何かの聞き間違いかもしれない。一度聞き返してみよう。
「……何と言った?」
「"研修"だよ。最近……っても半年は前ぐらいなんだが、俺はどこかに研修に行っていたらしいな。その研修及び研修に関しての情報を隠していた理由を聞きたいんだよ」
彼が関わった研修などチューリップ・プリズンに行った研修しかないが、それに関する情報は完璧に消したはずだ。横にいる桐香様に目線を送ったが、思い当たる節がないと首を横に振った。何とかしてこの話題から離さないと。
「……お前が記憶を失った原因が研修での事故なんだ。だからあまり思い出させたくなくて────」
「俺は俺を知りたいって言ってるだろうが。本人が望んでいるんだからどんなことでも話せよ」
それはそうなのだが、話すに話せない事情がありすぎる。しかし、求め続ける彼に隠し通すことは不可能だろう。現に僅か2週間足らずでここまで到達して────桐香様が私のスマホを取って話を代わった。
「代わりまして冷泉院です。色々話したいのでSHO本部に────来ているようですね」
桐香様が事務室の入り口に視線を向けると同時にドアが開き、珍しくフォーマルなスーツ姿の彼が現れた。
「話が早く分かってくれて助かるぜ。ドレスコードはしっかりしてきたんで、業務が終わったらとことん話してもらうぜ」
「そうしましょう。今日の業務は本部の一斉清掃です。精さんはこの事務室をお願いします」
「家事全般は得意だから任せてくれ。んじゃ、失礼するぜ」
「はい、失礼します」
最終的には正面から向かい合った通話が終わる。桐香様からスマホを受け取ろうとしたが、手が震えてうまく受け取れず落としてしまった。今の私は間違いなく恐れている。彼に怒られるなんてどうでもいい事ではなく、彼が『金色の狂犬』に近づきつつある事に。
明確な渇望に包まれた彼の効率はすさまじく、当初の予定していた時間の30分ほど早く清掃が終わるほどだった。だからここからは彼と話し合う時間になる。逃げ場もなしに、ただひたすらに彼に追い詰められる時間だ。
「先に何で俺が研修に気付いたかを話したほうがいいな。アンタらもそれが知りたそうな顔をしているからな」
心と手の内を見透かされたらどうしようもない。逆らうことなく黙って頷く。
「事の始まりは昨日の礼が寝た後だ。俺のスマホに入っていたバカでかいデータのファイルの正体が気になったんで、レイラに聞いてみたんだ。そしたら……AVD? っていうジャンルのゲームのファイルだということが判明した」
「
「……ともかく、PCじゃないと起動できなかったからレイラのパソコンで起動した。性癖が転じた超能力で戦う面白そうな内容だったが、重要なのはエンドロールのスタッフクレジットだ。スペシャルサンクスの所に"こんじきわんこ先生"ってのがいてな。どうやら俺の作家での名義らしいんで、その線から調べてみようと思ったんだ」
そういえば本島の販売会に出しているとか言っていた。まあまあな副業になって確定申告が面倒と嘆いていた記憶がある。
「それに関してはセレンが知っているって言われたから、今度はセレンにこんじきわんこ先生に関して聞いたんだ。どうやらセレンのパソコンは俺のお下がりだったらしいから、過去作が余すところなくあった。何作か見たが戦闘とエロのクオリティがヤバかったが、どうも登場人物に見覚えがあってな。金髪の主人公、師匠の鬼教官、バチギャンにエロイ女侍、妖艶な糸使い……多分俺やアンタらだ。よってこの作品は俺の過去の経験から描かれていると推測できた」
個人的な趣味の話だからあまり触れてやらなかったのが仇になったか。だが、そこまで来たとしても研修に繋がるとは思えない。
「だから俺はこんじきわんこ先生のアカウントを調べた。陰茎さすったグラムで一発で出てきて、最後の投稿が半年ぐらい前の『職場の研修に行くのでしばらく更新を停止します』だったんだ。そこで俺は昨日見た俺の活動データを思い出した。治安管理委員会委員長及び活動家である俺はほぼ毎日何かしらの書類を提出していたが、これまた半年ぐらい前から書類提出の形跡が一切なかったんだ。ここからアカウントの更新と書類提出が止まった原因はその研修しかないだろうと思ってな」
まるで自分が記憶を失ってもいいように幾つも策を講じていたようにしか思えない。彼の執念はどうなっているんだ。
「ぐ、偶然の一致という可能性もある────」
「今の俺は偶然の一致にすら頼ってでも自分を知りたいんだよ。俺は研修の事を知るに至った経緯を話したんだ、今度はアンタらが話す番だぜ」
どうする。いや、どうしようもない。もう話すしかない。
「……私はお前に本当のお前を取り戻してもらいたくないんだ」
私は重い口を開いて真実を話した。それを聞いて桐香様が心配そうに私の顔を見た。
「……全てを言うのですか?」
「……少なくとも私がどんな動機で隠したのかは話すべきでしょう」
そこから私は話した。『金色の狂犬』以外の彼の過去を。一度目のこの青藍島での彼の命の危機を。二度目の平行世界の青藍島での彼の命の危機を。そして今回のチューリップ・プリズンでの彼の命の危機を。
「お前は何回命を失いかけても諦めなかった……それは素晴らしい事だ……だがな……だがな! その度にどれだけ私が怯えたか分かるか!? この世で一番好きな人間が死にかけて! もう二度と会えなんじゃないかと! その恐怖が分かるか!?」
「分かるわけねえだろ。記憶ねえしその記憶をアンタらは教えねえし────」
「だろうな! 分かっていたらお前は引き下がるだろうからな! だがお前は本当のお前を思い出したら死にかけた研修にまた行くんだよ! もう行かせたくないんだよ! このまま私たちと一緒に暮らして幸せに生きてほしいんだよ!」
「……礼、気持ちは分かりますがその手は離したほうが良いです」
いつの間にか彼の胸倉をつかんで詰め寄っていた。自分を忘れるほどまでに激情を露にし、それでも伝えきれない思いが目から溢れ出る。
「お前は頑張りすぎなんだよ……! 性的マイノリティへの理解を促す活動も……! 青藍島の衰退問題解決への行動も……! このまま無茶をしたら死ぬかもしれないんだぞ……! 何で分かってくれないんだ……!」
なりふり構わず彼の胸に顔を押し付けて泣く。これぐらいで止まってくれるならいくらでもこうするが、今の彼には通じないだろう。現に比較的優し目とは言え、軽く頭を押して私を引き剥がしたのだから。
「その気持ちは分かるさ。ただ、アンタが今の俺を失いたくないように、俺も本当の俺を失いたくないんだ。そこはいくら話し合ったって譲れねえんだ。だから────
ビュンと私の右頬を掠めるように何かが通った。振り返って見ると、彼の腕が伸びて握り拳を作っていた。何が起きたのか分からなかった。
「……精……? お前、今何を……?」
「分からねえなら分かるようにやってやるよ」
「ッ! 礼! 離れてください!」
一体何を────私の身体が私の意思とは関係なく後ろに持ち上がる。
それにわずかに遅れて彼が横に吹っ飛んだ。
「……は……?」
「何とか間に合った……よかった……」
「よくねえよ。親父がお袋に物理的な意味で手を出すまでの事態になってんだぞ」
この低くも優しそうな声と幼くも荒々しい声はセレンとレイラのものだ。だがなぜ2人がここにいるのかは、またしても全く分からなかった。
「朝起きたらお母さんがいなかったんだ。お父さんに聞いても分からないって言われたから、レイラと一緒に何が起きたのか考えたんだ。そこでお父さんがこんじきわんこ先生の道から自分を知ろうとしてるんじゃないかという結論に至ったんだ」
「そしたら親父のアカウントに研修で更新が途絶えるって書いてあってな。間違いなく研修の事をSHO本部に行って調べるだろうと確信したんで、学校は家庭の事情と言ってまた早退してここに来た。何も追及せずに休みになるからありがたえが、おかげで皆勤賞のNHOカードは逃しちまった」
「そしてレイラと一緒にSHO本部に来てお父さんを探していたら……お父さんがお母さんを殴ろうとしていたんだ」
「どう見ても穏やかじゃなかったんで荒っぽくいかせてもらったぜ。どうだ親父? 二回りは離れてる娘に吹っ飛ばされた気分は?」
わざとらしく挑発するレイラに対して彼は明らかに苛立った様子で首をコキコキと鳴らした。
「最悪だな。まぐれとはいえクソガキに一発もらったのは」
「まぐれじゃねえよ。本当の親父ならあんな不意打ちなんざ喰らわねえ。兄貴に冷泉院さん、お袋があーしの巻き添えを食らわねえように守ってくれ」
するとレイラは来ていたいつもの黒の上下の下着を脱いで全裸になった────と同時に全身にアイスピックを刺されたような感覚が走る。
「ッ……分かりました。レイラちゃんのお母さんは私が全力で守ります」
「冷泉院さんは前方に糸を張ってください。後方は僕が守ります」
私を守る2人の顔が本気になる。対し彼は苛立ちながらもまだ余裕そうな笑顔をしていた。
「前から思っていたが……お前は裸族なのか? 常日頃から背伸びした下着姿だが、本当はそんな物すら要らないと言いたげだな」
「あーしは今の年でも一般成人男性の2倍ぐらいの基礎代謝なんだよ。すぐに腹が減るし、便所も何度も行きたくなるし、何より熱くてしょうがねえ。そのおかげでその辺のSHOガードマンなら訳なく倒せるがな。今の親父になら……10秒も持てば十分だな」
「お前がか?」
彼が姿勢を低くして一気にレイラに近づいた。記憶がなくてもその瞬発力は健在で彼の右拳がレイラの顎を────捉える前にレイラがその拳を掴み、振り上げた勢いを利用して一本背負い投げを決めた。彼がバアンと背中から打ちつけられ、そのままレイラが後ろ手で彼の首を絞めながら顔面騎乗の体勢になった。
「がっ……!?」
「10秒持てばはあーしの膀胱の話だ。有事に備えてエナドリ飲んじまったからパンパンなんだよ。3……2……1……ゼロだ」
ビッシューとレイラの股間から真っ黄色な液体が勢いよく放たれて彼の顔を直撃する。
「がぼっ、ぼぼばっ……」
呼吸を封じられている彼はレイラの尿によって溺れかけて苦しみ藻掻いている。それに対しレイラは震えながら恍惚の表情を浮かべていた。
「なるほどなあ……コイツは確かに癖になっちまいそうだ……親父とお袋がハマるのも納得だぜ……」
「ぼはぁ! このクソガキが!」
彼が拘束を解いて立ち上がり再びレイラに襲い掛かる。怒りに我を忘れて乱雑に振るう拳では、放尿を止めて少しもじもじしているレイラにさえかすりもしなかった。それどころかレイラの尿に足を滑らせて体勢を崩す始末だった。
「膀胱炎になっちまう前に蹴りを付けるか」
その隙をレイラが見逃すわけがなく、床を踏み込んで彼の腹部に飛び蹴りをめり込ませた。
「カハッ……」
彼が目を白黒させながら地面にうつ伏せに倒れた。
「傷が化膿しねえようにそこは避けてやるよ……あーしを数歩でも下がらせてくれりゃ、もうちっと我慢する気も起きたんだがな……」
そういうレイラの背後には職員用トイレの入り口があった。そこまで考えられる余裕があるな間違いなく我慢できただろうが、お構いなしにレイラは彼に向かって放尿を再開した。彼のスーツが黄色く染まっていき、拭いようのない完敗の証明が成された。
視覚と嗅覚に遠慮なく突き刺さる地獄絵図に誰もが口を開けなくなっていた。折角清掃したばかりなのにというバカげたことを考えても、あの『金色の狂犬』と呼ばれた彼が両手で数えられる歳の実の娘に手玉に取られたという事実は変わらない。そんな中でレイラはトイレから掃道具を持ってきて、まだ呼吸が乱れている彼に差し出した。
「掃除しとけ。家事は得意なんだろ? それとも自分の口で啜る方が得意か?」
あまりにもの物言いに、私はたまらず飛び出してレイラの肩を掴んだ。
「レイラ! お父さんに対してそんな口の利き方は────」
「コイツは親父じゃねえよ。あーしの知る親父はお袋に手を出したり、あーし如きにこんな無様な姿を晒したりはしねえ。親父の姿をした別人だ」
分かっている。彼はこんなに醜い存在ではない。もっと優しくて強くて、どんなとんでもない事をしても私たちを幸せにしてくれる存在だ。
「それが答えだよお母さん……今のお父さんはお父さんじゃないんだ……お母さんが好きだったお父さんじゃないんだ……」
分かっている。それでも私は彼を愛している。彼と一緒に幸せに────
「……礼、あなたが望む幸せは今の彼では成しえません」
分かっている。私の幸せは私を幸せにすると約束した、あの彼でないと掴めないことぐらい。
「……私は……どうすればいいんだ……」
俺に記憶が戻らなければ私は心の底から幸せになれない。しかし、彼が記憶を取り戻したらまた死地に赴いてしまう。どちらにせよ望み通りにならない現実に、無力な私はただ涙を流して悔やむ事しかできなかった。