盈虚の華燭〜嫁巫女は双子のような義兄に溺愛される 作:朱河なつめ
水面に浮かぶ満月を食い破り、上背のある男が水中から這い出してきた。
ザバザバと水を掻き分けて虚ろ桂の立つ岸辺へ近づいてくる。硬質そうな短髪から水が滴り、この谷間に集う男の誰より蒼白な肌を伝い落ちる。
凌に良く似た背格好の、筋骨逞しい男性だ。白無地のシャツとズボンを纏い、右手には哭女が凌に授けたものと同じ水の斧を携えている。
凍鶴と同じ三十路前後と思しき面長の顔は、哭女の言葉通り息子に酷似している。切れ長な両目の奥に眼球はなく、仄暗い水をひたひたと湛えていた。
筋肉質な素足が水から上がり、丸石を踏んで川原に立ち尽くす凌に歩み寄る。
凌はぽかんと近づいてくる父親を凝視していた。
「な、何だ……何なんだよ、ありゃあよう!」
里の男の一人がぶるぶると震えながら叫んだ。
「ああ! 哭女様っ、子乞い女様! どうかお慈悲を……お慈悲をッ!」
耐え切れないとばかりに別の男が哭女に向かって土下座し、命乞いを始めた。
他方からは読経や啜り泣き、狂ったように笑い転げる声が聞こえ出す。
「念仏を唱えた所で救われる筈もないでしょうに」
そよぐの腕の中ではらはらと涙を流しながら、凍鶴が憎々しげに呻く。
遥か夜空の高みから満月が地上の狂乱を冷淡に見下ろしている。沢鳴の里人は祖である月神にすら見捨てられたのだと、そよぐは感じ取った。
里人の阿鼻叫喚を気にも留めず、父親と息子は初めて向かい合った。
口を開けてまじまじと見つめてくる凌の眼差しに、透悟は無表情ながら気不味そうな空気を漂わせていた。
――細石と言うよりも、風雨を耐え忍ぶ厳のような男の人。
息子と並ぶと、透悟の方が僅かに背が高い。目線よりも高い位置にある虚ろな二つの眼窩をひたと見つめ、凌は不思議そうに呟いた。
「目ん玉ないのに、ちゃんと親父と目が合ってる、俺の顔が見えてるって、何で分かるんだろうな」
「……怖くないのか?」
微かな恐れを孕んだ父親の問いに、凌はくしゃりと笑った。
「怖くないよ。多少驚いたけどさ。幽霊で良いから会いに来てほしいって、餓鬼の頃から俺が何度考えたか知ってるか?」
透悟の肩が小さく揺れた。
凍鶴が嗚咽を漏らし、そよぐの肩に顔を伏せた。
「まさか本当に会えるとは思ってなかったけど。こればっかりは哭女に感謝だな」
「哭女様とお呼びしろ。畏れ多いぞ」
凌を咎めた透悟は失敗したという表情を浮かべ、左手で顔を覆った。
「違う。そんな事はどうでも良い――いや良くないんだが、今言いたい事はそうじゃない」
透悟はきょとんとする凌の右頬に左手を伸ばし、悔しそうに血を拭った。
「痛かっただろう」
「別に……大した傷じゃないよ」
「今だけの話じゃない。この里にやって来てから、何度も要人に手酷くいたぶられただろう」
名前を呼ばれた要人の顔が恐怖に歪んだ。
透悟がギリッと眉根を引き絞る。失われた彼の目に、理不尽な仕打ちにじっと耐え忍ぶ幼い凌の姿が映っているのだろうか。
「守ってやれなくて、済まなかった」
凌は虚を衝かれたように口を噤んだ。
透悟の左手が息子の頭をぎこちなく撫でる。何度も何度も――十九年分の空白に抗おうとするように。
「不甲斐ない父親で済まない……凌」
透悟はうっすら笑みを滲ませた。
「良い名前を付けてもらったな。苦難を耐え凌ぎ、歴代の祁月の男を凌駕する、お前らしい名前だ」
凌は皺が寄るほど眉間に力を込め、唇を噛み締めた。
「守ってくれただろ。親父もお袋も……十分過ぎるほど」
息子の言葉に目を伏せると、透悟は凌の頭をそっと抱き寄せた。
「生まれたばかりのお前を、この手に抱けなかった事が一番の後悔だ」
「そっか」
「凍鶴さんの選択を責めないでほしい。お前とそよぐさんを守る為に、二人を手放すしかなかった。俺が生きて側にいれば違う選択肢もあったかもしれない……俺の責任だ」
凌は空いている右手で透悟のシャツをギュッと掴んだ。
「親父って格好つけなんだな」
「何?」
「不甲斐ない、全部自分が悪いなんて、そんな風に卑下するなよ。親を恨んだ事がないって言ったら嘘になるけど……今はちゃんと分かってるから」
顔を上げた凌は右手で拳を作り、透悟の胸を軽く叩いた。
在りし日の父親の面影を写し取った双眸がそよぐと凍鶴を見つめ、微笑む。
「一番助けてほしい時に親父もお袋も駆けつけてくれた。だから良いんだ。十九年側にいられなくたって、一生分俺やそよぐの事を考えて、想って、死んだ後まで力を尽くしてくれる、そういう両親を持って――二人の息子で幸せだよ、俺は」
涙に咽ぶ凍鶴を抱き締め、そよぐは夫に笑い返した。
透悟は多くの感情を嚥下するように目を閉じ、ぐしゃぐしゃと凌の頭を撫で回した。
再び開かれた虚ろな眼差しが父親へ向かう。
ぴたりと寄り添う喜世に凭れ掛かるように膝を突いた伊織は、怪我を負っていない左手で顔を覆って項垂れている。
節榑立った指の間から涙が零れ落ちている。震える夫の背中を撫でさすっていた喜世は、息子の視線に気付くと眉尻を垂らした。
「良い子でしょう、凌は。伊織さんが責任を持って育ててくれたお陰よ」
「ああ、本当に。……親父には感謝してもし切れない」
透悟は両親の前で片膝を折ると、声を詰まらせて泣く伊織の肩にそっと触れた。
「苦労ばかりかけてごめん、親父」
「透悟っ……透悟!」
伊織は泣き濡れた面を上げると、透悟の手を固く握り締めて押し戴いた。
「この、馬鹿息子! 親より先に死ぬ奴があるか……ッ」
「ごめん」
「苦労かけたなどと言うな。凌がいたから……お前があの子を残してくれたから、私は今日まで生きて来れたんだ」
伊織の言葉に、透悟の目から涙が流れ落ちた。
「私が虚ろ桂を伐り倒せていたら、お前や凌を苦しめる事はなかっただろうに……!」
「良いんだよ、親父」
透悟は伊織の左頬に触れ、立ち上がると凌を振り返った。
「桂男の呪いはここで終わる。俺の息子が終わらせる。そうだな?」
「ああ」
凌は斧を担いで破顔した。
「まさか親父と一緒に仕事出来るとは思わなかった」
「……最後の一仕事を息子と出来る俺は、果報者だ」
透悟は凌の背中を叩き、並んで虚ろ桂へと歩き出した。
「待て……待て! 透悟、凌! お前達、本気でご神木を伐り倒すつもりか!?」
八尋が今更驚愕したように叫ぶ。
忌々しそうに振り向いた凌の肩を押し、透悟は一瞥もくれず淡々と答えた。
「そこで黙って見ていろ、糞ジジイ。万に一つもないだろうが、あの世で手前の母親や嫁達に会えた時の為にでも詫びの言葉でも考えていろ」
「透悟……お前ぇッ!」
「俺も死んだ時にはお袋を泣かせたから言えた義理はないが、手前ほど親不孝なドラ息子で嫁に憎まれた下衆な亭主もいないだろうさ。佐和の婆様は息子の不始末をつけるって、真っ先に哭女様へ魂を捧げていたぞ」
八尋はギリギリと歯軋りしながら唸り声を上げた。
そよぐは胸の痛みを覚えた。スミを筆頭に哭女の力の糧となって消えた巫女達の中には、確かに八尋の実母である佐和もいた。
透悟は控えめに伊織を見遣った。
「親父……濔青の婆様からの伝言だ。『ごめんなさい。一生恨んでいてほしい』とさ」
涙を拭った伊織は、複雑そうに苦笑した。
「誰かを恨むのはもう沢山だ。気が向いたら線香の一つでもあげるぐらいで許してほしいと、母さんに伝えてくれ」
「……分かったよ」
透悟は一つ頷くと、凌と共に虚ろ桂と対峙した。
洞を挟んだ幹の片側は既に断ち割られていた。山師の親子は無言で目配せすると、息を合わせて斧を振るい始めた。
カァ――ン……と澄んだ刃の音が谷底に響く。
虚ろ桂がざわざわと枝葉を揺らし、苦悶するように赤い花を散らした。
「よせ……よせ、止めろ……止めろぉ!」
八尋が嗄れた声で怒鳴る。里の男達も悲鳴を上げ、あるいは泣き叫び、偽神の末路に震え慄いた。
斧の刃が木肌を裂き、バキバキと繊維を断ち切る度に、哭女の口元が今にも笑い出しそうに波打つ。
「これで終わる。ようやく……わたし達の地獄が」
斧を振るう息子と夫を見つめながら凍鶴が呟く。
彼女と手を取り合って凌の背中を見守りながら、ふとそよぐは違和感を抱いた。
――本当にこれで終わり?
黄泉醜男を操ってまで何人たりとも哭女ヶ淵に――愛する妻を封じた祠に近づけまいとしていた始祖の桂男が、大人しく末裔の手にかかるだろうか。
唾を嚥下したそよぐは、背後を振り返った。
川原に倒れていた最後の黄泉醜男がギチギチと手足を蠢かせ、起き上がろうとしていた。
湾曲した背中を突き破って脊椎の枝葉が伸び、赤い月桂花が爛漫と咲き乱れる。毒のように甘い芳香が水の匂いを塗り潰す。
「こいつ、まだ動けたの!?」
遅れて黄泉醜男に気付いた凍鶴がそよぐを背に庇う。ありったけの水のリボンで八尋を押さえ込んでいる為、今の彼女は徒手空拳だ。
黄泉醜男はくぐもった咆哮を上げ、水際を踏み越えて追いかけてきた。
「そよぐ!」
「凍鶴さん!」
妻の窮地に気付いた凌と透悟の手が止める。
八尋が哄笑しながら喚き立てた。
「はは……はっ、そう……そうだ! 我が父祖よ、始まりの桂男よ! 貴女が焦がれてやまない女神は目の前の娘の中にいる! 女神を逃がすな、娘ごと犯してしまえ!」
凍鶴と共に腰が浸かるほど水に沈んだそよぐは、咄嗟に哭女を見た。
恐ろしく美しい女神は嫣然と微笑んだ。
――案ずるな。恋に狂った哀れな桂男が、まだ一人おる。
微かな憐憫を含んだ囁きにどういう意味かと問いかけた刹那、水を蹴立てて黄泉醜男と凍鶴の間に誰かが走り込んできた。
「化け物っ、化け物め……凍鶴さんに触るなァ!」
銃弾で刃が欠けた斧を手にした要人が怒号を上げた。無茶苦茶に斧を振り回し、黄泉醜男の進路を阻む。
「要人!?」
凍鶴が愕然と名前を呼ぶと、要人は涙でべしょべしょになった顔に子供のような笑みを滲ませた。
「ああ……ようやっと、僕を見てくれた」
怒り狂う黄泉醜男が唸りを上げ、要人に掴みかかった。
鋭い梢のような指が皮膚を裂き、肉を突き破り、月桂花に混じって血飛沫が散る。
「なんで貴方……こんな事を!」
「ずっと貴女に、僕を見てほしかった。貴女の目は何時も僕を通り過ぎて、透悟しか見ていなかったから」
葡萄の実が潰れるような音が要人の体から絶えず聞こえる。黄泉醜男が肩に食らいつくと、青年は弱々しい苦鳴を漏らした。
「要人ぇ!」
八尋が信じられないという顔で次男の名前を叫ぶ。
黄泉醜男と揉み合っているうちに眼鏡を吹き飛ばされた要人は、父親よりも腹違いの兄の血筋に似ている双眸を寂しげに眇めた。
「お父さんも、伊織も透悟も、僕の事なんてどうでもいいんだ。だけど初めて貴女に会って、たった一瞬その目に僕を映した時……死んだお母さんが会いに来てくれたような気がした」
花と水の匂いに混じって血臭が広がる。
要人はごふ、と少量の血を吐くと、薄く笑った。
「だからずっと貴女を追いかけていた。凌の目の奥に貴女の面影を見つけてからは、少しでも彼奴の気を引こうとした。はは……自分で言うと、気持ち悪いぐらいお父さんそっくりな行動原理だな」
「要人、姉さんは――」
「ええ、さぞお父さんと僕を恨んでいる事でしょう。貴女にとっても、僕は憎い祁月八尋の息子に過ぎない。構いません……これが、僕の選んだ、僕の人生なんだから」
要人はひゅうひゅうと喉を鳴らしながら、「哭女!」と声を張り上げた。
「お望みの月桂の子の命をくれてやる! 僕ごとこの化け物を水に沈めろ!」
「相分かった」
哭女がふわりと袖を揺らすと、水中から青白く透き通る腕が幾つも伸びた。
細くしなやかな女の腕は黄泉醜男と要人の体に絡みつき、幼子を抱擁する母親のように彼らを水底へ引きずり込んでいく。
「母の
この上なく優しく哭女が告げる。
水に呑まれる寸前、要人は微笑むように瞼を閉じた。
黄泉醜男と要人が完全に没すると、とぷんと小さな波紋を一つ残して水面は沈黙した。
「凍鶴、今のうちに我が内侍を岸へ。これ以上体を冷やしては内侍の身が保たぬ」
「は、はい!」
哭女の指示に、凍鶴はそよぐの体を支えながら急いで水から上がった。
「手が止まっておるぞ、杣人ども。ほれ、早うわたくしを解き放っておくれ」
「言われなくても、今やる、よ!」
凍鶴に付き添われたそよぐが水から出た事を確かめた凌は、感情を振り払うように斧を振り上げた。
透悟が黙々と息子に続く。カァン、カァンと鳴り響く斧の音を打ち消さんとばかりに、八尋が濁った声で号泣する。
「あァ、ああああああああッ、ああああああああああああああああっ! 要人、要人ぇ!」
墨色の髪を振り乱し、白磁のように滑らかな頬を泥で汚した男は、充血した両目から滂沱の涙を流して慟哭した。
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だッ、要人が私を裏切る筈がない! あの子だけは、私を、私を見捨てて裏切る筈が……ッ」
「見苦しいですよ――父さん」
斧が振り下ろされる音の合間で、伊織は何十年ぶりかに父親を呼んだ。
水で出来た刃が幹を抉り、ベキベキと音を立てて月桂の老木が傾いていく。黒い葉がみるみる萎び、赤い花がざんざと舞い散る。
口を開けたまま呆けた八尋は、のろのろと長男の方を向いた。
父親よりも齢を重ねた伊織は隻眼を厳しく据えて、「父さん」と八尋に呼びかけた。
喜世は睫毛を伏せて、気遣うように夫の背中を支えている。
「もう二度と貴方を父と呼ぶつもりはありませんでした。ですが、透悟よりも年若い弟一人に祁月八尋の息子という重荷を押しつけてしまったのは私の落ち度です。要人もまた桂男の血に囚われ、呪いに苦しめられていた子だったのに……私は手を差し伸べてやろうとすら思いませんでした」
「何を……何を言っている。私の息子として生まれた事が要人を苦しめ、狂わせ、死なせたとでも言うのか!?」
「傲らないで下さい。要人は自分でけじめをつけたんです。祁月家の男として、そして一人の人間として」
伊織は、かつて八尋に潰された左目に触れた。
「あの子は死によって罪を償う事を選びました。私は弟の分まで――残された寿命を全うするまで、祁月家の生き残りとして、貴方の息子として、我が一族の咎と負い続けましょう。呪いが絶えたとしても、私たち桂男の過ちを決して忘れない為に」
八尋は涎を垂らした口元をわななかせ、ひくりと笑った。
「伊織……何故、何故そんな目で私を見る? 殺さんばかりに私を憎み、拒む、濔青と同じ目はどこへやった? 何故、私を哀れむような……違う、違う違うっ、それは濔青の目ではない!」
「そよぐさんが言っていたでしょう。私も、私の血を引く子の誰も、母さんの代わりにはならないと。母さんは――貴方の天女は、もう此岸の何処にもいないのですよ」
八尋は零れ落ちんばかりに目を剥き、絶叫した。
バキィ! と一際大きな音を立てて虚ろ桂から木屑が飛び散る。
地鳴りのような音が谷底に轟き、老木がゆっくりと倒れていく。
「ああ、何て事だ……ご神木が……!」
声を震わせる里人の眼下で、虚ろ桂が大きな水飛沫を上げて哭女ヶ淵に落ちた。
夕立のように大量の水滴が川原へ降り注ぐ。
冷たい飛沫を頬に浴びながら、そよぐは凌に向かって声の限り叫んだ。
「お兄ちゃん! 祠を――ぶっ壊して!」
ずぶ濡れになった凌は、肩で息をしながら透悟を見た。
透悟が静かに頷いてみせると、斧の柄を握り直して虚ろ桂の萎びた根を踏みしだく。
洞だった部分がUの字を描く奇妙な切り株の隙間に、びっしりと苔に覆われた石の祠が鎮座していた。
そよぐでも抱えられるほどのサイズで、天鵞絨張りの化粧箱のようにも見える。固く閉ざされた両開きの扉の内側からポタポタと水が滴り落ちていた。
「随分と窮屈な所に、自分の嫁さん押し込めやがって」
半ば水に沈んだ虚ろ桂を見遣り、凌はうんざりした声でぼやいた。
「千年も泣かせたんだ、愛想も尽きて実家に帰るってよ。……俺は手前の二の舞にならないよう、精々気を付けるさ」
振り上げられた水の斧が月光に蒼く煌めく。
「地獄に落ちやがれ――ご先祖様」
凌は一息に刃を打ち下ろし、祠を真っ二つに断ち割った。
銀の鏡が砕け散るような音が木霊する。
――滾々と、水が湧く。
――滔々と、水が走り出す。
強烈な解放感が脳裏を駆け巡り、そよぐは両手で口元を覆った。
涙が一粒、ぽろりと転がり落ちる。
自分の中に青く澄んだ水がなみなみと満ち溢れる。深く涼やかな水の香に包み込まれる。
一瞬体が軽くなり、泥のように纏わりついてた倦怠感がほんのり和らいだ。
内面に広がる仄暗い水面はそのままだが、まるで夜空から落ちてきた月を孕んでいるかのように水底まで青藍に透き通っている。
左右に倒れた祠の内側からゴボッ、ゴポポッ……と清らかな水が溢れ出した。
水はどんどん勢いを増し、哭女ヶ淵に流れ込む。澱んでいた水面が波立ち、徐々に水流が生まれる。
そよぐはハッと息を呑んだ。
破壊された祠の真上に哭女が浮かんでいた。銀色に瞬く夥しい数の涙珠に取り巻かれ、濡羽色の長い髪をゆらゆらと棚引かせている。
青白い美貌は歓喜に染まり、ゆるりと口の端を吊り上げて笑みを描いた。
「ほ」
雨垂れのように笑声が落ちた。
「ほほ、ほほ、ほほ」
「ほほほほ、ほほほほ、ほほほほ」
「ほほほほほほほほ、ほほほほほほほほ、ほほほほほほほほ」
「ほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほ――」
愉快で堪らないとばかりに笑い声のスコールを辺りに降らせた後、くるりと宙を蹴って逆さになる。
唖然とする凌の顔を覗き込み、血がこびりついた右頬を優しく撫でた。
「ようやってくれた。礼を言うぞ、我が末の息子よ。これで漸く、我が宿願を果たせよう」
「……あんた、空も飛べるのか?」
「ほ、ほほ、わたくしは水の司ぞ。水の気のように天つ風に乗る事など造作もない。ほんに、そなたは面白き男子よな」
逆さまの哭女の眼差しがそよぐを捉え、莞爾として笑う。
晴れ晴れとした穏やかな表情に意表を突かれていると、哭女はポンと凌の肩を叩いた。
「さあ、そなたの妻を迎えに行っておやり。疾く谷を登れ――うかうかしていると、水の流れに巻き込まれるぞ」
「流れって……うわ!?」
凌は素っ頓狂な声を上げた。
祠の残骸から湧き出したは足首まで達し、川原は忽ち水に覆われた。
「何がどうなってんだよ!?」
「封印が解けたんだ。哭女様の本来のお力が戻った反動で水の勢いが止まらない。凌、すぐに凍鶴さんと一緒にそよぐさんを連れて斜面を上がれ。俺はお袋と親父を連れて行く」
「わ、分かった!」
透悟の指示に頷くと、凌が一目散にこちらへ向かって駆けてきた。
「そよぐ!」
「……お兄ちゃんっ!」
凍鶴の腕の中からまろぶように飛び出すと、両手を広げた凌に抱き着いた。
勢いのまま抱き上げられ、逞しい腕でぎゅうぎゅう背中を巻き締められる。
嗅ぎ慣れた汗と水の匂い、微かに混じる血の臭い。凍鶴とは全く違う、燃えるように熱い体温を感じ、わっと涙が湧き上がった。
――凌は、生きている。
そよぐも生きている。生きて、彼の腕の中へ戻って来られたのだ。
「そよぐ、そよぐっ……良かった、無事で……本当に良かった……ッ」
頻りにそよぐの名前を繰り返す凌の声は、啜り泣くように震えていた。
胸を締めつけられるように堪らなくなり、そよぐは凌の肩にぎゅっとしがみついた。
「ごめん、お兄ちゃん……凌ちゃん……ごめんね」