盈虚の華燭〜嫁巫女は双子のような義兄に溺愛される 作:朱河なつめ
「二人とも、気持ちは分かるけど今は急いで!」
凍鶴の切羽詰まった声に我に返る。
凌は泣き濡れた目を瞠って母親を見つめたが、凍鶴の勢いに押されるがままそよぐを抱えて走り出した。
溢れる水はあっと言う間に虚ろ桂を飲み込み、渓流のせせらぎが谷間に鳴り響いている。哭女ヶ淵は水没し、千年ぶりに谷川が清浄な流れを取り戻した。
「凌、急げ! こっちだ」
先に斜面の上まで登っていた透悟が駆けつけ、凍鶴と共に疲労困憊の息子夫婦を引っ張り上げた。
谷底を見下ろす木立には、喜世に付き添われた伊織の姿もあった。木の幹に凭れ、安堵の表情で孫夫婦を迎えた。
「ああ……凌、そよぐさん……良かった、二人とも無事で」
「伊織さん、怪我は……」
凌の腕から下りたそよぐの問いに、苦笑いを返す。
「止血はしたから一先ず大丈夫だ。それより、そよぐさんの独断には全く肝が冷えたよ」
「……ごめんなさい」
「喜世が付いているからとは思っていたがね。しかし私はさておき、凌の立腹は中々手強そうだ」
凌の左手が逃がしはしないとばかりに右手を掴み、ギリギリと握り締められる。突き刺さる視線が痛い。
「あの……全部片付いたら、改めて謝りますので」
「言い訳ならたっぷり聞いてやるよ。なあ?」
「あはは……」
ちらりと横目で見上げた凌は穏やかに微笑みながら、黒曜石のナイフのような双眸が全く笑っていなかった。
果たして何日布団から起き上がれなくなるほど抱き潰されるのだろうかと思わず遠い目になっていると、ふと凌が表情を改めた。
「そう言えば、哭女……様は?」
哭女と言いかけたものの、透悟からじっとりと睨まれて敬称を付け足す。
「宿願が果たせるって言ってたけど、何をするつもりなんだ?」
「それは――」
言葉を選びあぐねていると、木立の奥から銃声が上がった。
「そよぐ!」
凌が気色ばんでそよぐを背に庇う。
そよぐ目がけて放たれた弾丸を水のリボンが中空で押し止めている。
凌とそよぐの周囲に幾つもの水のリボンを展開させた凍鶴は、凄まじい怒りに顔を歪めて狙撃者を睨んだ。
「諦めの悪い耄碌ジジイが、よくも……!」
「ひっ、ひぃ!」
猟銃を構えた男が蒼白になってぶるぶると震えている。
ようやく銃口を向けられて発砲されたのだと理解が追いつき、そよぐは青褪めて凌の背中にしがみついた。
冷ややかに目を眇めた透悟が何処からか水の斧を取り出し、男に向かって投擲した。
悲鳴を上げた男が猟銃を取り落とすと、回転する斧の刃がザンッと銃身を切断した。
勢い良く足元に斧が刺さり、男は尻餅を突いた。
「お前、楽に死ねると思うなよ」
透悟は不憫そうに男へ告げた。
「な……何を」
「山姫の巫女を手にかけようとしたんだ。山の恩恵に与ってきた者なら、山姫の恐ろしさは知っている筈だ」
「山姫の……!?」
男の目がそよぐを捉える。泥で汚れるのも構わず土下座すると、額を地面にこすりつけた。
「頼むっ、どうか命だけは……情けを、お慈悲を!」
「もう遅い」
透悟は男の懇願を切り捨てると、ツイと谷底の方を指差した。
どうどうと水流の唸りが聞こえる。
いいや――少しずつ
「迎えが来たぞ」
水飛沫を巻き上げて風が吹き荒れ、木々が大きくしなる。
凄まじい奔流が木立に迫り、打ち寄せた荒波が下生えを飲み込んだ。
波の下からずぶ濡れの女がずるりと現れる。
巫女の死霊は空っぽの眼窩を男に向けると、ニィと嗤った。
長襦袢の下半身は青白く透けて水と同化していた。まるで人魚のようだとそよぐは思った。
「あ、ああ……嫌だ、来るな! 来るなぁ!」
男が這いつくばって逃げようとする。再び押し寄せた波に乗った女は男の背中に飛びつくと、獲物を水の中へ引きずり込んだ。
「ああああああぁッ――……」
男の叫びは水流の咆哮に掻き消された。
「この荒れ具合だ、生きたままミキサーの中に放り込まれるようなものだろうな」
透悟の台詞に、凌は盛大に顔を顰めた。
「他の奴らも同じ末路って訳か」
「ああ。この水は真っ直ぐ里へ向かっている。山を突き崩しながら」
「ちょっと待ってくれ、親父! それじゃ里は……」
頬を強張らせる息子へ、透悟は鋭い眼窩を眇めた。
「山津波に呑まれて壊滅する。里人諸共な」
「里にいるそよぐの友達は!?」
凌の質問に答えたのは涼やかな女神の声だった。
「案ずる事はない、我が内侍の朋輩は生きて帰そう」
さながら天女の如く、月明かりを背にした哭女がふわりと一同の前に舞い降りた。
濡羽色の髪が領巾のように揺蕩い、涙珠の群舞がきらきらと明滅する。
水の闇を湛えた両眼が凌とそよぐを捉えると、嫋やかな笑みを描いた。
「無論、傷一つ付けぬとも。あの女子らに負うべき咎はないのだから」
そよぐは安堵の息を吐いた。
哭女は笑んだまま、娘や、と思念で囁きかけてきた。
――そなたの朋輩の身についてだが――……。
思わず硬直する。慌てて問い質そうとするが、伊織が哭女へ呼びかけた為にタイミングを逸してしまった。
「哭女様、父は……八尋はどうなりましたか?」
「うむ」
哭女は自ら作り出した懸河へツイと視線を投げた。
「
「我々の――ですか?」
哭女は鷹揚に頷いた。
「八尋を最も恨んでおったのはそなたらであろう。彼奴の罪過によって苦しみ抜いたのも、またそなたらだ。ならばその裁きは、そなたらに委ねるべきではないかと思うてな」
「裁きって……どういう意味だよ」
訝しむ凌に、哭女は冷酷な艶笑を見せた。
「生かしはせぬ。しかし、単に殺すだけではつまらぬだろう?」
「……糞ジジイの始末の仕方を俺達に考えろって?」
凌は鼻の頭に皺を寄せた。
哭女は意外そうに小首を傾げる。
「おや。興が乗らぬかえ」
「どう痛めつけて殺してほしいかなんて、少なくとも俺は考えつかねえよ」
青年の眼差しが窺うように両親と祖父母を見遣る。四人は凌同様、言葉にならない感情を滲ませながら黙り込んでいた。
凌はガシガシと頭を搔いた。
「まあ……息子や孫がけじめをつけたんだから、糞ジジイにも最後の当主らしく全部の責任を取ってからくたばれとは思う」
「成程」
哭女はきゅうと下瞼を持ち上げると、そよぐに視線を移した。
「我が内侍よ、そなたはどうだ?」
「あたしは……」
そよぐは眉宇を曇らせ、喜世と凍鶴に視線を向けた。
喜世は困惑混じりに苦笑し、凍鶴は憤りに表情を強張らせたままだ。八尋に対する憎悪は尽き果てる事はないが、凌の言葉に概ね同意している様子だった。
自分は、彼女達の後継である最後の巫女だ。ならば何を償いとして求めるべきか。
冷たく物悲しい、水の滴り落ちる音を思い出した。
「それなら――
そよぐの声が色味を変える。
凌が短く息を呑み、死霊の巫女達は虚ろな眼窩をひやりと眇めた。
「あの人がこれまで巫女達から搾り取ってきた変若水を、
「一滴も残さず、か」
「はい。あの人が我が物顔で啜り続けた変若水は巫女達の命であり哭女様のお力なんですから、綺麗さっぱり返してもらった方が良いと思います」
淡々と答えるそよぐに、哭女は思案げに「ふむ」と呟いた。
「それもそうよな。他の者も異論はないか?」
沈黙が結論だった。
女神の左手が懸河に向かって伸びる。掌を上向けると、クイと指先を内側に折り曲げた。
「
どうと水流が唸り、一際大きな波が木立に打ち寄せる。
泥濘んだ草地に男が一人、無造作に投げ出された。
体には青白く透き通った水の蛇が幾重にも絡みつき、ギリギリと全身を絞め上げている。
「がはッ……ぁ、ぐ……」
大量の水を吐いた八尋は、苦痛に顔を歪めながら瞼を開いた。
今日まで足蹴にし続けてきた親族に見下されている事に気付いた途端、くわっと血走った両目を剥いた。
「お前達……よくも祠を壊したな! 何をしでかしたのか一体分かっているのか!?」
「手前こそ、こんな状況になってまで自分がしでかした事の重大さに気付いてねぇのかよ。つくづく救いようがない糞ジジイだな」
心底辟易した曾孫の発言に、歯を剥き出しにして獣のように唸る。
凌は白けた目で曾祖父を睨んだ。
「よく見ろよ、ご当主様。手前が今、誰の前にいるのか――」
周辺の気温が急降下する。
霜が降りそうな寒気に、そよぐは胃の腑がギュッと縮み上がる感覚を覚えた。
「あ……?」
八尋の眼睛が上を向く。
ざわめく大気にうねる濡羽色の髪の影が差すと、青白い頬が恐怖に強張った。
「哭女……ッ」
八尋の真上を漂う哭女は、凄艶でおどろおどろしい微笑を広げた。
「八尋、驕慢なる月桂の
「なんだと?」
山姫の左手が満月を衝くように天を指す。
嫋やかな指先に群れる水の玉が一斉に仄青く瞬き、ゆっくりと大きさを増していく。
「あ……ぁ、な……アぁっ!?」
驚愕の表情を浮かべた八尋が舌を突き出して悶え苦しみ始めた。
――まるで一人の人間の老化現象を早送りで見ているようだった。
墨色の髪が霜を被ったように白くなり、疎らに抜け落ちて頭頂部が禿げ上がる。白磁の如く滑らかな皮膚が急速に張りと弾力を失い、数え切れない皺とシミに覆われる。
痩せ衰えた歯茎からポロポロと歯が零れ、涎が嚥下出来ず激しく噎せ込む。筋肉を失った手足は枯れ枝のように細く、関節が拘縮して内側へ丸まるように屈曲してしまった。
「あああッ、がほっ、ばああああああっ!!!」
自分の唾液に噎せ返りながら、八尋は白濁した眼睛をギョロギョロと蠢かせて嗄れた奇声を上げた。
糞尿を垂流したのか、ズボンの股間にシミが広がって不快な臭気を放っている。
「ざまあみやがれ」
透悟が冷ややかに呟き、声もなく泣き崩れた凍鶴の肩を抱き寄せた。
「ほ、ほほ。よくまあ、身の裡にこれほどの水を溜め込んでいたものだ」
哭女は呆れたように笑った。
女神の周囲を漂う水の玉は満月よりも大きくなり、月明かりを吸い込んで球形の水面を揺らめかせている。
「時の流れを押し止め、然るべき老いから逃れ続けた報いだ。花の定命を覆せると思うたかえ、浅ましき人の子よ。ああ……最早目も耳も使い物にならなくなってしまった故、告げても詮なき事であったな」
哭女は哀れむように柳眉を曇らせると、左手を懸河の方へ向けた。
「水は全て返してもらった。そなたも逝くが良い、八尋」
ざぁんッと水飛沫を上げて死霊の巫女が二人、波の下から現れた。
下半身が水に同化した巫女達は哭女に向かって恭しく一礼すると、八尋を抱え上げて激流の中へ飛び込んだ。
どうどうと水流の唸りが木霊する。
水飛沫を吹き上げる風が木立を駆け抜け、満月が照らす夜空の眩しさにそよぐは目を細めた。
やがて伊織が深々と息を吐いた。哭女に向き直り、頭を下げる。
「哭女様……最後までお手を煩わせた事をお詫び申し上げます」
「良い、気にするな」
哭女は笑って首を横に振ると、「さて」と言った。
「我が眷属は、今ここにいるそなたらを残すのみとなった」
重々しい沈黙が落ちた。
凌は瞳を揺らして両親を凝視している。思わず彼の左手に右手で触れると、きつく握り締められた。
苦悩に表情を歪めた凍鶴が口を開く。
「わたし達巫女の魂と引き替えにお力を振るって頂けるというお約束でしたね」
「然様。約定を違えれば、我が憑坐たる内侍が代償を払う事になる」
「承知しています。これ以上、そよぐに負担を強いる訳にはいきません。ただ……」
妻と顔を見合わせた透悟は大きく頷いた。
「哭女様。母を父や子供達の許に残して頂く事は出来ないでしょうか」
「透悟!? いきなり何を――」
喜世が驚いた声を上げる。
夫の台詞を継いだ凍鶴が義母へ語りかけた。
「お義母さんには哭女様の眷属として、これからもそよぐと凌を助けてあげてほしいんです。哭女様の御名を取り戻し、本来の御座所を探し出してお連れする為に危険な目に何度も遭う筈でしょうから」
「お袋の分は俺が肩代わりするよ。巫女じゃないが、眷属である事には違いない」
透悟の申し出に、喜世は呆然と夫を仰いだ。
伊織は妻の肩を抱いて微苦笑した。
「透悟達の覚悟は決まっているようだ。気が引けるのなら、私の余生に付き合うつもりで孫達の力になってやってくれないか」
「貴方……」
「門弥の爺様には及ばないだろうが、私もあと十年二十年は生きるだろう。その間だけでも二人を支えてやってほしい」
喜世は途方に暮れた顔で哭女を見た。
面白そうに子孫達のやりとりを眺めていた哭女は、莞爾として笑んだ。
「わたくしは構わぬぞ。凍鶴と透悟の魂で帳尻は合う。そなたが現世に留まった方が我が名と水源をいち早く取り戻せると言うのなら、喜んで我が内侍の助けとなっておくれ」
「哭女様まで……」
喜世は困惑と喜びが入り交じった表情を浮かべ、そよぐの方へ振り向いた。
そよぐは大きく頷いた。
「あたしも、喜世さんが付いていて下さったら心強いです」
喜世はキュッと口を引き結び、泣きそうな顔を伊織の胸に伏せた。
「哭女様、本当にありがとうございます」
深々と頭を下げた透悟と凍鶴に、哭女は軽く頭を振った。
「礼など不要だ。……気が済むまで、子らとの別れを惜しむが良い」
哭女はトンと宙を蹴り、月が沈み始めた暁降ちの空へと舞い上がった。
白々と輝く満月を背に銀色の涙珠を纏った哭女の姿はまさに天女そのものだ。上空に移動したのは、子孫達が気兼ねなく今生の別れを済ませられるようにという彼女なりの配慮らしい。
「凌」
透悟が穏やかな声で息子を呼んだ。
凌はそよぐの手を引いて両親に歩み寄った。凍鶴は顔をくしゃくしゃにして泣いている。
透悟の右手が凌の左頬に触れ、次いで黒髪を掻き混ぜるように撫でた。
「元気でな」
「……、うん」
「そよぐさんの事をしっかり守るんだぞ」
「うん」
「困ったら親父とお袋を頼れ。もう俺達は助けてやれない。どんな卑怯な手を使っても良い、少しでも長く生きて、幸せでいてくれ」
凌の唇が細かく震え、父親を見つめる双眸から涙が零れ落ちる。
「うん」
透悟は眉尻を垂らして微笑んだ。
「俺の息子に生まれてきてくれて、ありがとう」
凌は口を真一文字に引き結んで俯いた。
透悟の眼差しが隣のそよぐに移る。反射的に背筋を伸ばすと、義父は両目を細めた。
「そよぐさんには感謝してもし切れません。……凌を頼みます」
「はい、任せて下さい!」
そよぐは力強く頷いた。
透悟は口元を綻ばせると、傍らの妻に声を掛けた。
「凍鶴さん」
夫に背中を押された凍鶴がよろめくように進み出る。青白い両手が伸びて、自分よりも大きな息子を抱き締めた。
凌は息を呑んで硬直した。
そよぐがそっと手を離すと、恐る恐る母の背中に両手を回す。
「凌、凌ッ……ごめん、今までごめんねぇ……っ」
凍鶴は凌にしがみつき、嗚咽混じりに謝罪を繰り返した。
「寂しい思いも、辛い思いも、沢山させてごめんね。本当は側にいてあげたかった。貴方が大きくなっていく所を、ずっと見ていたかった!」
凌は何度も瞬き、ぎゅうと眉根を寄せた。
「もう良いよ……お袋。謝らなくて良いよ」
「でもっ……でも!」
「寂しい事も辛い事も確かにあったけど、一人じゃなかったよ。お袋がそよぐを俺に残してくれたから、一人じゃなかった」
凌の手が躊躇いがちに凍鶴の背中を撫でさする。
「何度も生まれてきた事を後悔したよ。なんでこんな人生を与えられたんだって、巫山戯るなって、何度も思ったよ。でも、今日まで生きてこられたよ」
凍鶴はひぐ、と喉を鳴らし、青褪めた瞼を震わせた。
凌は泣きながら笑った。
「生きてきて良かったって、正直に思えるのはお袋のお陰だよ。俺より何倍も大変な目に遭って、親父が死んで一人になっても俺の命を諦めずにいてくれたから、ここまで来られたんだ」
「しのぐ……」
「誰が何と言おうと、俺はお袋に感謝してる。俺を生んでくれて……ありがとう」
凌はちょっと恥ずかしそうに間を置いて、母を呼んだ。
「母さん」
凍鶴は空っぽの眼窩を瞠ると、声を詰まらせて息子の胸に泣き伏した。
号泣する凍鶴の姿に思わず貰い泣きしていると、ぽんぽんと頭を優しく撫でられた。
視線を持ち上げると、穏やかな表情の透悟と目が合った。
父親らしい仕草が養父を彷彿とさせ、そよぐは口を波打たせた。
――『おとうさん』と呼べる人を立て続けに二人も失うのだ。そして、『おかあさん』も。
悲しみが果てなく湧き上がり、涙になって溢れ落ちる。
子供の頃のように声を上げて泣いても良いのだと分かっていても、今堪えなければこの先何時か折れてしまう気がした。
「そよぐ!」
凍鶴に呼ばれたかと思うと、豊満な胸元にぎゅうッと抱き込まれた。
「い、凍鶴さ……」
「本当にありがとう、そよぐ」
凍鶴は小柄な娘の体を掻き抱き、泣き濡れた声を震わせた。
「わたしね……貴女をわたし達の因縁に巻き込んでしまって、シーリアに申し訳がないと思っていたの」
「そんな事――」
「でも貴女が『お母さん』って呼んでくれた時、これで良かったんだって分かったのよ」
体温のない掌が両頬を包み込む。
そよぐは義母の手の甲に両手を重ね、きゅっと握り締めた。
氷の粒のような涙がそよぐの手を濡らす。凍鶴は落涙しながら微笑んだ。
「だから、ありがとうとだけ言わせて。凌にも謝るなって言われちゃったしね」
彼女の名前を呼ぼうとして、そよぐはそっと言葉を変えた。
「お母さん」
凍鶴の唇が微かにわななく。
そよぐの輪郭を確かめるように繰り返し頬を撫で、再び抱擁した。
柔らかな乳房に頬を寄せても鼓動は聞こえない。
神すら踏み越えられぬ生と死の垣根の高さを思い知る。そよぐに出来るのは義父母や亡き巫女達の為に涙し、安らかな眠りを祈る事だけ。
――それで良いのだ、娘よ。
哭女の思念が優しく囁く。
――それこそがそなたの役目。魂振りの
青く澄んだ水面に、雨垂れが滴るように小さな波紋が幾つも浮かぶ。
何処かで聞いた子守唄にも似た水の調べが清かに胸を満たし、そよぐは不思議と勇気づけられた気持ちになった。
「大丈夫」
死者を悼み、心残りなく黄泉路へ旅立てるように、祈りと希望を込めて別れを告げる。
凍鶴の娘として、凌の妹として。
「大丈夫だよ、お母さん。そよぐもお兄ちゃんも、もう大丈夫」
しっかり凍鶴を見つめて笑いかけると、凍鶴は何度も何度も頷いた。
もう一度抱き合い、母と娘は名残惜しくも離れた。
透悟と凍鶴が寄り添い合うと、彼らの前に哭女が軽やかに着地した。
銀涙の領巾が揺らめき、ふわりと二人を取り囲む。沈みゆく月の光に染まり、プラネタリウムのような星屑が仄青く浮かび上がった。
「暇乞いは十分に済ませたかえ」
哭女の問いに、透悟と凍鶴は満ち足りた笑みを見せた。
そよぐは凌と手を繋ぎ、哭女の背中越しに義父母と眼差しを交わした。
どんな言葉よりも雄弁な、健やかに幸せであれと願う愛だけがあった。
「では――約定を果たそう」
哭女は溜め息を吐くように告げた。
銀涙の領巾を纏った袖がひらりと閃く。涙の星々が眩く明滅する。
ぱしゃんッと水音が弾けた。
透悟と凍鶴の体は一瞬で無数の水の玉となって飛び散った。
「……ッ」
凌が掠れた声を漏らす。
背後から伊織の嗚咽が聞こえてきた。苦しいほど胸を締めつけられ、そよぐは唇を震わせた。
「逝っちまった」
凌がぽつりと呟いた。
「二人とも――笑ってたな」
「うん」
涙を拭おうとして、その必要はないのだと悟る。
泣いて泣いて、哀しみは水に流すのだ。
再び立ち上がり、明日を向いて生きる為に。
「きっと安心したんだよ。呪いも祟りもお終い。もう誰も恨まなくていいんだから」
そよぐの言葉に、凌は泣き笑うように微笑んだ。
繋いだ手に力が籠もる。
永遠の約束のように、そよぐは同じ強さで凌の手を握り返した。