※この作品はR-18です。

墜ちたま!   作:EMM@苗床星人

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Log2-2 揺らぐ剛

 

 大阪・新大阪市。

 陽光を乱反射して煌めく淀川の水面と、遠くそびえ立つあべのハルカスを見下ろす一等地。そこに、周囲の直線的なビル群とは明らかに異彩を放つ、巨大な『コクーン(繭)』型のビルが存在していた。

 

 EMM本社――ウェストパレスビル。

 

 EMM社とは、古くはスマートフォンの普及期から頭角を現し、その後、網膜投影型の電脳眼鏡『イヅモ』を開発。

 そして現在では、空間そのものに映像を定着させる裸眼ホログラムモニター『Abe』を一般化させ、世界中の情報社会インフラの形を幾つも変えてきた、誰もが知る超巨大グローバルIT企業である。

 

『時代は常に、新しい情報形態と共に――』

 

 流線型の外壁全体が巨大な映像素子となっており、その標語が、光の魚の群れのようにビルの表面を優雅に泳ぎ続けている。

 ガラス張りの広大なメインエントランスには、最先端のホログラム投影技術によって世界の株価チャートやニュースが空中に展開され、その合間を縫うように、洗練されたスーツ姿の社員たちが忙しなく行き交っていた。

 

「なぁ、次期『Abe』の拡張OS規格、うちの部署の権限で抱え込めるんか?」

 

「いけるいける。なんせ昨日から株価ストップ高やで? この波乗らんと嘘やろ。……おっと、そこのホログラム、ちょっとノイズ乗ってんで。再調整しといてや」

 

 飛び交うのは、景気の良い関西弁と、最先端のIT用語。

 日本の、いや世界の情報通信の最先端を担う企業としての、圧倒的な熱気と活力がそこにはあった。

 

 ――だが、その喧騒の中。

 同じようにフォーマルなスーツに身を包んだ『一組の男女』がエントランスに姿を現した瞬間、モーセが海を割るように、自然と社員たちの人波が左右に分かれた。

 

 カツ、コツ、と。

 大理石の床に、ピンヒールの鋭い足音が響く。

 

「……おい、見ろ。熊野看ご夫妻や」

 

「相変わらず、息を呑むようなお美しい方やな……。あんな完璧なキャリアウーマン、他に見たことないで」

 

 すれ違う社員たちが、憧憬と、そして畏敬の念を込めてその男女を見送る。

 熊野看司(つかさ)と、熊野看宗介(そうすけ)。剛の両親である。

 

 司は、身体のラインを強調するタイトなスカートスーツに身を包み、スリットから覗く白く滑らかな足を、まるでパリコレのモデルのように優雅に交差させて歩いていた。艶やかな髪、凛とした美貌、そして隙のない所作。

 誰も信じないだろうが、彼女はかつて、相棒の男にオトされてメス堕ちした『元・男』である。

 しかし、今の彼女の完璧な歩みからは、男であった頃の面影など微塵も感じられない。ただ純粋に、圧倒的なまでの『女』としての覇気と美しさだけが周囲を制圧していた。

 

 そして、その司の斜め後ろを、護る騎士のように悠然と侍り歩くのが、夫である宗介だ。

 オーダーメイドの高級スーツの上からでも分かる、分厚くガタイの良い肉体。

 鋭い眼光を常に周囲に走らせながらも、その重心は決してブレることなく、司の歩調に完璧に合わせて進んでいく。

 

 EMM本社を代表する、容姿端麗なエリートコンビ。

 それが、世間一般や末端の社員たちが抱く、彼らへの認識だった。

 しかし、その本質は全く異なっている。

 

 そう。このグローバルIT企業という眩い顔は、EMMの一側面に過ぎない。

 彼らの真の姿は、現代社会の闇に隠れて『外なる霊』という理外の怪物を討つ、退魔師たちの総本山、その一角なのだ。

 

 フロアを行き交い、株価の変動を関西弁で話し合っている社員たち。

 彼らの大半は、実は怪我や年齢で引退した、あるいは最前線を退いて後方支援に回った歴戦の退魔師たちである。

 よく見れば、スーツの袖口から僅かに覗く皮膚には悍ましい呪いの傷跡が残り、彼らの歩みはどれだけ急いでいても決して足音を立てない『歩法』が染みついている。

 

「お疲れ様です、司部長、宗介副部長。……『A地区』のノイズ掃討、完了しております」

 

 すれ違いざま、一人の若手社員が、書類を落とすふりをしながら極小の声で報告を入れた。

 IT企業としての報告ではない。昨晩行われた、退魔任務の完了報告だ。

 

「ええ、ご苦労様」

 

 司は歩みを止めることなく、紅を引いた唇に艶やかな笑みを浮かべて小さく頷いた。

 二人はそのまま、一般社員が立ち入ることのできない、最奥の専用エレベーターへと迷うことなく進む。

 

 重厚な、黄金色の淵で飾られたエレベーターの扉。

 宗介が静かに手をかざすと、生体認証と強烈な霊力認証が同時に行われ、音もなく扉が開いた。

 

「……さて。蓮くんもよくやっているようだけど、私たちも負けていられないわね」

 

 エレベーターに乗り込み、最上階――社長室へのスイッチを押しながら、司が目を細める。

 

「ああ。これより先の戦いは、情報を制した者が勝つ。奴らが如何に狡猾に動こうと、我々の敵ではない」

 

 宗介が低く応え、司の細い腰を力強く抱き寄せた。

 扉が閉まる直前。

 エレベーターの奥に立つ二人の顔は、華やかなIT企業のエリートから、冷酷で底知れない『歴戦の退魔師』の顔へと、確かに変貌していた。

 

 重厚な扉が完全に閉ざされた瞬間、エレベーターは音もなく急上昇を始めた。

 内部には完璧な慣性制御が働いており、電磁加速によって弾丸のような速度で上へ上へと昇っているにもかかわらず、司と宗介の髪一本すら揺れない。

 透明化したエレベーターの壁面の向こう、二人の視界を猛スピードで通り過ぎていくのは、幾重にも張り巡らされた高密度の情報結界と、淡く発光する霊子スキャン膜の検査システムだ。

 もしこの二人の身体や衣服に、外なる霊の残滓や妖しき呪いの類が僅かでも付着していれば、即座にシステムが作動し、エレベーターは物理的かつ霊的に完全封鎖される仕組みになっている。

 

 やがて、数百メートルという高さを数秒で駆け上がったエレベーターが、最上階で滑らかに停止した。

 

『ポーン』

 

 無機質で、どこか気の抜けた電子音が鳴る。

 だが、その間抜けな音とは裏腹に、司と宗介は顔を見合わせ、ピシリと糸を張るように姿勢を正した。

 

 この先にいる存在は、ただの超巨大企業の重鎮や社長などといった、人間の尺度で測れる安い存在ではない。

 この世界の理と共に存在し、現在の退魔師たちの力の根源――その一端となっている、『神』そのものである。

 

 ゆっくりと、最上階の扉が開く。

 そこに広がっていたのは、近代的なオフィスビルの最上階とは到底思えない、常軌を逸した空間だった。

 真っ先に視界に飛び込んでくるのは、最高級のヒノキを思わせる清廉な木目模様と、眩いばかりの黄金の装飾。

 フロアの中央には見上げるほど巨大な朱色の鳥居が鎮座し、その足元には、どこから湧き出ているのか、さらさらと清らかな音を立てて霊水の小川が流れている。

 

 そう。此処はEMM社の社長室であると同時に、まさしくこのビルの、ひいてはこの国の情報網の中心に据えられた巨大な『神棚』なのだ。

 

 そして、その神域の中央。

 小川のせせらぎに囲まれるように置かれた、豪奢な深紅のソファーの上に。一人の『女』が、退屈そうに寝そべり寛いでいた。

 

 黒紫の妖しく、てらてらと艶めかしい光沢を放つノースリーブタイプのタイツスーツ。

 その上には、黄金色の豪奢な刺繍が施された和装の上着を気崩して羽織っている。

 薄い紫色の髪には白いメッシュが入り、けだるげなポニーテールとしてまとめられていた。

 何より異質なのは、彼女の背後で重力を完全に無視してふわりと浮かび、ゆっくりと回転を続けている『黄金の後輪(光背)』だ。

 

 エレベーターから数歩前へ進み、司と宗介は流れるような動作で床に膝をつき、恭しく傅いた。

 

「天津恵比寿大神(あまつえびすのおおかみ)。熊野看司、熊野看宗介両名、謹んで拝謁に預かりました。」

 

 高天原に座す神々の長男であり、退魔師たちが用いる『原典咒具』をこの世界へともたらし、外なる霊の脅威を退けるための力を人間に与えた、退魔師たちの祭祀神。

 

「良い、面を上げえや……僕と君たちの仲やろ、今代の熊野看」

 

 静謐な神域に、似つかわしくないほど砕けた、しかし逆らうことの許されない絶対的な威圧感を孕んだ関西弁が響いた。

 恵比寿に促され、司は小さく、しかし呆れたようなため息をつきながら立ち上がった。

 

「計画通り、二次性徴期を過ぎて誤魔化すのも限界になったから、剛に女体化固定の真実を伝えたわよ、恵比寿ちゃん」

 

 最高神の一柱に対する、不敬ギリギリの『ちゃん』付け。

 司に続いて立ち上がった宗介も、咎めることなく無言で傍らに控えている。

 ソファーの上で寝返りを打ち、タイツスーツに包まれた豊満な胸の谷間を強調させながら、恵比寿はひどく愉快そうに、喉の奥でクツクツと笑った。

 

「そかそか。……此処からが本番ってとこやねぇ」

 

 恵比寿の可愛らしく、しかしどこか底の知れない思慮を含んだ笑い声が大阪の空に響くのだった。

 

 

   * * *

 

 

 月曜日の朝。

 熊野看家の自室。床に乱雑に敷かれた布団の中で、熊野看 剛(くまのみ ごう)はパチリと目を覚ました。

 カーテンの隙間から差し込む清々しい初夏の朝日が、ホコリの舞う部屋の空気をキラキラと照らし出している。窓の外からは呑気な小鳥の囀りまで聞こえてきた。

 昨夜までの、むせ返るような甘い匂いと嬌声に満ちた空気が嘘のような、健全で爽やかな朝の風景だ。

 

 寝ぼけ眼を擦りながら、剛はふと、視界に入った自分の掌を見て――雷に打たれたように完全に硬直した。

 

 若干、大きい。

 悲しいかな、まだ中学二年生、体の大きさがそんなに変わるわけではないが、それでも本人からしてみれば違いは顕著にある。

 指の関節がしっかりとしていて、ごつごつとしている。

 昨日まで視界にあった、細くしなやかで白魚のような、少し力を込めただけで折れてしまいそうな少女の腕ではない。

 手首から前腕にかけて、日々の退魔の鍛錬で培われた、硬く引き締まった確かな『男の筋肉』の隆起がそこにはあった。

 血管が浮き出たその腕は、間違いなく自分が十五年の歳月をかけて作り上げてきたものだ。

 

「あ……」

 

 剛は、自分の胸元にそっと両手を当てる。

 平らだ。昨日まで、歩くたび、息をするたびに無駄に揺れて自己主張し、布擦れだけで過敏な神経を逆撫でして剛を狂わせかけた『柔らかい脂肪の塊』がない。硬い大胸筋の感触だけが掌に伝わってくる。

 そして、恐る恐る、息を呑んで股間へと手を伸ばす。

 

 ……ある。

 ちゃんと、男としての『あるべきモノ』が、そこに確かな存在感を持って鎮座している。

 空虚だった股間に満ちた、重心の落ち着き。

 

 数日ぶりだった。

 金曜日の夜、あの女郎蜘蛛との死闘の直後からぶっ通しで行われた、蓮曰く「まだまだ序の口」だという地獄のエロ攻撃強化合宿。

 その土日をようやく終え、呪具の効力が完全に抜け切ったのだ。

 長かった。永遠にも感じられた密室での快楽地獄から、ついに解放されたのだ。

 

「あ、あ、あぁぁぁーーっ!! お帰り! お帰り俺の筋肉ちゃん!! 俺のアイデンティティ!!」

 

 剛は布団を力いっぱい蹴り飛ばし、涙ぐんだ目で部屋の中心に立ち上がり、狂喜乱舞した。

 両腕に力を込め、力こぶを出して見せる。

 間違いない、男の身体だ。戦うための、大切なものを守るための、この街を護るヒーローの屈強な肉体だ。

 もう、ちょっと触られただけでビクビクと腰を震わせるような、脆弱で敏感な雌の身体ではない。

 

「よっしゃぁぁ! これで俺は元通りだ! もう何も怖くねえ! どんな化け物が来ても、この拳でぶっ飛ばしてやるぜ!うおー!」

 

 勝利の雄たけびを、ちゃんと低くなった喉ぼとけを震わせてあげる剛。

 その低く太い声の響きにすら、剛は感動を覚えていた。

 だが――直後、背後から聞こえた呆れ声に、剛の歓喜の舞はぴたりと氷結した。

 

「朝からうるさいなぁ……。なにやってんのさ、剛。元気だねぇ」

 

「ぴゃぁお!?」

 

 図太い男の声を出していたはずなのに、ひっくり返った奇妙な猫のような悲鳴を上げ、剛はバッと背後を振り返った。

 自室のベッド。

 そこには、乱れたシーツを腰の辺りまでしか掛けていない蓮が寝そべっていた。

 しかも、シーツから覗く上半身は完全に裸である。

 

「お、おまっ……! なんで全裸、というかちゃっかり俺のベッドで寝てんだよ!!」

 

「なんでって。昨日、剛が僕の膝の上で、気持ちよすぎて白目剥いて力尽きて寝落ちしちゃったからでしょ。僕も流石に二徹で剛の相手し続けて疲れちゃって、着替える気力もなかったんだよねぇ。剛のベッド、女の子のいい匂いが染み付いててよく眠れたよ」

 

 あくびをしながら、蓮はむくりと上体を起こした。

 寝癖のついた髪を掻き揚げる仕草は、無防備でどこか色っぽい。

 しかし、その言葉の引き金で、剛の脳裏に昨夜までの記憶が、鮮明で極彩色なフラッシュバックとなって襲いかかってきた。

 

 

 ――お互い女の子の身体のまま、このベッドの上で、そして浴室で、リビングで。蓮の細い指やピンク色の機械に延々と『開発』され続けた土日。

 

『やだぁっ』『もう無理、おかしくなるぅ』『許して、蓮、ゆるしてぇっ』

 

 と情けなく泣き叫び、涙と涎で顔をぐしゃぐしゃにしながらも、未開発だった身体の奥から込み上げる未知の快楽に全く抗えなかった。

 

『あ、あっ、ひぅぁああぁぁぁっ♡』

 

 と、何度も何度もだらしない嬌声を上げて、恥じらいもなく、自ら股を開いて果ててしまった自分。

 男としての理性が悲鳴を上げているのに、女の子の身体は蓮の与える快楽を貪欲に求め、最後には自分から蓮の指にすがりついていた。

 結局、日曜の夜中に剛の体力が完全に尽きるまで、女の子状態のままで一方的に喘がされ続け、最後は蓮の柔らかい太ももの上で、完全に雌の顔をして気絶するように眠りに落ちてしまったのだった。

 

 

「あ、ぐ……っ、ぁぁあぁ……っ!!」

 

 思い出して顔から火が出るかと思った剛は、両手で顔を覆ってその場にしゃがみ込んだ。

 男に戻ったというのに、記憶の中の自分が完全に『雌』として蹂躙され、調教されきっていた事実が、剛の男としての尊厳をゴリゴリと削っていく。

 皮膚の表面には、まだ蓮の指が這い回った感覚が、機械の暴力的な振動の残滓が、生々しくへばりついている気がした。

 

 だが、ベッドから起き上がり、大きく伸びをする蓮の姿を見て、剛の背筋をまた別の感情が駆け上がった。

 

 普段は中性的ですらりとした容姿の蓮だが、こうして裸になると、その骨格は紛れもなく『男』のものだった。

 うっすらと割れた腹筋、引き締まった腰回り、広い肩幅。滑らかな肌の下に隠された、しなやかで強靭な筋肉の筋。

 そして何より、自分(女の子状態)を容易く組み伏せて、何度逃げようとしても絶対に逃げられないように押さえつけていたあの腕の筋肉。

 男の時の剛と比べても遜色のない、戦士としての屈強な肉体がそこにあった。

 

(……もし)

 

 もし、昨日、蓮の方が先に『男』に戻っていて、自分が女の子のままだったら。

 自分は、あの屈強な『男の身体』に、どうされていたのだろうか……。

 

 想像が、勝手に暴走する。

 女の子同士の、細い指や機械の柔らかな触れ合いなどではない。

 あのたくましい腕に力任せに抱きすくめられ、圧倒的な質量と膂力を持った雄の肉体に組み敷かれる感覚。

 抵抗しても全く歯が立たず、重たい身体で押し潰されながら、もっと、決定的な、絶対に逃れられない『男の証』で、自分の奥底の柔らかい場所を――。

 

「――っ!?」

 

 ボッ、と剛の顔が限界突破して赤く染まり、ポンッと頭から湯気が出た。

 思考が、勝手に最悪(で、雌としては最高に甘美な)想像へと直結してしまったのだ。

 キュン、きゅん! と、今はもう存在しないはずの女の器官が、胎の奥深くで幻肢痛のように甘い声を上げ、キュッと収縮するような熱い疼きを感じて、腰が折れそうになるのを、剛は反射的に鋼の精神で耐えた。

 男の股間が、別の意味で反応しそうになっているのも、死ぬ気で抑え込んだ。

 

 そんな剛の明らかな動揺を、隙だらけの様子を、蓮が見逃すはずがなかった。

 蓮の薄桃色の唇が、女の子の時のようなどこか妖艶でおしとやかな笑みではなく。二ッと、獰猛な犬歯を見せる、獲物を狙う肉食獣のような『雄』の笑みの形に歪んだ。

 

「……どうしたの? 剛。そんなに僕の身体、見つめちゃって」

 

 蓮はシーツを腰に巻いたままベッドから降り、足音を立てずにゆっくりと剛に近づいてきた。

 その歩み寄る姿は、完全に捕食者のそれだ。

 

「今の僕の身体を見て……『男の僕』に力ずくで組み敷かれて、めちゃくちゃにされるのも良いかもとか、思った? 女の子の時の剛、僕に押さえつけられただけで、すごく感じてビクビクしてたもんね」

 

「ばっ――――!!!!」

 

 図星。それも一番触れられたくない芯の部分、本能レベルで感じてしまった雌としての期待を正確に突かれた剛は、顔を真っ赤にして完全にパニックになった。

 心臓が早鐘のように打ち鳴らされる中、咄嗟に足元に落ちていた枕を拾い上げ、全力で蓮の顔面へとフルスイングした。

 

「ベッド占拠しといて寝言言ってんじゃねぇぇっ!! とっとと服着ろ服!! このド変態!!」

 

「ぶぁっ」

 

 スパァン! と、見事に顔面に枕をクリーンヒットさせながらも、蓮は悪びれる様子もなく肩をすくめた。

 

「照れちゃってぇ。せっかく男に戻っても、まだ女の子の時の『クセ』、すっかり残っちゃってるよ?切り替え切り替え」

 

「残ってねぇ!! 俺は男だ!! ヒーローだ!! お前に堕ちてたまるかぁぁっ!」

 

「はいはい」

 

 半狂乱の涙目でツッコミを入れる剛の言う通りに、蓮はボストンバッグの荷物の中から男物の下着と中学校の制服を取り出し、慣れた手つきで着込み始める。

 シャツの袖を通し、ネクタイをキュッと締めるその動作は、洗練された美少年のそれだ。先ほどの獰猛な雄の気配はスッと身を潜め、いつもの飄々とした蓮に戻っている。

 

 ようやく戻ってきた、平穏な日常の朝。これから学校へ行き、男友達とバカ話をして過ごす、いつもの月曜日が始まるはずだった。

 

 しかし剛は、制服のボタンを留める蓮の男らしい喉仏や首筋を見つめながら、自身の身体を抱きしめるようにギュッと腕を回し、小さく震えた。

 自分の心と身体が、昨日までのあの暴力的な『快楽』を、そして蓮の腕の中で情けなく果てることの悦びと絶対的な安心感を、完全に忘れられていないこと。

 頭では否定していても、身体が蓮の愛撫を記憶してしまっていること。

 

 それが、化け物に襲われることとは別のベクトルで、絶望的な恐怖となって、剛の胸の奥底に静かに、しかし確実に根を下ろしていたのだった。

 ヒーローとしての真っ直ぐな道に、逃れられない甘い雌の罠が口を開けて待っている。剛の受難の日々は、まだ始まったばかりだった。

 

 

     * * *

 

 

 

 熊野看 剛の原風景は、いつだって日曜朝の特撮番組の中にあった。

 

『男だ女だ、教師だ生徒だは関係ねえ! 俺はお前たちのヒーローのつもりだぜ!』

 

 放課後間近の教室。

 剛は自分の机に突っ伏しながら、腕輪型Abeから空中に展開された小さなホロモニターを見つめていた。

 言わばこの時代に一般化しているスマホのようなものである。

 映し出されているのは、昔の特撮ヒーロー番組『電脳戦隊デバッグファイブ』のリプレイ映像だ。

 本職は教師でありながら、生徒を守るために戦う熱血リーダー・レッド。その泥臭くも真っ直ぐな決め台詞のシーンである。

 

 録画データが擦り切れる(という概念が電子データにあるのかはともかく)ほど、幼い頃から数え切れないほど反復視聴してきた番組だ。

 イヤホンを点けていなくても、剛の脳内ではレッドの渋い声や爆発音、BGMに至るまでが完璧な解像度で再生されていた。

 

(カッコいい……やっぱりヒーローはこうじゃなきゃな……)

 

 レッドのセリフを心の中で反芻し、ヒーローとしての在り方を自分に重ね合わせようとする剛。

 しかし、その直後。

 

「……はぁぁ」

 

 剛の口から漏れ出たのは、熱血とは程遠い、酷く重たくて湿っぽい深いため息だった。

 

「どうしたよ、ヒーローオタク。ついにレッドの兄貴に惚れるに至ったか?」

 

 机に突っ伏したままの剛の頭上から、からかうような声が降ってきた。

 顔を上げると、クラスメイトのタカシがニヤニヤと笑いながら立っていた。

 

 タカシたち一般の生徒には、退魔師の活動に伴う『認識阻害』の術式がかかっているはずだ。

 つまり、剛が女体化している間、タカシたちは「熊野看 剛(♀)」に対して、思春期の男子として当然の『恋慕』や『下心』を抱いていた彼らは、剛が男の姿に戻った今、そのような感情の残滓は欠片も残っていない。

 

 退魔の呪いによる認識操作は、対象との関係性において『恋慕』よりも『友情』などの他の関係性が大きく上回っている場合、元の日常生活を優先してその記憶や感情を完全に遮断するようになっているらしい。

 それほどまでに、タカシたちにとって剛は「一緒に馬鹿をやれる唯一無二の親友(悪友)」であることの証明でもあった。

 それは剛にとって本来なら喜ばしいことのはずだが――今の剛にとっては、タカシの何気ないからかいの言葉が、あまりにも鋭く急所を突いていた。

 

 びくり、と。剛の肩が大きく跳ねる。

 

「んな訳ねエだろ! 馬鹿馬鹿しい……ッ!!」

 

 ガバッと顔を上げた剛は、耳の先まで真っ赤に染め上げ、裏返った声でタカシを怒鳴りつけた。

 

「お、おぅ? そ、そうか? わりぃ、なんか地雷踏んだか?」

 

「…………っ」

 

 予想以上の過剰反応に目をぱちくりさせるタカシを見て、剛は「しまった」と唇を噛み、慌てて視線を逸らした。

 誤魔化すように泳いだその視線は、教室の斜め前方の席へと吸い寄せられる。

 

 そこには、いつも通り女子たちの輪の中心に陣取り、きゃあきゃあと黄色い歓声を浴びながら、優雅に微笑んでいる美少年――幼馴染の蓮の姿があった。

 

『……どうしたの? 剛。そんなに僕の身体、見つめちゃって』

 

 脳裏にフラッシュバックするのは、今朝の出来事。

 朝、女体化が解けた蓮が、自室のベッドでシーツ一枚だけを腰に巻き、あの『圧倒的な雄としての肉体』と『肉食獣のような笑み』を剛に向けた瞬間の光景だ。

 

 先日、二人で女体化した状態で行った『特訓(という名の、蓮による底なしの雌開発)』。

 女の子同士のあられもない秘め事で、身体の奥の奥まで快楽を刻み込まれ、ドロドロに溶かされた記憶。

 その直後に、あんな雄々しい顔を見せつけられてしまえば、自身の『性自認の揺らぎ』を意識するなという方が無理な話だった。

 

(お、男同士で、あいつの裸見てこんな感覚になるなんて……絶対変だろ、しっかりしろ俺ぇ……っ!)

 

 レッドの決め台詞で補強しようとしたはずの『男としての矜持』は。

 今や、蓮という存在によって下から順番に引き抜かれたジェンガのブロックのように、グラグラ、ガタガタと情けなく波打っていたのである。

 

 

     * * *

 

 

 

「せりゃあああっ!!」

 

 ドサァァァンッ!!

 

 その日の午後、体育館に併設された埃っぽい柔道場。

 午後の西日が差し込む中、地響きのような激しい音が鳴り響き、体格の良い男子生徒が見事な一本背負いで畳の上に叩きつけられた。

 

「ぶへぇっ、ど、どうしたよ剛ちゃん。今日のお前理不尽に強くね?」

 

「いつも通りだタッちゃん! おらぁもう一回!」

 

 柔道着の胸元をはだけさせながら、荒い息を吐いて仁王立ちしているのは剛だ。

 その足元で、自分よりも一回り以上体格の大きいタカシが、目を回してうめき声を上げている。

 

(俺は男だ! 強くて、カッコよくて、ヒロインを守る側のヒーローだ! メスじゃねえ、あんな快楽に絆されるようなヤワな精神じゃねぇんだよぉっ!!)

 

 体育の授業で柔道の練習をする生徒たちの中、剛は内心で必死に叫びながら、己の中の『男らしさ』を自覚し、証明するかのように、次々と男子たちを投げ飛ばしていた。

 退魔師として日常的に死線を潜り抜けている剛にとって、一般の高校生相手の組み手など児戯に等しい。

 

「おいおい、熊野看の奴、今日マジでどうしたんだ?」

 

「親の仇でもとるみたいな顔して投げまくってんぞ……」

 

「なんか変なスイッチ入ってね? 近づくのやめとこ……」

 

 周囲の男子たちがドン引きし始め、実況じみたひそひそ声が広がる中。

 そこへ、涼やかな声が割って入った。

 

「あらら。弱い者いじめは感心しないよ、剛? 君ってそんなの直情的すぎたっけ?」

 

「……あ?」

 

 ピタリ、と剛の動きが止まる。

 振り向いた先には、完璧に着こなした柔道着姿の蓮が、腕を組んで優雅に微笑んでいた。

 見学席の女子たちからは、待ってましたと言わんばかりの黄色い歓声が上がる。

 

『きゃーっ! 蓮くーん!』

 

『蓮くんの柔道着姿、エモすぎない!?』

 

『でも蓮くん細身だし、今の熊野看くんとやるのは危ないんじゃ……』

 

 女子たちがハラハラと見守る中、剛はカチンときて、蓮に向かって獰猛な笑みを浮かべた。

 

「上等だ、蓮。俺が直情的かどうか、お前の身体で確かめてみろよ」

 

「ふふっ、良いよ。少し頭を冷やしてあげる」

 

 見つめ合う二人。

 細身である蓮が不利なのではと女子たちは心配しているが、古い付き合いであるタカシだけは、畳に転がったまま「あーあ」と呆れたようにため息をついていた。

 

(女子どもは分かってねぇな。蓮の奴は、ああ見えてこういうスポーツでも理詰めでエグい勝ち方してくる万能超人なんだよ……剛、ご愁傷様)

 

 道場の中央で、剛と蓮が向かい合う。

 その瞬間、周囲の空気が一変した。一般の生徒たちには分からない、現役の退魔師同士が放つ『本気の殺気と間合いの取り合い』。

 試合の審判を務める体育教師でさえ、突然戦場に放り込まれたような重い空気に若干怯え、声をごくりと呑み込んだ。

 

「は、はじめっ……!」

 

 教師の震える合図が響いた瞬間。

 先に手を出したのは、剛だった。

 

「しゅっ」

 

 鋭く短い呼気と共に、剛の身体がブレる。男の身体でありながら、その踏み込みはまさに狩りをする野生の猫のしなやかさだ。

 一瞬で間合いを詰め、剛の腕が伸びる。それを流れるような動作でいなし、逆に剛の襟首を掴もうとする蓮。

 だが、剛は猫のようなバネでこれを難なく回避し、隙を生じさせた蓮の手をガシッと掴んだ。そのまま身体を捻り、実戦向けの関節技『小手返し』を容赦なく極めにかかる。

 

「おっと」

 

 しかし、蓮の身体能力もまた常軌を逸していた。

 手首を極められる寸前、蓮は自ら地を強く蹴り、ふわりと無重力のように中空で一回転したのだ。

 剛が極めようとした捻りの力を完全に逃がすばかりか、回転の遠心力を利用して、そのまま剛の手を引いて自らの技の軌道へと乗せようとする。

 

 しかし、その前に。

 

「甘ぇっ!!」

 

 空中の蓮が技を掛けるより一瞬早く。

 剛のもう一本の腕――残された左腕が、野生の勘だけで蓮の腕をより強く固め、そのまま全体重を乗せて強引に畳へとねじ伏せたのだ。

 

 ドグォァンッ!!

 

 重く鈍い音が道場に響き渡る。

 

「……ッ!! あいたたた……」

 

「フーッ、フーッ……!」

 

 見事に蓮を畳に組み敷き、上からマウントを取る形になった剛。

 威嚇する猫のように荒い息をつきながら、剛は「どうだ、俺の勝ちだ!」とばかりに眼下の蓮を見下ろした。

 男として、雄としての誇示。完璧な勝利のはずだった。

 

 しかし。

 

「あ、れ……?」

 

 眼下に広がるのは、柔道着が大きくはだけ、男のしっかりとした鎖骨と胸筋を覗かせる蓮の姿だった。

 衝撃で乱れた前髪の隙間から、上気した顔が艶っぽく剛を見上げている。首筋を伝う、熱を帯びた汗の雫。

 そして何より、自分を下から見つめる蓮の瞳の奥に宿る、身を捧げる被捕食者のような潤みを帯びた光。

 

(な、んで……)

 

 ドクン、と。

 剛の心臓が、痛いくらいに大きく高鳴った。

 自分が『雄』として蓮を組み敷いたはずなのに。眼下の光景と、鼻腔をくすぐる蓮の汗の匂いを浴びた瞬間、剛の脳内で『雌としての抗いがたい欲求と雄としての欲情』が一つの脳内でコンフリクトを起こしてしまったのだ。

 

(こいつは、男だぞ……? 俺も、男なのに……っ)

 

 なのに、下腹部が熱い。押し倒したはずの自分の方が、逆に蓮の色気に完全に呑み込まれ、支配されている錯覚に陥る。

 頭の奥が痺れ、呼吸が浅くなる。男としての自我と、雌としての本能が激しくバグを起こし、剛の脳内ジェンガは完全に崩壊の沸点を越えた。

 

「ぉ、おい? 剛ちゃん?」

 

 固まったまま動かない剛を不審に思い、少し離れたところからタカシが声を上げた。

 

「ぁ……はれ?」

 

 間抜けな声が漏れる。

 つぅ、と。剛の鼻から、赤い血が一筋垂れた。

 極度の興奮とキャパオーバーによって鼻血を出した剛は、くらりと頭を大きく一回転させると。

 

「…………きゅう」

 

 そのまま糸が切れたように、組み敷いていたはずの蓮の胸板に、力なくもたれかかるようにして意識を失ったのだった。

 

 

 

    * * *

 

 

「うぅう……俺は男だぁ……」

 

「はいはい」

 

 静かな保健室。

 ベッドの上で熱に浮かされたように魘されて呻く剛を優しく寝かせ直し、蓮は微笑みながら布団を肩口までかぶせた。

 その献身的な手つきは、幼馴染というよりも、まるで出来の悪い夫を世話する妻のような、あるいはすべてを囲い込む保護者のような湿度を帯びている。

 

「身籠れば女体に固定化されるって呪いの真実……先週末に知らされたばかりなの? どんだけピュアなのこの子。そりゃあキャパオーバーでぶっ倒れるわよ。……聞いた話、週末に相当無理させたんじゃないの?」

 

 呆れたような声が、保健室のデスクから飛んできた。

 白衣を着てコーヒーカップを傾けているのは、養護教諭の三船(みふね)先生だ。

 彼女は退魔師の家系に生まれた生来の女性であり、それ故に退魔師としても活動していた過去を持つ。

 しかし若いうちに戦線を離脱してEMM社の医療スタッフに霊的資質を切除してもらい、一般人となることを選択した。

 そして今も事情を知る『協力者』として、表裏の世界の境界線で退魔師たちをサポートしている。

 

「あはは……まぁ、否定はできませんね」

 

 三船のジトッとした責めるような視線に、蓮は悪びれる様子もなく苦笑いしながら目を逸らした。

 

「剛くんの両親も酷なことをするわ。二次性徴期を過ぎた退魔師は、ただでさえ『外なる霊』を生殖目的で強く惹き付ける。だからこそ、奴らを誘引して被害を局地的に抑え続けることができる。……早いうちにその真実と絶望を教えておくというのは、退魔師にとっては必要な通過儀礼だっていうのに」

 

「あの人たちは、剛の純粋な『ヒーローとしての資質』に期待しているところがありましたから」

 

 蓮は、眠る剛の前髪を優しく撫でながら静かに答えた。

 

「まずは彼の地力を付けて、揺るぎない正義感を育ててから、本格的な敵との戦い――絶望的な真実に直面させる。そういう意図があったんでしょうね」

 

「……」

 

 蓮の言葉を聞き、三船は無言で顎に手を当てた。

 彼女の視線の先では、剛の周囲を蛍のように飛び交う極小の『医療用スマートダスト(微細機械)』が、剛の生体データをリアルタイムで収集し、三船のデスクのホロモニターへと視覚化して送信し続けている。

 十数年前から使われ続けている今となってはありふれた医療システムだ。

 モニターに映る波形は、剛の肉体が受けている不可視のストレスと、霊的な変容の兆しを正確に示していた。

 

「確かに君たち熊野看と蓮の家系は、先祖代々の特別な血を引いた退魔師として、とてつもない潜在能力を秘めているわ。でも、だからといって育て方を偏らせて良いってわけじゃないでしょうに……」

 

 三船はため息をつき、剛の寝顔から、今度は蓮へと心配そうな視線を向けた。

 

「その分、初めから全てを知っていたあなたにだって、相当な負担がいってたんじゃないの?」

 

 退魔師としての真の戦いは、実はその「絶望」を知ってからが本番と言っても過言ではない。

 例えば、これまでの登場した女郎蜘蛛や子泣爺のケースが正しくそれである。

 純粋な戦闘だけで祓える低級な『外なる霊』であれば問題ない。

 しかし、外なる霊は退魔師の肉体や資質に惹かれれば惹かれるほど、より強力かつ陰湿な、知恵を持った個体へと進化していく。

 剛の純粋さを守るため、その進化個体の存在を可能な限り彼に近づけないよう、蓮が裏でどれほどの泥を被り、立ち回ってきたのか。三船には容易に想像がついた。

 

「……別に。僕は、男にしても女にしても、剛にとっての『一番の相棒(ヒーロー)』であり、『最強の伴侶(ヒロイン)』でありたいと思って生きてきましたから」

 

 蓮は、三船の懸念をさらりと受け流し、極上の笑みを浮かべた。

 その瞳の奥には、剛への常軌を逸した愛と、彼を自分の世界に縛り付けようとするどす黒い執着が渦巻いている。

 

「このくらい、剛を手に入れるための代償だと思えば、どうってことありませんよ」

 

「……ッ」

 

 そのあまりにも淀みない執着の宣言に、退魔師に長らく関わって来た三船でさえ、背筋にゾクリと悪寒を覚えた。

 

(やっぱり、第一線の退魔師の家系っていうのはどうも……みんなどこか、決定的にイカれてて怖いわ)

 

 圧倒的な暴力と呪いが支配する世界。

 その狂気の中で、まともな感性(ヒーローへの憧れ)を持ったまま生きようと足掻くこの少年には、この先どれほど過酷な苦悩と陵辱の運命が待っているのだろうか。

 

「……まぁ、あんまり無理はさせないことね」

 

 三船は短くそう告げると、剛の寝顔に対して、本気で案ずるような深い視線を投げかけるのだった。

 

 

 

    * * *

 

 恵比寿は気だるげに指先を躍らせ、空間に展開された幾つもの不可視のモニターを撫でるような所作で、妖しく目を細めた。

「剛くんは、暫くは不安定になるやろうねぇ……。よその退魔師と違って、多感も多感な時期に女体化固定の真実を知る重圧は相当なもんになる。府螺也の教育方針から考えて、蓮くんからのアピールも執着も、エライことになるやろうし……」

 

 恵比寿の言葉に、司は微かに紅を引いた唇を吊り上げて応えた。

 

「そこはそれ、退魔師として必然的に通る通過儀礼みたいなものだから、何とかなるわ。……私の息子だしね」

 

 かつて男でありながらメスに堕ちた司。その言葉には、愛息が自分と同じように雌の悦びに屈服し、蓮に組み敷かれていくことすら『計画の範疇』として望んでいるような、ひどく歪で不穏な響きが混じっていた。

 

「ヒーロー願望……酷だが、それを持つ剛だからこそ、その責任感が自己のしがらみを突破してくれると、親として信じていますよ」

 

 宗介もまた、重々しく頷く。

 大の大人たちが、そして神が。

 揃いも揃って、一人の少年が過酷な運命に翻弄され、雌として堕ちていく様を盤上で眺め、まるで彼がメス堕ちすることこそが正しい選択であるかのように計算し尽くしている。

 

 恵比寿は不安そうに、艶やかな指先で自らの口元を抑えた。

 

「でも、蓮くんには『あのこと』も伏せとるんやろ? まぁ、知ったところで余計に燃え上がるか、逆に剛の事を想って裏切られでもしたら事や」

 

「ええ、そうね……そこだけが、この計画の唯一の懸念。蓮が精神的に成熟するか、剛が完全に受け入れるか……それまでに、真実に気付かれない事は祈るしかないわね」

 

 司は伏し目がちに言い、小さく息を吐いた。

 

「ごめんなさい、剛。蓮くん。これも、熊野看と府螺也の祖から始まる因縁の結果。祖先の業と、腹をくくるしかないわ」

 

 

「待った」

 

 

 司の自嘲を遮るように、恵比寿が低く声をかけた。

 

「熊野看と府螺也の所為やない。すべての元凶は、僕の『親ども』や」

 

 途端に、視界がほんの少しだけ薄暗くなった。

 見てはいけない、感じてはいけないものを、脳が根本的に拒否するかのように。

 『神の怒り』は、其れその物が現行生命に散って猛毒なのだ。

 

「あいつらの作ったシステムの根本的バグが、巡り巡って君たちに行きついただけ。君らの祖は、そのバグをうっかり踏んでもうただけの哀れなユーザーに過ぎん。

 

そのシステムを、人の視座からぶち壊す(デバッグする)試みを、誰が責めても僕は許さん」

 

 言葉の字面だけを追えば、優しく責任の所在を諭す、神らしい慈悲に満ちた言葉に聞こえるだろう。

 しかし、その恵比寿の声色には――彼女の『親(イザナギとイザナミ)』に対する、筆舌に尽くしがたい恨みと怨嗟、そしてドロドロの怒りが込められていた。

 歴戦の最強退魔師である熊野看夫婦の足をもすくませるほどの絶対的な重圧が、神気となって放たれ、微弱な地震として巨大なコクーンビル全体をガタガタと揺らす。

 

「……こほんっ」

 

 だが、その震えは、他ならぬ恵比寿自身のわざとらしい咳払いによって、あっさりとピタリと止まった。

 

「せやから、君らが案ずる必要はない。僕がここから、二人の様子を咒具越しに監視するさかい。何かあるまで、君らは君らの仕事をしてるとええよん♡」

 

 重力を無視して浮かぶ黄金の後輪を背負いながら、恵比寿はお茶目にパチンとウィンクをして見せた。

 神の気まぐれな感情の起伏と計り知れない底の深さに、熊野看夫婦は揃って深々とため息をつき、恭しく頭を下げる。

 

「よろしくお願いね、恵比寿ちゃん」

 

「いやー、見てて飽きひんよ、君の息子ら。僕も若い頃や、この身体になっちゃったばかりのこと、思い出すわぁ……」

 

 恵比寿は自らの華奢な肩を抱きしめ、空中に展開した不可視のモニター――女体化した中学生同士の過激な恋模様――を特等席で眺めながら、ソファーの上で「あはーん」「やんやんっ」と豊満な胸を揺らして身悶えし始めた。

 もとは男性寄りであったはずの独神が、完全に雌の顔をして俗物的に楽しんでいるその姿に、司は若干呆れたような視線を向けながらも、静かに一礼して社長室(神棚)を後にするのだった。

 

 

    * * *

 

 

 消毒液の微かな匂いと、静かに回る換気扇の音。

 重苦しいまぶたをゆっくりと開けると、見慣れない白い天井が視界に滲んだ。

 

「うー……っ」

 

 剛が低くうめき声を上げながら身を捩ると、ズキズキと痛む頭の奥で、先週末の凄まじい記憶――女体化の快感と恐怖、そして叩きつけられた『呪いの固定化』という残酷な真実――がフラッシュバックする。

 男としてのアイデンティティが根底からボロボロに崩れ去りそうな感覚に、剛はシーツを強く握りしめた。

 

「おはよ、剛?」

 

 ベッドの傍らから、柔らかな声が降ってきた。

 丸椅子に腰かけていた蓮が、振り返って微笑みかけている。いつもの小悪魔的な余裕はなりを潜め、どこか所在なげな様子だった。

 剛は痛む頭を片手で押さえながら、気だるげに視線を向ける。

 

「な、なんだよ……藪から棒に。お前がそんな顔するなんて、明日は雪でも降るのか?」

 

 強がるように憎まれ口を叩く剛に対し、蓮は困ったように眉を下げた。

 

「ごめんね……」

 

「は……?」

 

「長い間、ずっと言いたかった事だったんだ……あの呪いの固定化の事も、僕が剛を好きだったことも」

 

 蓮の言葉は、静かで、しかし確かな熱を帯びていた。

 

「だから週末も、剛を完全に僕のモノにしたくて……つい、やり過ぎたのかもしれない」

 

 それは、紛れもない男の姿をした蓮からの、真っ直ぐな愛情の吐露だった。

 剛はドクンと跳ねた心臓を誤魔化すように胸元を押さえ、思わず目を逸らす。

 男同士の相棒から向けられる、巨大すぎる感情。

 以前の剛なら「ふざけんな」と一蹴していただろう。だが、今の剛にはそれができない。

 女体化した時の自分の体が、蓮の言葉や視線にどう反応してしまうかを知ってしまったからだ。

 それでも、剛は蓮の真剣な言葉を聞き逃すまいと、耳だけはしっかりと傾けていた。

 

「でもね、剛……」

 

 蓮は少しだけ身を乗り出し、逸らされた剛の横顔を真っ直ぐに見つめた。

 

「僕は何処まで行っても、ヒーローを目指して頑張ってる剛の味方だよ。歴史上必ず、熊野看と府螺也が結ばれなきゃいけないってわけでもないんだ。剛は、剛の目指すものになって良い。僕はそれを見ていたい。だから……そんなに深く考えなくても」

 

「……馬鹿言え」

 

 蓮の、宣誓にも似た譲歩の言葉を、剛は遮った。

 そっぽを向いたままの剛の耳は、茹でダコのように真っ赤に染まっている。

 

「って、こんな醜態晒しちまって言えたことじゃないんだけどさ……」

 

 自嘲気味に笑い、剛はシーツを握る手に力を込めた。

 

「この五年間、見たくないもんも見て来た。このまえなんか身をもってわからされたばっかりだ。女の身体でーなんてふざけた戦いの中で、俺の目指した『誰もが憧れるヒーロー』の通りに完全にこなすなんて、とてもできない事くらいわかってるよ。……情けない、なんて情けないんだ俺は。退魔師始めたばっかの頃から、心根は何も変わってない!」

 

 ガバッと半身を起こし、剛は蓮へと向き直った。その瞳には、絶望や諦めではなく、不甲斐ない自分への怒りと、前に進もうとする強い意志が宿っていた。

 

「こうしてまた、肝心なことでショック受けて、蓮にまた慰められて楽をしようとしてる……このままじゃ、駄目だ!」

 

 何処までも愚直に、前向きに悩もうとする剛の姿に、蓮は一瞬目を丸くした。

 そして、張り詰めていた空気を解くように、ふっと失笑を零す。

 

「……まったく、そんな剛だから好きなんだ」

 

「なっ、だからそういう事サラッと言うな……!」

 

 剛が抗議の声を上げるより早く、蓮は唐突に首のチョーカーに手を添えた。

 

「――装来、待機モード」

 

 圧縮変形していた咒具が主のコマンドに反応し、眩い光が蓮の身体を包み込む。

 光が収まった後、そこに座っていたのは、線の細い少年ではなく、女の子特有の柔らかな丸みを帯びた、美少女の姿をした『蓮』だった。

 戦闘目的ではない、ただ女体化のみを目的とした形態。

 

「心も体も混乱しちゃうなら、僕が暫く女の子でいるよ。そうすれば、ちょっとは受け入れやすいでしょ?」

 

 可愛らしく首を傾げ、パチリとウィンクしてみせる蓮。

 剛の男としての尊厳に配慮しつつも、結局は自分たちの関係を「男女」という枠組みに収めようとする、蓮なりの歪で愛らしい気遣いだった。

 

「……ああもう、結局気を遣わせてるよなぁ、俺」

 

 剛は自分自身に呆れるように、深大なため息をついた。

 

「僕らは『相棒』でしょ? 慣れてこ慣れてこ?」

 

 女の子の姿で無邪気に笑い、蓮が華奢な手を差し出す。

 剛はその小さな手をしっかりと握り返し、ベッドから立ち上がった。二人の間にあった見えない壁が、少しだけ低くなったような気がした。

 

 ――その時だった。

 

「不甲斐ないな、実に不甲斐ないぞ熊野看!」

 

 刃のように鋭く、冷たい男の声が、静かな保健室に不躾に響き渡った。

 

「うげ……。こんな時に……」

 

 聞き覚えのある、ひどくカンに障る声。

 剛は心底嫌そうな顔でつぶやきながら、仕切り代わりのカーテンを勢いよく開け放った。

 

 そこには、漆のように艶やかな黒髪を整えた同い年の少年が、傍らに瓶底眼鏡をかけた低身長の少年を侍らせ、腕を組んで仁王立ちしていた。

 

「ここは他校の保健室だぞ。病人を労わる気はねえのか、平間」

 

「は、咒具の呪いの本質を知ったばかりで混乱しているという噂は……どうやら本当のようだな?」

 

 睨みつける剛の言葉を鼻で笑い、平間りくは凛々しい顔にふてぶてしい笑みを浮かべた。

 退魔師としての次なる波乱が、開け放たれたカーテンの向こう側から、容赦なく二人の日常へと踏み込んできていた。

 

 彼の名は、平間りく。

 隣町を守護する同年代の退魔師だ。

 剛と蓮が所属する世界規模の退魔組織『EMM社』とは異なり、日本古来の呪術家系が寄り集まった『天波派』と呼ばれる古い連合組織に籍を置いている。

 どちらも日本の霊的守護を国家から任された二大派閥なのだが、平間は由緒正しい家柄の出身らしく、とにかくプライドが高かった。

 

『俺の管轄で霊絡みの事件が起きたからといって、しゃしゃり出てくるな! 今回の討伐数は俺の勝ちだ!』

 

『馬鹿野郎! 人命がかかってるのに縄張りもクソもねぇだろ! 退魔師は人を救うためにあるんだ、それを賭け事みたいにすんな!』

 

 事あるごとに突っかかってきては、外なる霊の討伐数や一般人の救助人数で勝負を持ちかけてくるりく。

 そして、人を救うことを競い合うような真似がどうしても許せない剛が怒り、説教をする。

 そんな小競り合いが、これまで幾度となく繰り返されてきた。

 りく単体の戦闘力は確かに強力だ。

 だが結局のところ、阿吽の呼吸で戦う剛と蓮のコンビネーションの前にはかなわず、いつもりくが返り討ちに遭う結果に終わっていたのだ。

 

「りく、君も懲りないねぇ?」

 

 剛の隣で、女の子の姿をした蓮がやれやれと呆れたように肩をすくめた。

 

「縄張りの広さが退魔師の強さの証明じゃないって、この前剛に怒られたばっかりだろうに」

 

「……ッ! あの時、辛酸をなめる敗北を喫したのは、貴様らのコンビネーションを甘く見ていたからだ。今度は以前のような失敗はせん!」

 

「そうだそうだ! りく様がお前らなんかに簡単に負けるはずがないっす!」

 

 蓮の指摘に顔をしかめたりくが声を荒らげると、その背後から、瓶底眼鏡の少年がひょっこりと顔を出してヤジを飛ばした。

 前回までの勝負にはいなかった見慣れない取り巻きの登場に、蓮はすっと目を細める。

 

「そっちの子は……ひょっとして、君の『相棒』かい?」

 

「……ッ」

 

 蓮の鋭い問いに、りくは図星を突かれたように、あるいは一番痛いところを抉られたように、ピクリと眉を顰めた。

 

「……ふん、まだ審議中だ」

 

 不機嫌そうにそっぽを向くりく。その言葉の裏にある事実を察し、蓮は言外に納得がいったように——

 

「ふーん……」

 

 と、口角を上げて深く頷いてみせたのだった。

 一方で、蓮が一体何に気づいて納得したのか全くわからない剛は「?」と首をかしげる。

 

「なめんなっす!」

 

 その時、りくの背後に隠れていた瓶底眼鏡の少年が、むんと胸を張って前に出た。

 

「おいらは御丑(みうし)シロ! りく様の事情を知り、不肖ながら手伝う資格を得た一の子分っす! 相棒であろうとなかろうと、おいらは偉大なりく様に一生ついていく所存っす!」

 

 小柄なシロは、ポケットから取り出した軍手のようなボロボロの咒具を両手にはめると、まるでキャンキャンと吠えるチワワのように剛たちを威嚇して見せた。

 その健気で忠誠心に溢れる——しかしお世辞にも強そうには見えない姿に、蓮は悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 

「剛、今回はりくの勝負、受けたほうがいいかもしれないよ?」

「おい蓮、新入りがいるからってこんな奴の言い分に乗るのは流石に……」

 

 剛が顔をしかめて反論しようとした、まさにその時だった。

 

 ――うぅぅぅぅぅぅぅぅん、と。

 

 空気を震わせるような重低音のサイレンが、突如として鳴り響いた。

 一般人には聞こえない、霊的波長に同調した退魔師の脳内だけに直接響く警告音。

 『外なる霊』の出現を知らせるアラートだ。

 

「……ったく、こんな時に!」

 

 剛は弾かれたように窓の外を睨みつけると、Abeのストラップとして付けていた鉄扇のミニチュアを強く握りしめた。

 

「装来(そうらい)!」

 

 質量保存の法則を完全に無視し、小さなミニチュアが実物大の鉄扇へと瞬時に変形する。

 それと同時に、眩い光の奔流が剛の身体を包み込んだ。

 光が弾けると、そこにいた熱血少年の姿は掻き消え、代わりに現れたのは――猫耳と尻尾を生やし、露出度の高い退魔服を身に纏った可憐な美少女だった。

 

「「装来(っス)!!」」

 

 剛に呼応するように、りくとシロもまた、それぞれの咒具を構えて呪文を叫んだ。

 りくの身体が黒い光に包まれると、長身の美少年の姿は、艶やかな黒い狐耳とふさふさの尻尾を生やした、和風装束の凛とした少女へと変貌を遂げる。

 その手には、シャン、と涼やかな音を立てる神楽鈴が握られていた。

 だが、何よりも見る者の度肝を抜いたのは、シロの変身だった。

 小柄でひ弱そうだった瓶底眼鏡の少年は、光の中でみるみるうちに背丈を伸ばし――弾け飛ぶ光の中から現れたのは、見上げるほどに背が高く、豊満な胸と引き締まった筋肉を併せ持つ、グラマラスな褐色の犬耳美女だったのだ。

 

 ガキンッ!

 

 褐色の美女(シロ)は、両手に嵌めた分厚い鋼鉄の手甲を勢いよく打ち鳴らし、野性的な咆哮を上げる。

 

「……わぉ」

 

 そのあまりに激しすぎる変身前後のギャップに、さしもの蓮も素で目を丸くして感嘆の声を漏らした。

 一方の剛はといえば、呆然とした顔でシロの逞しい肉体を見上げた後、自分の華奢な二の腕を指でぷよぷよと摘んだ。

 

「こりゃあ……良いなぁ。俺もせめて、あんな風に筋肉質で強そうな変身したかったなぁ……」

 

 柔らかく細い、完全なる『女の子』の腕を恨めしそうに見つめながら、剛は心の底からぼやいた。

 

「そら、まずは早い者勝ちだ!」

 

 剛の愚痴などお構いなしに、狐耳の美少女となった女子化りくが、神楽鈴を鋭く振り鳴らす。

 シャン! という清冽な音と共に、保健室の窓ガラスがひとりでにガバッと開き、虚空に向かって薄く光る空間断層の足場が階段状に可視化された。

 すかさず、褐色犬耳美女のシロが巨躯を屈め、りくの小柄な身体を軽々とお姫様抱っこで抱え上げる。

 

「りく様、失礼しますっす!」

 

「言うのが遅い!」

 

 短い掛け合いと共に、シロは強靭な脚力で空間断層を蹴りつけ、保健室の窓から大空へと一気に跳躍していった。

 

「行くよ剛!」

 

「任せた! ……ったく、お子様なのはどっちだよ!」

 

 空へ消えゆくライバルたちを追いかけるように、蓮もまた空中に錫杖(しゃくじょう)を顕現させた。

 魔法使いの箒のように横たわったそれに、蓮と剛が前後に跨ってしがみつく。

 蓮が魔力を込めると、錫杖の石突に備えられたマニ車がギュイイインと高速回転を始めた。

 

「捕まってて!」

 

 マニ車からロケットのバーナーのような猛烈な霊力が噴出され、二人が乗った錫杖は弾丸のような速度で窓の外へと飛び立っていった。

 

 バサバサバサバサッ!

 ガシャァァァン!!

 

 猛烈な噴射の風圧により、保健室のデスクに積まれていた大量の書類が吹雪のように舞い散る。

 さらに、先ほどシロが跳躍の際に力任せに踏み抜いた床のタイルが砕け散り、部屋中に破片が散乱した。

 

 数分後。

 

「おーい、いい加減蓮くんだけでも教室に戻れーって……」

 

 のんきな声を出しながら保健室の戸を開けた三船(みふね)教諭は、そこで言葉を失った。

 突風が吹き荒れ、書類と瓦礫が散乱し、完全にぐちゃぐちゃの廃墟と化した保健室。窓は全開になり、カーテンが虚しく風に揺れている。

 三船は呆然とその惨状を眺めた後、苛立ちと諦めがないまぜになった深大なため息をつき、ガシガシと後頭部を掻き毟るのだった。

 

 

     * * *

 

 

 一方、その頃。

 大阪、ウェストパレスビル最上階。

 そこは近代的な高層ビルの社長室でありながら、どこからともなく小川のせせらぎが響き渡る、総ヒノキ造りの巨大な祭壇。

 ふかふかのソファーでゆったりとくつろぐ恵比寿の眼前には、今現在世界中で戦っている無数の退魔師たちの咒具から送信されてくる、膨大な視覚情報と戦闘データが幾重にも展開されていた。

 彼女は空間に浮かぶモニター群をただ視覚で追っているわけではない。

 閉じた瞳の奥、神としての知覚と一身の感覚すべてを用いて、世界の霊的動向をリアルタイムで感じ取っていた。

 ふと、恵比寿は薄っすらと片目を開け、朱塗りの唇を綻ばせた。

 

「……平間の坊に、御丑んとこの先祖返りか……よりによって、天波派の子達が因果なもんやね。蓮くんは即座に事態のややこしさに気付いて、庇う方に回ったか。末恐ろしい子やわ全く」

 

 独り言のようにつぶやく。

 蓮が保健室で「審議中」という言葉の裏にあるシロの事情に気付き、りくの勝負に乗るよう剛を誘導したこと。その一部始終を把握した上での、心底楽しそうな感嘆だった。

 恵比寿の言葉に、彼女とネットワークで繋がる咒具たちが言葉を返すように、空間モニターが一斉に明滅する。中でも、剛の視界を映しているモニターが一際強く輝いた。

 

「あぁ、しっかり見させてもらうで、スイミー……」

 

 恵比寿はモニターの向こう側、剛の咒具に宿るシステムに向けて語りかける。

 

「君の主、『英雄』に憧れる最新の『雌(イザナミ)』が、彼らをどう救うのか」

 

 そう言い残すと、恵比寿は再び世界中の戦いに意識を集中させるかのように、静かに瞳を閉じて瞑想に入った。

 妖しき神に見守られながら、剛は己の英雄たる心の均衡を保ち、強くなることができるのか……。

 その未来は、システムを創り上げた神である彼女にすら、確として知りえない――。

 

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