驚愕・疑問・不信・憤怒・焦躁と、あのニュプノクスでも眠れないであろう感情の闇鍋を抱えて一夜を過ごした。おかげさまで眠たすぎて頭がほぼ回っていない。ソフィーヤ看守長もそんな感じなのか、若干ふらついていて動きがゆったりだ。
「ふわぁ……今日はゆるーくやっていきましょうよ……」
「そうもいかんだろう。私達はクズ共を更生させなければならない」
動きに対して心はばっちりのようだ。だから心もばっちりなのだろう。そういえば更生センターはこっちだっただろうか。こっちは食堂だったような気がするが、食堂だったような気もする。
「待ってください、お姉ちゃ────!」
後ろから聞こえてきた紅林ちゃんの声に振り返り、思ったより動かなかった足がもつれてよろけて────ものすごい衝撃が背中に走ってから地面に倒れる。
「いってえ……何にぶつかって倒れたんだ……?」
痛みによって覚めた目と頭で状況を確認していく。痛いのは前面よりも後面、もっと言えば肩甲骨と肩甲骨の間だ。起き上がって周りを見ると立ち竦んでいる紅林ちゃんと、右拳を突き出して固まっている彼女がいる。周りには俺がぶつかるような柱や壁はなかった。となると、答えは一つしかない。
「……ソフィーヤ看守長に殴られた?」
あんまりにも眠たそうな俺がムカついて手が出てしまったのだろうか。流石に不真面目過ぎたと謝ろうとしたら、それよりも早く彼女の口が動いた。
「汚らわしいHENTAI懲役の分際で、我ら刑務官に馴れ馴れしい口を叩くとは────────お前たち、何様のつもりだ?」
直近の彼女から考えて出るはずのない言葉だった。
「……えっ、え?」
俺すら分からないのに紅林ちゃんが分かるとは思えない。そうやってたじろいでいる紅林ちゃんに彼女が近付いてとんでもない事をした。
「言っても分からないなら……こうだ」
拳を振る────
「いや何も言ってないじゃないですか」
────所を掴んで止めた。
「それに紅林ちゃんはしっかり目が覚めていますよ?」
「いや、立場が分かっていない奴の目が覚めている訳ないだろう」
「本気で言っています?」
「本気に見えないのか?」
動きや声音から言って本気なのは間違いないが、本心からやっているとは思えない。とりあえず今の彼女が真面ではないことが分かったので、拳を放して宣言をする。
「今のあなたにはついていきたくありません。一度あなたの看守補佐を降りさせてもらいます」
「懲役の肩を持つような刑務官など必要無い。こちらから願い下げだ」
「ではお言葉に甘えて────『やりたいようにやらせていただきます』」
最後に見えた彼女の瞳は嫌悪感を覚える程濁っていた。
そこから彼女は大きく変わった。囚人達の揚げ足を取って、ひたすらに私刑まがいの事をしていった。相関係数の上昇、懲罰房送り、暴力による制裁。瞬く間に囚人達は恐怖のどん底に陥った。俺のウィッグ工房も例外ではなく、不正行為は指摘されなかったもののジョッキーが懲罰房送りになった。このままでは壊滅しかねないので、残った2人と共に現状を打開する案を考える。
「この際どんな情報でも構わない。彼女が変わった原因、彼女を止める方法、ウィッグ工房の新形態……今回に限ってはどんな特別用便も認める」
これだけ言えばある程度の情報は集まるだろう。しかしよぉと海神が黒のブチ模様が入ったピンクのロングヘアーのウィッグを被りながら聞いてきた。
「何で狂人先生はこの問題を解決しようとしてるんだ?」
「ふわぁ……フりんちゃんのお気に入りだからだと思うます……」
その呼び方はあらぬ誤解が生まれるから人前ではするな、と釘を刺してから事情を話す。
「協力的だった19班の人間を殴り飛ばそうとして、それはいくらなんでもおかしいと思ってな」
彼女には妹である紅林ちゃんへの憎しみがあるが、それが動機だったらもっと早くに殴っているはずだ。つまり、ここ最近で別の動機が急にできたと考えるのが妥当だろう。
「確かにあの豹変ぶりは権力を持っただけじゃ起きえねえな」
「ふわぁ……狂人先生みたいに目的があって演技をしているだけだと思うます……」
演技をするといっても何が目的なのか──────ニュプノクスの俺みたいにという所で1つ考えが出てきた。
「……弱みを握られている可能性があるな」
俺の時は演技とはいえウィッグ工房の不正をネタに夕顔に屈服させられた。これと同じと仮定した場合、彼女は何かしらを人質に取られたから豹変したと考えられる。ならその人質とは何か。真っ先に思いついたのは落盤事故でのおもらしだが、それごときであそこまで変わったら流石にドン引きだ。次は19班のエロゲー創作活動への協力だが、一応水城所長の許可の下で行っているから違う。なら妹である紅林ちゃんは? 人質を殴ろうとしていたら俺以上の狂人だから無しだ。そうしたら残りは親しい人間だ。彼女が良く関わる人間は山岸刑務官と樋口さんだ。まずはここから当たってみるとしよう。
「お前たちのおかげで新しい目標ができた。感謝する」
「愚生が役に立ったなら何よりだ。がんばってくれよ狂人先生」
「ふわぁ……特別用便願うます……」
ニュプノクスのいつものアレをBGMにしてウィッグ工房を後にする。
早速わいせつ房で見つけた山岸刑務官と話をする。
「山岸刑務官、少しお時間を貰ってもよろしいでしょうか?」
「むっ、九十九か。構わないぞ。グラウンドを見張りながら話そう」
いつも休憩時間になればそこそこの賑わいを見せるグラウンドも、彼女の行き過ぎた監視によってシンと静まり返っている。しかし、俺達まで黙っていては何も始まらないので俺から話題を振る。
「……あまり言いたくないですけど、最近のソフィーヤ看守長はおかしいと思います」
「そうか? 私は0720番に妙に優しかったあのソフィーヤ看守長の方がおかしいと思ったが……」
これはどの時期の彼女を基準にするかによって変わるだろう。俺は最近数か月の俺と湊君に振り回される彼女だが、山岸刑務官はそれよりも前の冷酷な彼女のはずだ。この方面からアプローチするのは難しそうなので、スマホを取り出して手早くとある画面を表示させる。
「話は変わるんですけど、これを見てほしいんです」
俺のスマホには『誰に脅されているか教えて欲しい』と書いてある。壁を背にしているから俺達以外には見えず、彼女が作った恐怖の中でわざわざ看守2人に関心を持つ者もいない。これなら彼女も遠慮なく言えるはずだ。スマホを手に取った山岸刑務官がパパパっとフリック入力で何かを打ち込んだ。
『私は何にも屈しないぞ』
まるでこれから屈する姫騎士のような表現だ。
「なんでこんなことを聞いたんだ?」
しかし、彼女の顔が心底不思議そうなので本当に屈していないのだろう。あらぬ不安を残さないために帽子を深くかぶって答える。
「所長から刑務官の人間関係に問題がないか聞いてきてほしいと頼まれまして」
「なるほどなあ……相変わらずお前は凄い事を考えるなあ……」
とりあえず山岸刑務官が脅されているということはなさそうだ。別の人にも聞いてくるのでと一礼して別れ、医務棟に行って樋口さんにも同じ手口で迫った。
「うーん……強いて言えば柊一郎さんかなあ……」
こちらも問題なさそうだ。これで俺の中にある当ては全部なくなった。どうしたものかと深く息を吐いてしまい、それを見逃す訳がない樋口さんから質問を受ける。
「また何かしてるの?」
「最近のソフィーヤ看守長の激変の原因を探してるんです。何かを人質に取られていると思ったんですけど、その線はないみたいで……」
「確かに最近のソーニャさん私もはおかしいと思うなあ……」
「なんだと思います?」
樋口さんはうーんと唸りながら目を瞑って眉間にしわを寄せた。結構本気で考えているようなので、俺も一緒に考える。俺は彼女の看守補佐として近くにいたから、きっかけがあったら気付いたはずだ。なのに悩んでいることは、俺の目がなかったタイミングで何か起きた────俺の目がなかったタイミングがある。あの屑畜生女に教誨室に呼び出された日の夜だ。そしてその夜会ったある人物からソフィーヤ看守長の匂いがした。
「我妻看守長……!」
もし我妻看守長が犯人だとしたら、屑畜生女を利用して彼女から俺を引き離す指示が出せる。しかも彼女を豹変させた動機も十分にある。夕顔がただの看守に成り下がった今、プリズンを握っているのは彼女と我妻看守長だけだ。もし今彼女が失態を犯せば権力を持たせると豹変する人間と判断され、彼女もただの看守に落ちかねない。状況証拠しかないが、推定有罪の人間が出てきた。
「よりにもよってか……!」
しかし、いくら何でも相手とタイミングが悪すぎる。屑畜生女に心をかき乱され、姉妹の仲を取り持とうとしていて、その上でアレを相手にするのは分が悪すぎる。少なくともどちらか一つの問題を解決しないとまともに渡り合えない。なら姉妹の仲の方がまだ解決できる。といっても、ヤリーマン予想とウッデル素数が無数に存在するかの証明を比べているようなものだ。一筋縄ではいかない問題を解決するにはどうすればいいか。このプリズンにはそれらを解決してきたとんでも集団がいる。
「もう動いているよな、19班……!」
翌日、PCルームに集まった19班の皆から情報を貰う。なんと昨日の夜に紅林ちゃんは彼女と会って、ひと悶着あったのちに彼女が痙攣して吐き、その後にあの我妻看守長が現れて彼女と一緒に去っていったという。湊君も水道管から見ていたというから間違いなさそうだ。それに乗じて俺の推理も披露する。
「……というのが俺の考えだ。賛否問わずどんな意見でも出してくれ」
「じゃあイカれシスターがお姉ちゃんをやったんですか!?」
今日も紅林ちゃんは情緒不安定だ。愛する姉の異常事態で気が気でないのは分かるが、胸ぐらを掴んでまで迫るのは俺以外にはしないで欲しい。
「アイツのせいでお姉ちゃんが……!」
「待って、そうと決まったわけじゃ────」
「いや、あのシスターならあり得るな」
組長が話題を切り出してきた。そもそも組長はシャバでとある薬物が出回っていて、その薬物を蔓延らせた人間は全員このプリズンへの収監経験者で、その出所を調べるためにこのプリズンに入ったらしい。
「その中で色々調べたんだが、奴さんは製薬会社の令嬢らしい。宗教家として人を集めて薬で洗脳する……ありがちな話だろ?」
確かにあり得る話だ。しかし、肩書だけでは人は洗脳できない。何かしらの道具が必要だ。
「食事や日常生活で使う水に仕込んだってのは無い。アタシの手下の監視があるからな」
そしてあの日俺が教誨室に行って我妻看守長に会うまでの時間は、どれだけ長く見積もっても1時間だった。たった1時間で人を洗脳させる方法があるのか。
「あるんだな、それが」
俺はスマホを取り出してとあるアプリを起動し、湊君を手招きしてスマホの画面を見るように立たせた。
「何をするんで────」
「オラッ、催眠!」
俺のスマホの画面がぴかっと光り、湊君は呆然と立ちすくんでいた。
「ぜっ、全裸マンに、なにを、したんだ……?」
「……湊君、三回バク転してキリンの鳴きまねをしてくれ」
俺の言葉に反応して彼の口が動き出す。
「バク転は出来ないですし、キリンがどうやって鳴くか知らないです」
「バク転のコツは躊躇わずに勢いよくだ。そしてキリンは牛と同じ
「そんなエロ漫画みたいに都合よく洗脳できるわけないでしょう!?」
紅林ちゃんが再び俺に迫って来たので、まあまあと片手で抑えながら説明を続ける。
「これは青藍島で催眠プレイをしたい時に使うアプリだ。事前に両者の合意が必要だが、SHOの職員にこれをやると催眠プレイができる。要は偽物の催眠アプリだな」
「偽物じゃ意味がない────」
「
俺の言葉に全員が息をのむ。
「俺は人生上薬物の類が許せない人間でね。色々と調べているんだが、電子ドラッグってものがあるんだ。本来は周波数を利用して特定の心理状態を引き起こす音響技術なんだが、これとサブリミナル効果*1を組み合わせると……それなりに人を操ることができちまうんだ」
現代の心理学では科学的根拠が乏しいと言われているが、昔の単純な手法程人間は引っかかりやすくもある。何よりあの我妻看守長がやっているとしたら、宗教が関わって科学だけでは説明がつかない事態も考えられる。これでここにいる全員が次にするべきことが分かったはずだ。なので湊君にリーダーとして言ってやれと目線を送る。
「今のオレたちに必要なのはシスターへの攻撃ではない……ソフりんの洗脳を解くことだ」