※この作品はR-18です。

盈虚の華燭〜嫁巫女は双子のような義兄に溺愛される   作:朱河なつめ

18 / 25
片割月の章②

 サイレンが聞こえる。

 唸るような甲高い轟音が耳の孔から捩じ込まれ、脳髄を揺さぶる。

 小学校の平和学習で視聴した、太平洋戦争下の日本を舞台にしたアニメ映画の空襲警報を思い出した。心臓を握り潰されるような、酷く落ち着かない不愉快な音。

 ぱち、と薄目を開くと、LEDライトの光に視界が白く染まった。

 凌の汗の匂いがする。がっしりとした筋肉質な腕に抱えられ、呼吸に合わせて上下する防護ジャケットの胸板に頭を預けた体勢を取っていた。

 瞬きを繰り返すうちに視界の明度が元に戻る。

 懐中電灯の明かりに浮かぶ深い闇、顔を覗き込んでくる凌の安堵の表情。

「目が覚めたか?」

 凌の左手が右頬を優しく撫でる。こくりと頷き、周囲を見回した。

 暗い木立に濃密な水の匂いが漂っていた。周囲に伊織と喜世の気配はない。

 凌は一本の木の根元に座り込み、膝の上にそよぐを抱えていた。遠くサイレンの音が鳴り響いている。

「ここ……は?」

「哭女ヶ淵の近くだよ」

「良かった……辿り着いたんだ」

「ああ。喜世婆ちゃんも手伝ってくれて、道中で黄泉醜男の数をかなり減らせたよ。そよぐに無理させられないって、途中でお前の中に戻ったけど……伊織爺ちゃんは残りの黄泉醜男がどれぐらいいるか様子を見に行ってる」

 凌は双眸を翳らせ、そよぐの肩をぎゅうと抱き寄せた。

「お前、ずっと気を失ってたんだよ。血が流れ出していくみたいにどんどん体が冷たくなっていって……このまま死ぬんじゃないかって、気が気じゃなかった」

 凌の右手が震えている。そよぐは唇を噛み締め、まだ力が上手く入らない両手でそっと青年の頬に触れた。

「ごめんね、心配かけて」

 凌の左手が右手を握り締めるように重なった。

 薄氷のように罅割れた眼差しが危うく揺らいでいる。そよぐ、と血反吐を吐くように凌は声を絞り出した。

「俺は伊織爺ちゃんや門弥の爺さんのようになれない。お前が先に死んだら……こんな地獄みたいな世界で生きていたって仕方がない」

「……あたし達の子供がいたとしても?」

 凌はぐっと押し黙った。

 眉尻を下げ、そよぐは淡く笑んだ。

「多分、お兄ちゃんも二人と同じ選択をすると思うよ。だって親に置いて行かれる子供の気持ち、あたし達が一番よく分かっているもの」

 六年間、凌と二人ぼっちで生きてきた。

 社会的な意味で大人の庇護下にあったが、心から自分を大事にしてくれると信頼できる相手はお互いだけだった。

 養父母に慈しまれ、産みの母や乳を分け与えてくれた凍鶴に愛されていたと知った今尚、幼少期に味わった感情は拭い切れない。

 暗い凪の海に浮かぶ小舟に取り残されたような、寄る辺のない悲しみと空しさ。

「あたしにはお兄ちゃんがいてくれた。でも、もしもあんな気持ちを一人ぼっちで味わわせる事になるのなら……お兄ちゃんがいない地獄みたいな世界を、あたし達の子供の為に生き抜くよ。何があっても」

「……強いな、そよぐは。俺は……俺はお前みたいに断言できない」

 凌はくしゃりと表情を歪め、そよぐの体を掻き抱いた。

「お前が全部なんだ、そよぐ。お前だけが、俺の、生きている意味全部なんだよ」

 どうしようもなく愛おしく、どうしようもなく哀しかった。

 凌の想いが嬉しいのに切なくて、そよぐは目を伏せて大きな体をわななかせる男に身を預けた。

「分かってる。それなら、一秒でも長くお兄ちゃんより長く生きるように努力するよ。お兄ちゃんが伊織さんみたいな格好いいお爺ちゃんになるまで隣にいて、最期を看取って、もう心残りはないなって思ったらすぐにお兄ちゃんの所へ行けるように頑張る」

「俺の方が絶対長生きするだろ、家系的に。それに哭女の内侍でいる限り、お前は命を縮めるような無茶を何度もする。賭けても良いぞ」

「信用がないなあ……」

 思わずぼやくと、凌は柔らかく喉を震わせた。

「そういう女だよ、そよぐは。大人しそうな顔して結構気が強くて、思いきりが良過ぎて、一度情に絆されると何処までも優しくなれる。……そういうお前に、惚れて捕まっちまったんだから仕方ないよな」

 そよぐの背中を撫でさすり、凌は伏せていた面を上げると乙女色の唇に噛みついた。

「んッ……」

 当然のように舌が滑り込んできて、くちゅくちゅと口腔を舐め回す。軟口蓋を柔々と舌先で愛撫されると、下腹部がキュウッと熱く疼いた。

 このまま押し倒されたらどうしようと思った時、凌は名残惜しそうに唇を離した。

 劣情に烟る眼差しを妻に注ぎながら、味わったばかりの唇をちろりと舐める。

「お、おにぃ、ちゃん」

「流石にこんな所で盛ったりしねぇよ。……抱いてほしいって言われたら喜んで抱くけど」

「ば……ばば、ばかッ、お兄ちゃんの馬鹿!」

「ある意味、男の生理現象だから大目に見てくれ」

 赤面してぺちぺち凌の頬を叩くと、凌は黒曜石のナイフのような瞳を眇めて笑った。

「一つだけ頼みがある。お前の体……お前の命に関わる事は、なるべく隠さず話してくれ」

 そよぐはハ、と息を漏らした。

「哭女に言いくるめられて話せない事がこの先幾らでも出てくる筈だ。お前の身の安全を守る為なら黙っていても構わない。でも、お前の生き死にに関わる事で俺が知っていても問題ないのなら……ちゃんと教えてほしい」

 乞うように短いキスを重ねられる。そよぐは蕩けそうな思考を叱りつけ、コクコクと頷いた。

「ふ、ぅ、あっ、約束する! んむ……約束するからっ」

 青年の視線の温度が跳ね上がる。火傷しそうな吐息を漏らし、薄手のパーカーから覗くほっそりとした娘の右の首筋に口づけた。

「凌ちゃ……ひ、あッ」

 がぶりと噛まれて痛みが走った。

 凌の左手が乳房の膨らみを這い上がって来ようとする気配を察し、そよぐは必死に押し止めた。

「こ、こんな所で盛ったりしないって言ったのはどの口よ!?」

「意外と燃えるんだな、青姦って」

 そよぐは力一杯凌の頭をはたいた。

 ――仲が良いのは結構な事だけれど、そろそろ伊織さんが戻ってくるわよ。

 苦笑混じりに喜世が耳打ちしてくる。

 そよぐは半眼になると、じとりと夫を睨み据えた。

「もうすぐ伊織さんが来るって、喜世さんが言ってるけど?」

 凌はギシッと動きを止めると、呻くような声を出して項垂れた。

 短い黒髪から覗く両耳が赤くなっている。

「……哭女だけじゃなくて、喜世婆ちゃんとも話せるのか?」

「多分、喜世さん自身がずっと伊織さんの側に憑いてるからだと思う。たまに他の巫女の思念(こえ)も聞こえるけど、独り言をぼそぼそ呟いてるような感じ」

「マジでプライバシーも糞もねぇ……」

 凌は左手で顔を覆うと、木の幹に背中を預けた。自分の不埒な行為の一部始終が祖母に筒抜けという事実が思いの外ショックらしい。

 よしよしと頭を撫でていると、凌が物言いたげな視線を向けてきた。

「あのさ。他の巫女の中に……お袋もいるのか?」

 そよぐは両手を胸元に引き寄せ、キュッと握り込んだ。

「いるよ、たぶん……透悟さんも一緒に。だけど喜世さんよりずっと深い場所に沈んでいるから、殆ど存在を感じられないの」

 暫し逡巡し、素直に打ち明ける。

「一度だけ、二人の声が聞こえたの。泣きながら……『凌』って、お兄ちゃんの名前をずっと呼んでた」

 凌は喉を震わせ、ぐっと眉間に皺を刻んだ。

「そうか。親父も一緒なら……少なくとも寂しくはないのかな」

 そよぐは両手で凌の左手を包み込んだ。何と声を掛ければ良いのか分からなかった。

 木々の合間を縫ってサイレンの音が響き渡る。思わず眉を顰めた。

「そう言えば、ずっと聞こえてくるこの音は何?」

 凌は一瞬で表情を塗り替え、サイレンが聞こえてくる方向――沢鳴集落のある方角を睥睨した。

「山狩りのサイレンだよ」

「山狩り?」

 そよぐの鸚鵡返しに答えたのは、木立の暗がりから現れた伊織だった。

「里から逃げ出した脱走者が山へ入ったと報せる合図さ。このサイレンがかかると、里人総出で脱走者を追いかける。二十年前――透悟と凍鶴さんが里を抜けた時以来に聞いたな」

「それって……!」

「私達が山へ入った事に里の連中が気付いたようだ。想定よりも早ったな」

 そよぐを支えながら立ち上がった凌は、「サイレンが鳴り始めて三十分以上は経った」と呟いた。

「早々に追いつかれるとは思えないけど、向こうは爺ちゃんよりも山を知り尽くした後期高齢者詐欺紛いの連中だからな」

「ああ、急ぐに越した事はない。哭女ヶ淵の周りを黄泉醜男が二体うろついているが、奴らを片付ければ虚ろ桂までは容易に近づけそうだ。凌、行けるな?」

「勿論」

 凌は当たり前のようにそよぐを右腕で抱え上げ、左手に斧を携えた。

 木立を抜けた先には濃霧が立ち込めていた。LEDライトを翳すと、雲海のような光景が暗闇の切れ間に浮かぶ。

 泥濘む斜面を下って谷底に辿り着くと、息苦しいほどの水の匂いに濔ちていた。そこに僅かに混じる、鼻腔にこびりつくように甘ったるい花の香り。

 ――金木犀?

 秋に咲く花の香りがどうして真夏の山中に漂っているのだろうか。

 違和感が悪寒となって肌を舐める。

 仄暗い水面に浮かぶ哭女の鏡像は、能面のような無表情でジッと何処かを――誰(・)か(・)を睨めつけている。

 ――そよぐさん、来るわ。

 喜世が警告を発した。

 一段と花の香りが強くなる。そよぐは前方を指差した。

「黄泉醜男が正面から一体!」

 分厚い霧の帳を突き破り、捩じくれた両手が現れた。すかさず孫夫婦の前に出た伊織が即席の火炎放射器を構える。

 しかし、オイルライターは着火しなかった。

「この水気のせいか!?」

 スプレー缶とオイルライターを投げ捨てた伊織は咄嗟に鉈を構えたが、突進してきた黄泉醜男に押し倒されてしまった。

「爺ちゃん!」

「ぐっ……」

 伊織は黄泉醜男の大口に鉈の柄を噛ませて抵抗していた。

 そよぐは、彼に覆い被さる黄泉醜男の異様な姿に目を瞠った。

 ――花が咲いている。

 黄泉醜男の背中は大きく湾曲していた。老いた木肌の如く罅割れた灰色の皮膚を突き破って、木(・)の(・)枝(・)が(・)幾(・)つ(・)も(・)伸(・)び(・)て(・)い(・)た(・)。

 細い骨のような枝には細長い楕円形の葉と、小さな灯火のような花が群がっている。

 本来鮮やかなオレンジ色をしている筈の花は、毒々しいほど真っ赤だった

「赤い金木犀(月桂)の花……」

 思わず呟くと、黄泉醜男が頭をもたげた。空っぽの眼窩がそよぐを捉える。

「凌ッ、そよぐさんを連れて早く離れろ!」

 伊織が叫んだ。

 黄泉醜男はゆらりと身を起こすと、泥を蹴り上げて真っ直ぐ突っ込んできた。

 凌は短く息を吸うと、斧で黄泉醜男を薙ぎ払った。

 月桂の花が血飛沫のように散る。

 吹き飛ばされた黄泉醜男は瞬時に体勢を立て直し、執拗に食らいついてきた。

「しつこい野郎だなっ!」

 凌の振るった斧の刃が黄泉醜男の首に食い込んだ。   

 そのまま力任せに振り抜こうとするも、ガキンッと硬い音を立てて刃が止まる。

「なっ……」

 凌が斧を引こうとするも黄泉醜男の両手が柄を掴み、逃げる隙を奪われてしまった。

 パキパキと乾いた音を立てて、黄泉醜男の眼窩と口腔から月桂の枝が伸びる。

 瞬く間に葉が茂り、赤い花がぽろぽろと咲き零れた。

 そよぐは慄然とした。

 あの月桂の枝は黄泉醜男の脊椎なのだ。それも恐ろしく硬い――。

「こいつ……まさかこのまま、もう一体と挟み撃ちにするつもりか!?」

 凌の台詞にゾッとする。

 黄泉醜男の狙いが自分ならば、凌と伊織から離れれば二人は安全な筈だ。

 ――駄目よ、そよぐさん!

 喜世の叱責に「でもっ」と声が漏れ出た。

 黄泉醜男の口元がニィ……と嗤う。

「凌、斧から手を離せ!」

 伊織の鋭い怒声に、伊織が斧を手放した。

 黄泉醜男が蹈鞴を踏んで体勢を崩す。背後から走ってきた伊織が後頭部を鉈で殴打した。

 うつ伏せに倒れ込んだ背中へ、両手で鉈を振り下ろす。

 刃で地面に縫い止められた黄泉醜男が激しく四肢を振り回している。

「念の為にと持ってきたが、まさか役に立つとはな」

 黄泉醜男の肩を片足で踏みつけた伊織は背嚢から金槌と楔を取り出すと、斧が食い込む首の裂け目に楔を打ち込んだ。

 バキンッ! と音を立てて裂け目が広がった。黄泉醜男が悶絶する。

 伊織が再び金槌を振り下ろす。バキ、バキッ……と裂け目が完全に割れる――その時。

 仄暗い水面が大きく波立つ。

 ――気を付けて! もう一体が、すぐそこまで来ているわ!

 喜世の叫びを聞いた瞬間、そよぐは全力で凌の体を突き飛ばした。

「そッ……」

 愕然とする凌の腕から転がり落ちる。

 彼が手を伸ばすよりも早く、二人の間にドッと霧が流れ込んできた。

「そよぐ!」

「そよぐさん!」

 地面に転がったそよぐは何とか起き上がると、霧に紛れて駆け出した。後方から追いかけてくる黄泉醜男を連れて凌達から少しでも遠ざかる為に。

「そよぐ、何処だ!?」

「あたしが黄泉醜男を引きつけておくから、お兄ちゃん達はその間に虚ろ桂へ向かって!」

「な――馬鹿な事考えるな!」

「必ず伐るって約束したでしょう! 早く行って!」

 凌の声は追いかけて来なかった。

「伊織さん達は、虚ろ桂へ向かったわ」

 代わりに喜世の声が耳元で囁く。

 そよぐは笑って頷いた。

「貴女って言う子は……本当に」

 喜世は嘆くように呟くと、冷たい掌でそよぐの頬を撫でた。

「そのまま真っ直ぐ走って。水辺へ誘い込むの」

 喜世に導かれるまま暗い霧の中を疾走する。

 懐中電灯の光が乱舞し、後ろを振り向くと悍ましい偽神の操り人形が目視出来る距離まで迫っていた。

 上りっ放しの息が苦しい。今にも膝が砕け散ってしまいそうだ。

 両足がごろごろと丸石の転がる地面を踏んだ。

 噎せ返るような水の匂いがする。

 石だらけの川原の先を照らすと、暗く澱んだ水面の上に青白い女の影が佇んでいた。

 ――哭女だ。

「ひとまず水の中へ。水際を越えれば哭女様の領域だから、黄泉醜男は追いかけて来られないわ」

 喜世の助言に従い、そよぐはバシャバシャと水の中へ駆け込んだ。

 殆ど流れのない水に膝下まで浸かり、川原を振り返る。

 義祖母が言った通り、黄泉醜男は川原を徘徊しながらこちらの様子を伺っていた。

 懐中電灯の光を当てると、先程の黄泉醜男と同じく湾曲した背中と目口の虚(うろ)に赤い月桂の花を爛漫と咲かせている。

「あの黄泉醜男も、さっきのものと同様に首の骨を簡単に断てないように硬化させているのね」

 いつの間にか傍らに現れた喜世が寄り添い、崩れ落ちそうな体を支えてくれた。

「然様。随分と小癪な真似をしてくれたものだ」

 ひたひたと水面を踏んで哭女が歩いてきた。

 喜世がいる左側とは反対側まで来ると、すっかり蒼白になったそよぐを見つめて両目を眇める。

「我が内侍、そなたは喜世以上に惨い女子だな。そなたが己の全てだと熱烈に恋うてきた夫の手をあっさり振り払って、我が身を囮にするとは」

「哭女様、このような時に揶揄うなんてあまりに酷過ぎます」

 憤る眷属へ、女神は袖で口元を隠してころころと笑った。

「ほ、ほほ、そなたも一端の口を叩くようになったの。孫の嫁はそれほど可愛いかえ?」

「可愛いに決まっております。生者でありながら、わたし達死者へ迷いなく手を差し伸べる――これほど愛おしく、危うい心根はありましょうか」

 喜世は濡れた睫毛を伏せた。

「自分の嘆きに溺れたわたしには果たせなかった、哭女様の、歴代の巫女達の嘆きを――この子は聞き届けてくれる。わ(・)た(・)し(・)達(・)の(・)死(・)を(・)悼(・)み(・)、(・)わ(・)た(・)し(・)達(・)の(・)為(・)に(・)泣(・)い(・)て(・)く(・)れ(・)る(・)、わたし達の泣き女(め)」

 そよぐは一つ瞬いた。

 泣き女とは、東洋西洋問わず存在した、葬式の際に号泣し故人を弔う事を生業とした女性だ。

 日本において、泣き女は涙を流す事で死者を慰撫する魂振りの巫女でもあった。喜世の思念が流れ込んできて、ああ、と冷えた唇で独りごちる。

「あたしのお役目は、死んだ巫女達のお弔い……彼女達を黄泉の国まで送り出し、鎮魂と再生を祈る事でもあったんですね」

 骨まで凍るように冷たい水から、水底に沈む女達の思念が染み込んでくる。

 ――来た、来た、来た……。

 ――よく来てくれた、漸く来てくれた。

 ――わたしの娘、わたしの巫女。

 ――わたしに会いに、わたしを救いに、来てくれた。

 淵に向けた背中に幾つもの視線を感じた。喜世のように姿を現している巫女がいるのかもしれない。

「娘や、そなたは恐ろしゅうないのかえ」

 哭女がきゅうと下瞼を持ち上げて尋ねてきた。

「我が眷属とは言え、内侍らは死霊ぞ。死霊どもに執着され、恨みを晴らせと重荷を背負わされ、内侍が我が力を振るえば代償に命を啜られる。恐ろしゅうて恐ろしゅうて、逃げ出したくはならぬのか?」

 何とも意地悪な質問だ。

 喜世は悔しそうに唇を噛み締め、巫女達の思念は大いに動揺している。

 そよぐは呆れながら女神を振り仰いだ。

「哭女様ってSなんですか?」

 ごほ、と喜世が噎せた。

 哭女は両目を真ん丸にすると、盛大に噴き出した。

 爆笑する女神を半眼で睨みつつ、そよぐは言葉を探した。

「……あたしは産みの母にも育ての母にも、何も恩返し出来なかった親不孝者です」

 哭女の笑声がぴたりと止んだ。

 夜の淵に静寂が満ちる。

 遠くから、カ――ンッ……と斧を振るう音が聞こえてきた。

 凌と伊織が虚ろ桂に辿り着いたのだ。

「産みの母は命と引き替えにあたしを生んでくれたのに、育ての母は十二年も赤の他人のあたしを大切にしてくれたのに、あたしは彼女達に何も返せないままここにいます。育ての母はきっと泣いている筈なのに――あたしは好きな男と駆け落ちするんです」

 黄泉醜男が動きを止め、やがてもがき苦しむようにのたうち始めた。

 その様を淡々と見つめながら、そよぐは言葉を繋いだ。

「皆色々言うけど、凌ちゃんが良いって決めたのはあたし自身だから。結局、恩を仇で返すような駆け落ちも同然です。……そんなあたしでも、今なら一人ぐらいお(・)母(・)さ(・)ん(・)を助けられるんです」

「凍鶴の事か?」

 哭女に名前を呼ばれた女が息を呑む気配がした。

 そよぐは微笑んだ。

「お兄ちゃんとあたしは生後一週間ぐらいの頃に病院の前に置き去りにされていたんです。それって、たった一週間でも凍鶴さんがあたし達を手元に置いて育ててくれたって言う事でしょう?」

 たった一週間でも――凍鶴はそよぐの母親でいてくれたのだ。

 乳を呑ませ、おむつを換え、沐浴をさせ、ぐずれば抱いて子守唄を歌ってくれたのかもしれない。凌と共に手放す時には、植村の養母のように泣いて悲しんでくれたのかもしれない。

 凍鶴が繋いでくれた命に、与えてくれた人生に、価値など付けようがない。

「恩返しするには十分な理由になりませんか。十九年……ううん、もっと長く苦しみ抜いたあたしの母の復讐を果たせるのなら、巫女のお役目なんて喜んで引き受けますよ」

 哭女でも喜世でもない女の両手が、そよぐの右手をそっと包み込んだ。

 この世ならざるものの冷たさが胸を軋ませる。

「そよぐ」

 ――あたしのお母さんは、こんなに優しい声をしていたんだね。

 初めて聞いた母の呼び声に、娘の頬を一筋の涙が滑り落ちていった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。