紅林ちゃんがソフィーヤ看守長のの骨を折ってからは打ち切りが決まった漫画のように怒涛の展開だった。まずは彼女を医務棟に運び全体安静の診断書を貰い、俺は『不倶戴天』の反動の頭痛で床に蹲った。
「どどっ、どうしたの九十九さん!?」
「そういえばさっき胸を強く殴られていました」
湊君の言う通り胸部を強く打ったらこれぐらいの苦しみもあるだろうが、抱えるのは頭ではなく胸のはずなので訂正する。
「それは関係なくて……頭がめっちゃ痛いだけです……アレ使わされちゃいましたから……」
「アレってなに!? もしかして良くないお薬に手を出しちゃったの!?」
「それはソフィーヤ看守長の方です……」
「ソーニャさんの方!?」
「お、驚きの情報が多いので仕方ないとは思っていますけど……あ、あんま大きな声出さないで貰えると助かります……あ、頭に響いて……」
「ご、ごめん……じゃあ、落ち着いたら胸の検査するからね……」
俺の胸の診断結果は異常無しだった。樋口さんが驚きの余りがらがっしゃんと椅子から滑り落ちたのは不謹慎ながら面白かった。因みにボクシング大会はあまりにも危険な試合だったため大会そのものを中止とする運びになった。
ということで何とか無事だった俺はウィッグ工房のメンバーに凱旋を報告する。
「良かったですね狂犬先生!」
「かっかっか、相変わらず狂犬先生は人間離れしてんなあ」
「でも、それが狂犬先生らしくていいと思うます」
からからと笑う皆だが明らかにいつもと違う点があるのでツッコむ。
「なんだその『狂犬先生』って」
「知らないんですか? 今の囚人の間ではもっぱら先生の話題で大盛り上がりなんですよ?」
「何せあの青藍島の『金色の狂犬』だからなあ……」
「ここの囚人にとって青藍島は楽園そのものます」
確かにあの島なら合意なしで人に害を与えるHENTAI行為でもない限り、そういうのもあるのかとむしろ参考にされるぐらいだ。所長からウィッグ工房へ行きたいという囚人が多くて困ると言われたのはそのためか。
「青藍島もそうですけど、『金色の狂犬』が来たって大騒ぎですよ!」
「誰しも薄々はそうじゃないかと思っていたが、あの音声で全員確信に変わったな」
「狂犬先生はこんなところでも有名人ます。羨ましいます」
俺自身を見直すために『金色の狂犬』を捨てたというのに、結局その名前がついてきてしまうようだ。
「いい加減認めたらどうですか? 『
屑畜生女の言葉がふと頭をよぎる。俺の影響力は俺が思っている以上に大きいのかもしれない。しかし、俺自身はそんなものに興味はない。ただ青藍島を知ってもらい、必要なら来てほしいぐらいにしか思っていない。
「どうしたます狂犬先生?」
「うおっ!?」
鮮やかなニュプノクスの瞳が俺の思考をぶった斬る。この瞳は伊栖美ちゃんの眼とは違い、複雑すぎて理解できない芸術品を見ている気分になる。しかし、彼女の過去を知り、あの涙を見た俺はその瞳がとても美しいものに見える。
「そうそう! ニュプちゃんがあくびしなくなったんですよ!」
「そして眼を開くようになったな。もう知ってるだろうが、凄い眼してるんだぜ」
彼女が自信満々に胸を張ってむふんと鼻を鳴らす。
「僕はこの眼でひどい目に遭ったます。だからこんな眼なんか見せない方が良いと思ったます。でも、伊栖美ちゃんはこの眼を受け入れてくれたます。一度もなかったことで、人生で一番うれしかったます。そして────1人でも僕を受け入れてくれるなら、例えそれ以外の人から拒絶されても大丈夫だと思えたます」
彼女が大きく目を見開いて宣言する。
「だから僕はもうこの眼を隠さないます。この眼は僕の象徴、カッコつけて言うなら四色沖奈のアイデンティティーます」
その玉虫色ともいえる瞳とは対照的に確固たる意志を持った発言だ。そういう人間が好きな俺は手を鳴らして彼女を称賛した。
「良い女になったじゃねえか。生物的に女だったら抱きたかったぜ」
「狂犬先生にそう言ってもらえるのは光栄ます」
すごく良い雰囲気になったが、しかしよぉと海神が灰色のポニーテールのウィッグを被りながらとんでもない事を言い放った。
「四色、お前さんの言ってることは間違ってるぜ?」
「えっ……?」
「あたしはお前さんを受け入れてるぜ。勝手にあたしまで拒絶してるみてえな言い方は止めてほしいな」
「そ、そうです! 私だってニュプちゃんは可愛いと思ってます! 正直私よりも可愛いくてちょっとムッとしちゃいます!」
「み、皆……」
嬉しそうに泣く彼女を皆で囲んで撫でて笑い合う。自身を他者に受け入れてもらえるというのはとても難しく、だからこそとても嬉しいものだ。
「……折角睡眠夜神が本名を言ったんだ。ここで全員の本名を言うってのはどうだ? あたしは青柳
じゃあおしらこはと聞いたら初めて言われたから何とも言えないと返された。青藍島だったらしらこちゃん待ったなしだろう。
「わ、私は山城
おかっぱをくっと上げるとマルっとした水色の瞳が現れた。目元の小ジワから言動と不釣り合いな老いを感じる。
「……お前何歳だ?」
「そろそろ45になりますかねぇ……」
お前俺よりも年上だったのかよ。もうちょっと年甲斐とか考えろよと思ったが、俺が年甲斐もなく暴れているから心に押し留めておこう。
「そうなると俺の番か。俺の本名は土口精。とっくにご存じだろうから割愛させてもらうぜ」
「えー、色々聞かせてくださいよー。好きな物とか、今まで何してきたとかー」
「情報屋のおやっさんから聞くよりも本人から聞いた方が安上がりだしな」
「まあまあ、狂犬先生の気が向いたら話してもらうぐらいでいいと思うます」
改めて頼もしい奴らだ。
ソフィーヤ看守長が絶対安静及び面会謝絶になってから30日程経った。その間は紅林ちゃんが献身的に身の回りのお世話をして、見事に関係回復したそうだ。そんなある日、紅林ちゃんからどうしても3人で話がしたいと言われ、特別に彼女の部屋にお邪魔した。
「失礼します。九十九です」
ベッドの上で横たわる彼女はどこか憑き物が落ちたようにさっぱりとした顔をしていた。
「来てくれたか。色々と忙しいだろうにすまないな」
「いいんですよ。それよりも仲直りおめでとうございます」
「私が必要以上に意地を張り続けたせいで……2人には迷惑をかけたな」
「そんなことありませんよ! 私と九十九さんはお姉ちゃんのために働けて嬉しかったですから!」
「そうですよ。俺もソフィーヤ看守長にめっちゃ迷惑かけましたからお相子です」
そうかと笑う彼女の顔は見たことないぐらい優しい顔だった。しかし、その顔に影が差し、いつぞやの様にポツリと言葉を降らした。
「……実はお前が妬ましかったんだ、九十九」
「えっ?」
あまりにも突然で重い言葉だった。
「私よりも強く何もかもを持っているくせにまだ足りないと言わんばかりの行動をして……正直、あのボクシング大会で合法的に殺してやろうと思った」
土砂降りの言葉に気圧されそうになる。でも、あれは薬の影響もあって────
「真面な状態じゃなかったなんて言い訳はしない。例え平常時であってもお前を殺そうと、そうでなくても再起不能にするつもりだった」
「……それぐらいで挑んでくれなきゃつまらないですよ」
「そうすれば強く、何より『妹』を持っているという点でお前より上に立てると思ったんだ」
軽口もむなしく彼女は醜い本心を曝け出した。
「だが……私の考えは浅はかだった。愛を与えてくれる妹を受け入れられなかった私が、殺そうとしてきた妹ですら受け入れているお前に勝てる訳がなかった。そんな私を止めるためにお前は暴走する危険を冒してまで────」
「それは違いますよ。アレは俺の作戦じゃないです」
「えっ?」
今度は俺の言葉に彼女が気圧された、というよりは呆気にとられた。
「あの音声が流れる可能性は考えましたが、それは俺のスマホが盗られた後の話です。本来の俺の作戦では俺はあなたにかなりのダメージを与えてから負けて、次の試合の紅林ちゃんが止めを刺すつもりでした」
衝撃の真実に紅林ちゃんが震えながら聞いてきた。
「じゃあ、試合前に私に話したのやその後の展開は……」
「作戦なんかじゃない、完全に俺の想定外だった」
端的に言って今回は運が良かったとしか言いようがない。何か一つ間違えば彼女達二人が命の危機に陥り、最悪の場合死者が出る可能性もあった。だから俺は頭を地につけて謝った。
「2人の仲を直すと言っておきながらこの
骨の数本は当然、もはや命があれば安いものだという覚悟だ。
「……頭を上げろ、九十九」
「そうです。九十九さんが謝る必要はどこにもないですよ」
声に頭を上げる。2人の顔に怒りは無く、むしろそっくりな優しい微笑み2つで迎えてくれた。
「お前は私に妹を失う事の辛さを伝えたかったんだろ? 私はノアと話すまでそれに気付かなかったどころか、考えようともしていなかった……そんな私にお前を責める権利はない」
「それに過程はどうあれ私とお姉ちゃんは仲直りできました。反省点こそあるかもしれませんが、素晴らしい結果になったじゃないですか」
2人の優しい言葉に涙が流れる。何と素晴らしい姉妹なのだろう。ならばあの言葉を教えておくべきだろう。立ち上がって彼女ににそっと耳打ちする。
「……そんな言葉、いつしか忘れてしまっていたな」
「これをもって『やりたいようにやらせてもらった』とさせていただきます」
「ちょっとちょっとなんですか私を差し置いて。いくら九十九さんでもお姉ちゃんといちゃつくのは────」
「ノア、こっちに来てくれないか」
彼女に手招きされて紅林ちゃんが嬉しそうに近づく。
「何ですかお姉ちゃん? どんな頼み事でも────」
彼女がぎゅうっと紅林ちゃんを抱きしめた。
「ノア……生まれてきてくれて、生きてくれてありがとう」
「っ、お姉、ちゃん……!」
「私を愛して、ずっとそばに、い、いてくれたんだよな……それがっ、とっても、大切な物だって……かけがえのない物だって……や、やっと分かったんだ……! ごめんな……! 今まで冷たくして……! さみしかったよな……!」
彼女はボロボロと大粒の雨を降らしながら今までの自分を悔いた。それを紅林ちゃんは優しく抱き返して受け止めた。
「大丈夫ですよ。今までも、今も、何よりこれからも……お姉ちゃんはずーっと世界で一人だけの私のお姉ちゃんですから」
「ノア……!」
「お姉ちゃん……!」
この2人だったらどんな困難も乗り越えていけるに違いない。一度砕けた愛情が再び戻ったのだから。
私はシスターに呼び出されて教誨室に来たのだが、その教誨室の懺悔室で誰かが話をしている。折角だから盗み聞きしてやろう。
「……ということで、"聖水"の力は抜け、暴走による失態も先延ばしになってしまったようです」
「そうですかぁ……もういいですよ、下がってください」
「……シスター、私は反対です。ソフィーヤ看守長はともかく、あの人は絶対に私達に扱えるものではありません」
「下がってくださいと言ってるんですよ?」
「……警告はしました。後は主の導きのままに」
出てきたおかっぱの女性の顔は相変わらず分からなかったが、あからさまにいつもとは違う雰囲気を纏っていた。私に気付かないほど真剣だったのだ。私は何食わぬ顔で懺悔室に入る。
「盗み聞きは良くありませんよ巫女様?」
「……どうしても気になってしまたので。ただ、彼を引き込むのは私も反対です」
「彼は私以上に私達の教えを説くことができる存在です。そしてあの湊柊一郎ちゃんとも仲が良いんです」
あの2人は私に恥をかかせたから嫌いだ。絶対に入れたくないが、この女は何を考えているのだろうか。
「私以上に教えを説ける伝道師と迷える子羊たちを導く救世主……我らが神父と教祖になれる存在ですから……」
格子越しに見えた彼女の目は、人に擬態していた化け物が本性を露にしたような恐ろしいものだった。