是非読んでくれると励みになります(^_^)
「「ゲンさん!!」」
ナミとノジコの叫びが、みかん畑に響き渡った。
二人は崩れ落ちるゲンゾウの体を抱き留め、そのまま地面へ横たえる。肩をかすめた銃弾は服を裂いただけだったが、もう一発は脇腹に深く食い込み、押さえた手の隙間から止めどなく血が溢れていた。
「チチチチ……馬鹿な駐在だ」
ネズミは倒れたゲンゾウを哀れむでもなく、冷たい目で見下ろした。
「こちらは威嚇するつもりだったというのに、わざわざ飛び出してくるからこうなる」
「うぐっ……」
ゲンゾウは苦しげに息を漏らしながらも、心配そうに覗き込む二人へ顔を向けた。
「な、に……心配するな、ノジコ、ナミ。弾が少し、かすっただけだ……」
「何言ってるのよ!」
ノジコの声は、取り乱したように震えていた。
「かすっただけで、こんなに血が出るわけないでしょ!」
ゲンゾウが二人を安心させるためについた嘘など、ひと目でわかった。肩の傷は浅い。だが脇腹の傷は明らかに重く、時間が経つほど顔から血の気が失われていく。
「すぐ止血しないと……ゲンさん、服を借りるよ!」
ナミは返事を待たずにゲンゾウの上着を脱がせ、ノジコと二人で布を傷口へ押し当てた。脇腹へきつく巻きつけ、少しでも出血を抑えようとするものの、布はたちまち赤く染まっていく。
その時、みかん畑の奥から海兵の声が上がった。
「大佐ぁ! ありました!」
ナミの手が止まりかける。
顔を上げると、海兵たちが掘り返した土の中から、大きな宝箱を引きずり出していた。蓋が開かれ、中に詰め込まれた札束が朝の光にさらされる。
「チチチチ……ほぉ。よくもまあ、これだけ貯め込んだものだ」
一億ベリー。
十年かけて集めた、村を買い戻すための金。
何度も危険な海賊船へ忍び込み、刃を突きつけられ、それでも諦めずに積み上げてきたすべてが、目の前で海兵たちの手に渡ろうとしている。
取り返さなければならない。
今すぐ立ち上がり、あの箱を奪い返さなければ、ココヤシ村を救えなくなる。
けれど、ナミの手の中では、ゲンゾウの命が失われようとしていた。
「あ……」
伸ばしかけた手を、ナミは動かせなかった。
「はぁ……はぁ……ナミ」
ゲンゾウが乱れた呼吸の合間に、かすれた声を絞り出す。
「私のことは……いい。あの金を……みんなを救ってくれ」
「ダメよ!」
ナミは迷うことなく叫んだ。
「だが……あれがなければ、村は……」
「ゲンさんが死んじゃったら、何の意味もないじゃない!」
あの金がなければ、村を買い戻せない。アーロンとの取引も終わらない。十年間積み重ねてきたものが、すべて水の泡になる。
それでも、目の前で大切な人が死のうとしているのに、金を追いかけることなどできなかった。
「ナミ、ナコー先生のところへ運ぶよ」
ノジコが傷口を押さえながら言った。
ナミもすぐに頷く。
「わかった。ゲンさん、少し痛むけど我慢して」
二人はゲンゾウの腕をそれぞれ肩へ回し、ゆっくりと体を起こした。脇腹へ負担をかけないよう支えながら歩き出すと、背後では海兵たちが一億ベリーの入った宝箱を持ち上げている。
振り返れば、取り返したくなる。
だからナミは、前だけを見て歩いた。
それでも脳裏からは、札束の詰まった箱を運び去る海兵たちの姿が消えてくれなかった。
あのお金がなければ、村を救えない。
けれど、ゲンさんを見捨てることなんてできない。
どちらもナミにとっては、失うことのできない大切なものだった。
民家の裏手から村の通りへ出ると、銃声を聞きつけた村人たちが家の外へ集まっていた。
血を流すゲンゾウを、ナミとノジコが両側から支えている姿を目にした途端、村人たちの間に動揺が広がる。
「ゲンさん!」
「その血……一体、何があったんだ!?」
「さっきの銃声か?」
「アーロン一味にやられたのか!?」
次々と浴びせられる声に答える余裕もなく、ノジコは人垣の向こうへ叫んだ。
「ナコー先生はいる!? ゲンさんが撃たれたの!」
「何だと!?」
ざわめく村人たちの間を割るように、一人の老人が前へ出た。
村の医者、ナコーだった。
「どくんだ、傷を見せろ!」
ナコーはゲンゾウの脇腹に巻かれた布を確かめ、その下から滲み出す血を見た途端、表情を険しくした。
「肩は浅いが、脇腹の傷が深い。このままでは危険だ。すぐに診療所へ運ぶぞ!」
「俺たちが運ぶ!」
「ああ、お前たち、手を貸せ!」
村の男たちがナミとノジコに代わり、ゲンゾウの体を慎重に抱え上げる。揺らさないよう細心の注意を払いながら、人垣を抜けて診療所へ急いでいった。
「ゲンさん……」
その背中が遠ざかっても、ノジコは追いかけることができず、その場に立ち尽くしていた。
「大丈夫かな……」
震える声が、ナミの耳に届く。
ナミも不安だった。
今すぐゲンゾウのそばへ行きたい。処置が終わるまで、無事だとわかるまで見守っていたい。
けれど、その気持ちを押し潰すように、みかん畑で見た光景が頭に浮かんだ。
掘り出された一億ベリー。
金額を知っていたネズミ。
そして、ネズミをココヤシ村へ差し向けた男。
「アーロン……!」
ナミは震える手を強く握り締めた。
海兵が一億ベリーを奪いに来たのが、偶然であるはずがない。
アーロンは最初から、約束を守るつもりなどなかったのだ。
「許さない……!」
胸の奥で燃え上がった怒りに突き動かされ、ナミはアーロンパークの方角へ走り出した。
「ちょっと、ナミ! どこへ行くの!?」
背後からノジコの声が飛んできた。
それでも振り返ることなく、息を切らしながらアーロンパークへ向かって走り続けた。
「アーロン! アーロン!! アーロン!!!」
——♢♢♢——
「アーロン!!」
ナミの叫び声が、アーロンパーク中に響き渡った。
勢いよく扉を開け、そのまま奥へ踏み込んでいく。広間では魚人たちが酒を飲みながら騒いでいたが、血相を変えて現れたナミを見て、一斉に顔を向けた。
「おお、我らが有能な測量士ナミじゃねぇか」
奥の椅子に座っていたアーロンが、酒の入った杯を片手に白々しく笑う。
「どうした? そんな怖ぇ顔して」
「あんたが手を回した海軍が、私のお金を奪いに来たわ」
ナミはアーロンの前まで歩み寄ると、その服の襟を掴み、怒りのままに声を張り上げた。
「どういうつもりよ! 金の上で交わした約束は、死んでも守るんじゃなかったの!?」
「ああ、守るぜ」
アーロンは悪びれもせず、ナミを見下ろした。
「俺がいつ、約束を破った?」
「ふざけるな!」
ナミはさらに強く襟を引いた。
「お前が海軍と手を組んで、私のお金を――」
最後まで言い切るより早く、アーロンの大きな手がナミの顔を掴んだ。口を塞がれ、言葉が喉の奥で潰れる。
「俺がいつ約束を破った!!」
アーロンの声が広間を揺らした。
「いつ破った? 言ってみろ、ナミ!」
「うぐっ……!」
顔を締めつけられ、息が詰まる。
ナミの目から涙が溢れた。
「シャハハハハハハハ!」
「「ギャハハハハハハハ!」」
アーロンが笑い出すと、周囲の魚人たちも一斉に腹を抱えた。
誰もがナミを指差し、必死に食い下がる姿を面白がっている。
(ちくしょう、ちくしょう、悔しい。こんな奴らに……)
すべてわかっているくせに、何も知らない顔をして笑っている。自分たちで仕組んだことを、偶然だったと言い張り、ナミには証明できないとわかった上で馬鹿にしている。
「海軍なんざ、俺が呼ぶわけねぇだろ」
アーロンはナミの顔を掴んだまま、手下たちへ視線を向けた。
「それにしても、ずいぶんと間のいい……いや、悪い通報があったもんだよなぁ?」
「ああ、全くだぜ」
「ひでぇことする奴もいたもんだ」
「ちょうど一億ベリーが貯まった日に通報するなんて、なんて間の悪い奴なんだろうな!」
「シャハハハハハハハ!」
「「ギャハハハハハハハ!」」
隠すつもりすらない。
自分たちで答えを口にしながら、それでも知らないふりを続けている。
ナミにも、アーロンがネズミを差し向けたことはわかっていた。だが、いくら問い詰めたところで、この男が認めるはずもない。
たとえ認めさせたところで、力ずくで約束を守らせることもできなかった。
「ぐっ……うぅ……最初から、約束を守る気なんてなかったくせに!」
「俺はちゃんと守るさ」
アーロンは何事もなかったように椅子へ座り直し、杯を傾けた。
「昨日も言ったはずだ。今日の昼に、一億ベリーを俺の目の前へ持ってこいとな」
「そのお金を、あんたが海軍に」
「知らねぇな」
アーロンは即座に切り捨てた。
「約束の時間までは、まだ一時間近くある。海軍から奪い返してくれば、取引は予定通りだ」
「そんなこと……」
「アーロンさん、そりゃ無茶ってもんだぜ」
手下の一人が、わざとらしく声を上げた。
「海軍に一人で乗り込んだりしたら、俺たちの大事な測量士が殺されちまう」
「それもそうだな」
アーロンは楽しそうに頷く。
「そうなると、ナミは約束の時間までに金を用意できない。つまり、今回の取引はなかったことになるな」
「この……外道!」
「シャハハハ! そう怒るなよ、ナミ」
アーロンは身を乗り出し、歯を剥き出しにして笑った。
「たかが一億ベリーじゃねぇか。金なんざ、また貯めりゃいい。ただし、次は三億ベリーだ」
「三億……!?」
ナミの顔から、血の気が引いた。
一億ベリーを集めるだけでも十年かかった。
海賊船へ忍び込み、何度も命の危険にさらされ、ようやく今日まで辿り着いたのだ。それを三億となれば、あと何年かかるのか見当もつかない。
その間にも、村のみんなは金を奪われ続ける。
払えない者が出れば、容赦なく殺される。
「それが無理なら、逃げ出すか? 別に構わねぇぜ。もう二度とここへ戻らず、好きなところへ行けばいい。もっとも、お前が逃げたら、ココヤシ村の人間は全員殺すがな」
「……っ!」
「お前のせいで、村人は死ぬことになる」
逃げれば村のみんなが殺される。
残れば、また金を集めさせられる。
どちらを選んでも、アーロンから逃れることはできない。
ナミはアーロンの腕を振り払うと、そのまま背を向け、アーロンパークから飛び出した。
背後から魚人たちの笑い声が追いかけてくる。それでも振り返らず、込み上げてくる涙を拭うこともできないまま、ココヤシ村を目指して走った。
ゲンさんも、ノジコも、村のみんなも、生きていてほしい。
死んでしまえば、もう村を救うことも、いつか笑って暮らすこともできなくなる。
「「うおおおおおおおっ!!」」
その時、ココヤシ村の方角から、大勢の雄叫びが響いてきた。
ナミの胸が大きく跳ねる。
悲鳴ではない。怒りを奮い立たせ、命を懸けて何かに立ち向かおうとする者たちの叫びだった。
「まさか……みんな!」
村人たちが何をしようとしているのか、考えるまでもなかった。
胸の奥を嫌な予感が駆け抜ける。ナミは乱れた息を呑み込み、もつれそうになる足へさらに力を込めた。
「お願い……早まらないで」
声を震わせながら、ナミは村へ急いだ。
——♢♢♢——
ナミが急いで村へ戻ると、嫌な予感は的中していた。
通りには村人たちが集まり、その手にはそれぞれ武器が握られている。とはいえ、剣や銃といったまともな武器は、反乱を企てられないようアーロン一味に取り上げられていた。
村人たちが手にしているのは、角材や鍬、スコップ、包丁といった、武器と呼ぶことすら躊躇うようなものばかりだ。
こんなものでアーロンたちに挑んだところで、勝負になるはずがない。
ナミは乱れた呼吸を整え、頬に残っていた涙を急いで拭った。これ以上みんなを不安にさせないよう、無理やり笑顔を作って声を張り上げる。
「みんな! ちょっと待って!」
その声に、村人たちが一斉に振り返った。
「ナミ……」
人垣の中にいたノジコが、小さく名前を呼ぶ。
「ごめん、みんな。本当は今日、アーロンとの取引でココヤシ村を返してもらうはずだったんだけど、ちょっと取引が中止になって……」
村人たちの表情が曇る前に、ナミはさらに笑顔を強くした。
「あっ、でも心配しないで! お金なら、また私が貯めるから。今度は前より簡単に集められるし、すぐに――」
「ナミ……もういいんだ」
ゲンゾウの声が、ナミの言葉を遮った。
村人たちの前には、脇腹へ厚く包帯を巻いたゲンゾウが立っていた。顔色は悪く、立っているだけでも辛そうだったが、その目には強い決意が宿っている。
「ゲンさん……」
ナミは驚いて駆け寄った。
「体は大丈夫なの!? なんで診療所から出てきたのよ!」
「ああ、問題ない」
「問題ないわけないでしょ! それに、もういいって?」
「それよりも、ナミ」
ゲンゾウはナミの前まで歩み寄ると、残った力でその体を優しく抱きしめた。
「もういい、というのは言葉どおりだ。お前も本当は、これ以上続けても無駄だとわかっているんだろう」
「そんなこと……」
否定しようとしたナミの声が、途中で詰まる。
村人たちの顔を見れば、説得が通じないことは明らかだった。誰の目にも怯えはなく、すでに死を覚悟した者の光が宿っている。
「私たちの命を一人で背負って、辛かっただろう」
ゲンゾウの声が震えた。
「よく十年間、一人で戦ってくれた。本当にありがとう、ナミ」
その一言で、必死に堪えていた涙が再び溢れ出した。
「ゲンさん……死んじゃダメだよ」
ナミはゲンゾウの胸へ縋りついた。
「みんなも死んじゃダメ。お願いだから、生きてよ……」
ゲンゾウの目からも涙が流れる。
「ありがとう、ナミ。お前は本当に優しい子だ」
その言葉に続くように、村人たちも次々と声を上げた。
「ナッちゃん、さっきノジコから聞いたよ。ずっと俺たちのことを考えてくれてたんだってな」
「村のみんなに死んでほしくないから、ここまで頑張れたって」
「ナミちゃんがいたから、俺たちは十年間耐えられたんだ」
「村を買い戻せなかったからって、お前が俺たちのために戦ってくれた十年までなくなるわけじゃない」
「ありがとう、ナミちゃん」
「みんな……」
涙で視界が滲み、村人たちの顔がぼやけていく。
嬉しいはずの言葉なのに、胸は締めつけられるばかりだった。これからみんなが死にに行こうとしていることも、自分が何を言っても止められないことも、もうわかってしまった。
「ナミ、お前はこのまま逃げなさい!」
突然の言葉に、ナミは顔を上げた。
「逃げるなら、みんなも一緒に――」
「無理だ!」
ゲンゾウが強く言い切った。
「全員で逃げられるほどの船はない。仮にあったとしても、魚人どもにすぐ追いつかれる。私たちが時間を稼ぐ。その間に、お前はこの島から逃げろ!」
「そんなの嫌よ!」
「これは、みんなで話し合って決めたことよ」
ノジコが前へ出た。
「ナミ、あんたは逃げなさい」
「ノジコまで何を言ってるのよ!」
「あんたには悪知恵もある。泥棒の腕も、航海術もある。それに、世界中の海図を描くっていう夢もある。だから、ここから逃げて新しい人生を――」
「やめてよ!!」
ノジコが最後まで言い終えるより先に、ナミは叫んだ。
隠し持っていたナイフを抜き、切っ先を村人たちへ突きつける。
「私は、みんなが傷つくところなんてもう見たくないの! あいつらと戦えば死ぬんだよ! 死んだら何もかも終わりなんだよ!!」
「知っている」
「知ってるなら、どうして!」
「こうするしかないからだ!」
ゲンゾウが声を張り上げた。
「正直に言おう。この十年間、村のみんなで金をやりくりし、何とか耐えてきた。だが、仮に今日踏みとどまったとしても、次に納める金はもうない。皆の蓄えは底をついた」
「お金なら、私がまた――」
「金だけじゃない!」
ゲンゾウの声には、十年間積み重なった苦しみが滲んでいた。
「もう気力も限界なんだ。この先に何の希望もないまま、いつまで金を払い続ければいい? またお前一人にすべてを背負わせ、十年も二十年でも待ち続けろというのか?」
「それでも……生きていれば……」
「最後まで私たちのことを心配してくれて、ありがとう」
ゲンゾウは穏やかに笑った。
「だが、もう止めても無駄だ。私たちは、自分たちの意思で戦うと決めた」
「そのとおりじゃ!」
ナコーが村人たちの中から声を上げた。
「わしらはもう、心に決めておる!」
その言葉に、村人たちが一斉に頷いた。
ナミはナイフを握ったまま、呆然と立ち尽くすしかなかった。
「行くぞ、みんな!」
ゲンゾウが声を上げる。
「勝てなくても、俺たちの意地を見せるぞ!!」
「「おおおおおおおおっ!!」」
雄叫びとともに、村人たちが歩き始める。
ナミの横を次々と通り過ぎ、アーロンパークへ向かっていく。それでもナミには、もう止める言葉が見つからなかった。
一人だけ、ナミの前で足を止めた者がいた。
「ナミ」
ノジコは名前を呼ぶと、ナミを力強く抱きしめた。
「本当は、もっとあんたと色々話したかった。これから先も、ずっと一緒に暮らしたかったけど……」
「ノジコ……」
「じゃあね。元気でやるのよ」
それだけ言い残すと、ノジコはナミから離れ、村人たちの列へ加わった。
「ノジコっ!」
ナミは叫んだ。
だが、ノジコは振り返らなかった。
村人たちの背中が遠ざかっていく。追いかけなければならない。今からでも止めなければならない。
そう思うのに、足が動かなかった。
「私は……どうしたらいいの……」
震える声が漏れる。
「どこで間違ったの……? みんな死んじゃう。このままじゃ、みんな……」
考えたところで、ナミ一人の力でどうにかできる状況ではなかった。
その時、脳裏に一人の男の言葉が蘇った。
『アーロンは約束を破るぞ』
『ナミも、ナミの故郷も、俺が助ける』
『ハッピーエンドにはならないぞ』
「うるさい……」
ナミは頭を振った。
「うるさい、うるさい! なんで今、あいつの言葉が出てくるのよ……!」
今にして思えば、ルフィはこうなる未来を予想していたのかもしれない。
あの時、差し伸べられた手を取っていれば、少しは違う未来になっていたのだろうか。
だが、もう遅い。
自分はその手を振り払い、ルフィから離れた。今さら助けを求めたところで、あいつはもうここにはいない。
村人たちを止められなかった。
それが現実だった。
「ゲンさん、ノジコ……みんなの思いを無駄にはしないから」
ナミは涙を拭い、村の船着き場へ向かった。
みんなが命を懸けて作ろうとしている時間を無駄にはできない。この島から逃げて生き延びなければならない。
だが、船着き場へ辿り着いたナミは、目の前の光景に足を止めた。
「そ……そんな……」
停泊していた漁船は船体を砕かれ、すぐに海へ出せる状態ではなくなっていた。壊れた木片が辺りに散らばり、海面には引き裂かれた帆が浮かんでいる。
「どこへ行くつもりだ、ナミ」
背後から声がした。
振り返ると、そこにはクロオビが立っていた。
「船で逃げるつもりだったようだな。悪かったな、先に壊しておいて」
クロオビは悪びれる様子もなく、ゆっくりとナミへ近づいてくる。
「誰か一人くらい、船で逃げようとすると思って待っていたが……まさか、お前が来るとはな」
クロオビの目が冷たく細められる。
「村人どもを見捨てて逃げるとは、随分と薄情じゃないか」
「違う……」
その言葉が、ナミの胸へ深く突き刺さった。
「私は、みんなを見捨てたんじゃない……」
「俺には同じに見えるがな」
「やめて……来ないでよ!」
ナミは後ずさり、逃げ道を探した。
だが、背後には海があり、正面にはクロオビがいる。横へ逃げようとした瞬間、クロオビが一気に距離を詰めた。
「アーロンさんに、お前を連れてこいと言われている」
「離して!」
抵抗する間もなく腕を掴まれ、そのままねじ上げられる。
「痛っ……!」
「無駄だ。人間のお前が、俺から逃げられると思うな」
必死にもがいても、クロオビの力はびくともしなかった。
船もない。
村人たちを止めることもできない。
最後に残された逃げ道まで奪われ、ナミはなすすべなくクロオビに捕らえられた。
——♢♢♢——
ざわざわ、ざわざわ――。
アーロンパークでは、ナミが逃げ出したあとも、魚人たちが酒盛りを続けていた。
その最中、入口の門が勢いよく開かれた。
「アーロンッ!!」
ゲンゾウの怒声が、アーロンパーク中に響き渡る。
門の向こうから現れたのは、ココヤシ村の住人たちだった。武器とも呼べないようなものを手にして、次々と中へ踏み込んでくる。
その先頭には、脇腹へ厚く包帯を巻いたゲンゾウもいた。顔は青ざめ、立っているだけでも辛そうだったが、その目には強い決意が宿っている。
何事かと魚人たちが一斉にそちらへ顔を向ける中、アーロンだけは待ち構えていたかのように、楽しそうな笑みを浮かべていた。
「これはこれは、下等生物の諸君」
アーロンは椅子へ深く腰掛けたまま、村人たちを見回した。
「宴が終わればココヤシ村の連中を皆殺しにするつもりだったが、わざわざ向こうから来てくれるとはな。手間が省けたぜ!」
まるで服についた埃を払うかのような気軽さで皆殺しを宣言するアーロンに、村人たちは怒りを隠せなかった。
「黙れ!!」
ゲンゾウが一歩前へ出る。
「我々も、ただ殺されるために来たわけではない!」
アーロンは怒鳴るゲンゾウなど気にも留めず、村人たちを見回した。
「ナミはいねぇのか」
その場にナミの姿がないとわかると、鼻で笑う。
「まさか、あいつが逃げる方を選ぶとはな。逃げたら村人を皆殺しにすると言っておいたんだが……薄情な女だ。シャハハハハ!」
「初めから利用することしか考えていなかった貴様に、ナミの気持ちがわかるものか!」
「そうよ!」
ノジコもゲンゾウの隣へ並び、アーロンを睨みつけた。
「それに、ナミが逃げなくても私たちは同じことをしていた! あんたたちに無惨に殺されるくらいなら、戦って死んでやるわよ!!」
「そんなおもちゃで、俺たち魚人と戦えると思ってるのか?」
腹の底へ響くようなアーロンの声にも、村人たちは怯まずに睨み返した。
「チュッ♡ アーロンさん、俺がこいつらをまとめて殺しましょうか?」
「いや、モームの餌にしろ。あいつの餌代も馬鹿にならんからな」
アーロンは広間を見回し、声を張り上げた。
「おい、ハチ! ハチ!」
「ハチさーん!」
「モームーッ!」
手下の魚人たちもハチとモームを呼んだが、どちらからも返事はなかった。
「ったく、あの野郎……こんな時にどこへ行きやがった」
「朝、モームに餌をやるって出ていったきり、見てないですね」
「ちっ、まあいい」
アーロンは村人たちへ目を戻した。
「おい、お前ら。相手をしてやれ」
待ってましたと言わんばかりに、手下の魚人たちが肩や首を回しながら村人たちの前へ出てくる。
「へっへっへ……アーロンさん、全員殺しちまっていいんですよね?」
「背骨をへし折ってやるぜ。あの音を聞くのが気持ちいいんだ」
「あぁ? 頭を噛み砕いた時の音の方がいいだろ!」
自分たちが負ける可能性など、微塵も考えていない。魚人たちは、村人をどう殺すかで揉めるほどの余裕を見せていた。
「こ……こいつら、俺たちを何だと思ってやがる……」
「気にするな。どうせ俺たちは死ぬんだ」
「そうだ。ナミちゃんが逃げる時間を稼ぐぞ」
村人たちも改めて武器を握り直し、覚悟を決めた。
しかし、戦いが始まる直前、アーロンが手下たちを止めた。
「待て。あとで、こいつらを使った余興がある。まだ殺すなよ。痛めつけるだけにしておけ!」
「「へーい」」
手下たちは、まるで遊びのルールを一つ追加された程度の軽さで返事をした。
「こいつら……どこまでも俺たちを馬鹿にしやがって!」
命を懸けてここまで来たというのに、その命すら余興のために残しておくと笑われる。村人たちの怒りは、ついに限界へ達した。
「奴らが殺すつもりはなくとも、我々は殺すつもりで行くぞ!」
ゲンゾウが手にした武器を掲げた。
「この十年間に受けた仕打ちを、決して許すなぁぁぁ!!」
「「「おおおおおおおおおぉぉっ!!!」」」
村人たちは残った勇気を振り絞るように雄叫びを上げ、一斉に魚人たちへ襲いかかった。
だが、その覚悟は無惨にも叩き潰された。
魚人は、生まれながらにして人間の十倍もの腕力を持つ。名のある海賊や海軍の精鋭ならまだしも、農民や漁師を中心としたココヤシ村の住人たちが、まともに戦って勝てる相手ではなかった。
ゲンゾウも武器を振り上げようとしたが、その瞬間、脇腹の傷に激痛が走った。
「ぐっ……!」
わずかに動きが止まったところへ、魚人の太い腕が振るわれる。傷ついた体はなすすべなく弾き飛ばされ、地面を転がった。
「ゲンさん!」
ノジコが叫ぶ。
だが、彼女もすぐに別の魚人に腕を掴まれ、地面へ叩きつけられた。
魚人たちは、まるで子供がおもちゃで遊ぶかのように、襲いかかる村人たちをいとも簡単に投げ飛ばしていく。
「ぐぁぁっ……まだだ!」
「おらおら、どうした! さっきまでの威勢は!」
「つ、強すぎる……!」
「お前らが弱すぎて、話にもならねぇんだよ!」
「くそっ、まだ終わってねぇ!」
「殺さないように痛めつけるってのも、案外難しいなぁ!」
一人、また一人と村人たちが地面へ倒れていく。
投げ飛ばされ、噛みつかれ、骨を折られ、爪で引き裂かれる。魚人たちはアーロンの命令どおり、決して殺しはしなかったが、それでも立ち上がれなくなるほどの傷を容赦なく負わせていった。
五分ほど経つ頃には、村人たちは全員が地面に倒れ伏していた。
それとは対照的に、魚人たちは息一つ乱していない。もう終わりかと、物足りなさそうに村人たちを見下ろしている。
(――これほどまでに、力の差があるとは)
ゲンゾウは傷ついた体を地面へ横たえたまま、薄れていく意識の中でナミのことを考えていた。
(ナミが無事に逃げてくれてさえいればいい)
「シャハハハハハハハ! 所詮は下等生物だな!」
「アーロンさん、もう殺しちまいましょうよ」
「まあ待て。もうすぐ……来たな」
アーロンが入口へ目を向ける。
そこへ遅れて現れたのは、クロオビだった。
その肩には、ロープで体を縛られたナミが担がれている。口にも縄を巻かれているため声を出すことができず、倒れ伏す村人たちを見て、必死にもがきながらくぐもった声を漏らしていた。
「んんっ! んんんっ!」
「なんだ。もう終わっていたのか」
クロオビは倒れた村人たちを見回しながら、つまらなそうに言った。
「チュッ♡ クロオビ、お前の出番はなかったな」
「ちっ。痛めつけるのを楽しみにしてたんだがな」
クロオビはナミを肩から乱雑に下ろすと、体と口を縛っていたロープを切った。
「まあいい。アーロンさん、ナミを連れてきました」
自由になったナミは、地面に倒れている村人たちへ駆け寄ろうとした。
「ノジコ! ゲンさん! みんな……!」
「ナミ……」
ノジコは顔を上げた。
「どうして……逃げなかったの?」
ナミが答えるより早く、クロオビが口を開いた。
「貴様らのうち、誰か一人くらい船で逃げると思ってな。先回りして船を壊し、待ち伏せしていたんだ」
「そ……そんな……」
「ナミ!!」
アーロンの怒声が広間へ響き渡った。
「逃げたらどうなるか、俺は言ったはずだ! お前が逃げれば、村人どもを皆殺しにするとな!!」
「……っ!」
その瞬間、ナミの顔から一気に血の気が引いた。
アーロンの前へ這うように進み、地面へ両手をつく。
「お……お願いします。みんなを殺さないでください……」
もはやナミに残された手段は、アーロンへ懇願することしかなかった。
「三億ベリーも、必ず用意します。今まで以上に海図も描きます。一生、アーロン一味に忠誠を誓いますから……だから、みんなを殺さないでください……!」
ナミは泣きじゃくりながら、額を地面へ擦りつけた。
「シャハハハハ……そこまで頼まれちゃあなぁ」
アーロンは笑いながら、ナミを見下ろした。
「正確な海図を描けるお前は、俺にとって役に立つ。生かしてやってもいい。だが、村人どもは別だ!」
アーロンは手下から銃を受け取ると、ナミの目の前へ投げ落とした。
「最後のチャンスをやる。この銃で、お前の姉と駐在の頭を撃ち抜け!! そうすれば、ほかの村人は助けてやる!」
「え……?」
あまりにも残酷な命令に、ナミは目の前の銃を見つめたまま動けなかった。
「そんなの……できないわよ……」
できるはずがない。
ノジコは、たった一人の大切な姉だ。
ゲンゾウも、ベルメールがいなくなってから自分たちを見守り続けてくれた、親代わりの大切な人だった。
「ナミ、撃ちなさい」
ゲンゾウが静かに言った。
「ゲンさん……何を言ってるの?」
「魚人どもに殺されるくらいなら、お前に撃たれる方がずっといい」
「私もナミに殺される方がマシよ」
ノジコも穏やかな声で続けた。
「ノジコまで……」
ナミは震える手を伸ばし、地面に落ちた銃を拾った。
「やっとやる気になったか!」
「とっとと撃てよ!」
「早くしろぉ!」
魚人たちの野次が飛び交う。
まるで、これから始まる見世物を待ち望む観客のようだった。
ナミは震える両手で銃を構え、ノジコへ照準を合わせる。
「いいよ、ナミ……」
それが、ノジコの最後の言葉になるはずだった。
「うっ……うぅ……うわぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
ナミは泣き叫びながら、引き金へ指をかけた。
だが、その銃口がノジコへ向くことはなかった。
勢いよく振り返り、背後にいるアーロンへ銃口を向ける。
ドォンッ!
銃声が響いた。
しかしアーロンは頭をわずかに傾けて銃弾をかわすと、一瞬でナミとの距離を詰めた。
バキンッ!
次の瞬間、ナミが手にしていた銃は、アーロン自慢の鋭い牙によって噛み砕かれていた。
砕けた銃の破片が地面へ落ちる。
最後の抵抗すら通じなかったナミは、その場へ力なく崩れ落ちた。
「これがお前の答えか、ナミ」
もう駄目だ。
自分も、ノジコも、ゲンゾウも、村のみんなも殺される。
「そういえば、十年前にも似たようなことがあったな」
アーロンは昔を懐かしむように笑った。
「十万ベリーぽっちも払えず、無様に死んだ馬鹿な女がいた。シャハハハハハ!」
ベルメールのことだ。
誰のことを言っているのか、ナミにはすぐにわかった。
恐怖も絶望も押し流すほどの怒りに突き動かされ、ナミはやけくそになったように叫んだ。
「私たちが……私たちが、あんたたち魚人に一体何をしたっていうのよ!!」
「人間どもは、俺たち魚人を奴隷として扱い、見下してきた!」
アーロンも怒声を返す。
「俺たちが受けた痛みや苦しみを同じように味わわせてやるだけだ!」
「もう十分痛めつけたでしょ! 奪って、殺して……これ以上、まだ何をするっていうのよ!」
「黙れ!!」
アーロンの怒声が、ナミの言葉を押し潰した。
「小娘が、俺たち魚人の歴史も知らねぇくせに偉そうにほざくな!」
アーロンは歯を剥き出しにし、正気とは思えない目でナミを睨みつける。
「いいか、ナミ。恨むなら、同胞である人間どもを恨め! 俺たち魚人が人間に抱く恨みは、まだまだこんなもんじゃねぇ!」
アーロンは両腕を広げ、ココヤシ村の人々だけでなく、その先にある世界すべてを見据えるように叫んだ。
「お前らを殺したあとは、この島にいるほかの人間どもも皆殺しにする! その次は、
その目は、狂気に満ちていた。
「やがては
「イカれてる……」
実際に魚人を奴隷として扱った者でもない人たちに、人間というだけでここまでの憎悪を向けてくる。
アーロンが恐ろしくてたまらなかった。
「お前は惜しい人材だったが、俺を裏切った以上、死んでもらう」
アーロンは手下から新たな銃を受け取ると、その銃口をナミへ向けた。
(これで、本当に終わりね。やれることはやった……)
心の中でそう言い聞かせようとしても、どうしても納得することはできなかった。
「死ね、ナミ!」
アーロンが引き金へ指をかける。
「助けて……」
十年間、誰にも言うことのできなかった言葉が、ナミの口から零れた。
「助けて、ルフィ……!」
その瞬間だった。
ドォォォォンッ!!
突如として、空から何かがアーロンパークへ落下した。
凄まじい衝撃が地面を揺らし、巻き上がった砂埃が辺りを覆い尽くす。魚人たちも村人たちも、突然の出来事に息を呑んだ。
やがて砂埃が薄れていく。
その中心に立っていたのは、麦わら帽子を被った一人の男だった。
「もう大丈夫だ、ナミ!!」
ルフィはナミを守るように、アーロンとの間へ立った。
「俺が来た!!」
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