※この作品はR-18です。

銀の蛹は34℃の殻で微睡む R-18版   作:餡穀

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本編27話のクリスマスの日にあった話です


陽だまりの伽話
聖夜の微睡みと融け合うふたり


 時計の針が夜の九時を回る頃。駅前の巨大なクリスマスツリーを彩っていたイルミネーションの光が、少しだけ落ち着いた色合いへと変わった。周囲を埋め尽くしていたカップルや家族連れの波も、少しずつ家路につくために駅の改札へと吸い込まれていく。

 

 「……そろそろ、駅に向かおうか。カヤさん、ずっと歩きっぱなしだったし」

 

 皓二朗が繋いだ俺の右手を自身のオーバーコートのポケットに入れたまま、気遣うように覗き込んで言った。アスリスによる極端な虚弱体質と平熱34℃という寒さに弱すぎる俺の身体を慮っての提案だ。普段の俺なら「そうだな、限界だ」と即答して帰りの電車に乗っていただろう。

 

 けれど今日だけは。俺はポケットの中で彼の大きくてごつごつとした指をギュッと強く握り返した。

 

 「……いやだ」

 「え?」

 「まだ帰りたくない。……もう少し、一緒にいたい」

 

 マフラーに口元を半分埋めながら上目遣いで呟くと皓二朗は少し驚いたように瞬きをし、それからひどく嬉しそうに目尻を下げた。

 

 「そっか。……じゃあ、うちに来る? カヤさんがよければだけど」

 「だめだ、お前の家にはご家族がいるだろ。こんな時間から上がり込んだら迷惑になる」

 「それならカヤさんの家にする? アパートなら駅から近いし……」

 「それもだめ。今日はお母さんが久しぶりに早いシフトで帰ってくるんだ。仕事で疲れてるのに俺たちがいたら気を使ってゆっくり休めないだろ」

 

 俺が立て続けに却下すると皓二朗は「うーん」と困ったように首を傾げた。

 

 「なら、どこかのカフェにでも入る? でも、この時間はどこも混んでるだろうし……」

 

 (……この、鈍感野郎め)

 

 普段は洞察力に優れているくせに、こういう肝心なところでは驚くほど察しが悪い。俺は一度深呼吸をして冷たい夜気で熱くなった頬を誤魔化すように、わざとぶっきらぼうな声を出した。

 

 「……二人きりで、ゆっくりできる場所がいい」

 「二人きり?」

 「だいたい、クリスマスのこれからの時間は……その、恋人同士が、誰にも邪魔されずに一緒にいるもんだろ。……ちがうのか」

 

 語尾がどんどん小さくなっていく。自分で言っていて顔から火が出そうだった。俺は彼の手をポケットから強引に引っ張り出すと駅の改札とは全く逆の方向へと歩き出した。

 

 「ちょ、カヤさん? そっちに行ったら駅が……」

 「いいから。つべこべ言わずについて来い」

 

 半ば強引に彼の手を引いて煌びやかな大通りから一本外れた裏路地へと足を踏み入れる。賑やかな喧騒が少しずつ遠ざかり、代わりに周囲の景色は飲食店から、けばけばしいネオンサインを掲げた建物が並ぶエリアへと変わっていく。最初は不思議そうに俺の後ろを歩いていた皓二朗だったが、周囲の建物の「性質」と俺が向かおうとしている目的地に気づいたのか、不意にその足取りがピタッと止まりかけた。

 

 (あ、気づいたな)

 

 背中越しに彼が限界まで息を呑む気配が伝わってくる。彼にとって俺は「元男」で、しかも過去に泥濘の中で凄惨なトラウマを抱えた存在だ。そんな俺が自ら彼をラブホテル街へと連れ込んでいる事実。彼の脳内では今頃、膨大なパニックと葛藤が渦巻いているはずだ。

 

 「あ……」

 

 立ち止まった彼を振り返ると案の定、皓二朗は耳の先まで茹でダコのように真っ赤にしていた。

 

 「あ、あのさ……カヤさん」

 「……なんだよ」

 

 恥ずかしさで逃げ出したくなるのを必死に堪え、俺は彼を睨みつけるように見上げた。すると皓二朗は数秒間激しく視線を泳がせた後、ポンッとわざとらしく手を打った。

 

 「そ、そういえば! カヤさん、今日はずっと外を歩きっぱなしだったから、体力的に限界が来てるんじゃないかな!?」

 「……は?」

 「ほ、ほら! カヤさんは平熱が34℃台だし、この厳しい冬の寒空の下にこれ以上いたら倒れちゃうかもしれない! ど、どこか今すぐ、暖房の効いた個室で横になって休まないと!」

 

 声が完全に裏返っている。学年トップの成績を誇る優等生とは思えないほど、しどろもどろでポンコツな大根芝居だ。でも彼が必死にひねり出したその言い訳は、元男である俺がホテルに入るという「気恥ずかしさ」を取り除き、俺のプライドを守るための彼なりの全力の配慮だった。

 

 「だ、だから! とりあえず緊急避難的に、すぐそこの建物に入って休んだ方がいいと思うんだけど、どうかな!?」

 

 彼が震える指で指差した先にはクリスマス仕様のリースが飾られた、洒脱なホテルの入り口があった。俺はその優しすぎる不器用な提案に、もう恥ずかしさも吹き飛んでしまいそうになりながら同じように声のトーンを上げて激しく同意した。

 

 「そ、そうなんだよ! 俺、もう寒さと筋肉痛で一歩も動けない! 緊急避難的に休める場所を探してたんだ!」

 「よ、よし! じゃあ早く入ろう! カヤさんの身体が冷え切る前に!」

 

 俺たちは傍から見ればひどく滑稽な互いへの言い訳を大声で交わしながら、逃げ込むようにそのホテルのロビーへと足を踏み入れた。

 

 煌びやかで静かなフロント。聖夜特有の甘いBGM。皓二朗の耳はまだ真っ赤だったが、俺の手を引いてエレベーターへと向かうその足取りには先ほどまでの迷いはもう欠片もなかった。

 

 (……ああ、もう。本当にバカみたいに優しいんだから)

 

 繋がれた手から伝わってくる36℃の確かな熱に俺は小さく息を吐き、静かに上昇していくエレベーターの中で彼の広い肩にそっと額を預けた。やがてチン、と控えめな電子音が鳴り、金属の扉がゆっくりと左右に開く。降り立った廊下は外界の喧騒が完全に遮断された別世界だった。足音を吸い込む分厚い絨毯と少しトーンを落としたダウンライト。すれ違う人もいない密閉された空間。

 

 隣を歩く皓二朗は初めて足を踏み入れる「未知の世界」に完全に落ち着きを失っていた。必死に大人の男として平常心を保とうと深呼吸を繰り返しているようだが視線は忙しなく宙を彷徨い、繋いだ彼の手にはじんわりと汗が滲んでいる。リングの上では堂々としていて隙がないのに今の彼はまるで迷子になった大型犬のようにそわそわとしている。

 

 そんな彼とは対照的に俺の足取りに迷いはなかった。フロントで受け取ったルームキーを片手に壁の案内板をひと目見ただけで、慣れた足取りで目的の部屋へと彼を先導していく。

 

 (……三年ぶり、か)

 

 ふと、場違いな感慨が脳裏を掠めた。分厚い扉が並ぶ薄暗い廊下も、微かに漂う人工的な芳香剤の匂いも、外の時間を忘れさせるような独特の閉塞感も。俺にとっては、かつて泥濘の中で這いずり回っていた頃に何度も味わった、ひどく見慣れた空気だった。あんな風に心身をすり減らしていた場所に三年越しに、愛する人と二人で来る日が訪れるなんて思いもしなかった。

 

 一番奥の扉の前で立ち止まり、俺は迷うことなくルームキーをセンサーにかざした。カチャリ、と軽い電子音が鳴る。

 

 「……入ろう、皓二朗」

 「う、うん」

 

 俺がドアを開けると真冬の夜気を忘れさせるような暖かな空気が漏れ出してきた。促すように彼を先に入れ、俺もその背中に続いて中へと足を踏み入れる。ドアが重い音を立てて閉まり、オートロックがかかる小さな音が静寂に包まれた部屋に落ちた。

 

 聖夜のイルミネーションの余韻が残るホテルの落ち着いた一室。暖房の効いた部屋の空気は外の刺すような木枯らしが嘘のように暖かく、ふんわりとしたオレンジ色の間接照明が二人を柔らかく照らしている。

 

 「……暖房、これくらいで大丈夫? カヤさん寒くないかな」

 

 皓二朗は自分のコートをハンガーに掛けながら、少し上ずった声で振り返った。その背中はアスリートとして隙のない堂々としたものではなく、どこかぎこちなく、ひどく緊張で強張っている。

 

 「ああ、丁度いいよ。……ありがとな、皓二朗」

 

 俺は首元のマフラーを外し、彼に向き直った。彼がこの部屋を取ってくれたのは俺の34℃の虚弱な身体が冬の寒さで冷え切ってしまわないようにという、彼なりの不器用で誠実な気遣いからだ。けれど今この密室に二人きりで流れる空気は、単なる「休憩」のためのものではないと互いに痛いほど分かっていた。

 

 「あのさ、カヤさん……」

 

 彼が一歩、近づいてくる。そして戸惑うように少しだけ宙を彷徨った後、俺の両手をそっと取り、その大きくてごつごつとした掌で大切に包み込んでくれた。36℃の彼の体温が冬の空気でひんやりと冷え切っていた俺の指先に、じんわりと心地よく染み込んでいく。過去の凄惨な記憶のせいで本来なら男性に触れられることすら恐怖だったはずの俺が、彼のこの温もりだけは心の底から求めてやまない絶対的な安らぎになっていた。

 

 「僕……こういうの、本当に初めてだから。……すごく緊張してて、全然余裕ないかもしれない」

 

 耳の先まで真っ赤に染め、誤魔化すことなく真っ直ぐに自分の不甲斐なさを伝えてくる彼が俺はどうしようもなく愛おしかった。彼がどれほど俺を大切に思い、この瞬間に真剣に向き合ってくれているかが、その震える指先から痛いほど伝わってくる。

 

 「……分かってる。皓二朗が真面目で、俺のこと……誰よりも大事にしようとしてくれてることも」

 

 俺は包み込まれた彼の手をそっと握り返し、一歩踏み出して彼の広い胸元へこつんと額を預けた。シャツ越しにトクトクと少し早まった彼の心音が耳に届く。その命の音が俺の内側にある過去の暗い泥濘を優しく洗い流していくようだった。

 

 「俺の方こそ……色々と不格好かもしれないけど。でも……お前だから。皓二朗に触れてほしいんだ」

 

 俺がゆっくりと顔を上げ、上目遣いに彼を見つめると彼は小さく息を呑んだ。そして、すべてを懸けるような決意を込めた瞳で、俺の頬に優しく手を添えた。

 

 「……カヤさん。世界で一番、愛してる」

 「俺も……愛してるよ、皓二朗」

 

 重なる唇は触れるだけの羽のように優しく、けれど互いの魂の形を確かめ合うような確かな熱を持っていた。彼の腕が俺の腰に回り、そっと引き寄せられる。俺は彼の背中に腕を回し、その温もりを絶対に逃さないようにしがみついた。ゆっくりと彼に導かれるままに後退る。やがて膝の裏にふわりとしたベッドのマットレスの感触が触れた。

 

 彼の大きな身体に優しく押し倒されるようにして俺たちはシーツの上へと静かに倒れ込む。間接照明の柔らかな光を背にして、皓二朗の大きな影が俺の細く冷たい身体をすっぽりと覆い隠した。かつて暗い泥濘の中で男たちに組み敷かれた時の記憶が一瞬だけ脳裏を掠めようとした。けれど覆い被さる彼から伝わってくるのは、あの時の暴力的で悍ましい匂いじゃない。微かな石鹸の香りと真面目で誠実な彼自身の、ひどく落ち着く匂いだけだ。

 

 「……カヤさん。重くない?」

 

 腕の力で自身の体重を支え、俺の虚弱な身体を押し潰さないように気遣いながら皓二朗が吐息の混じった声で尋ねてくる。

 

 「……平気だ。お前なら、もっと重くても……いい」

 

 俺が掠れた声でそう返すと彼は泣きそうな、それでいてこの上なく愛おしそうな顔をして俺の黒髪にそっと指を絡めた。そして、額、頬、首筋へと、確認するように何度も優しいキスを落としていく。一つキスをされるたびに俺の34℃の冷え切った身体の奥底に、小さな灯りがポッと点っていくような感覚がした。

 

 「……触れるよ」

 

 皓二朗の震えるごつごつとした指先が俺の服のボタンへとゆっくりとかけられた。外されていくごとにホテルの部屋の温かい空気が、俺の白く脆い肌に直接触れる。アスリスの最適化期によって女性のそれに作り変えられたこの身体は自分のものでありながら未だにひどく心許ない。以前の俺なら元男である自分の身体を誰かに見られることなんて、恐怖と自己嫌悪で発狂しそうになっていただろう。けれど露出した俺の鎖骨や細すぎる首筋を見つめる皓二朗の瞳には、微塵の戸惑いも好奇の目もなかった。そこにあるのは、ただ純粋な熱情と俺という存在そのものを丸ごと慈しむような深い祈りにも似た光だけだ。

 

 「……皓二朗」

 

 俺は彼にすべてを明け渡すように、ゆっくりと腕を伸ばして彼の広い背中に回した。シャツ越しに伝わってくる彼の筋肉の張りや、俺とは全く違う男性的な骨格の逞しさが不思議と今は怖くない。むしろ、その圧倒的な力で俺をこの世界に繋ぎ止めてくれているようで、どうしようもなく安堵してしまう。

 

 彼の少し荒くなった息遣いが俺の耳元にかかった。そして、あの凄惨な過去の象徴であり、俺の右耳に残された四つの痛々しいピアス穴の痕に彼の温かく柔らかい唇が、そっと触れた。

 

 「あっ……ん……っ」

 「……綺麗だよ、カヤさん。君の全部が愛おしい」

 

 過去の泥濘の証すらも神聖なもののように口付けられ、俺の目から不意にポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。悲しいわけじゃない。ただ彼から与えられる愛情の質量が許容量の少ない俺の身体にはあまりにも大きすぎて、幸福量のオーバーフローを起こしているのだ。

 

 「俺も……お前が好きだ……」

 

 俺の震える唇を塞ぐように再び深く、長い口付けが交わされる。彼の36℃の確かな熱が俺の皮膚から、血管を伝って冷え切っていた心の最も深い場所までじわじわと染み込んでいく。境界線が曖昧になっていく。

 

 俺が彼で、彼が俺になるような錯覚。「宮本貴也」としての罪も、「九条綴」という虚構の仮面も、今この瞬間、彼の腕の中ですべてが優しく融解し、ただの「梶田カヤ」としての命の鼓動だけが静かな部屋に重なり合って響き続けていた。甘く、息の詰まるような口付けの後。僅かに唇が離れると二人の間に熱を帯びた白い吐息が混ざり合う。

 

 「……皓二朗」

 

 潤んだ瞳で彼を見上げながら俺は微かに震える声で彼を呼んだ。

 

 「どうしたの、カヤさ……」

 「……お願いがあるんだけど」

 

 彼の言葉を遮るように俺は彼の首元にそっと腕を絡め、縋るようにその顔を引き寄せた。

 

 「俺のこと……『さん』付けで呼ぶの、やめてくれないか」

 「え……」

 「ずっとじゃなくていい。……今夜だけ、このままでいる間だけでいいから……『カヤ』って呼び捨てにしてほしい。……だめ、かな」

 

 上目遣いにそう尋ねると皓二朗は一瞬だけ驚いたように大きく目を見開いた。これまで彼は恋人同士という関係になっても、過去の因縁からくる無意識の「一線」を引くように、ずっと「カヤさん」と呼び続けていた。俺自身も彼に対して対等な立場でいるための自然体として「俺」という一人称を使い、ぶっきらぼうな男言葉で接してきたし、そこに無理や意地はなかった。

 

 けれど――。こんな特別な大好きな人との初めての夜くらい、とびきりロマンチックな雰囲気に浸りたい。せっかく恋を知り、女性らしい感性まで育ってくれたのだから、今夜だけはムードを大切にして一人の「女の子」として甘く優しく扱われたい。そんな乙女チックな願望が今の俺……いや、私の中には確かに育っていたのだ。

 

 (今日だけは……少しだけ背伸びをして可愛い『女の子』になっても、いいよね)

 

 心の中でそっと自分自身に許可を出す。皓二朗は何かを噛み締めるようにスッと目を伏せ、やがてこれ以上ないほど優しく、ひどく甘い声で囁いた。

 

 「……カヤ」

 

 たった二文字。その響きが耳の奥を震わせた瞬間、私の身体の芯を痺れるような強烈な熱が突き抜けていった。

 

 「……皓二朗」

 「うん。……何、カヤ」

 

 彼が愛おしそうに私の髪を撫でる。限界まで熱くなった顔を彼の胸元に擦り寄せながら、ポツリと、その「言葉」を口にした。

 

 「……私ね」

 

 その瞬間、背中を撫でていた彼の手がピタリと止まった。

 

 「私……皓二朗に触れられて、すごく嬉しい」

 

 普段の自然体である「俺」ではなく、今夜という特別な時間のために選んだ柔らかい「私」。そして、ぶっきらぼうな語尾を消し去り、純粋に彼を求める甘く震える声。

 

 「私を……全部、皓二朗の好きにして、いいよ……。今夜だけは私を本当の女の子にして……っ」

 

 その言葉が落ちた瞬間だった。皓二朗の空気が明確に「変わる」のが分かった。

 

 彼の中で何かのスイッチがカチリと切り替わったのだ。優しく、虚弱な私を気遣うように抑え込まれていた彼の理性が外れ、隠しきれない男性的な「熱」と「情動」が、その黒い瞳の奥に濃密に立ち上っていく。私が今夜、ロマンチックなムードの中で一人の女として彼にすべてを委ねようとしていることを彼が本能で察知した証だった。

 

 「……カヤ」

 

 声のトーンが一段階低くなり、先ほどの初々しい戸惑いはどこかへ消え去っていた。彼の大きく熱い手が私の華奢な腰を力強く引き寄せ、逃げ場をなくすように深く抱きすくめる。

 

 「君がそうやって……僕の理性、全部壊したんだからね」

 「……っ、あ……」

 

 少しだけ意地悪に、けれど抑えきれない情熱を孕んだ声で囁かれ私の心臓は跳ね上がるように大きく高鳴った。再び重なり合う唇は、先ほどまでの優しい確認のようなものとは全く違っていた。深く、息もつかせぬほど甘く私の唇を奪い、頭の芯が真っ白に溶かされていく。その間に彼の手が服の裾からゆっくりと滑り込み、私の白く冷たい素肌へと直接触れた。

 

 「ひゃっ……、ん……っ」

 

 36℃の圧倒的な熱を持った掌が冷え切っていた私の背筋をゆっくりとなぞり上げる。ボクシングの厳しいトレーニングで作られた彼の手のひらの硬いタコやごつごつとした指の節。それがアスリスによって陶磁器のように滑らかに作り変えられた私の柔らかな皮膚を撫でるたび、その極端な感触のコントラストに背中がゾクゾクと粟立った。

 

 「カヤ……肌、すごく冷たい。それに、こんなに細くて……折れちゃいそうだよ」

 

 彼が吐息混じりに囁きながら私の肩甲骨のくぼみや、むき出しになった細い首筋へと熱い口付けを幾つも落としていく。ビクリと身体が跳ねるたびに彼は安心させるように背中を抱きしめる力を強めた。

 

 「こわくないよ……もっと、触って……っ」

 

 彼の指先が背中から脇腹、そして肋骨のラインに沿って優しく這い回る。触れられた場所から34℃の身体が急速に発熱し、甘い痺れとなって全身の血管を駆け巡っていく。

 

 「……すっごく、柔らかい。カヤの匂い……頭がおかしくなりそう」

 

 彼の顔が私の首元に埋められ、深く息を吸い込む音が聞こえた。もはやためらいはなかった。押し寄せるロマンチックで甘い波に自ら溺れるように、私は彼の広い背中に腕を回し、少しずつ露わになっていく互いの素肌の熱を身体の最も深い場所まで受け入れていく。

 

 彼の指先が私の服の残りのボタンを外し、纏っていた布地をベッドの下へと静かに滑り落としていった。間接照明の柔らかなオレンジ色の光の下に、アスリスによって作り変えられたばかりの未熟で白い私の素肌が完全に晒された。鍛え上げられた彼の逞しい肉体とは対極にある、硬さとは無縁の柔らかい肌と肉が薄く、ひどく頼りない身体。男の骨格から無理やり女性のそれに歪められたこのいびつな身体を見られるのが恥ずかしくて、思わず両腕で胸元を隠すように身体を丸めようとした。

 

 けれど皓二朗の大きく温かい両手が私のその震える腕を優しく包み込み、ゆっくりと解いていく。

 

 「隠さないで、カヤ。……すごく、綺麗だ」

 

 彼の黒い瞳は熱に浮かされたように潤みながらも、私という存在のすべてを神聖なものとして崇めるような真っ直ぐな光を放っていた。過去の凄惨な記憶の中で私に向けられていた、あの男たちの汚らしくて暴力的な視線とは違う。彼が見つめるたび、彼の手が触れるたび、私の肌にこびりついていた見えない泥の痕がポロポロと剥がれ落ちていくのが分かった。

 

 皓二朗も自身のシャツを脱ぎ捨て、私の上にゆっくりと覆い被さってくる。鍛え上げられた分厚い胸板と、私の華奢な身体の中で唯一肉付きが良い胸元。素肌と素肌が何の隔たりもなく直接ピタリと触れ合った。

 

 「あ……っ、皓二朗……熱い……」

 「ごめん……重くない? 痛いところ、ない?」

 「ううん……もっと、くっついて……っ」

 

 36℃の彼の心音が直接私の心臓に叩き込まれてくるみたいだった。私の34℃の冷え切っていた身体が彼と触れ合っている面から発火したように熱を持ち、内側からトロトロに溶かされていく。彼のごつごつとした指先が私の背中から、くびれた腰のライン、そして柔らかな太ももへと壊れ物を扱うように、けれど確かな独占欲を持ってゆっくりと這い回る。

 

 「カヤ……カヤ……」

 

 呪文のように何度も私の名前を呼びながら彼は私の耳たぶを甘く噛み、首筋に何度も熱い口付けを落とす。

 

 「……んっ、あ……っ」

 

 自然と甘い声が漏れてしまう。意地を張って「俺」と名乗っていた私には絶対に出せなかった声。でも今は少しも恥ずかしくない。大好きな彼に世界で一番可愛い女の子として扱われていることが、どうしようもなく幸せだった。

 

 「僕、もう……頭おかしくなりそうだよ。君の全部が愛おしくてたまらない……」

 

 荒い息を吐きながら皓二朗が限界を迎えたような声で耳元に囁く。彼の身体が熱い渇望で震えているのが密着した肌越しに痛いほど伝わってくる。その震えを鎮めるように私は彼の広い背中に腕を回し、その首筋に顔を埋めて彼をきつく抱きしめ返した。素肌と素肌が触れ合い、互いの体温が溶け合っていく中。皓二朗の優しく大きな手が私の背中から腰へと、傷一つない滑らかな皮膚を確かめるように撫でた。

 

 「……カヤの身体、本当に綺麗だ。前の定期健診の時に言っていた通り……順調に女の子として前に進んでるんだね」

 「うん……。過去の痣も傷も全部消えちゃった。アスリスの治癒力が私を新しくしてくれたの」

 

 私の言葉に皓二朗は泣きそうなほど愛おしげに微笑み、私の額にそっと口付けた。そして今にも限界を迎えそうな熱い衝動を必死に深呼吸で押さえ込みながら、ゆっくりと身体を離し、枕元のサイドテーブルへと手を伸ばした。

 

 「……皓二朗?」

 「……約束、したでしょ」

 

 彼が手に取った小さな包みを見て、私はハッとした。アスリスの症例として「生殖制限」の可能性が高いことは二人とも分かっている。それでも彼は決して勢いや欲望だけで私を消費しようとはしなかった。

 

 「カヤが新しく生まれ変わって順調に前に進んでいる大事な身体なんだ。どれだけ僕に余裕がなくても、この約束だけは絶対に破らないよ」

 

 真っ直ぐな彼の言葉に胸の奥がギュッと締め付けられた。私は溢れそうになる涙を堪え、彼を迎え入れるために自分からそっと両腕を広げた。

 

 「……ありがとう、皓二朗。私……あなたがいれば、もう何も怖くないよ」

 

 再び彼が覆い被さり、そしてゆっくりと私の一番深い場所へと触れ、二つの魂が完全に一つに結ばれていく。

 

 「あっ……、んっ……!」

 

 その瞬間、予想していなかった微かな、けれど明確な「抵抗」と「痛み」が走り、私は思わず彼の背中に回した指先に力を込めた。

 

 ボクシングに明け暮れてきた皓二朗にとっては、これが正真正銘の初めての経験だ。一方、私にとっては……あの凍えるような冬の夜から数えて、およそ三年ぶりのことだった。けれど今私を貫いたこの感覚は、あの頃に泥濘の中で味わった暴力的な痛みとは全くの別物だった。

 

 (……ああ、そうか)

 

 アスリスによる超常的な細胞の再構成。それは皮膚の表面の傷跡を消し去るだけではなかったのだ。3年という月日が、私の内側の構造から神経の隅々に至るまで過去の凄惨な痕跡をすべて完全に白紙に戻し、私の身体を「手付かずの純潔な女の子」の状態へと作り変えていたのだ。

 

 「カヤ……っ、ごめん、痛い……? 無理させちゃった……?」

 

 私のわずかな強張りを敏感に察知し、皓二朗が動きを止めて青ざめた顔で覗き込んでくる。そんな彼が愛おしくて私は首を横に振り、彼のごつごつとした頬を両手で包み込んだ。

 

 「ううん……痛くない、嬉しいの。……私、本当に皓二朗の『初めて』になれた気がして」

 

 私は痛みを散らすように甘く微笑み、私の方から彼の首元に腕を絡めて深く抱きついた。再び彼の腕が私を強く、けれど壊れ物を扱うような極上の優しさで抱きしめ、熱い波を寄せては返すように動き始める。

 

 「あっ……、はぁ……っ、皓二朗……っ、すご、い……」

 「カヤ……。僕のカヤ……愛してる……っ」

 

 彼が動くたび、内側から彼自身の36℃の確かな命の熱が叩き込まれてくる。私の34℃の冷え切っていた身体が奥底から完全に発火したように熱を持ち、トロトロと溶かされていく。かつての私は、この行為に対して「屈辱」と「恐怖」、そして「絶望」しか知らなかった。

 

 けれど今は違う。彼が注いでくれる途方もない質量を持った純粋な『愛情』。私の存在そのものを慈しみ、一つ一つの反応に一喜一憂してくれる彼の誠実さが私の脳髄をかつてないほどの強烈な甘さで満たしていく。何度も、何度も私の中に彼が満ちてくる。そのたびに私の中にこびりついていた「宮本貴也」としての罪の意識や、過去の薄汚れた記憶が彼の純粋な熱によって真っ白に浄化され、綺麗な色へと上書きされていく。

 

 やがて、これまでに経験したことのないような目の前が真っ白に弾けるような大きくて甘美な波が、私と彼を同時に呑み込んだ。

 

 「あ……ぁっ、んん……ッ!」

 

 背中が大きく反り、私は皓二朗の広い背中にしがみついて彼の中で完全に微睡みの底へと堕ちていく。彼もまた私を壊れるほど強く抱きしめたまま、深い安堵の吐息と共に私の肩口に顔を埋めた。

 

 大きくて甘美な波が引き、静寂を取り戻したベッドの上。皓二朗は私の頭を自分の胸元に抱き寄せたまま、まるで大切な宝物を扱うように汗ばんだ長い黒髪を愛おしげに梳いていた。

 

 「……カヤ、痛いところはない? 寒くないかな」

 

 まだ少し息を弾ませながら、ひたすらに私の体調を気遣う優しい声。普通なら初めての行為を終えた女の子は、ここで彼の腕の中でゆっくりと深い微睡みに落ちていくのだろうか。私は元から女ではないから分からないけれど、私の内側では全く違う炎がチロチロと甘い音を立てて燃え続けていた。彼から注がれた圧倒的な愛情が私の身体の芯を溶かし、これまで知らなかった「飢え」を呼び覚ましていたのだ。

 

 それに密着した肌越しに伝わってくる彼の体温と微かに硬く強張ったままの筋肉が、私に一つの事実を教えていた。彼は今、私の身体を気遣って自分の中に燻っている強烈な衝動に必死で蓋をしているのだ。

 

 「……皓二朗」

 

 私は彼の胸元に擦り寄せていた顔をゆっくりと上げ、潤んだ瞳で彼を見つめた。

 

 「ん? 疲れたよね、ゆっくり休ん……」

 「ううん。……まだ、休まないで」

 

 恥ずかしさで顔が沸騰しそうになるのを堪えながら私は消え入りそうな、けれど甘く震える声で彼の言葉を遮った。そして彼に抱きついていた腕をそっと解き、白く柔らかな指先で彼の分厚い胸板から引き締まった腹筋のラインをなぞるようにゆっくりと下へ滑らせていく。

 

 「なっ……! か、カヤ……ッ!?」

 

 ビクリ、と皓二朗の身体が大きく跳ねた。

 

 「私……まだ、足りないよ」

 

 私は白く柔らかな指先をさらに下へと滑らせ、彼の熱を持った中心をそっと優しく包み込んだ。

 

 「っ……!? あ、カヤ、だめ、それ……っ」

 

 ビクンと皓二朗の身体が大きく跳ね、彼が未知の感覚と羞恥に顔を真っ赤にして息を呑む。ボクシングで鍛え上げられた逞しい肉体が、私のたった片手の動きだけで無防備に震えている。その初々しい反応が、どうしようもなく愛らしかった。

 

 男の身体がどう触れられれば熱を帯び、どう導けば歓喜に震えるのか。……私は、かつて泥濘の中で男たちに蹂躙された凄惨な経験から、その「構造」を嫌というほど知っている。思い出すだけで吐き気がする呪われた過去の記憶。

 

 けれど彼にこんな愛らしい顔をさせることができるなら、私を地獄に突き落としたあの泥濘の記憶すらも、今夜だけは彼を歓喜へ導くための血肉として受け入れてやる。

 

 彼の反応をもっと引き出したくて、私の中に溢れんばかりの愛情と、ほんの少しの嗜虐心が頭をもたげた。私は彼を見上げたままゆっくりと顔を近づけ、その限界まで熱を帯びた中心へそっと唇を落とし、そして……ゆっくりと、口内に迎え入れた。

 

 「あ……ッ!? か、カヤッ……! や、だめだ、汚いっ……!」

 

 パニックになった皓二朗が私の肩を掴んで引き剥がそうとするが、その手には全く力が入っていなかった。私は彼の制止を無視して舌先で彼の熱を探るように優しく這わせる。どこをどう刺激すれば彼が最も悦ぶのか、微細な筋肉の震えと荒くなる呼吸のグラデーションを頼りに「最適解」を見つけ出し、そこを重点的に慈しむように刺激し続けた。

 

 「あ……っ、ぁっ……! カ、ヤ……ッ、すごい、だめ、頭、おかしく……っ」

 

 彼がシーツをきつく握りしめ、泣きそうな声で喘ぐ。その無防備で可愛らしい姿を見上げながら私は不意に、ひどく場違いな「後悔」を抱いていた。

 

 (ああ、もう本当に惜しい……っ、どうせなら、私自身が『大人の男』として完全に成熟しきってから、アスリスにかかればよかったのに……!)

 

 私が女の身体に作り変えられたのは、まだ未熟な小学生の時だ。だから成熟した大人の男が『どこをどうされれば一番気持ちいいのか』という構造的な知識を、自分自身の身体の経験として完全に熟知しているわけではない。もし私にその知識があれば、今の彼をもっと完璧に悦ばせてあげられたのに。もっともっと、この泣き出しそうに愛らしい顔を私の力で引き出せたのに。

 

 そんな馬鹿げたことを本気で惜しんでしまうくらい私は今、目の前で私の手と口に翻弄され、甘い快感に完全に溺れきっている彼に夢中だった。

 

 「カヤ……っ、もう、無理っ……僕、出、ちゃう……っ!!」

 

限界を告げる彼の声に、私はさらに舌の動きを早め、彼を決定的な絶頂へと導いた。

ビクン、ビクンと大きく跳ねる身体。彼は私の口の中で、本日二度目の熱い波を激しく解き放った。

 

 「っ……あ、ごめ、カヤッ……僕、我慢できなくて……! だめだ、吐き出して……っ!」

 

 荒い息を吐きながら虚脱した皓二朗が、ハッとして青ざめた顔で私の肩を掴む。彼の口から出たのは私を汚してしまったことへの激しい動揺と、不器用な後悔だった。けれど私は彼のその焦燥をよそに、こくり、と小さく喉を鳴らした。

 

 彼が私の口内にいっぱいに放った、甘くて濃密な『熱』。それを一滴残らず飲み下し、口元をそっと指先で拭いながら彼を見上げて艶やかに、ひどく蠱惑的な笑みを浮かべてみせた。

 

 「え……カヤ、飲ん、だの……?」

 「……うん。皓二朗の精液、すっごく……温かい」

 

 信じられないものを見るように目を見開く彼を見つめながら、私は頭の奥で自分自身の変わり果てた姿に自嘲気味に笑っていた。かつて「男」だったくせに自分から進んで男のモノを咥え、あろうことかその放たれた熱を悦んで飲み込むなんて。少し前までの私なら「ありえない」と吐き気を催していただろう。

 

 けれど今の私には彼のすべてを自分の中に取り込めたことがどうしようもなく嬉しくて、全身が甘く痺れるような幸福感に包まれていた。アスリスのせいだとか、雰囲気に流されたとか、そんな言い訳はもう通用しない。私はもう彼という雄を本能の底から求める一人の『メス』に完全に成り下がっているのだ。

 

 私はゆっくりと身を起こし、呆然としている皓二朗の広い胸板へとすがりつくように抱き着いた。汗ばんだ逞しい筋肉の感触が私の34℃の柔らかな肌に直接触れて、下腹部がキュンと熱く疼く。

 

 「あ……っ、カヤ……」

 

 私はそのまま彼の首筋に顔を埋め、赤く染まった彼の耳たぶをチュッ、と少しだけ卑しい音を立てて甘噛みした。ビクン、と彼の大きな身体が再び分かりやすく跳ねる。

 

 「ねえ……皓二朗」

 

 彼の耳元に唇を寄せ、わざと吐息を多めに含ませた自分でも驚くほど甘く震える声で囁く。

 

 「もっと……皓二朗の熱で、私をいっぱいに、して……?」

 

 その瞬間、二度の絶頂を経ても、尚辛うじて機能していた「優しくて真面目な彼氏」の理性が今度こそ音を立てて完全に焼き切れた。

 

 「……ッ、カヤ。君って、本当に……!」

 

 彼が低く、飢えた獣のような声を漏らす。

そして、先ほどまでの壊れ物を扱うような優しさとは打って変わった、強引で圧倒的な力で私をベッドに押し倒し、深く重く、のしかかってきた。

 

 私のその言葉をすべて飲み込むように、再び息もできないほど深く貪欲な口付けが降ってきた。

 

 えっ、と私は頭の芯が真っ白になる。彼を優しくリードし、私の方から翻弄して愛してあげようなどという乙女チックな余裕は、その獰猛な口付けによって一瞬で粉砕された。彼の中に眠っていた雄としての本能のストッパーを、私が完全に破壊してしまったのだ。

 

 優しい彼の理性を壊すための小さな誘惑。それがどれほど身の程知らずで、危険な引き金だったのかを、私は身をもって思い知らされることになった。

 

 「あ……っ、ぁ、皓二朗……っ、ちょ、待っ……!」

 

 ボクシングという過酷な世界で無尽蔵のスタミナと闘争心を鍛え上げられてきた彼が一切の遠慮を捨てて、その圧倒的な「熱」と「質量」を容赦なく打ち付けてくる。激しく重い律動が身体に叩き込まれるたび、その衝撃が直接脳髄を激しく揺さぶった。ドクン、ドクンと心拍が跳ね上がるのに比例して脳内に致死量に近いほどの幸福ホルモンがドバドバと分泌され、論理的な思考回路を真っ白に焼き切っていく。

 

 「あっ、こ、これ……むりっ……無理、むりだ……ッ!」

 

 限界まで追い詰められた喉から悲鳴が弾けた。それは「私」の甘い声でもない。飾りをすべて剥ぎ取られた、切羽詰まった素の「俺」の、まるで傷ついた獣の咆哮のような叫びだった。

 

 「限界っ……あぁッ、皓二朗、これ以上は……俺、もう……ッ、死んじゃうッ……!」

 

 視界がぐにゃりと歪む。神経の許容量をはるかに超えた快感と、強烈な物理的刺激によって強制的に搾り出された生理現象としての涙がボロボロと止めどなく頬を伝い落ちていた。

 

 「……っ、カヤ……」

 

 俺の悲痛な叫びに皓二朗がハッとしたように動きを止めようとする。

 

 けれど。

 

 「――っ、やだ……っ、やめないで……ッ!」

 

 彼が離れていこうとした瞬間、俺の身体は自分の意志とは無関係に動き、彼の首に腕をきつく絡め、その広い背中に爪が食い込むほど強く抱きついていた。それは理性的な愛情からくる行動ではない。アスリスによって完全に作り変えられた「メス」としての生物的な本能だ。この強烈な熱と命の力を持つ『雄』を絶対に手放すなと警鐘を鳴らし、狂ったように彼にしがみつかせているのだ。

 

 口では「限界だ」「無理だ」と拒絶の言葉を叫びながら、メスの本能に支配された身体は彼を逃がさないようにきつくホールドし、「やめないで」と懇願している。ひどく無様で矛盾した姿。けれど、そんな俺を見下ろした皓二朗の黒い瞳には、呆れも戸惑いもなかった。彼は生理的な涙と汗でぐしゃぐしゃになった俺の頬を大きな手で包み込み、雄を剥き出しにしたような深い熱を宿した瞳で微笑んだ。

 

 「……カヤ。君って本当に、ずるいよ」

 「あ……っ、ぅ……」

 「口では『限界』って言ってるし、一人称も『俺』に戻っちゃってるのに。……身体はこんなにきつく僕に抱きついて、絶対に離さないようにしてるじゃないか」

 

 彼に見透かされ俺は小さくしゃくり上げた。彼は俺の言葉の嘘を剥がし生物としての本当の渇望だけを正確にすくい上げてくれる。

 

 「最後まで、全部僕がもらうよ。……愛してる、俺のカヤ」

 

 今までずっと「僕」という一人称を使っていた彼が、一瞬だけ「俺」と囁いた。それは無意識ではない。俺のメスとしての本能をさらに煽り、限界まで興奮させるために彼が意図的に『雄らしさ』を演出した狡猾で甘い囁きだった。

 

 「あ……ぁぁッ! 皓二朗ッ……!!」

 

 再び、先ほどよりもさらに深く重い衝撃が叩き込まれる。意図的に演出された圧倒的な雄の気配と、絶え間なく細胞の奥底まで注ぎ込まれる愛情の奔流。激しく揺さぶられる脳髄から溢れ出す幸福ホルモンに完全に浸され、俺の脳は本当にもう、狂っておかしくなってしまいそうだった。

 

 過去の地獄も男だった罪も、もう何も怖くない。二人の身体と心が限界を超えて完全に融け合った瞬間、目の前で極彩色の光が弾け飛び、俺は愛する絶対的な雄の腕の中で今度こそ世界で一番幸せな、果てしない微睡みの底へと堕ちていった――。

 

……

…………

……………………

 

 遠くで微かに鳥の囀りが聞こえた気がした。分厚い遮光カーテンの隙間から、細く白い光の筋がベッドのシーツの上へと滑り込んでいる。意識が水底からゆっくりと浮上してくる感覚。まるで何日も眠り続けていたかのような、ひどく深くて重たい、けれど決して不快ではない微睡みだった。

 

 「……ん」

 

 重い瞼を開けると間接照明の消えた薄暗い部屋の天井が見えた。身体を動かそうとして全身の筋肉が抗議の声を上げるようにギシッと軋むのを感じた。アスリス特有の虚弱体質からくるいつもの「だるさ」とは違う。もっと芯の部分から心地よく溶かされたような甘い疲労感だ。

 

 (……朝、か)

 

 ぼんやりとした頭で現状を把握しようとした瞬間。すぐ横から聞こえてくる規則的な寝息と自分の腰に回されている逞しく重い腕の感触に気づき、昨夜の記憶が一気に脳内へとフラッシュバックしてきた。

 

 『やめないで……っ、俺から、離れないで……お願いだから……ッ』

 

 「――――ッ!!」

 

 ボフッ、と音を立てて自分の顔を枕に沈め、俺は声にならない絶叫を上げた。一気に沸点に達した顔の熱でシーツが焦げてしまいそうだ。

 

 (俺、俺……っ! あんなこと……っ!)

 

 最初は少しだけ背伸びをして「ロマンチックなムードの女の子」を演じていたはずだった。それが最後は形振り構わず、理性の欠片もない獣のように「俺」という一人称で泣き喚き、彼にしがみついて懇願してしまったのだ。

 

 「……カヤ? どうしたの、痛いところでもある?」

 「ひゃっ!?」

 

 背後から降ってきた少し掠れた寝起きの低い声。ビクッと身体を震わせた俺を皓二朗の大きな身体が背後からすっぽりと包み込んだ。彼の36℃の寝起きの熱が素肌越しに直接伝わってくる。

 

 「お、おはよ、皓二朗……っ。痛いところなんて、ない、から……」

 「そっか。よかった」

 

 彼は俺の首筋に顔を埋め、まるで大きな犬のようにすりすりと鼻先を擦り付けてきた。

 

 「……よく眠れた?」

 「う、うん。……お前は?」

 「僕も。……カヤが隣にいてくれたから、すごく安心して眠れたよ」

 

 ルームサービスで頼んだマルゲリータピザとショートケーキ。ホテルの小さな丸テーブルに向かい合って座り、昨日のディナーと比べるとチープに感じるそれで俺たちは遅めの朝食をとっていた。

 

 俺はと言えば、バスローブの上にさらに毛布をすっぽりと被り、完全にサナギのような状態でピザをかじっていた。昨夜の激しすぎる運動のせいで34℃の虚弱な身体は全身がバキバキに筋肉痛を訴えており、少しでも肌が空気に触れると寒さと羞恥心で死にそうになるからだ。

 

 「……ふふっ」

 

 不意に向かいに座る皓二朗が、ショートケーキの皿を持ったまま思い出し笑いをするように目を細めた。

 

 「何だよ。人の顔見てニヤニヤして」

 「カヤって、本当にツンデレだよね」

 「ぶふぉっ!?」

 

 不意打ちの単語に俺はむせて咳き込んだ。

 

 「だってそうじゃないか。昨日の夜はあんなに『私』って言って、甘い声で泣いて僕にしがみついて離れなかったのに。……朝になったらまた『俺』に戻って、今はこうして毛布に包まって僕と目も合わせてくれないし。それに最後の方なんて『やめないで』ってあんなに――」

 「わぁぁぁッ!! 言うな! この無神経筋肉野郎!!」

 

 俺は手に持っていたピザの耳を皿に叩きつけ、真っ赤に沸騰した顔で彼を怒鳴りつけた。

 

 「脳細胞までプロテインで構成されてるのかお前は!? デリカシーという概念が完全に欠落した歩く暴力! 配慮の欠片もない絶滅危惧種の鈍感男! 女を抱き潰すことに特化した鬼畜性欲マシーン! ベッドヤクザ!」

 

 恥ずかしさのあまり、頭に浮かんだ罵詈雑言を息継ぎもせずに浴びせかける。『九条綴』の愛読で培った語彙力を完全に無駄遣いした、ひどく偏向的で理不尽な八つ当たりだった。

 

 「……っ」

 

 俺の凄まじい剣幕に、皓二朗はビクッと肩を震わせ、みるみるうちに眉尻を下げた。

 

 「……ごめん。……ちょっと、調子に乗った。カヤが可愛くて、からかいたくなっちゃって……。嫌な思い、させたよね。本当にごめん」

 

 その素直すぎる謝罪と心底申し訳なさそうな顔を見た瞬間、俺の脳内で暴走していた羞恥心が急停止し、猛烈な罪悪感が押し寄せてきた。

 

 (やばい、言い過ぎた……。皓二朗、本気で傷ついてる……!)

 

 俺が勝手に照れてパニックになっただけで彼が言ったことは紛れもない事実なのだ。どうしようもなく気まずくて俺はテーブル越しにそっと手を伸ばし、彼の手の甲をツンツンと指でつついた。

 

 「……ちがう」

 「え?」

 「ちがう、怒ってない。……嫌な思いなんて、してない」

 

 限界まで顔を赤くして俯いたまま消え入りそうな声で弁明する。

 

 「今のは……ただの八つ当たりだ。俺が昨日の自分の無様さを思い出して、恥ずかしくてテンパっただけで……お前に暴言吐いたのは、嘘だから。だから……お前は何も悪くない。謝らないでくれ」

 

 今の自分の動揺を表すように宙を彷徨う手に少しだけ力を込め、俺は上目遣いで彼を盗み見た。

 

 「それに、その……昨日の夜のことも」

 「昨日の、こと?」

 「……あれで、よかった。……すごく幸せだったから……。だから、お前は何も間違って、ない……」

 

 顔から火が出てそのまま灰になりそうだ。でも、これだけはちゃんと伝えておかなければならない。俺の不器用すぎる謝罪と告白を聞いた皓二朗は数秒間ぽかんと口を開けて瞬きを繰り返し、やがて感極まったような泣き笑いの顔になった。

 

 「……カヤ、本当にもう、ずるいよ……っ」

 

 彼はテーブルの横から身を乗り出すと毛布ごと俺の身体を力強く抱きしめた。

 

 「わっ、ちょっと、ピザが……!」

 「君って本当に……なんでそんなに可愛いこと言うの。もう一生離さないからね」

 「くるしい……バカ、筋肉ゴリラ……」

 

 口では文句を言いながらも俺は彼を押し退けることはせず、毛布の中からそっと腕を出して彼の広い背中に回した。

 

 「……ありがとな、皓二朗」

 

 首元に顔を埋めて小さく呟く。彼から伝わってくる36℃の温もりと少し不器用で真っ直ぐな愛情が、新しく生まれ直した俺の34℃の身体を今日も世界で一番幸せな熱で満たしてくれていた。

 

 俺たちの新しい一日が始まる。過去の呪縛という長い長い冬を越え、ようやく訪れた完璧な余白に満ちた春のような朝だった。

 

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