあいい。私も食事の話をしに来たわけではないからね」
ネズミは改めてナミへ向き直った。
「君が、犯罪者のナミだね?」
「犯罪者……そうね。海賊だから大犯罪者ね」
ナミはネズミの出方を探りながら、あえて強気に言い返した。
「だけど、私はアーロン一味の幹部でもある。世渡り上手な大佐さんなら、私に手を出したらどうなるかくらいわかるわよね?」
「チチチチ……アーロン一味の幹部?」
ネズミはわざとらしく首を傾げた。
「人間嫌いのアーロンが、君のような小娘を幹部にしたという情報は、私のところには届いていない。それに今日ここへ来たのは、君が海賊だからではない。泥棒行為について通報を受けたからだ」
「通報……?」
ナミだけでなく、ノジコとゲンゾウも顔を曇らせた。
「君が海賊専門の泥棒であることは、こちらも把握している。海賊相手の盗みを、今さら一つ一つ咎めるつもりはない」
ネズミはそこで言葉を区切り、口元を歪めた。
「だが、泥棒は泥棒。盗品は盗品だ。これまで君が盗み、蓄えてきた金品は、すべて政府が押収する」
「バカ言うんじゃないわよ! そんな理屈が通るわけないでしょ!」
「聞こえなかったかね? 君が盗んで蓄えた盗品を、すべて差し出せと言ったんだ。これは政府の決定だよ」
ネズミは背後の海兵たちへ顎を向けた。
「おい、盗品を探せ!」
「「はっ!」」
命令を受けた海兵たちが、家の中へ踏み込もうとする。
ナミはすぐさま先頭の海兵の肩を掴み、勢いのまま外へ投げ飛ばした。
「うおっ!?」
「やめろ! 人の家に勝手に入らないで!」
海兵はほとんど抵抗することなく、あっさりと地面へ転がった。
ほかの海兵たちも助けに入ろうとはせず、何がおかしいのか薄い笑みを浮かべたままナミを見ている。
まるで最初から、この家の中に用などないようだった。
「これが、今の海軍がやることなの?」
ナミの声が震える。
「もっとほかにやることがあるでしょ! アーロン一味は人を殺して、町を潰してる! あいつらに支配されて、この島の人間はみんな奴隷みたいに生きてるのよ!」
「チチチ……犯罪者が偉そうに、この私へ説教を垂れるな」
「島の人たちは海軍の助けを待ってるのよ! 何年も、ずっと! 困っている人たちを見て見ぬふりしておいて、よくここに来られたわね!」
「ふーむ……」
ネズミは面倒そうに耳をほじると、部下へ尋ねた。
「この島の住民から、海賊による被害届は出ているか?」
「はっ! いいえ、大佐! この島から海賊被害についての報告は、一件も受けておりません!」
「チチチチ……聞いた通りだ、小娘。被害の報告など存在しない。以上だ」
「この……クズ!」
ナミが吐き捨てても、ネズミは顔色一つ変えなかった。
「何とでも言うがいい。おい、どうせ家の中にはない。畑を掘り返せ。邪魔なみかんの木は、全部引き抜いてしまえ!」
ネズミは足元へ転がってきたみかんを、靴底で踏み潰した。
果汁が弾け、柔らかな実が土の上で潰れる。
その光景を見た瞬間、ナミの怒りが頂点に達した。
「汚い手で、ベルメールさんのみかんに触るな!」
バキンッ!
ナミは武器を構え、みかんの木へ手をかけようとした海兵を殴り飛ばした。
「私のお金は渡さない! あのお金は……!」
「この子の金は、ココヤシ村を救うための金だ!」
ナミの言葉を引き継ぐように、ゲンゾウが海兵たちの前へ出た。
「それでも貴様らに、この子の金を奪う権利があるというのか! 海軍!」
「村の駐在ごときが、海軍大佐である私に物言いかね?」
ネズミが何かを言い返している。
だが、ナミの耳にはもう入ってこなかった。
なぜ、ゲンゾウが金の目的を知っているのか。
「なんで……」
ナミはゲンゾウを見つめた。
「なんでゲンさんが、そのことを知ってるの? 私、その話はノジコにしか……」
そこまで言って、ナミは息を呑んだ。
ノジコとしか共有していない秘密を、ゲンゾウが知る方法など一つしかない。
ナミが振り返ると、ノジコは申し訳なさそうに目を伏せた。
「ごめんね、ナミ。あたしが教えたの」
「えっ……」
「ノジコを責めないでやってくれ」
ゲンゾウが静かに口を挟んだ。
「ナミがアーロン一味へ入った時、私たちはどうしても納得できなかった。だからノジコを問い詰めて、お前の本当の目的を聞き出したんだ」
「じゃあ……」
「ああ。村のみんなも、最初からすべて知っていた」
「でも、みんな私を見たら避けて……誰も話しかけてこなかった……」
「あれは、お前を嫌っていたからじゃない」
ゲンゾウは迷うことなく言い切った。
「いつかアーロン一味から逃げ出したいと思った時、私たちの存在がお前の足枷にならないよう、関わらないふりをしていたんだ。」
「足枷だなんて……そんなわけないでしょ」
ナミの声が揺れる。
自分は十年間、村のみんなから憎まれていると思っていた。それでも構わないと、自分に言い聞かせてきた。
そのすべてが違っていた。
「なるほど」
そこへ、ネズミの声が割り込んだ。
「つまり、貴様らはこの娘が盗品を何に使うつもりだったのか、承知していたということか」
ネズミは三人を順に見回し、愉快そうに目を細める。
「村ぐるみで泥棒に加担していた。そう認めて、全員まとめて捕まえてほしいと言っているのかね?」
「ふざけんじゃないわよ!」
ノジコが怒鳴った。
「あんたたち政府の人間が頼りにならないから、一人一人が自分にできることをして、生き延びようとしてるんだ! 村を救うつもりがないなら、さっさと出ていきな!」
ノジコはネズミの背後にいる海兵たちまで睨みつけた。
「ぐずぐずしてたら、あんたたちの船だってアーロンに狙われるよ!」
「……アーロンに、ねぇ」
ネズミは一瞬だけ目を細めたあと、不敵な笑みを浮かべた。
「それはどうかなぁ……チチチチ。まだ見つからんのか!」
ネズミが、みかん畑を掘り返している海兵たちへ声を張り上げた。
「そんな深いところに埋めているはずはない! 一億ベリーだ、すぐに見つけろ!」
「一億ベリー……?」
ゲンゾウの顔色が変わった。
「おい、待て。なぜ貴様が金額を知っている?」
「ん? ああ、なんとなくだよ。一億ベリーくらい貯めていそうだと思っただけさ」
「そんなわけ……」
ナミの胸を、冷たい予感が突き抜けた。
一億ベリーという金額を、海軍が知っているはずがない。
その額を知っているのは、ナミとノジコ。そして、今しがた真実を知っていたと明かした村人たち。
もう一人だけ、その取引を知る男がいる。
(シャハハハハハハハ)
「まさか……」
ナミの顔から血の気が引いていく。
「アーロンが、あんたたちをここへ差し向けたの?」
「さぁねぇ」
ネズミは答えず、肩を揺らして笑った。
「我々は通報を受けたと言っただろう。政府の人間として、当然の処置を取っているだけだ」
一億ベリーの存在を知り、海軍を動かせる者など、アーロン以外にいるはずがなかった。
「貴様ら……それでも海軍か!なんと腐った奴らだ」
ゲンゾウが声を震わせた。
「海軍が、海賊の言いなりになるなんて」
ノジコも怒りで声が震えている。
「アーロン……!」
ナミは唇を噛み締めた。
「無駄話はこれまでだ。捜索の邪魔になる」
ネズミが片手を上げると、控えていた海兵たちが一斉に銃を構えた。
「こいつらを家から離せ」
「「はっ!」」
銃口が、ナミとノジコへ向けられる。
「ナミ、ノジコ、危ない!」
引き金が引かれる直前、ゲンゾウが二人の前へ飛び出した。
ドンッ! ドンッ! ドウン!
銃声が、みかん畑に響き渡る。
ゲンゾウの肩と脇腹から血が弾け、その体がナミたちの目の前へ崩れ落ちた。
「「ゲンさん!!」」
読んでいただきありがとうございます♪
16話はすでに書いてあるので、すぐに投稿します(*^ω^*)