盈虚の華燭〜嫁巫女は双子のような義兄に溺愛される 作:朱河なつめ
繊月の章①
冷たい水滴が頬を濡らし、伝い落ちていく。
そよぐは薄く目を開いた。
「……ここは?」
乾いた唇からひどく嗄れた声が零れた。体の節々が痛い。
古く湿っぽい畳に両手を突いて起き上がる。小柄な痩身を包んでいるのは白い長襦袢一枚だった。
時代劇に出てくるような石造りの牢屋だ。と言うより、洞穴を掘り広げて作った岩屋を牢として利用しているのだろう。
牢の内側には色褪せた畳が六枚敷かれ、ごつごつとした岩肌が剥き出しになった壁に三方を囲まれている。天井は高く、遥か頭上に氷柱のような鍾乳石が幾つも垂れ下がっていた。
鍾乳石から時折水が滴り、畳に染み込んでいった。
――先程頬に当たったのは、天井から落ちてきた水だったのだ。
そよぐは視線を正面に向けた。
太く頑丈そうな木材を組んだ格子の向こうには小さな燭台がぽつんと立ち、あえかな灯火が暗闇を弱々しく照らしている。暗闇の奥は見通しようがないが、耳を澄ませると微かな風の音を拾った。
どうやら外に繋がっているようだ。そよぐから見て格子の右端には大人が一人潜れるサイズの出入り口が設けられているが、これまた古めかしい錠前で閉ざされている。
「逃げられない……か」
そよぐは奥の壁に凭れかかると、長襦袢の膝を抱えた。
乱れたショートヘアは明るい栗色で、血の気のない肌は冬の月のように青白い。ぱっちりとした両目は緑がかった薄茶色で、今は物憂く睫毛の影に隠れている。
外国人の血が混じっているのかとよく尋ねられるが、そよぐには知りようもない。
そよぐは捨て子だ。
十九年前、生後間もない彼女はある病院の前に置き去りにされた。身元の手がかりになりそうなものは何も残されていなかった。
だが、一人ではなかった。
泣き声に気づいた病院の看護師が発見したのは、クーハンの中で寄り添い合って泣く二人の赤ん坊だった。
ほぼ同じ月齢で、似たようなおくるみに包まれていた為、保護した看護師は二人を双子だと思い込んだらしい。
体も泣き声も大きな男の子は兄の
二人は同じ乳児院で暮らすようになった。成長するにつれて似るどころかまったく似ていない顔立ちがはっきりとしてきたことで、不審に思った乳児院の保育士が病院に問い合わせ、二人の遺伝子検査が行われた。
結果として、二人は血液型こそ同じものの、血の繋がりのない赤の他人だと判明した。
たまたま同じ日に病院の前に置き去りにされただけで、双子の兄妹でも何でもなかったのだ。物心ついた頃には、児童養護施設の職員から耳に胼胝が出来るほど自分の身の上話を聞かされて憶えてしまっていた。
しかし、同じ児童養護施設に入った後も、凌はずっとそよぐの兄だった。
周囲からどんなに実の兄妹ではないと言い聞かされても、凌は「そよぐはおれの妹だから」「おれはそよぐの兄貴だから」と言い通した。どんな時もそよぐの手を離さず、常にそよぐの一番の味方だった。
そよぐは凌を「お兄ちゃん」と呼び、凌の後ろを付いて回った。
二人はいつも一緒だった。どんな辛い事も悲しい事も、二人でいれば乗り越えられた。
血の繋がりはなくとも、魂が通い合った双子なのだと――無邪気に信じていた。
別れは六歳の時に訪れた。
凌の親族が現れ、彼を引き取りたいと申し出たのだ。
調査の末、凌はとある地方の名家に連なる血筋の生まれだと判明した。
凌の実母は彼を妊娠して間もなく家族の前から姿を消し、数年前に自殺していたという。一人で出産したもののシングルマザーとして生きる道を選べず、凌を病院に託したのだろうというのが大人達の見解だった。
「君は今日から『
迎えに来た親族の男性に笑顔で告げられた凌は、そよぐの手を痛いほど握り締めて立ち尽くしていた。
その頃になると、誰の目から見ても二人が肉親でない事は明らかだった。
凌は幼いながら大柄で逞しい骨格の少年だった。短い髪は硬質な漆黒、切れ長な双眸は黒曜石のナイフのように鋭い眼光を放っていた。
「そよぐは?」
端的な質問に、どことなく凌に似た風貌の男性はちらりとそよぐを見遣った。
凌にぴったりと張りついて子ウサギのように震えていたそよぐは、道端に転がる小石を見るような眼差しに悲鳴を上げそうになった。
男性は穏やかだが機械的な笑みを浮かべ、ゆるりと首を横に振った。
「残念だが、そよぐさんとはお別れだ。彼女は君と――我々祁月家とは関わりのない人間だからね」
「そよぐが行かないなら、おれも行かない」
凌の拒絶に、男性は目を眇めた。
「凌。君のお母さんがどうして亡くなったのか、教えてあげようか?」
「……え?」
唐突な誘いに、凌は動揺を見せた。
男性は静かに凌に近づくと、ぼそぼそと少年の耳元で囁いた。
ほとんど聞き取れなかったが、「おちみず」という言葉だけが耳に残った。
凌は唾を飲み込み、恐怖に顔を凍りつかせている、
黒い孔にも似た男性の瞳が再びそよぐを捉えた。凌の全身が緊張し、男性の視線から遮るようにそよぐを背に庇った。
「そよぐはダメだ!」
「お兄ちゃん……?」
「そよぐは……そよぐだけは、ぜったいにダメだ」
凌は何度も頭を振って訴えた。男性は屈めていた身を起こすと、笑顔で首を傾げた。
「では、そよぐさんは連れて行けないね」
「……わかった」
「お兄ちゃん!? おわかれなんて……ウソだよね?」
信じられない気持ちで繋いだ手を揺さぶる。
凌はのろのろと振り返り、泣き出す寸前のように口の下に皺を寄せた。
「ごめん……そよぐ」
途端に悲しみが押し寄せ、そよぐは顔をくしゃくしゃにした。
「お兄ちゃん……なんでぇ?」
啜り泣く妹を抱き締め、凌は「ごめん」と繰り返した。
「おれのことは忘れるんだ。その代わり、おれがお前をおぼえてるから」
一方的でずるい約束を押し付けて、凌はそよぐの前からいなくなった。
そよぐは一人になった。
次の年、七歳になったそよぐは
随分前に幼い一人娘を亡くした養父母は、惜しみない愛情をそよぐに注いだ。そよぐは生まれて初めてママと呼んだ人の抱擁を、パパと呼んだ人の肩車を、時間をかけて自分のものだと覚えていった。
十二年――凌の妹として過ごした月日より、養父母の娘として共に暮らした月日の方が長くなった。
最後の約束通り、いつしか凌の事は思い出さなくなっていった。
ごく普通の家庭の少女として高校まで卒業し、今年の春に上京して大学に進学した。
初めての一人暮らし、初めての夏休み――生活費として仕送りは貰っているが、小遣い代ぐらいは自力で稼ぎたかった。
大学で民俗学を教えている講師から誘われた、夏休みを利用したフィールドワークのアシスタントのアルバイト。仲の良い友人にも声を掛け、数人のグループで講師の現地調査に同行した。
調査地は某県の山間部に位置する
沢鳴集落では古くから
何時間もレンタカーに揺られて辿り着いたのは、霧深い山間の集落――雲の中の隠れ里だった。
集落の周辺には数多くの水源が点在し、絶えず聞こえる沢鳴りが地名の由来だという。豊かな水源と標高の高さも相俟って、一年を通して深い霧に閉ざされる土地だそうだ。
真夏だというのに集落はひんやりと薄ら寒く、肌はしっとりと水気を帯びた。
調査の間、お世話になる集落の名士の屋敷に挨拶に伺った。さながら山城のような、苔生した石垣の上に築かれた武家屋敷へ足を踏み入れて――そこで……。
暗闇の奥から、ざっざっと草履を擦る足音が響いてきた。
そよぐは息を殺し、格子の隙間を凝視した。
火明かりが揺れる。
足音が近づいてきて、丈高い人影が岩肌に浮かび上がった。
――男。
百八十センチメートルを優に超える大柄な青年だ。肩幅のある、がっしりとした体躯に墨色の着流しを纏っている。
短く刈り込んだ硬質な黒髪。霧深い山里の住人らしく色白だが、ひ弱どころか精悍そのものの風貌。
切れ長な双眸は黒曜石のナイフのように火明かりを反射している。目が合った途端、男らしい線の眉が苦しげに歪んだ。
「……そよぐ」
六歳の頃の面影など見当たらない低い声。
だが、繊細な飴細工の花にそっと触れるような呼びかけは、懐かしい兄のものだった。
そよぐは困った顔で微笑んだ。
「お兄ちゃん」
青年の――凌の瞳が激しく揺れる。凌は拳で格子を殴りつけて呻いた。
「忘れろって言っただろうが!」
「忘れてたよ。ここに来るまでは」
「なんで、なんで来た!?」
「
「他の連中の心配なんてしてる暇がどこにある?」
凌は吐き捨てると、懐から古びた鍵を取り出して格子の出入り口に向かった。
錠前に鍵を差し込んで回す。ガチンッと重い音を立てて錠前が外れた。
出入り口の扉が開き、凌が長身を窮屈そうに折り曲げて潜り抜けた。
無造作に草履を脱いで畳に上がる。のしのしと歩いてくると、そよぐの目の前で胡座をかいた。
着流しの裾が割れて骨張った膝が覗く。近くに来ると、筋肉質で引き締まった体つきをしているのだと分かった。
鋭い眼差しがそよぐを射抜いた。
「男は袋叩きに遭って山に捨てられる」
「え――」
「女は巫女の役を課されて祁月の男の慰み者になる。『月』が
そよぐは絶句した。
調査の一行で男性は二人、女性はそよぐを含めて三人。凌の言葉が真実だとしたら、友人達は地獄に突き落とされたのだ。
「な、なんで、そんな」
「それが里の掟だから」
凌は左手を伸ばし、そよぐの頬に優しく触れた。兄は左利きだったと思い出した。
「盈月の祭の間、里の外から訪れた女は誰であろうと変若水を招く巫女として遇される。巫女の胎には欠けた月の紋が刻まれ、祁月の男と交わる事でその身を盃として変若水を孕む。盈月となった紋は、巫女の身が変若水で満たされた証だ」
凌の右手が長襦袢の帯を一気に解いた。
そよぐが「あっ」と声を漏らした時には胸元がはだけ、Aカップの乳房の
凌の右手の人差し指が下腹部に浮かぶ、三日月のような形の赤い痣を示した。
そよぐは息を呑んだ。
刺青のようにくっきりとした三日月型の痣は五百円玉サイズで、硬い指の腹でなぞられると妙にぞくぞくした。
「ん……ッ」
感じた事のないむず痒さに肩を竦める。長襦袢の衿が滑り落ち、胸元の慎ましい膨らみが凌の眼前に晒された。
青年の喉仏がごくりと上下する。
そよぐの肢体は肉付きが薄く、年齢の割りには子供っぽい印象だ。だが、ほんのり色づいた乳房の尖りがふるふると打ち震える様は、儚い色香を漂わせていた。
「お兄、ちゃん……」
羞恥に頬を染めたそよぐは、幼い頃兄に助けを求める時の仕草で凌を見つめた。
凌は熱の籠もった息を吐き出すと、三日月型の痣が刻まれたそよぐの腹――子宮の真上をゆるゆると撫でた。
「選べ、そよぐ。今この場で俺に抱かれるか、別の男に犯されるか。どっちが良い?」
「抱く……って」
「曲がりなりにも俺も祁月の男だ。祭に参加して、桂男の裔として巫女とまぐわう資格は持っている」
そよぐは海松色の瞳を見開いた。
かつて妹として慈しんだ娘の頬を撫で、凌は覆い被さると互いの額を触れ合わせた。
薄い唇には苦々しい笑みが滲んでいる。
「悪いな、こんな形でしか助けてやれなくて。現状、俺一人の力でお前を逃がすのは無理だ。監視がきつ過ぎるし、
「お兄ちゃんと、その……そういう関係でいれば殺されないの?」
「ああ。少なくとも祭が終わるまでは」
祭の間に三日月の紋が盈月――満月の紋に変化した女性は嫁巫女として祁月家に迎え入れられ、贅沢と享楽に耽る虜囚として一生を送る羽目になる。
そもそも変若水とは、桂男――月の化身である男神が持つ不老不死の霊薬を指す。
桂男の系譜に連なる祁月家は変若水の井戸を管理していたが、時代が下るにつれて神の血が薄れ、変若水の井戸も涸れ果ててしまった。
嘆き暮れる子孫を憐れんだ桂男は、涸れた井戸の代わりに清らかな巫女の肉体を盃として変若水の泉を出現させた。
祁月家の当主は巫女を嫁に迎え、男子を生した。長じた男子が妻を娶ると、不思議な事に妻の腹に盈月の紋が浮かび、その身から母親同様に変若水が溢れ出した。
こうして祁月家の男子は代々妻を迎えては変若水の泉を秘する嫁巫女とし、聖なる血と水源を守り伝えてきた――と、凌は淡々と語った。
「嫁巫女ってのはつまり、『生きた若返りの泉』なんだ。沢鳴の里人は何百年も攫ってきた女を犯しては嫁巫女に仕立て上げ、金の卵を産むガチョウよろしく飼い殺してきた。文字通り、命が潰えて変若水が涸れるまで――な」
「まるで……後味の悪い昔話だね」
そよぐは腹部に浮かぶ三日月の紋を見下ろした。
骨張った凌の掌がひたりと紋を覆い隠す。
「そうだな。だけど、糞みたいな現実だ」
凌の左手が背中に回ると、長襦袢を肘の下まで払い落とした。
滑らかな背筋の窪みを撫でさすり、折れそうに細い腰を抱く。右手はするすると腹から鳩尾まで這い上がると、呼吸に合わせて微かに揺れる乳房を包み込んだ。
青くて固い膨らみを揉まれると痛みを覚え、そよぐは眉を顰めた。
「……お前、もしかして処女か?」
凌の質問にこくりと頷くと、彼は何かを噛み締めるように上向いた。
「兄貴に初めてを奪われるなんて最低だよな……」
「お兄ちゃんなら、良いよ」
そよぐは痺れたように上手く力が入らない両手を凌へ伸ばした。囚われる直前に何か薬を盛られたのかもしれない。
思考も麻痺したように鈍く、どこかふわふわとした感覚で非現実的な現実を捉えていた。
ただただ、目の前の青年の濡れたような眼差しだけが夜の闇より深く、鮮烈だった。
「だってあたし達、兄妹だったけど肉親じゃないもん。体を繋げても何も問題ないよ……見ず知らずの誰かに抱かれるなんて嫌。初めて男の人に触られるならお兄ちゃんが良い」
そよぐの腰を抱く左手に力が籠もる。
「分かった」
凌は押し殺した声で答えた。
大きな黒い影が覆い被さってくる。
そっと唇が重なり合い、そう言えばキスも初めてだなとぼんやり考えた。