研修で離れた精に変わって治安管理委員会の運営を行っている日々はとても忙しかった。彼は言動に反して業務にはかなり真面目にやっており、引継ぎや今後の展開などしっかり考えていた。ただ、その量が膨大過ぎて私1人ではとても対応できるものではなかった。
「何だこの量は……!? こんなの僕のデータに入りきらないぞ……!?」
「言ってる場合っすか! 口も手も動かしてかないとまた今日の分終わらないっすよ!」
先輩が困っているならとシューベルトとスス子が来てくれたが、それでも終わらない程だ。
「みんな頑張ってるねー。がんばったらご褒美おまんこが待ってるぞー♪」
「応援するだけじゃなくて手伝えよ郁子……!」
「そうしたいのは山々だけどここで休憩とらないと怒られちゃうんだよねー……精くんの護衛スケジュールヤバすぎだよ……この歳になると色々堪えるものがあるよ……」
郁子も弱音を上げる始末だ。この多忙をこなしつつ性的マイノリティへの理解を広める活動も行っているから、たまに彼が人間かどうか怪しく思う。
「最長でも1年と言っていたが……この調子じゃこっちが半年持つかどうか分からないぞ……!」
「失礼します。土口セレンです。お母さんいます────」
「わー! セレンくーん! イクの休憩に付き合ってよー!」
「おや、レイラちゃんもご一緒かい?」
「お袋……じゃなくて母親への差し入れに来ました。皆さんもどうぞ」
「わー! 羊羹っすよ! それもこしあんのヤツっす!」
見ていてくれ2人とも。お前たちのお母さんは凄いんだぞ。
激務を終えて家に帰る。SSの大隊長をやっていた時とは違い、無茶を通せるほど若くない。周りからは二児の母とは思えない程若く見えるとは言われるが、それでも確かな衰えを感じる。これが彼が感じた衰えへの恐怖かと少し実感する。
「た……ただいま……先にお風呂に入らさせてくれ……」
「だろうと思ったぜお袋。これ使いな。あーし手作りのバスボムだ」
レイラからラップに包まれた黒い球体を渡された。
「飯は兄貴お手製のピラフだそうだ」
「出来立てを出したいからゆっくりお風呂に入ってていいよ」
言葉に甘えて服を乱雑に脱ぎ捨て髪を頭の上にまとめ、軽く体を流してから湯船につかる。やや温めのお湯が体を包んでじんわりと疲労感が抜けていく。
「……また胸が大きくなった気がするな」
水面に浮かぶ自分の乳房をたゆたゆと揺らす。最近は胸がブームなんだと毎日10分ほど揉まれていたせいだろうか。その疲労をとるためにもレイラのバスボムを使うとしよう。ラップを外して湯船に入れるとシュワシュワと黒い泡を立てながら溶けていった。弾ける気泡と共にふわっと緑茶の匂いが漂って、すごく心が安らいだ。
「出涸らしの茶葉でも使っているのか……? 相変わらず多趣味だな……」
折角セレンがゆっくり入っていていいと言ってくれたので、存分に楽しむとしよう。昔、彼が水乃月学園のシャワールームでイキそう戦隊デカチンジャーのOPを歌っていたの思いだしたので、私も歌ってみることにした。
「痴態よ街の精子たちに届け~♪ 孕ます夢を叶えられるように~♪」
浴室の反響もあってかとてもうまく歌えているような気がした。ご機嫌になって私から肩を叩かれるまで歌い続けていたのも納得だ。
「……あれ……? なんだっけ……? アヘる……アヘる……ド忘れしてしまった……」
好きな歌でも簡単な所がすっぽ抜けたりする。とりあえず今回は鼻歌で済ませるとしよう。
「Girls in pako DEKACHINGER♪」
「お母さーん? そろそろご飯できるけど、まだお風呂入ってたい?」
ご機嫌歌いまくっていたらそれなりに時間が経っていたようだ。丁度特殊エンディングを歌い終わった所なのでキリが良いので上がるとしよう。体を拭いて鳶色のゆったりとしたネグリジェを着てリビングに出ると、バターと魚介の混じった空腹を自覚させるようないい匂いがした。
「今日はシーフードピラフとオニオンスープだよ」
「手伝いながらちょっと味見したが美味かったぜ」
レイラが持ってきたお盆には平皿に山盛りの具沢山なピラフとお椀8分目に入った透き通った琥珀色のスープとどこにでもありそうなスプーンが乗っていた。愛しい我が子たちが頑張ったのだから間違いなく美味しいだろう。手を合わせていただきますをしてスープから口にする。玉ねぎの甘味とコンソメの旨味と胡椒のキレが見事に調和していくらでも飲めてしまいそうだった。次にピラフを口にする。イカ・エビ・人参・コーン・グリーンピースと冷凍ミックスのような具材なのに、どれもジューシーで食感もしっかりしている。
「兄貴が折角だからこだわるって魚介類は生の物をスーパーで買っていたぜ。コーンとグリーンピースは缶詰の奴使ってたな」
「最近は簡単な炒め物しか作っていなったから、たまには美味しいものを食べて欲しかったんだ」
なんと素晴らしい子だろうか。思わず涙が出てしまう。
「…………!!! 面目ない、面目ない!! 死ぬかと思った……!! もうダメかと思った…………!!!」
「ご機嫌に歌っていた割にはそんなに疲れてたのか……たんと食いな」
「良かったら明日は僕が代わりに働こうか? 職場体験でちょうどいいと思うんだ」
「だっ、大丈夫だ……!! お前たちのおかげで明日も働ける……!!」
毎日ギリギリになるほど忙しい日々だが、不思議と満ちている生活であった。彼は自己研鑽の研修と言っていたが、私たちも成長できるようにしているのかもしれない。どれもこれもアイツの手の平の上のような気がして敵わないと思うと同時に、結ばれてよかったと心の底から思った。強いて不満があるとすれば、偶にビデオ通話で相互オナニーをするぐらいしか連絡をよこさない事だろうか。彼もそれなりに我慢しているだろうから、私もしっかり我慢しないと。
そんな日々の中、家に襲撃者がやってきた段階で予兆はあったのかもしれない。
『青藍島の色々な規制が解除されるかもしれない。目途が立ったらまた連絡する』
そんなメッセージに次いで、桐香様から2枚の誓約書を見せられた時にはもう遅かったのかもしれない。深夜に全く知らない番号から電話がかかってきた。寝ぼけまなこを擦り開けて、迷惑電話にもほどがあると思いながら応答した。
「もしもし……土口礼ですが……どちら様でしょうか……?」
「つくっ、土口精さんの奥さまですね!? チューリップ・プリズンの矯正医官の樋口恵理子です! 実はご主人が意識不明の重体になりまして! 先ほど本島の病院に救急搬送されたところです!」
「何ですって!?」
人生で一番効果のある最悪のウェイクアップコールだった。跳び起きると同時に頭が真っ白になって何も考えられなくなった。
「どうしたのお母さん?」
寝間着の金色のジャージを着たセレンの呼び掛けで我に返る。隣のセレンの部屋まで突き抜ける程の反応だったらしい。
「お、お父さんが大変なんだ!」
「仕事が忙しくて帰ってこれないってこと?」
「い、意識不明なんだ!」
「っ!? 意識不明!?」
いつもしっかりしている彼も流石に動揺を隠せなかった。しかし、すぐに彼の様に両手を合わせて考え始め冷静さを取り戻していった。
「お母さんは本島に行く準備をして。方々への連絡は僕からしておくから」
「でっ、でもお前やレイラはどうするんだ!?」
「僕達は1週間ぐらいなら2人でもなんとかなるよ。ヤバくなったら冷泉院さんや女部田さんやNLNSの人達に頼むよ」
我が子ながらなんて冷静で的確な判断力だ。彼からもヤバい時は遠慮なく我が子を頼れと言われているので、セレンを信頼して島を発つ準備を進めていく。夜通しで行ったおかげで日の出前に準備が完了した。それを見計らったかのように桐香様から電話がかかる。
「話は聞きました。出頭手続きはこちらで済ませて、方々に都合をつけて移動手段を準備しました。早く彼に会いに行ってあげてください」
「ありがとうございます……! この恩は後に必ず返しますので……!」
「お礼はありがたいのですがとにかく急いでください。1分1秒を争う最速のルートですから。乗り換えに関してはメールで送りますので、ご武運をお祈りします」
桐香様から通話を切ってもらい家を飛び出す。港に向かうと畔がいつになく真剣な顔で小型ボートの舵を握っていた。
「お礼はお腹一杯になるまでの精さんの料理で!」
「何だったら1日中貸し出してやるぞ!」
「それなら速度マシマシで行きますよ!」
まだ薄暗い海は不気味なほど冷たく、ただただ私の不安を煽るだけだった。桐香様の権力をフル活用したルートによって開院と同時に彼が運ばれた病院に辿り着いた。受付で事情を説明し、彼がいる病室に入る。そこでは頭に包帯を巻いた彼が何もなかったかのように眠っていた。私は荷物を床に置いて歩み寄ってその手を握って呼び掛けた。
「精……? おい精……早く目を覚ませ……」
しかし、彼の手はピクリとも動かずただトクトクと脈を伝えるだけだった。そんな私を見て担当医と思われる人物が神妙そうな顔で話しかけてきた。
「手術はすでに終わって麻酔も切れているのですが……意識がまだ戻っていません」
話によると彼は落盤事故で頭に打撃を受け、6.9㎜ほど開く真皮が見える傷を負った。傷を縫う手術は問題なく終わったのだが、未だに目が覚めないという。繋がれた心電図で見るに異常はないのだが、何故か意識だけが戻らないという。だいぶ良くなったとはいえ慢性外傷性脳症があるせいだろうか。
「……私という1人の医者の意見ですが……目が覚めると断言できません」
「そんな……何とかならないんですか……!?」
「……現代の医療では何ともなりません」
気まずそうに首を横に振って返答された。へたりこんでしまったのにもかかわらず足場がないような気がした。
「……半端に希望を持たせるのは良くないかもしれませんが、目覚める可能性はあります。人体は解明し切れないほど不思議なものですから、愛の奇跡というのもあるかもしれません」
愛の奇跡。思い返せば彼は度々死の淵に立っていたが、悉く私からの愛によって蘇ってきた。しかし、今回ばかりはそうもいかないだろう。なにせこれまではアイツが忘れていた物を思い出させていたにすぎず、意識がなければ手の施しようがない。今の私に出来る事は1つしかないだろう。
「……主人と2人きりにさせてください……」
かろうじて言葉を絞り出して医者を追い払った。そして動かない手を掴んで────
「精のばかああああああ!!!!!!」
思い切り泣き喚いた。
これだけ叫んでも届いていないのだろう。何をやっても無駄で変わらないなら、とことんぶちまけてやろうじゃないか。
「お前はいつもそうだ! 私を幸せにすると約束しておきながら散々な目に遭わせやがって! もうお前が何もしなくても私は十分に幸せだったんだぞ! だからもっと私に構えよ! 家族に構えよ! 活動家として何かする前に家族サービスもっとしろよ! 卵のことがあってそういうことをしたい気持ちは分かるけど、私はもっと家族で幸せを共有したかったんだぞ! レイラのために3人目も前向きに検討していたんだぞ! お前はどこまで頑張れば気が済むんだ! もういいんだ! お前はゆっくり休んで幸せになるべきなんだ! 『金色の狂犬』も衰えたから引退するでよかっただろこの大馬鹿者がああああああ!!!!!!」
本当はそうしたかった。彼は『金色の狂犬』としての衰えが怖くて頑張っていたが、私としてはもう何もしてほしくなかった。青藍島にとどまって私たちと一緒に穏やかな余生を送って欲しかった。でも、彼の『やりたいようにやる』を私が止めるわけにもいかなかった。だから精一杯の見栄を張って送り出してしまった。今更悔やんだってどうにも────
「んん……」
彼が微かな声と共にピクリと動く。いつ目覚めるか分からないと言っていたが、こんな早く目覚めることがあるか? そういえば彼は薬の類が効きやすいという体質があった。もしかして麻酔が効きすぎてまだ眠っていただけか? もっと呼びかけたら起きるかもしれない。
「精! おい精! 早く起きろ!」
「うう……うるせえ……」
麻酔が覚めたでも結構真っ当な返答ができている。これは目覚めたと言っていいだろう。壁にかかっていたナースコールのボタンを強く押す。
「主人が目を覚ましました! 早く来てください!」
これでまずは一件落着────
「すまねえ……ここはどこであんたは誰で……俺は誰だ?」
とはいかなそうだった。