盈虚の華燭〜嫁巫女は双子のような義兄に溺愛される 作:朱河なつめ
凌に「忘れろ」と言われるのは、二度目だ。
――忘れようにも忘れられる訳がない。
何しろ、哭女は日に一度は必ず格子の向こうに現れて囁きかけてくるのだから。
「こ、こ、こ、こ、こ……」
「いまし」
「まれびとのないし」
「あがいぬるふちへ、こ」
「あがみときはなて」
あれから三日、確認した限りでは哭女はこれらの言葉のみ発していた。
凌と一緒にいる時に現れても、彼女はそよぐにしか認識出来ないようだ。
一人きりの時に現れた際、恐る恐る話しかけてみたが、お決まりの台詞を淡々と繰り返すだけだった。
毎日顔を突き合わせていると慣れてくるのか、恐怖は感じるものの、そよぐは何とか哭女の訴えを理解したいと思うようになった。
――凌の前では到底口に出来ないが。
一ヶ月続く祭の間、巫女は毎日欠かさず桂男役に抱かれなくてはならない。桂男役の子種を胎に受ける事で月の紋が盈ち、盃である巫女の身が変若水で満たされるからだ。
祭の間、巫女が妊娠する事は万が一にもないという。正式に嫁巫女として祁月家に迎えられた女だけが桂男の血筋を次代に伝える栄誉を授かるのだ――祁月家の口伝を語る凌の表情は、身が竦むほど冷めていた。
この三日間、凌はずっと怒っている。
表面上は朗らかで、そよぐを抱く時には理性をぐずぐずに溶かし尽くすように慈しむ。しかし腹の底ではずっと怒りの感情を燻ぶらせているのだと、そよぐには分かった。
臍を曲げると、中々機嫌が直らない。それを周囲には悟らせず一人で抱え込むから尚更質が悪い。
子供の時から変わらない兄の頑なさに、さてどうしたものかと思案する。
「そよぐ、飯」
濃鼠色の着流し姿の凌は格子の戸口を潜り抜けると、小さな膳を掲げてみせた。
日に三度の食事を運んでくる役目を始め、巫女の身の回りの世話は桂男役が一手に担うしきたりらしい。検分や牢内の清掃などで下男がやって来る時もあるが、全て凌が立ち会っている。
提供される食事は、山間の旅館に泊まっているような滋味溢れるご馳走だ。お抱えの料理人が腕を振るっているらしく、人生で味わった中で一、二位を争うほど美味い。
――養母の手料理が恋しかった。
そよぐの為にたっぷり砂糖を入れて焼いてくれる、お日様みたいな黄色の卵焼き。
「ごちそうさまでした」
膳を綺麗に平らげると、そよぐは両手を合わせて箸を置いた。
食後の白湯を飲んでいると、向かい側で胡座をかいた膝に頬杖を突いた凌は目を細めた。
「お前、綺麗に食べるようになったな。昔は食べこぼしがひどくて、箸もグーで握ってたのに」
「あぁ……植村の家に引き取れてから、一から全部教えてもらったんだよ。ママ……お
「厳しい家なのか?」
「ううん、普通の家庭だよ。血が繋がっていないあたしの事を本当に大切にしてくれて……大学まで行かせてくれた」
話しているうちに養父母の顔が浮かび、胸が締めつけられるように痛んだ。
夏休みになったら帰っておいでと言われていて、今回のアルバイトが終わったらすぐに帰省する予定だった。約束の日を過ぎても帰らず、音信不通になってしまい、どんなに心配を掛けていることだろう。
唐突に涙がぽろりと転がり落ち、そよぐはびっくりして固まった。
涙は後から後から溢れてくる。凌が表情を変えてそよぐにいざり寄った。
「そよぐ」
「ごっ、ごめんね、急に涙が止まらな――」
濃鼠色の袖に抱き締められた。
途端に悲しみが泉のように湧き上がり、そよぐは顔をくしゃくしゃにした。
「……帰りたい」
凌の体がぎくりと強張る。離さないとばかりに巻きつく腕が苦しい。
「うちに帰りたいよ……」
「なあ、そよぐ。俺じゃ――駄目か」
自分より余程苦しそうな凌の問いに、そよぐは泣き濡れた睫毛を上下させた。
「俺が側にいるだけじゃ、駄目か?」
「お兄ちゃん?」
訝しんで凌の頬に手を伸ばす。
青年は初めてまぐわった時に見た、儚い薄氷のような表情を浮かべていた。
「今更そよぐを手放すなんて、俺にはもう出来ない」
凌の左手が白い長襦袢の背中を彷徨う。右の脇腹に移動し、腋下に空いた身八つ口からするりと潜り込んできた。
「ひあッ!?」
そろそろFカップの域から外れようとしている乳房を掌で包まれ、柔々と揉みしだかれる。
そよぐは肩を震わせ、着流しの胸元に縋りついた。
甘美な刺激を受けて乳首が固く凝る。身をよじると左の乳房が重たげに揺れて、薄い布地をツンと押し上げた。
凌の右手が長襦袢の上から膨らみに添えられ、指先で乳首の尖りをカリカリと引っ掻かれた。濃鼠色の布地を掴むそよぐの手がぶるぶるとわなないた。
「あァッ、お兄ちゃんっ、やあァ!」
凌は仰け反った白い喉元に口づけた。
黒曜石のナイフめいた双眸が烟るように細くなる。
「
「は……あっ、や、ひろ?」
「憶えてるか? 十三年前、俺を迎えに来た不気味なぐらい若々しい男だよ。祁月八尋――もう七十年以上当主の座に収まっている
幼い自分へ石ころを見るような目を向けてきた男性を思い出す。
当時、三十代前半に見えたが――凌によれば、今も十三年前とほぼ変わらぬ容貌をしているという。
「曾祖父って、まさか……お爺さんの父親!?」
「ああ。八尋のジジイは毎日欠かさず変若水を飲む事で若さを保っているんだ。俺の母親を探し出して里に連れ戻したのも……自分の不老の為だったんだよ」
凌の表情が怒りに――激しい憎しみに歪む。
「あの糞ジジイは俺の母親に……孫の妻だった女に、自分の嫁巫女になって子供を産めと迫ったんだ」
悍ましい事実にそよぐは絶句した。
凌は項垂れるようにそよぐの肩に額を寄せた。濃鼠色の肩が微かに震える。
「俺の母親は、監視の隙を突いて山に逃げた。そのまま――哭女ヶ淵に身を投げた」
凌の両手がぎゅうと双乳を掴む。そよぐは吐息を噛み殺し、凌の頭を抱き締めた。
「……伊織爺ちゃんが言ってたんだ。哭女は巫女の死の予兆だって」
「死の、予兆?」
「哭女に魅入られた巫女は呼ばれるんだよ。俺の母親も哭女の姿が見えたんだ。爺ちゃんの嫁巫女だった婆ちゃんも同じで……最期は、哭女ヶ淵に沈んだって」
凌の母や祖母だけでなく、これまで多くの巫女や嫁巫女が哭女の姿を見るようになった末、哭女ヶ淵で入水自殺を遂げた。
故に沢鳴集落では、哭女は里の宝である嫁巫女を祟り殺す存在として忌避されてきたのだ。
「俺を迎えに来た糞ジジイが言ったんだ。どうしてもそよぐを一緒に連れて行くって言い張るなら、いずれ巫女にするなら考えてもいいって。その代わり、俺の母親と同じ死に方をするかもしれないなって……嗤ってやがった」
――そよぐだけは駄目だと叫ぶ、幼い兄の声が甦る。
そよぐは崩れ落ちるように虚脱した。引いていた筈の涙が再び込み上げる。
「お兄、ちゃん」
六歳の凌は、どんな思いで叫んでいたのだろう。
実の妹でもないそよぐを、今のそよぐよりも小さな背に庇い、必死に人でなしの肉親から守ってくれたのだ。
植村家で過ごした十二年の平穏と幸福は、凌の献身の上に築かれたものだった。
「おに、ちゃ……お兄ちゃんッ、ごめん、ごめんねっ」
咽び泣くそよぐの胸に顔を埋めた凌は、小さく頭を振った。
「そよぐが謝る必要なんてないだろ」
「でも、あたし、何も知らないでのうのうと……!」
「それで良かったんだ。俺の事なんか忘れて、外の世界で幸せでいてくれたら……それだけで良かった筈なのに」
長襦袢の胸元が緩み、ぷるりと豊満な乳房がまろび出る。
凌の愛撫に尖った右の乳首を舐られ、そよぐの腰がびくんと跳ねた。
「お前と再会して、俺に抱かれたいって……好きだって言われて、お前が欲しくて欲しくて堪らない」
「ん、ぁ……ふ、お兄ちゃんっ」
「自分の中にこんな独占欲や執着心があるなんて知らなかった。お前を誰にも見せたくない。安全な場所に閉じ込めて、一生俺の事だけ考えていてほしい」
双乳を優しく揉まれながら左右の乳首を代わる代わるしゃぶられる。膝がガクガク震え、凌の頭を抱え込んで身悶える。
太腿は愛液でしとどに濡れそぼり、長襦袢の膝も湿っていた。
丸く張った尻がくねくねと踊っている。再度右の乳首に吸いついた凌は左手を後ろへ回すと、長襦袢の裾をしゅるりと捲り上げた。
「ンあァ!?」
尻たぶを撫で回された後、足を開かされて尻の割れ目を押し広げられる。
長い指が蟻の戸渡りをあっという間に這い進み、潤んだ陰裂へずぶりと挿し込まれた。
「ふっ、くぅ――ッ!!」
凌の左腕が右の太腿を挟み込んで腰を引き寄せる。青年の大きな掌は容易く陰裂を覆い、指の数を増やしてぬちぬちと膣を犯し始めた。
乳房への責め苦は勿論続行中で、そよぐは声も立てられず断続的に潮を噴いた。
凌の口は乳首だけでは飽き足らず、乳房の谷間を舐めたり膨らみに歯を立てたりもした。デコルテには幾つもキスマークや噛み跡が残され、白い肌に薄赤い花弁を散らしたようだった。
細波のような絶頂に女體がくずおれる。凌の左手の指が奥深くまで沈み込み、ぽたぽたと小水が滴った。
「そよぐ……」
甘く掠れた声に呼ばれ、下から唇を重ねられた。
息を吹き込まれるようなキスに子宮がずくずくと脈打っている。そよぐは頬を上気させて呟いた。
「おにい、ちゃんの……」
「え?」
「手じゃなくて――お兄ちゃんの、おちんちん、が、いい」
凌が目を真ん丸にして固まった。
そよぐは身を起こすと、もたつく手で長襦袢の裾を引っ張り上げて帯の中に押し込んだ。
眩しいほど白い、程良く肉付いた下半身が凌の眼前に晒される。
マーキングだらけの首元が視界に入り、急に恥ずかしくなって長襦袢の衿を引き上げた。散々虐められた乳首が布地に擦れて疼き、ちょっと考えてから左右の身八つ口から乳房を引っ張り出す。
「そっ、よぐ、おま……なん、なんて格好……」
赤面した凌の狼狽えぶりがおかしくて笑ってしまう。これ見よがしに剥き出しの乳袋をぷるりと弾ませ、凌の首に両腕を絡めた。
「うちに帰りたいのは本当。でも、お兄ちゃんとずっと一緒にいたいのも本当」
「……そよぐ」
「他の誰のものにもならないように、そよぐを、お兄ちゃんのお嫁さんにして?」
凌が呑んだ。
そよぐは青年の股間を見つめ、裏葉柳の瞳を眇めた。濃鼠色の布地を押し上げる屹立の膨らみを左膝で軽く押してみる。
「――ッ、ぐっ」
凌の肩が大きく跳ねた。
右足に巻きついていた左腕が自然と緩む。足を広げると、左手の指を押し出した陰裂がくぱりと花開いた。
「お兄ちゃん、好き。大好き」
「は、ぁ……っ」
「そよぐの全部、お兄ちゃんにあげる」
苦しげに震える唇にキスをすると、激しい勢いで食いつかれた。
凌が着流しの裾をはだけると、ぶるんッと陰茎が飛び出した。
両腿を抱えられて爪先が浮き上がる。血管を浮き上がらせた肉棒がずぶずぶと膣に潜り込んでいく。
「ひ、アぁ」
鈍重な動きで恥骨の裏側やポルチオを抉られた。亀頭部がぐぽんッと子宮口にめり込み、内臓を圧迫する。
そよぐは凌の頭にしがみつき、止め処ない絶頂に打ち震えた。
身八つ口に括られてはちきれそうな巨乳の谷間をぺろりと舐め、凌は微笑むように目を眇めた。
「そよぐ、可愛い」
「ああ……ッ、お、にぃちゃ、あっ、ふ……うっ」
「お前と血が繋がってなくって良かったって心底思うよ。堂々とお前を抱いて、俺のものに出来るんだから」
ひしゃげた乳肉に噛みつかれ、乳頭部をちろちろと舐め回される。時折腰を揺すられると、見開かれた裏葉柳の瞳から透明な涙が零れ落ちた。
「可愛い……可愛いなぁ、そよぐ。好きだなんて言葉じゃ足りないくらい、気が狂いそうなくらい、愛しいよ」
そよぐは泣きながら凌と唇を重ね合わせた。
自分の中では兄妹の親愛と男女の渇愛が複雑に入り交じり、単純に切り離す事は不可能だ。十九年、離れ離れだった間さえ変わらずそよぐを愛し続けてくれたこの人を、地獄の淵に置き去りにするなど出来る筈がない。
――親不孝者でごめんなさい。
心の中で養父母に詫びたそよぐは、凌の肩越しに格子の向こうの闇を見据えた。
水の滴り落ちる音が冷たく響く。
青白い女の影が暗がりに佇んでいた。
哭女は水で満たされた二つの眼窩をじっとこちらに向けていた。
「こ」
いつものように澄み切った声が囁く。
ふと、そよぐは大学の受験勉強で必死に覚えた古文のカ行変格活用を思い出した。
進学塾の講師がホワイトボードに書いた、「こ・き・く・くる・くれ・こ(こよ)」という呪文のような言葉。
「
ただただ流れていく透明な水のようだった哭女の声が、脳裏で鮮やかな輪郭を形作る。
「
「
「吾が身解き放て」
そよぐの表情に何かを察したのか、哭女は更に言葉を継いだ。
「
「吾は此の地に居るまじき者」
「吾が身還せ、吾が
「吾を籠めし
哭女がすっと左手を上げ、凌を指差した。
「汝が
「来、来、来、来、来……」
青白い姿が水鏡のように揺らぐ。
哭女が消えてしまうと思ったそよぐは、声を張り上げた。
「待って!」
凌の動きが止まった。
哭女が緩慢に瞬く。文字通りの澄まし顔に腹が立ち、情事の最中である事も忘れて怒鳴った。
「貴女が哭女ヶ淵に囚われていて、本来の居場所に帰りたがっているのは分かったわ。だからって頼み事をするには勝手過ぎない!? 毎回言いたい事だけ言ってさっさと消えて、しかも言葉が古過ぎて分かり辛い! せめて現代語訳しなさいよ!」
「そ、そよぐ?」
「お兄ちゃんはちょっと黙ってて!」
目を白黒させている凌に構わず、そよぐはキッと眉を吊り上げた。
「しかもホラー! 平成のジャパニーズホラー感丸出しの過剰演出! 眼球の代わりに水が溜まってるってどういうこと? それで延々と『こ』しか言わなかったら、異常に怖がられて意図を曲解されても仕方ないわ!」
哭女は小首を傾げると――
両目を細め、はんなりと口角を持ち上げる。
思いがけず穏やかな表情に、そよぐは面食らった。
「汝、おかしき女子」
「……あたしが面白いって事?」
「
哭女は濡れた袖で口元を隠し、高貴な佳人のような笑声を漏らした。
「ほ、ほほ」
「幽霊に馬鹿にされた!?」
「――そよぐ」
弓の弦のように張り詰めた凌の声が意識を引き戻す。
全身を緊張させ、彼は低く唸った。
「さっきからお前と話している女は……誰だ?」
「お兄ちゃん、聞こえるの?」
驚いて尋ねると、苦り切った顔が横目で頷いた。
「えらく時代がかった言葉遣いの女が、耳元でひそひそ話しかけてくるみたいな喋り方してやがる」
「……哭女が、牢のすぐ外にいるの。今は、なんか……ツボってる」
「……マジかよ」
凌は頭を抱えそうな表情で呻き、そよぐの中から若干勢いが衰えた陰茎を引き抜いた。
手早く自分とそよぐの着物を整えると、そよぐを長身で隠すように抱き寄せながら振り返る。
哭女を映した漆黒の瞳が見開かれ、しかしすぐに険しく睥睨した。
凌をとっくりと眺めていた哭女は、口元を袖で覆ったまま囁いた。
「
「は?」
「汝、
凌の喉がひゅうと音を立てる。
「なんで……親父とお袋の名前を……」
「汝が
そよぐを抱く腕が震える。凌はきつく目を伏せると、「あぁ」と笑うような声を漏らした。
「お袋を逃がした後――親父は、哭女ヶ淵に沈められたのか」
「お兄ちゃん」
そよぐは凌の背中を抱き返した。そうしないと、青年は今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
「もしかして、とは思ってたんだ。祁月家の墓には親父の名前もお袋の名前も入っていない。……伊織爺ちゃんの部屋に、何も書いてない、小さい位牌だけあるんだ」
「それって――」
「八尋のジジイに逆らった見せしめに、菩提を弔う事すら許されなかったんだよ。哭女ヶ淵に沈んだ死体は二度と上がって来ない……親父もお袋も、あの淵の底に今もいるんだ」
胸が張り裂けそうに痛い。
そよぐは涙を浮かべて哭女を見た。口元から袖を離した哭女は、暗い両目を冷ややかに眇めた。
「稀人の内侍」
「杣人と共に、吾を籠めし洞なる獄を毀て。驕慢なる月桂を
青白い美貌が渦を巻くように捩じれ、ギュルリと歪む。
悍ましいほどの憎悪を湛え、人外の女は告げた。
「吾が恨み、
悲鳴を呑み込んだそよぐの背中を撫でながら、凌は冷静に尋ねた。
「お前、一体何者なんだ?」
面を捩じらせたまま、哭女はぽそりと呟いた。
「忘れたり」
「吾が名忘れたり」
「幾年
「あな悲しや」
歪んでいた顔が逆回転して元に戻ると、哭女ははらはらと涙を落とした。「悲し、悲しや」とさめざめと繰り返す。
濡れそぼった袖が嘆きに暮れる面を覆い隠す。
哭女の体がぐにゃりと崩れ、大量の水となって飛び散った。
暫く水溜まりが火明かりを映して揺らめいていたが、瞬きの間に掻き消えた。
凌がどっと息を吐いて脱力する。
「何なんだよ……あれ」
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「大分寿命が縮んだ気がする。……お前、よくあんな化け物に喧嘩売ったなぁ」
「だ、だって腹が立ったんだもん」
そよぐの言い分に小さく噴き出すと、凌は彼女を抱えたままごろりと転がった。
「でも、確かに平成のジャパニーズホラー感全開だったな。ザ・怨霊って感じのビジュアルで」
「……本物の怨霊だけどね」
げっそりしてぼやくと、凌の左手が頬を撫でた。
「あれは――忘れられない。逃げられない、な」
静かな絶望を語る凌の手に右手を重ねる。そよぐは真っ直ぐ眼差しを向けた。
「あたし、逃げるつもりはないから」
「……そよぐ」
「哭女の言う通りだよ。こんな最低で最悪な家、ぶっ壊しちゃえばいい」
「どうやって?」
「まだ分かんない、けど……哭女が諦めず巫女へ訴え続けてきたのは、きっと可能性があるからなんだよ」
凌は黙り込んでいたが、ふ、と息を漏らして笑った。
「思い切りの良さは昔っからだな」
涙の跡が残る頬を舐められ、思わず目を瞑る。
凌はそよぐに覆い被さるように体勢を変えると、滑らかな額に口づけを落とした。
「いつもお前に勇気を分けてもらってた」
「そう……だっけ?」
柔いキスを交わしながら、凌は囁いた。
「伊織爺ちゃんなら何か知ってるかもしれない。訊いてみよう」
「でも……いいの?」
「親父とお袋の復讐を一番果たしたいのは、爺ちゃんだろうから」
凌の左手が首筋を辿り、長襦袢の衿を寛げる。
熱を灯すように乳房へ触れる掌の感触に背を反らし、そよぐは薄く瞼を開いた。
清い水面のような瞳から、一筋の涙が仄かな光となって流れていった。