盈虚の華燭〜嫁巫女は双子のような義兄に溺愛される 作:朱河なつめ
静かに障子戸が開かれた。
男達が一斉に下座を振り返る。
羽織は重ねず、紋付の黒い着物と袴だけ身に纏った要人がむっつりとした顔で敷居の前に膝を突いていた。
青年の腕には、浅緋の長襦袢を一枚身に着けただけの娘がくったりと抱きかかえられていた。
ふわふわとした焦茶色の髪は記憶より長く伸びて、体つきも幾分ふくよかになっている。浅く浮き沈みする胸元は巨乳と呼べる大きさまで膨れ上がり、薄い長襦袢の布地をツンと押し上げる乳首の陰影がいやらしい。
意識を失っている顔は血の気がなく、閉じた瞼に血脈が青々と浮かんでいた。今にも消えてしまいそうに、儚い。
――
そよぐは凌の羽織にしがみついた。凌の腕が支えてくれなければ、この場に倒れ込んでしまいそうだった。
「成り損ないの巫女を連れて参りました」
「ご苦労だったね、要人」
八尋の労いに、要人はげんなりと溜め息を吐いた。
「全く強情な女です。祭の間、散々手を焼かされましたよ」
「紋はどれほど変化した?」
「半分……いえ、三分の二ほどは『月』が太くなりました」
「ほう、思っていたよりも健闘したな。嫁巫女には成れずとも、
八尋は独りごちると、三日月のように嗤う双眸を跡取り息子に向けた。
「具合はどうだった?」
要人は軽薄そうに片側の口端を持ち上げた。
「
大広間のあちこちで下品な笑い声が沸く。
要人は立ち上がって大広間の中央まで歩いてくると、無造作に海咲を転がした。苦しげに女體がくねり、薄物の裾がはだけてスラリとした生足が覗く。
近くにいる男が海咲の太腿の奥を垣間見ようと畳に這いつくばる。後方から「押すな」「退けよ」と言い争う声が聞こえてきた。
「おい、起きろ」
要人がぺちぺちと海咲の頬を叩いた。
「う……ぁ……え?」
勝ち気そうな吊り目の双眸が開き、ぼんやりと周囲を見回す。
大勢の男に取り囲まれている状況を理解した海咲は悲鳴を上げた。
逃げようと身を起こし、背後から要人に両手を摑まれて捕まってしまう。
「いやぁぁぁぁぁぁッ!! もう嫌ッ、離してよ!」
じたばたと畳を蹴る両足を別の男達がニヤニヤと笑いながら押さえつける。長襦袢の裾が捲れ上がり、観衆は手を叩いて口笛を吹き鳴らした。
「折角俺がチャンスをくれてやったのに――嫁巫女に成り損なったお前が悪いんだ」
要人は青褪めて打ち震える海咲の耳元で囁き、彼女の細い両腕を片手で一纏めにした。
もう片手を長襦袢の腰に回し、しゅるりと帯を解く。
「嫌……嫌ぁ……許して……も、もう止めて……助けてッ」
ぼろぼろと涙を流して懇願する娘の頬に舌を這わせ、要人はせせら笑った。
「命乞いなら聞いてやるよ。宴が済んだ後、この中の誰かの子を孕んでいたらな」
「え……ぇ、あ……」
呆然と男達を見つめ、海咲の喉がひゅうと鳴った。
浅緋の長襦袢が白い肌を滑り落ち、哀れな巫女の裸身が暴かれる。
「見るな」
そよぐの顔を胸に押しつけるように凌が抱き寄せ、奥歯を軋ませて呻く。
身を引き裂かれるような海咲の絶叫が上がった。
男達の派手な笑い声、怒声、何かがぶつかり合うような音が後に続く。
もう限界だった。
そよぐが
タイミングを見計らったように外側から障子戸が開く。老いた下男が手燭を持って戸の影に控えていた。
「おや、もう退がるのかい」
出て行こうとする曾孫の背中へ、八尋がのんびりと声を掛けた。
総刺繍の振袖と帯が解かれる衣擦れ、中毒者めいた紫葡の喘ぎ声が聞こえてくる。そよぐは何度も吐きながら、凌の羽織を握り締めた。
「披露目は終わったんだから、もうこんな場所にいる必要はない」
凌が感情を削ぎ落とした声で答える。
八尋は可笑しそうに喉を鳴らし、「まあ良いさ」と呟いた。
「二人きりの閨でたっぷりと慰めておやり。伊織にも宜しく伝えておいてくれ――悲しい事に、私はあの子に嫌われているから」
「……嫁も息子も、息子の嫁すら殺されて、手前を好く要素が何処にある?」
「人聞きが悪いな。喜世と凍鶴は勝手に死んだんだ。それに透悟は、私は端から殺すつもりはなかったんだよ」
地獄の狂乱を背景に、八尋はのんびりと過去を振り返る。
「先走った里人が勝手に痛めつけた。変若水を飲ませて何とか持ち堪えさせようとしたが、透悟は私の顔に唾を吐いて『糞ジジイのお情けなんて御免被る』と言い残して息絶えたよ」
「親父は、立派だ」
「全く、お前は本当に透悟に似ているね。……私は孫が不憫で仕方なかった。だから喜世や、私の
「濔青?」
凌は訝しむような声で呟いた。
八尋がクツクツと喉を鳴らす。
「里の者共が噂していただろう? 私の最初の妻である嫁巫女――お前の曾祖母だよ」
「……初耳だ」
「濔青は元々、私の父の妾で嫁巫女だったんだ。私が娶った経緯があまり宜しくないものだから、表立って口に出す者も少ない。……里の外から連れてきた女を親兄弟で共有するなど、昔は当たり前だったのだがね」
フ、と吐息を零し、八尋は「凌」と愛おしそうに曾孫を呼んだ。
「濔青は没落した華族の出だからか気位の高い女でね、決して父にも私にも媚びようとしなかった。年下の私など子供のようにあしらって、伊織を生んだ後ですら私を夫とは認めなかった」
「へえ」
「最後は、下家の窓を破って崖下に身を投げた。手を伸ばした私を嘲笑いながら、幼い伊織の目の前で――落ちていった」
漸く嘔気が治まったそよぐは、げほ、と咳き込んだ。凌の手が優しく背中を撫でさする。
八尋の昔語りが淀みないせいか、海咲の悲鳴も紫葡の嬌声も何処か遠い。
そよぐはぼうっと凌に凭れ掛かった。
「探し出した濔青の遺体は惨い有り様だったよ。伊織は母親の身投げを目にした衝撃で、記憶が飛んだらしい。だから私は、濔青の遺体を哭女ヶ淵に隠した。濔青は哭女に呼ばれて死んだと伊織を言いくるめて、あの子が余計な事を思い出さないようにね」
「爺ちゃんは……今でも手前の嘘を信じてるのか」
「いいや? 長じてから自ずと思い出したようだよ。要らぬ事をあれこれ吹き込む輩もいたようだし……伊織は私が濔青を追い詰めて自死を選ばせたと思い込み、私を憎むようになった」
八尋の声が熱を帯びる。
「私を父と呼ばなくなった伊織の、私を憎悪し、冷たく拒む目は――濔青の最期の目にそっくりなんだよ」
男は初恋に酔い痴れる初心な少年のように、恍惚と笑った。
「なあ凌。伊織が、透悟が、お前が、私を嫌えば嫌うほど、憎めば憎むほど、私の濔青がお前達の中に甦るんだ。決して捕らえられぬ天女のように私の腕の中から飛び去った濔青が、彼女の眼差しが、あの日のまま――」
「糞っ垂れ」
凌は吐き捨てると、今度こそ縁側へ踏み出した。
パタンと障子戸が閉まる。前へ回り込んだ下男が密やかに「こちらへ」と告げて歩き出した。
下男を追いかける凌が喉を震わせている。泣いているのかと思い、そよぐは夫の肩に頬擦りした。
「凌坊っちゃん。先程のお話は、旦那様のお戯れと思ってどうぞお忘れ下さい」
呟くような下男の忠告に、凌は頬を歪めた。
「爺さんは……全部知ってるのか」
「存じております。ですが、既に疾うの昔に過ぎ去った事。お若い坊っちゃんがお心を煩わせる必要はありません」
「でも、伊織爺ちゃんはっ」
「伊織坊っちゃんは伊織坊っちゃんなりに決着をつけておいでですよ。生涯旦那様をお許しにならず、認めないという信念を貫かれていらっしゃる。それが、旦那様の執心の種となってしまっている訳ですが……」
下男は細く息を吐き出した。
人気のない一角まで来ると、彼は物陰の小さな引き戸を開けた。
手燭を掲げると、狭くて細長い通路が暗がりの奥まで続いていた。
「使用人が使う隠し通路です。直接屋敷の裏手に繋がっていて、そのまま使用人の通用口から屋敷の外に出られます」
「こんな通路があったのか……」
驚きを隠せない凌に小さく笑い、下男は両手を差し出した。
「汚れたお召し物はここでお預かり致します。お二人の行き先を聞かれたら、下家へ戻られる前に別棟の浴場で
「頼む。――そよぐ、一旦下ろすぞ。立てるか?」
「……うん」
ふらつきながらも凌の腕に掴まって両足で立つ。
凌が素早く振袖のしごきを解いた。
重い振袖と帯を剥ぎ取られると、あらかじめ下に着込んで置いたクリームイエローの長袖パーカーと白無地のTシャツ、ダークデニムのスキニーパンツという現代的な洋装に早変わりした。
凌も同様に羽織袴を脱ぎ捨てる。
山仕事用の作業着である黒いタートルネックの長袖シャツとぴったりとしたオレンジ色の防護ズボンになると、解放感が詰まった溜め息を漏らした。
「流石に暑苦しくて死ぬかと思った。そよぐ、大丈夫か?」
顔を覗き込まれたそよぐは眼差しを揺らし、閉ざされた引き戸を振り返った。
脱ぎ散らかした衣装を丁寧に拾い集めていた下男が裏葉柳の瞳を見つめ、ゆるりと首を横に振った。
「そよぐ」
強く肩を掴んで振り向かされる。
凌はそよぐの頬を両手で包み込み、険しい表情で訴えた。
「お前の友達を助けるタイミングは、今じゃない」
「でも――でも、でもっ……あんな、あんなの……ッ!!」
海咲の叫びが甦り、両目から涙が溢れた。
凌は歯を食い縛ってそよぐを抱き締めた。
「ごめん、本当に……ごめん。でも、哭女はあの子達の名前を呼ばなかった。なら祠を壊しても、少なくとも命は助かる筈だ」
「命が助かるなら、あんな酷い目に遭ったって良いって言うの!?」
凌の胸を拳で叩くと、逞しい腕に背骨が軋むほど巻き締められた。
「ごめん、そよぐ。……恨むなら俺を恨んでくれ。祁月家を、腐り切った桂男の血筋を――俺達を」
そよぐは夫の胸に額を押し当て、声を殺して嗚咽した。
――分かっているの。
凌を責めたとて状況も選択肢も、何も変わらない。
何度も話し合って納得した、つもりだった。
里の男衆が成り損ないの巫女を慰み者にする宴の隙を狙って山に入り、哭女ヶ淵を目指す。
哭女の祟りを受けて死ぬべき者の中に友人達の名前が入っていないのなら、きっと助けられるからと。そう言い聞かせて、偽りの花嫁衣装に袖を通した。
――ああ、それでも。
魂をばらばらに引きちぎられるような怒りは、嘆きは、どうすればいいのだろうか。
どんなに涙を流しても尽きぬ苦しみは、悲しみは、何処へ流せばいい?
娘や、と仄暗い水の底から労しいとばかりに哭女の声が呼ばう。
――わたくしの内侍、そなたの悲嘆はよう分かる。
――あの娘らが今まさに味わっている、獣の如き男に犯され、汚され、骨の髄まで貪られる屈辱も。わたくしにはよう分かる。
――死を、望むのならば。
――あの娘らが死を望む時は、わたくしが名を呼ぼう。わたくしが連れて行こう。
――そして我が恨み、我が呪い、我が祟りの一部と成そう。
――わたくしが、わたくしと共に、恨みを晴らそう。
「勝手な事、言わないで」
思わず呟くと、凌がハッと息を呑んだ。
「そよぐ?」
「哭女様が、可哀想だから紫葡ちゃんと海咲ちゃんも呼んでやろうかって言うから」
「なっ……」
「神様も人間も――皆、本当に勝手だ」
そよぐは顔を上げると、泣き濡れた瞳で凌を睨んだ。
「あたしも、そう。勝手に二人を置き去りにして、言い訳を並べて助けようとしてる」
「そよぐ……」
凌が苦しそうに眉根を寄せる。
そよぐは青年の背中に腕を回し、「伐って」と囁いた。
「償いたいと思うなら必ず伐って。虚ろ桂を伐り倒して、祠を壊して。そうじゃなきゃ――
「ああ」
そよぐを掻き抱き、凌は頷いた。
「俺が伐る。約束する。桂男の末代としてけじめを付けるよ」
凌の指がそよぐの涙を拭う。愁いに揺れる眼差しに微笑み、精悍な左手でなよやかな右手を握った。
「行こう。伊織爺ちゃんが待ってる」
「うん」
出入り口を守るように佇む下男が深く頭を下げた。
「後の事はお任せ下さい。どうか、ご武運を」
「ありがとう」
凌は下男から手燭を受け取ると、そよぐの手を引いて走り出した。
大人一人が通れるほとの幅の通路を駆け抜ける。手燭の火明かりが不安定に震え、仄暗く闇を揺らめかせる。
汗がじっとりと滲む。終わりの見えない閉塞感が焦りを生む。
隧道のような通路が永遠に続くような気がした矢先、凌が立ち止まった。
「出口だ」
手燭の火に引き戸が浮かび上がった。
凌が引き戸に耳を当てて外の様子を探る。そよぐに向かって頷くと、そっと引き戸を開けた。
冷たい夜気と深い水の匂いが通路へ滑り込んできた。
通路の外は、昔から使用人の出入りに使われてきたと思しき人気のない空間だった。
屋敷を囲む高い板塀と母屋の隙間にぽっかりと開けた場所で、古い木材や壊れた日用品の残骸が打ち捨てられている。外部からの目隠しの為に配置された植栽に埋もれた板塀に、古い潜り戸が設けられていた。
潜り戸は呆気なく開いた。
大人が身を屈めて漸く通り抜けられる程度の戸口から、伊織の顔がひょいと覗く。
「遅かったな」
「ごめん、八尋のジジイに捕まってた」
凌に助けてもらいながら潜り戸から這い出すと、そよぐは伊織の姿にぽかんと立ち尽くした。
明るいサンドカラーの防護ジャケットとズボン、足元は地下足袋と脚絆でがっちり固めている。孫息子にオレンジ色の防護ジャケットと黒い安全靴を手渡す表情は厳しい山の男そのもので、初対面とのギャップにどぎまぎしてしまった。
「そよぐさん」
「ハイっ!?」
「よし、ちゃんと打ち合わせした通り長袖と長ズボンだね。靴は凌のお古で申し訳ないが、サイズが合いそうなものをこちらで見繕っておいたから履いてみてくれるかい?」
「は、はい」
手渡されたハイカットの黒いトレッキングシューズを履いてみると、使い込まれている分軟らかく、思いの外足に馴染んだ。
「おー、懐かしい。俺が中学の時履いてた奴だ」
上着と靴を身に着けた凌が足元に屈み込むと、慣れた手つきで靴紐を調節してくれた。
「きつ過ぎたり緩過ぎたりしないか?」
「うん、大丈夫」
トントンと爪先や踵で地面を叩いてみせると、凌はそよぐの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「それにしても爺ちゃん、こんな昔の靴よく取っておいたな」
感心したような孫の台詞に、祖父は呆れ混じりに嘆息した。
「筍のようにお前の成長が著しくて、次から次へと衣類や靴を買い替えていたからな」
「孫の成長を筍に例えるなよ……爺ちゃんからの遺伝だろ」
凌の指摘に、伊織は苦笑いを浮かべた。
「確かに、背の伸び方は私に似たのかもしれないな。透悟は十代前半までは伸び悩んで小柄な方だったのに、後半で爆発的に追い上げたんだ。毎日成長痛で転げ回っていたぞ」
「うわ、えっぐ……」
少年時代の父親に同情したのか、凌は心底痛そうな顔をしていた。
女性の平均身長にすら届かないそよぐには想像もつかない世界の話だ。胸が大き過ぎると肩も背中も腰も凝るし、揺れると痛いし、乳房の下や谷間が蒸れやすいのだという現在進行形の悩みで対抗すべきだろうか。
ちょっぴり複雑な心境に陥っていると、伊織の隻眼が流したままの栗色の髪に留まった。
「そよぐさん。何か髪を括れるものを持っているかい?」
「えっ……あ、ない、です」
「そのままだと木の枝に引っかけたりする危険があるな。……またお古で済まないが、これを使ってくれ」
伊織がジャケットの懐から大切そうに何かを取り出す。
手渡されたのは、つるりとした仄白いサテンのリボン――ではなく、細長い帯状に折り畳まれたスカーフだった。
「妻が髪を結うのによく使っていたんだ」
「あ……ありがとうございます」
喜世の形見なのに良いのだろうかと戸惑っていると、当の彼女の思念が使ってくれたら嬉しいわと上機嫌で耳打ちしてきた。
項の上で髪を束ね、スカーフを軽く結ぶ。少し考えてから髪の毛を一纏めにしてくるくると捩じり、結び目に巻きつけてお団子にした。
左右に垂れたスカーフの余りの部分をお団子の上から更に巻き、適当な長さの所でリボンのように結わえて出来上がりだ。
「器用なものだね」
「去年まで――植村の家で暮らしていた高校生の時まで、ずっと伸ばしていたんです。
後れ毛を撫で、そよぐは目を伏せて微笑んだ。
そよぐの髪を優しく梳かしながら、養母の眼差しはいつも家中のあちこちに飾られた愛娘の写真に注がれていた。
「亡くなった実の娘さん……あたしにとっては会った事のない義理の姉が、長い髪がお気に入りで毎日毎日ヘアアレンジを養母にお強請りしていたそうなんです。義理の姉の分まであたしの髪を可愛くしてあげたいんだって……よく話していました」
大学進学の為に上京し、軽い気分転換のつもりで髪をばっさり切ってショートヘアにした。
地元や大学の友人達には概ね好評だったが、テレビ通話で髪の毛が短くなったそよぐを見た途端、養母は激しく取り乱させて泣き喚いた。
――そよちゃん、そよちゃん、どうして髪の毛を切ったりしたの?
――ママへの当てつけ? そんなにお姉ちゃんとお揃いの長い髪が嫌だった? ママが嫌いだった? うちが嫌になった?
――どうして、どうして……? お願いよ、これ以上わたしから娘を取り上げないで……。
慌てて養父が間に入り、「ママはそよぐがいなくなって寂しいだけだよ。あまり気にしないようにね」と慰めてくれたが、ショートヘアを似合っているとは最後まで言ってくれなかった。
十八歳まで過ごした、絵に描いたように平凡で幸せな我が家を思い返す。
養父母とそよぐの三人で人形遊びをしているような、パズルのピースを間違えないよう一つずつ埋めていったような家族の形を。
夏休みになったらと帰省をずるずる引き伸ばしているうちに、結局喧嘩別れになってしまった。
血の繋がらない二人目の娘が消息不明になって、悲しみのどん底に突き落とされた養父母が目に浮かぶ。
歪だったかもしれないけれど養父母の愛情は疑いようもなく、そよぐに温かい家庭を教えてくれた人達だった。
凌の左手に右手を攫われる。
「お兄ちゃん?」
無言でずんずん歩き出した凌を追いかけつつ、慌てて伊織を振り返る。
年季が入った背嚢を背負った伊織は隻眼を細め、軽く肩を竦めただけだった。
あらあら、と喜世の思念が呆れたように笑う。
――悋気持ちは凍鶴さん似だけれど、初恋に一途過ぎるのは透悟譲りかしら。
――桂男の恋着は激しくて厄介よ。頑張ってね、そよぐさん。
まさしく初恋を成就させた伊織の愛妻の励ましに、胸中で悲鳴を上げる。
そよぐは凌に手を引かれ、夜霧に烟る山道へと足を踏み入れた。