盈虚の華燭〜嫁巫女は双子のような義兄に溺愛される 作:朱河なつめ
夜の闇と霧に閉ざされた山道は予想以上に険しかった。
沢鳴集落から哭女ヶ淵までの直線距離を聞いた時には大した事はないように感じたが、山に入って三十分も経たないうちに自分の認識が間違っていた現実を思い知った。
哭女ヶ淵周辺は禁足地である為、最低限の林道すら整備されていない。まさに道なき道を、のしかかるように重苦しい闇の中、木立や藪に覆われた斜面を這うようにひたすら登り続けていく。
体力も削られるが、気力もどんどん目減りしていく。水気の多い土地柄のせいか斜面は泥濘んでいて滑り易く、既に三、四回は躓いて手足が泥だらけだ。
一ヶ月以上ぶりに再開した月経の三日目という状態も地味に辛い。事前に痛み止めは飲んでおいたが、下腹部に鉛玉が詰め込まれているかのような鈍痛と腰回りの倦怠感が酷い。
明かりは各々が持つ懐中電灯の細い光だけ。LEDライトにチラチラと白く反射するサンドカラーの防護ジャケットを必死に追いかけながら、そよぐは肩で息を繰り返した。
哭女ヶ淵までの最短ルートを把握している伊織が先頭に立ち、そよぐを間に挟んで凌が殿を務めている。山登りの経験など禄にない上、一ヶ月に及ぶ地下での監禁生活で体力が落ちたそよぐの歩調に合わせたスピードは遅々たるものだ。
ゼェゼェと呼吸する度に肺が締めつけられるように痛む。木の幹に片手を突いたまま次の一歩を踏み出す事が出来ず、俯いた顎から汗が滑り落ちる。
「そよぐ、大丈夫か?」
追いついた凌が背中をさすりながら尋ねてくる。
何とか頷いたが、声が出ない。
「爺ちゃん」
孫の呼びかけに伊織が戻ってきた。
「一時間歩き通しだ、無理もない」
「……どうする?」
「まだ先は長いが、少し休もう。水分補給をした方が良いな」
そよぐはのろのろと顔を上げた。
前髪から滴るほどの汗を凌がタオルで拭ってくれた。彼自身も汗はかいているが、息は上がっておらずけろりとしている。
伊織も似たようなもので、背嚢からペットボトル入りの水を取り出してそよぐに渡した。
「そよぐさん、少しで良いから飲みなさい」
「あ……りがとう、ございます」
何とかペットボトルを受け取って蓋を開ける。冷たい水をゴクリと嚥下すると、無意識に安堵の息が漏れた。
「それにしても……今夜は霧が濃いな」
水を飲み終わった凌が口元を拭いながら呟いた。
LEDライトを周囲に向けると、薄い紗幕のような白い霧がサァ――……と流れていく。
霧の帳に遮られた視界は不明瞭で、半径一メートル程度の視認がようやっとだ。
「哭女ヶ淵に近づけば近づくほど、もっと深くなっていくぞ」
ペットボトルを背嚢に仕舞いながら伊織が答える。
「哭女ヶ淵は常に濃霧に覆われているんだ。昔から……まるで人間が近づく事を拒むように。哭女ヶ淵のある谷川で発生した霧が里の方まで流れて来るんだよ」
「そう言えば、下男の爺さんも似たような事を言ってたな。水の香がどうとか……あ、そうだ」
凌は防護ズボンのポケットから布包みを取り出した。
「下男の爺さんから、爺ちゃんに返してくれって頼まれたんだ」
孫が差し出した布包みに、伊織は隻眼を瞠った。
「
「……哭女ヶ淵で待たせてる奥さんを漸く迎えに行けるから、もう自分には必要がないってさ」
凌の言葉に全てを察したのか、伊織は細く息を吐いて布包みを受け取った。
「そうか……やはり死ぬつもりなんだな、あの人は」
「あの爺さん、一体何者なんだ? 昔の桂男役なのか?」
「……爺様の両足にある傷を見た事は?」
凌はそよぐと顔を見合わせると、小さく頷いた。
布包みを防護ジャケットの懐に仕舞い込んだ伊織は、そっと塞がった左目を押さえた。
「あの傷は、爺様が生まれたばかりの息子を抱えて里から逃げ出そうとして失敗した時のものだそうだ。二度と里を出て山を越えられないよう、両足の腱を痛めつけられたんだ」
「酷い……」
思わず呟いたそよぐに、伊織は片頬を歪めた。
「門弥の爺様は先々代の当主の腹違いの弟に当たる人だよ。若い頃、嫁巫女に迎えた妻との間に子を生した」
凌がぎょっとした様子で声を上げた。
「先々代!? ちょっと待ってくれ、それって百年以上前……」
「明治か、それよりもっと前の生まれかもしれない。私も詳しくは知らないんだ、門弥の爺様は昔の事を語りたがらない人だったから。だが間違いなく、里の最長老はあの人だよ」
伊織は淡々と下男――門弥の過去を語った。
門弥と彼の妻・スミは、結ばれた経緯はどうあれ仲睦まじい夫婦だった。スミの懐妊に門弥は諸手を挙げて大喜びし、当主である異母兄に報告した。
「その翌日、門弥の爺様はスミさんと離縁させられ、スミさんは当主の妾にされた」
「は?」
「当時の当主は何人嫁巫女を迎えても子供が出来なかったらしい。子種がない体質だったのかどうかは分からないが……庶出の異母弟に
昔は外から連れてきた女を親兄弟で共有していた――八尋の言葉を思い出し、そよぐは両手で口元を覆った。
仄暗い水面がさざめき、女の――スミの啜り泣く声が微かに聞こえてきた。
「スミさんは息子を生んで暫くして、哭女ヶ淵に身を投げた。門弥の爺様は息子を連れて里抜けしようとしたが、結局見つかって息子を取り上げられた」
「爺さんの息子って……」
「先代の当主の
養父に溺愛されて育った恰は、実父の門弥を疎み、終生嫌っていたらしい。
妻を奪って死に追いやった異母兄そっくりな男に成長していく息子を、下男の身に落とされた門弥は苔生す石のように黙って見守り続けた。
「恰が死んだ後も、門弥の爺様はただの下男として祁月家に仕え続けた。私は早くに母と死に別れて、あの男を父親とは思えなくなったから、門弥の爺様が育て親のようなものだ。……あの男も昔から門弥の爺様にだけは気を許していたから、似たような立場なのかもしれないな」
伊織は口元に苦い笑みを滲ませると、防護ジャケットの胸元を押さえた。
「せめて最後は、どこか遠くで平穏に暮らしてほしいと思ったんだ。門弥の爺様は十分苦しんだ筈だから」
そよぐは一度唇を引き結び、意を決して解いた。
「哭女様が呼んだ死ぬべき人の中に、門弥さんの名前がありました」
伊織は絶句した。
そよぐと共に哭女の死の宣告を聞き届けた凌は、眉間に皺を寄せて黙り込んでいる。
「哭女様や死んでいった巫女達が門弥さんも祁月家の男だと見なして許せずにいるのなら、あたしには彼女達の意思を覆せません。でも一番の理由は……少しでも早くスミさんに会わせてあげたいんじゃないのかなって思うんです」
仄暗い水面がゆらゆらと波立つ。
顔を両手で覆って泣き崩れるスミの水鏡が揺らいでいる。その後ろから、青白い腕が彼女を抱き締めた。
スミを背中から抱えるように寄り添った喜世は、そよぐに向かって物憂く微笑んだ。
過去の巫女達が哭女の一部になったと言うのなら、あの言葉は巫女達の思念も反映しているのではないだろうか。
――来て、来て、来て……。
――わたしに会いに、わたしを救いに、来て。
――わたしの男、わたしの子。
――彼らを連れて、ここまで来て。
大きな掌に両耳を塞がれた。
「聞くな、そよぐ」
驚いて後ろを振り返ると、顰めっ面の凌が吐き捨てた。
「聞かなくていい。余計な事は、何も」
「お兄ちゃん……」
「また哭女が何か言ってきたんだろ? こっちから出向いてやってるんだから、大人しく黙って待ってろって言っとけ」
仄暗い水の中で哭女が可笑しそうに笑っている。
どうやら彼女は凌の事も頗るお気に入りのようだ。「まこと、そなたに似合いの
――黙っていろと言われたが、愛児らが月桂の木偶に殺されてはかなわぬ。
哭女の指が何処かを示す。
――いざ見よ、
そよぐは息を吸い込んだ。
「お兄ちゃん、後ろ!」
瞬時にそよぐを抱え上げた凌は前方へ跳んだ。
そよぐの持つ懐中電灯が霧の帳を照らす。ザッ……ザッ……と枯れ枝を引きずるような足音と共に、それは現れた。
男だ。
パサパサに乾いた白髪。枯れ木の如く痩せこけた体。罅割れた灰色の肌。首と手足は出鱈目な方向に捻じくれ、襤褸雑巾のような衣類の残骸が纏わりついている。
落ち窪んだ両の眼窩に眼球はなく、白い霧が煙のように充満している。歯が抜け落ちた口腔も同様で、まるで霧が男の体を操り人形さながらに動かしているようだ。
そよぐは凌の腕にしがみつき、微かに悲鳴を漏らした。
凌が低く唸る。
「
黄泉醜男――盈月の祭の最中、沢鳴の里へ足を踏み入れた余所者の男の成れの果て。
山に捨てられた男の屍は朽ち果てる事なく、数日経つと
生き返った訳ではなく、意思のない死体に過ぎない。生きた人間に遭遇すると問答無用で襲いかかり、捕まると無惨に食い殺される。
まさにホラー映画に登場するゾンビそのものだ。
「なんで黄泉醜男がこんな所にいるんだ!?
そよぐを抱えて斜面を登りながら凌が怒鳴る。
黄泉醜男は哭女ヶ淵の周辺に留まり、一定の距離以上は離れようとしない習性があるのだと伊織から事前に聞かされていた。
孫夫婦を背に庇うように黄泉醜男の前に立ち塞がった伊織は、手にしたスプレー缶とオイルライターを翳した。
「分からん! しかし、遭遇したら取るべき手段は昔から同じだ!」
伊織は黄泉醜男に向けてスプレー缶を噴射し、オイルライターを点火した。
ボォッ! と一気に炎が噴き上がり、漆黒の闇を眩く照らす。
炎は忽ち黄泉醜男を呑み込んだ。火達磨と化した黄泉醜男は生木が裂けるような断末魔の叫びを上げ、捩じ曲がった手足をバタつかせる。
伊織は背中の背嚢から鉈を取り出すと、老人とは思えぬ膂力で振り上げた。
木の根を断つような重い破砕音と共に、燃え盛る黄泉醜男の首が転げ落ちた。
黄泉醜男の体が動きを止める。バキバキと木が爆ぜる音を立てて焼け落ちた。
そよぐは呆然と炎を見つめた。火は暫く燃え続けていたが、ふつりと消えた。
懐中電灯で照らした地面には、炭化した薪のような残骸が散らばっている。
「黄泉醜男の対処方法は二つ。火で燃やすか、首を刎ねるかすれば
伊織は背嚢から斧を取り出し、凌に向けて差し出した。
「お前も山師の息子だ。チェーンソーではなくても使いこなせるだろう?」
「そりゃあ……餓鬼の時から爺ちゃんにみっちり仕込まれたからな」
そよぐを下ろした凌は斧を受け取ると、重さを確かめるように何度か柄を握り直した。
「そっちの鉈の方が軽くて扱い易そうだけど」
「馬鹿者、年寄りに重い物を持たせてどうする。私はもうすぐ後期高齢者だぞ」
「うちの里には詐欺みてぇな後期高齢者しかいねぇだろ」
げんなりしながらぼやく孫に、祖父は喉を鳴らして笑った。
「情けない奴め。私は斧を片手に喜世を担いで哭女ヶ淵まで辿り着いたぞ」
伊織の発言に凌はムッとした顔をすると、右腕でそよぐを抱き上げた。
「お兄ちゃん!?」
慌てて凌の肩にしがみつくと、彼は気遣わしそうな眼差しを向けてきた。
「そよぐは気にするな。……思っていたよりもお前の消耗が激しくて、これ以上歩いて進むのは無理だ。最悪、足が潰れる」
そよぐは言葉を失った。
トレッキングシューズの中の足があちこち靴擦れに蝕まれている事を見抜かれたのだろうか。
文字通りお荷物でしかない自分の現状が情けなくて涙が込み上げてくる。
「ご、ごめんね……」
「気にするなって言っただろ。沢鳴の男は体力ぐらいしか取り柄がないから丁度良い」
「そんな事は――」
ガサガサという葉擦れが上方から聞こえた。
娘や、と哭女が鋭く警告する。
そよぐは咄嗟に声を張り上げた。
「上!」
木の枝がしなってぶつかり合う音がして、頭上の暗がりから黄泉醜男が降ってきた。
猿のように飛びかかってきた黄泉醜男を凌が斧で弾き飛ばす。
人間にはあり得ない動きで空中で身を捻って着地した黄泉醜男は、捩じくれた手足で四つん這いになるとギチギチと首を回転させた。
虚ろな眼窩と口腔を霧で満たした黄泉醜男は、先程の個体よりも生前の面影が見て取れた。
フレームがひしゃげてレンズが割れた黒縁の眼鏡に既視感を抱き、そよぐの双眸が凍りつく。
「矢野先生……?」
凌の肩が強張った。
鉈を構えた伊織は隻眼を眇めた。
「今回の祭の被害者か。
「……そう言われてもなぁ」
黄泉醜男は明らかにそよぐと凌を狙っていた。ギチギチと頭を廻らせ、霧が揺蕩う両の眼窩をこちらに向けてくる。
開かれた口腔は何かを語る事はなく、黄泉醜男は低く腰を落とすと跳躍した。
「そよぐ、目ぇ瞑ってろ」
ぼそりと凌が呟き、冷静に斧を振るった。
夫の言いつけに従う余裕もなく、そよぐはスローモーションの視界を見開いた。
黄泉醜男の頭部へ重い金属の刃がクシャリとめり込む。
萎びた林檎が砕けるような音がして、黄泉醜男が吹き飛ばされた。
「やったか!?」
「まだだ、首を落とさない限り何度でも起きるぞ!」
伊織の言葉通り、黄泉醜男は潰れた頭をギチギチと回転させながら起き上がった。
「……マジかよ。面倒臭ぇ化け物だな」
凌は乾いた笑声を漏らし、黄泉醜男を睨み据えた。
――我が内侍、見落とすな。
哭女の囁きに、そよぐはヒュッと喉を鳴らした。
再び頭上から葉擦れが聞こえる。
「お兄ちゃん、また上から来る!」
「な――」
そよぐの言葉に凌が目を剥いた時、天蓋のような闇からもう一体の黄泉醜男が現れた。
歪に捩じ曲がった両手に引きちぎられたTシャツが絡みついている。真っ赤な地にビビッドな紫の英文字が躍る派手な柄に、そよぐは「
赤シャツの黄泉醜男が肉薄する。
空の両眼は真っ直ぐそよぐを捉え、まるで抱擁を求めるかのように両手を差し伸べる。
――
哭女が忌々しそうに呟いた。
「そよぐに、触るな」
凄まじい怒りが込められた凌の声が聞こえた刹那、赤シャツの黄泉醜男が斧で殴打された。
頭部がゴキャッと潰れる。倒れ込んだ黄泉醜男の背中を足で踏みつけ、凌は斧を振るった。
ドンッと重い音がして黄泉醜男の首が切断された。
凌の足元で手足を振り回していた黄泉醜男は静止すると、瞬く間に黒く萎びていった。
「凌!」
伊織が叫んだ時には、既に眼鏡の黄泉醜男が跳んでいた。
反応が遅れた凌は斧で防御したが、そのままそよぐごと近くの木に押しつけられた。
黄泉醜男は潰れた頭を振り乱し、そよぐを捕らえようと両手を伸ばしてくる。
「こいつ、やっぱりそよぐを……!」
そよぐを抱き寄せながら凌が奥歯を軋ませると、伊織が黄泉醜男に体当たりをして諸共斜面を転がった。
「爺ちゃん!」
黄泉醜男は跳ね起きると、怒りを露わにするかのように不揃いな歯を剥いて伊織に飛びかかった。
「ぐっ……」
伊織が横に構えた鉈の柄に黄泉醜男が食らいつく。
黄泉醜男が四肢を振り回しているせいで、のしかかっている伊織ごとじりじりと斜面を滑っていく。
「私の事は構わず、先に行け! そよぐさんから絶対に手を離すな!」
必死に怒鳴る伊織を凝視し、凌が唇を震わせる。黄泉醜男と一緒に伊織が斜面の下へ転がり落ちるのは時間の問題だった。
誰か、とそよぐは祈った。
誰か力を貸してと、夢中で。
――ひたり、と冷たい繊手が頬に触れる。
「そよぐさん」
いつも頭の中で聞こえていた喜世の声が、
「力を借りるのは、わたしの方」
「祠の封印が解ける前に哭女様のお力を振るったら、憑坐である貴女にどれだけ負荷が掛かるか――」
「ごめんなさい」
「でも、もう黙って見過ごす事なんて出来ない」
栓を抜いたバスタブから水が流れ出すように、体の内側から急速に力が吸い取られていく。一瞬意識が遠退きそうになる。
苦悩する喜世の声に、そよぐは迷いなく笑った。
「あたしは大丈夫です。だから遠慮せず――伊織さんを助けて下さい」
喜世は吐息を零すように微笑んだ。
「分かったわ」
しゅるしゅると。
そよぐの体から、次々に銀色のリボンが伸びる。
LEDライトを冷ややかに跳ね返すそれは、細長い紐状に伸びた
銀色のリボンは黄泉醜男の体に絡みつくと、背後から四肢を締め上げて拘束した。
「なっ……」
唖然とする伊織の傍らに、忽然と喜世が現れた。
「伊織さん」
冷たく透き通った声に、変わり果てた妻の姿に、伊織の隻眼が限界まで見開かれる。
喜世は眼球のない両目を恥じるように睫毛を伏せ、青白い指先を黄泉醜男に向けた。
「今のうちに、首を」
伊織は一瞬で動揺を飲み込むと、立ち上がって鉈を振り被った。
黄泉醜男の頭が地面に落ちる。
みるみる男の死体が萎んで土塊のように崩れ落ちると、銀色のリボンもただの水に戻って飛散した。
「哭女じゃない……誰だ?」
そよぐを抱えたまま立ち尽くす凌が呟く。
喜世が横目で笑いかけると、息を呑んで彼女と伊織を交互に見遣った。
「まさか喜世婆ちゃん、か?」
「嬉しい。婆ちゃんって呼んでくれるのね」
喜世は幸せそうに口元を綻ばせた。
「伊織さんの若い頃にそっくり。透悟にも、良く似ている。伊織さんの側で、ずっと貴方の成長を見てきたわ――凌」
「どういう事だ!?」
「ごめんなさい、あまり時間がないの。今のわたしは哭女様の眷属で、哭女様の憑坐であるそよぐさんを媒介にして現世に干渉している。だけど祠の封印が解ける前に哭女様のお力をお借りてしているこの状況は、そよぐさんにとって負担でしかないの」
祖母の説明に、凌は血相を変えてそよぐを見た。
そよぐは青褪めた顔でくったりと彼の肩に寄り掛かりながら、眉尻を垂らした。
「ちょっとしんどいだけだから……」
「……言い訳は後でゆっくり聞く」
激情を押し殺した声が怖い。そよぐは凌の首に腕を回し、甘えるように夫へ頬を寄せた。
「とにかく、急いで哭女ヶ淵へ向かって。黄泉醜男の狙いはそよぐさんの中にいらっしゃる哭女様よ。あれは桂男が操っている分身のような存在だから、本能的に哭女様を求めてそよぐさんを追ってきているの。黄泉醜男が集まってくる前に、出来るだけ距離を――」
鉈が地面に落ちた。
伊織の腕の中に閉じ込められた喜世は驚いた表情で固まっている。
「……喜世」
途方もない月日の間に降り積もった感情が凝縮された呼びかけは、他人のそよぐですら背筋が震えた。
当の喜世は激しく狼狽している。血の気のない筈の頬にじわじわと赤味が差す。
桂男の恋着は激しく厄介で――恐ろしい。
その事実を目の当たりにして、そよぐは明日は我が身と言う諺を思い出した。
「い、伊織さん」
「ああ、分かっているよ。聞きたい事は山のようにあるが……今は先を急ごう」
伊織は穏やかな声で笑うと、妻の頬を両手で包み込んで水の闇を湛えた両の眼窩を覗き込んだ。
「逃げるなよ?」
そよぐからは伊織の背中しか見えないが、可哀想なくらい顔を真っ赤にして震えている喜世の様子から彼女の心中はおおよそ察せられた。
がっちりと自分の体を掴んで離さない凌の腕に全てを委ね、限界を迎えたそよぐは意識をコトンと手放した。
暫くホラー回が続きます。