ハジメの母、メグミは──
息子が連れてきた女の姿を目にした瞬間、言葉を失っていた。
まるで、気が狂ってしまったとしか思えなかったからだ。
小柄で華奢な息子とはあまりにも不釣り合いな、その体躯。
丸々と膨れた輪郭は幾重にも重なり、荒れた肌には吹き出ものが生々しく浮かび上がっている。
ずり落ちかけた黒縁の眼鏡は、脂に滲んで光り、かろうじてその位置に留まっているようだった。
──どうして、こんな女を。
声にならない疑問が、胸の奥で渦を巻く。
最近、様子がおかしいとは思っていた。
学校から帰るとすぐに部屋にこもり、ノックをしても返事がない。
こっそり覗いてみると、下半身を剥き出しにして、一心不乱にマスターベーションに没頭していた。
床には丸めたティッシュペーパーが、山のように積み上がり、その姿はまるで盛りの付いた犬。
だからといって──
もう、女なら誰でもよくなってしまったのだろうか。
メグミには、自分の息子が正気を失ってしまったとしか思えなかった。
だが──当のハジメは違う。
目の前の、力士のような女を、まるで宝物でも眺めるかのように、うっとりと見つめている。
その視線には、なんの迷いも嫌悪もない。
ただ、深く満たされたような色だけが宿っていた。
それどころか、メグミが用意したケーキを、まるで恋人同士のように分け合いながら、自然に笑みまで交わしている。
しかし、母であるメグミに、息子を咎めることなどできなかった。
相手の容姿を理由に口を挟むなど、あってはならないことだ。
それに──どんな相手を選ぼうと、それはハジメ自身の問題だ。
自分が差し出せる手など、どこにもない。
「僕の部屋に行こうよ……見せたいものがあるんだ」
ハジメは目を輝かせ、そう言いながら彼女の手を引いた。
そして二人はそのまま、自室へと向かっていく。
引き止めることもできず、メグミはただ、その後ろ姿を見送るしかなかった。
仲睦まじく手を繋ぐその後姿は、まるで親子──
ふと、胸の奥に引っかかる。
息子が自分の部屋で何をしようとしてるのかは、なんとなく想像がついていた。
家に着いた時から、彼女を見つめるうっとりとした瞳には、他のものは何一つ映っていない。
女として見ているのは明らかで、しかも股間の辺りが、ずっとモッコリと膨らんでいた。
しばらくしてから、息子の部屋をこっそりと覗く。
そこで、目にしたのは──
やはり、二人は始めていた。
女はスカートを捲り上げられ、大きな尻を突き出し、息子の背丈に合わせて小さく屈んでいる。
その窮屈に見える姿は、まるで巨大な饅頭。
そんな醜態を前にして、息子は下半身を丸出しにして一心不乱に腰を振っている。
巨大なお尻に股間をペチペチと打ち付け、満足げに薄っすらと笑みを浮かべる姿は──まるで、理性を失くした獣のようだ。
自分が産んだ息子とは、とても思えない。
そう思いながらも、メグミはわずかに開いたドアに手をかける。
そして二人に気づかれぬよう、息を殺して──そっと扉を閉めた。
我が子がどれほど苦しんでいようと、自分にはどうすることもできない。
もはや、この女に託すしかないのだ。
どれほど容姿が醜くとも、息子自身が彼女を選んでいる。
今はただ、盲目になっているだけ。
だが、熱が冷めれば、いずれ正気に戻るはずだ。
──そうあってほしい。
メグミは、そう自分に言い聞かせるしかなかった。
リビングに戻ろうとする彼女の耳に、あの女の淫らで悩ましい声が微かに届く。
その肩は、悔しさを押し殺すように小さく震えていた。
一方で──
本当の愛を知ったハジメは、もはや周囲の視線など意にも介していなかった。
何を言われようと構わない。
ヤスコが愛おしくてたまらないし、これほどまでに自分を求めてくれる存在がいることが、ただ嬉しかった。
心から満たされている。
そう思えるほどに。
だが──
愛を知ってしまったからこそ、胸をよぎるものがある。
拭いきれない、たった一つの後悔。
──カズミのことだ。
彼女と繋がってしまったことは、まぎれもない事実。
だが、そこには愛どころか、何の感情さえも無かった。
ただ、自分の欲望を満たすために彼女の身体を強引に奪ったのだ。
その行為は紛れもなくレイプ──
どんなに冷静さを失っていても、あんなことをしてしまっては獣にさえ劣る。
相手の気持ちを思いやる心がなければ、どんなことをしたって満たされるはずはないのだ。
ハジメは彼女の感情など無視して、その身体を奪ってしまったことを、今になって後悔していた。
そして、彼女を性処理の道具としか見ていなかったことに、深い罪悪感を感じていた。
次の日──
ハジメは、カズミに謝る覚悟を決めていた。
あれだけのことをしてしまったのだ。
当然、その報いは受けなければならない。
あの日と同じように、授業を抜け出し、朝から屋上へ向かう。
彼女が来るのを、一人で待ちながら、ぼんやりと空を眺めていた。
空を見上げるその横顔は、どこか穏やかで──
不思議なほど、晴れやかだった。
本当の愛を知ったからこそ、ハジメは変わった。
もう、逃げない。
たとえカズミがどんな無理難題を突きつけてこようと、すべてを受け止めるつもりでいた。
誠心誠意、許しを乞うために──。
その結末がどうなろうとも、受け入れる覚悟はできていた。
そのとき、屋上の扉がバタンと荒々しく開いた。
「お前、よく学校に来れたなぁ?」
開口一番、嘲るような声。
現れたカズミは、やはり一人ではなかった。
背後には、ガラの悪い上級生たちを従えている。
その立ち姿には、決して許さないという意思が、はっきりと滲んでいた。
取り囲むように近づいてくる先輩たちを見て、ハジメの喉がひくりと鳴る。
覚悟していたはずなのに──
身体が、正直に怯えていた。
それでも。
ここで逃げれば、すべてが終わる。
ハジメは歯を食いしばり、意を決すると──
「……すみませんでした!」
その場に崩れ落ちるように、深く頭を下げた。
震える身体を押さえつけながら、地面に額を擦りつける。
だが──
カズミの憎悪は本物だった。
最初から、言葉など届くはずもない。
平伏するハジメを見下ろしながら、カズミは小さく目配せをする。
次の瞬間──
男たちが、一斉に襲いかかった。
鈍い衝撃が走る。
殴られ、蹴られ、容赦なく身体を打ち据えられる。
息が詰まり、視界が揺れる。
それでも──
「すみませんでした!」
ハジメは叫び続けた。
打ちつけられる痛みに顔を歪めながらも、何度も、何度も、頭を下げ続ける。
決して──やめようとはしなかった。
それはもはや、常軌を逸していた。
何かに取り憑かれているとしか思えない、異様なしぶとさ。
やがて、その執拗さに気圧されたのか、男たちの手が、次第に鈍っていく。
先ほどまで威勢よく怒鳴っていた声も、いつの間にか消えていた。
そして──
カズミの表情にも、変化が現れる。
腕を組んだまま見下ろしていたその顔から、険しさが、ゆっくりと抜け落ちていった。
「……もう、いいよ」
小さく、息を吐くような声。
「でも──あんなことをしたんだ。慰謝料だけは、ちゃんと貰うからね……」
その言葉は、許しでありながら、決して優しさではなかった。
それは、カズミなりの譲歩。
ハジメの“本当に申し訳ない”という想いが伝わったからこそ、彼女は──金で片をつけるという形の、逃げ道を与えたのだ。
「……三十万。それで全部、忘れてやるよ」
その言葉に、ハジメははっと顔を上げる。
額から血を流し、顔中を腫らしているというのに、そこに浮かんでいたのは、悲壮ではなかった。
むしろ──
救われた者のような、安堵。
「……わかりました! ありがとうございます!」
声を震わせながらも、はっきりとそう答えた。
男たちを従え、カズミはそのまま屋上を後にする。
その姿が見えなくなっても──
ハジメは、なお頭を下げ続けていた。
やがて静寂だけが残る中、それでもしばらくのあいだ、顔を上げることはなかった。
学生の身で三十万という額は、決して軽いものではない。
だが──
それだけの過ちを犯したのもまた事実だった。
そして、それを払いきったとき、自分は何かを乗り越えられる。
そんな確信にも似た思いが、胸の奥にあった。
その日から、ハジメはバイトに明け暮れる。
それはカズミへの償いのためだけではない。
ヤスコとの未来のため──
結婚資金を貯めるという、もう一つの目的のために彼は、すでに前を向いていた。
~to be continued~