冬の冷たい夜気が窓ガラスを叩く音で、僕はハッと目を覚ました。
「……っ、ふぅ……っ、あっぶな……」
肺に空気を送り込みながら、僕は心臓が肋骨を突き破りそうなほどの勢いで早鐘を打っているのを感じていた。全身は寝汗でぐっしょりと濡れ、パジャマ代わりのスウェットが不快に肌に張り付いている。
ドクン、ドクンと耳の奥で鳴り響く脈動は、先ほどまで見ていたあまりにも生々しい悪夢の残滓だった。
夢の中の僕は、なぜか歓楽街の薄暗いホテルの密室にいた。そこにいたのは僕の恋人であるカヤさん……の姿をした、かつて僕を地獄に突き落とした「宮本貴也」としての本性を剥き出しにした『悪魔』だった。
『だーめ♡ ……このまま、私の中に全部出して?』
『逃がさないよ、皓二朗くん。……ずっと、私だけの世界にいて』
逃げ出そうとする僕の腰に白く細い両脚を絡めつけ、決して逃げられないように締め上げる彼女。有無を言わさぬ拘束。極限まで開発された女の身体と、おぞましい手練手管による容赦のない蹂躙。「こんなことは間違っている」と泣き叫ぶ心とは裏腹に、健全な男子高校生である僕の身体は、彼女が与える暴力的な快楽に否応なしに屈伏させられ、ただひたすらに蕩けるような絶頂へと導かれていった――。
「……っ!!」
暗闇の中、僕は毛布の下で自分の身体が完全に熱を帯び、とんでもなく元気で正直すぎる反応を示していることに気づいて、絶望的な自己嫌悪に苛まれた。
(僕は、なんて最低なんだ……ッ!)
ただの夢だ。現実ではない。あのクリスマス・イブの夜に肌を重ねて以来、僕たちはちょっと周囲が引くくらい相思相愛のバカップルになっていた。彼女は僕を陥れようとなんてしていないし、無理やり支配しようともしていない。そんなことは頭では完全に理解しているし、割り切っているつもりだ。
なのに夢の中で僕を見下ろした時の、あの妖艶で蠱惑的で、圧倒的に艶やかな彼女の顔が細胞の隅々にまでこびりついて離れない。怖い、という感情よりも先に、「あんなに色気のあるカヤさんに、強引にめちゃくちゃにされてしまった」という背徳的なシチュエーションに対する途方もないドキドキと興奮が僕の脳髄を占拠してしまっているのだ。
「……ん、……皓二朗……?」
隣で微睡んでいたカヤさんが小さく寝返りを打ち、眠たげな甘い声を漏らした。平熱34℃台の彼女は冬の寒さを凌ぐために無意識に僕の体温を求めてすり寄ってくる。彼女の細い腕が僕の胴体に巻き付き、冷たくて滑らかな頬が僕の胸元にぴたりと押し当てられた。
「……あったかい……」
「っ!」
彼女のすべすべとした右脚が僕の足に無防備に絡みついてくる。その瞬間、夢の中で僕の腰をロックした彼女の白く細い脚の感触がフラッシュバックし、僕の心拍数は一気に跳ね上がった。
(落ち着け、瀬戸皓二朗! あれは夢だ、現実のカヤさんはこんなに無防備で可愛い僕の彼女じゃないか!)
必死に自分に言い聞かせながら僕はどうしようもない胸のドキドキを持て余し、気づけば無意識のうちに、すり寄ってきた彼女の身体をギュッと強く、普段以上にしっかりと抱きしめ返していた。
「……んぐっ? こ、皓二朗……? ちょっと、苦し……」
「あ……ご、ごめん」
慌てて力を緩めると半分閉じた目のまま、カヤさんが少しだけ身体を起こした。その拍子に彼女の着ていた大きめのスウェットの襟元がはだけ、白磁のような鎖骨と柔らかな胸の谷間が覗いた。夢の中の彼女の肌の感触が再び脳内をよぎり、僕の思考回路がショート寸前になる。
「……お前、どうした? なんか、すごい汗かいてるぞ……」
「ううん、なんでもないよ。ちょっと変な夢を見て……目が覚めちゃって」
僕が誤魔化すように彼女の肩口に顔を埋めると、カヤさんは不思議そうに瞬きをしながらも僕の背中にそっと手を回してポンポンと不器用なリズムで叩いてくれた。
「そっか。……大丈夫か? 俺がついてるからな」
「……うん。ありがとう、カヤさん」
優しくて、少しだけ男前な彼女の慰め。僕はその冷たくて心地よい34℃の熱にすがりつくように彼女の首筋に鼻先を擦り付け、シャンプーの甘い香りを深く吸い込んだ。
(ああ、駄目だ。……カヤさん、すごくいい匂いがする)
夢の中の「淫靡な悪魔」と現実の「少し不器用で愛おしい恋人」 そのギャップがたまらなく僕の心をかき乱し、僕は自分でも引くくらい彼女にべったりとくっついたまま悶々としてなかなか寝付けない夜を過ごす羽目になった。
しかし、問題は翌日以降の学校生活だった。
「――でさ、ここの解法なんだけど、どうやっても答えが合わなくて」
「ああ、ここは公式の適用を間違えてるね。この場合は、こっちの式を使わないと」
放課後の図書室。並んで勉強している最中、僕は無意識のうちにノートを見つめる彼女の左手を机の下でそっと握りしめ、自分の指を彼女の指の間に深く絡ませていた。彼女のひんやりとした指先が僕の熱い掌の中にすっぽりと収まる。ただ手を繋いだだけなのに、夢の記憶のせいで彼女の肌に触れているという事実が僕の心臓をバクバクと跳ねさせる。
「あ、なるほど……! そういうことか。サンキュ、皓二朗。さすがだな」
カヤさんは感心したように目を輝かせ、僕の顔を覗き込んでくる。
「……ん? お前、今日やけに手、握ってくるな」
彼女は繋がれた手を振り払うことはせず、それどころか嬉しそうに耳の先をほんのりと赤く染めた。
「なんかお前がこんなに甘えてくるの珍しいから……ちょっと嬉しい」
少しだけ照れくさそうに笑い、カヤさんは僕の肩にコテン、と自分の頭を預けてきた。
(――――ッ!!)
彼女のシャンプーの匂い、耳元で聞こえる甘い吐息、肩から伝わる柔らかな重み。
『皓二朗くんってさ……チュー、すっごく好きだよね?』
脳内で夢の中の彼女の意地悪な声が鮮明に再生された。このまま彼女の無防備な温もりに身を任せてしまえば、僕の理性が吹き飛んで図書室だろうと構わずに彼女を押し倒してしまいそうになる。
(僕はなんて最低な彼氏なんだ……!)
カヤさんは僕からのスキンシップをこんなにも純粋に喜んでくれているのに。僕の頭の中は、あの背徳的な夢の続きを妄想して欲情しているだけの、ただの汚い煩悩の塊だ。彼女の健気な愛情と自分の不純な下心の落差に、僕は激しい自己嫌悪に陥り耐えきれずに立ち上がってしまった。
「っ、ご、ごめん! 僕、数学の先生が帰る前に次の単元のこと質問しに行かなきゃいけないんだった!」
「えっ? お、おい皓二朗!?」
僕は繋いでいた手をバッと離し、ガタッと音を立てて椅子から立ち上がると、ぽかんとするカヤさんを残して逃げるように図書室を飛び出してしまった。
◆
「――というわけで、最近の皓二朗が本当によく分からないんだけど」
数日後の昼休み。部活も委員会にも所属していない皓二朗が体力があるという理由だけで担任の教師に捕まり、大量のプリントが入った段ボールを運ばされている隙を狙い、俺は自分の前の席で弁当を広げている麻依に、ここ数日の悩みを打ち明けていた。
近づいては離れ、甘えては怯える。二人きりになるとやたらと俺の匂いを嗅いできたり、指を絡めて手を繋いできたりする。俺もそれが嬉しくて応えようとするのに俺の方からすり寄ると、突然ビクッと身体を強張らせて「ちょっと先生に質問が!」などと苦しい言い訳をして逃げていくのだ。その反復横跳びのような彼の態度に俺の頭の中は疑問符で埋め尽くされていた。
俺の話を黙って聞いていた麻依は手元の卵焼きを箸で突き刺すと、ものすごく冷めた、遠くを見つめるような視線を俺に向けた。
「……で?」
「で、って……だから、私はどう接したらいいのか分からなくて」
「はぁ〜〜〜……」
麻依はこれ以上ないほど深い溜息を吐き出し、大げさに天を仰いだ。
「あのさあ、カヤ。あんたそれ、ただの惚気だからね? 『彼氏が私のこと好きすぎて甘えん坊で様子がおかしいんですぅ〜』って自慢? 爆発する?」
「ち、違うよ! 自慢なんかじゃない! だって、私から触ろうとすると露骨にビクッて逃げられるんだよ!?」
「はいはい、ごちそうさま。瀬戸くんも瀬戸くんだよ。普段はあんなに隙のないクールな優等生顔してるくせに、カヤの前だと限界オタクみたいになってんじゃん。ウケる」
麻依はケラケラと笑いながら、お茶を一口飲んだ。彼女からすれば俺の悩みなど「熱々カップルの幸せなすれ違い」にしか見えないらしい。
「いいよねー、両思いでラブラブな人たちは。こっちの苦労も知らないでさ」
「……苦労?」
俺が小首を傾げると麻依は眉間にシワを寄せ、机に突っ伏した。
「栄太のことだよ! あいつ、本当に鈍感というか、男女平等すぎるっていうか!」
「ああ……高橋くんね」
俺と皓二朗が付き合い始めてから、お互いの親友である麻依と高橋を交えて四人で遊びに行ったり一緒に過ごしたりする機会が自然と増えた。その心地よい関係の中で麻依は裏表がなく真っ直ぐな彼に自然と惹かれていったらしい。
「こっちはさ、最近勇気出して『高橋くん』じゃなくて『栄太』って下の名前で呼ぶようにしたり前進しようと頑張ってるのにさぁ! 向こうは相変わらず『よう!伊藤』だよ!? なんで照れずに普通に返してくんのさ!」
「まあ、高橋くんってそういう機微に疎そうだしね……」
「そう! あいつ、私のこと完全に『皓二朗の彼女の友達』とか『ちょっと仲の良い男友達』と同じテンションで扱ってくるんだよね! 異性として意識してない感じがビシビシ伝わってきて、泣きそう!」
麻依は恨めしそうに俺を睨みつけた。
「だから今度、どうやってあいつに私のこと下の名前で呼ばせようか夜な夜な作戦練ってるところなんだから! ……それに比べて、あんたたちのその贅沢な悩みはなんなのさ」
「……」
愚痴をこぼす麻依に対し、俺の顔に浮かんでいたのは惚気を茶化された時の照れではなく、ひどく真剣でどこか暗い翳りを帯びた表情だった。
「……カヤ?」
「……私さ。麻依にも言った通り、アスリスにかかる前は……『男』だったでしょ」
俺は膝の上に置いた自分の手を、ギュッと強く握りしめた。麻依には自分が病気で性別が変わったことや、皓二朗とはその前から因縁があって色々揉めていたことまでは打ち明けている。俺が彼を凄惨にいじめていたという地獄のような詳細は彼への配慮もあって濁しているが。
「皓二朗は、そんな私の過去も全部受け入れるって言ってくれた。……でも、やっぱりふとした瞬間に元男の私みたいなのと一緒にいるのが『気持ち悪い』って思っちゃったんじゃないかなって。だから……私から触られるのを反射的に拒絶してるんじゃないかって……」
「…………」
「あいつ、優しいから。私を傷つけないように無理して彼氏として振る舞ってくれてるけど……本当は私に触られるのは限界なんじゃないかと思うと、怖くて」
俺の声が微かに震える。それを聞いた麻依は、さっきまでの白けた態度をスッと引っ込め、箸を置いて俺に向き直った。
「カヤ、あんた、ほんっとに……そういうとこ自己評価ドン底だよね」
呆れたような、けれどとても真剣で優しい声だった。
「いい? 瀬戸くんがあんたのこと気持ち悪がってるわけないじゃん。体育祭の時も、文化祭の時も、瀬戸くんがあんたを見る目は完全に『世界で一番大切な人』を見る目だったよ。それは私が保証する」
「で、でも……じゃあなんで……」
「あんねえ、瀬戸くんはいくら大人びてても中身はただの『健全な男子高校生』なの。で、あんたは自分で気づいてないだろうけど、無自覚に男を狂わせるタイプのすっごい美人なわけ」
「……へ?」
「だから、あれだよ。あんたへの『好き』とか『触れたい』って気持ちが暴走しすぎて、自分から触るのはギリギリ我慢できるけど、あんたから触られると完全に理性が吹っ飛んじゃいそうになるから、必死にブレーキかけて逃げてるんじゃないの?」
麻依は腕を組み、名探偵のような顔つきで推理を披露した。
「あとは……例えばだけど、あんたのすっごいエッチな夢とか見ちゃってさ! 現実のあんたの顔を見るたびにそれ思い出しちゃって、どう接していいか分からなくなってる……とかね!」
「……っ!?」
冗談めかして笑いながら放たれた麻依の推論に俺は目を見開いた。
エッチな、夢。
それを聞いて俺の脳裏にある記憶が蘇る。そういえば数日前の夜、彼がすごい寝汗をかいて飛び起きたこと。その時に「変な夢を見た」と言っていたこと。そして彼が俺からのスキンシップを露骨に避けるようになったのは、まさにその「夢」を見た直後からだ。
(……嫌な夢、じゃなくて……そういう夢、だった?)
だとしたら合点がいく。彼は「気持ち悪い」から避けているのではなく、「理性が限界」だから避けているのだとしたら。図書室で俺がすり寄った時に見せた、焦ったような、熱を帯びた瞳の理由もすべて説明がつく。麻依はそこまで深く考えたわけでもないだろうが、この説は無視できない程度には信憑性があるかもしれない。
「……ねえ、麻依」
「ん? どうしたの、急に顔赤くして」
「もし、麻依の言う通りだとしたら。……私、どうすればいいと思う?」
俺が真剣な顔で尋ねると麻依はニヤリと悪戯っぽく笑い、俺の肩をポンと叩いた。
「そう! 彼女の特権、フル活用してきな! あんたが不安そうな顔してたら、瀬戸くんも余計に意地張っちゃうよ。愛する彼氏の理性、ぶっ壊してきなさい!」
麻依の力強い言葉に俺の心の中で渦巻いていた不安の泥が、スッと晴れていくのを感じた。
その時だった。
「よっす、伊藤。さっき俺のこと呼んだか?」
「へぶっ!?」
突然、教室の入り口からひょっこりと顔を出したのは先ほどの噂の張本人である高橋栄太だった。まさかの本人登場に麻依はカエルのような変な声を出して完全にフリーズしてしまった。
「廊下で駄弁ってたら、お前が『栄太!』ってデカい声で言ってるのが聞こえてさ。なんか用か?」
「ない! なんでもないから! ただの空耳だから! っていうか教室に入ってくんなバカ!」
顔を真っ赤にして両手をブンブンと振る麻依。高橋は「なんだよそれ」と首を傾げながらも俺たちの席の近くまでやってきた。
そんな二人を見ながら俺はふと思いついた。皓二朗の一番の親友であるこいつなら、あいつの隠している本音や男同士でしか話さないようなことを知っているかもしれない。
高橋栄太。彼は裏表がなく誰に対しても真っ直ぐに接する男だ。その裏表のなさのおかげで彼から向けられる視線には男特有の粘着質ないやらしさが一切なく、男性恐怖症気味の俺にとって数少ない「過去のトラウマを想起させない」貴重な存在だった。皓二朗との仲もあって今ではかなり気安い関係を築けている。
周りに知り合いが居ない時に、一緒に居るのが自分を含めた4人なら俺も気負わずに自然体な男口調でいられる。しかし、今は学校だ。他の生徒の目もあるため俺はあくまで「女子生徒の梶田カヤ」として振る舞わなければならない。けれど元男であるこの身体の精神構造には、女子特有の『男子に対する恥じらい』や『遠慮』といったストッパーが根本的に欠落している。だから俺は隣でパニックになっている麻依の制止も聞かずに、真っ直ぐ高橋に向かって尋ねた。
「ねえ、高橋くん。ちょっと聞きたいんだけど」
「ん? なんだよ、カヤ。瀬戸のやつなら、まだ職員室で捕まってるぞ」
高橋は私のことを自然に『カヤ』と呼ぶ。というのも俺の戸籍上の本当の苗字は『梶』なのだが、去年皓二朗が俺の偽名に合わせてずっと『梶田さん』と呼んでいた影響で、去年彼と同じクラスだった人間は俺の苗字を『梶田』だと間違えて覚えている人が多いのだ。いちいち訂正して回るのも面倒だし高橋のような親しい友人はこうして下の名前由来の、あだ名で呼んでくれるようになっている。
「いや、皓二朗の居場所じゃなくてさ。……あいつの『性癖』って、知ってる?」
「ぶっ!?」
隣で麻依が飲んでいたお茶を激しく吹き出しそうになった。麻依の鋭い視線が突き刺さるが俺は気にしない。対する高橋は女子から白昼堂々そんな単語を投げかけられたというのに、一切の動揺を見せなかった。ただ普通に腕を組み、「性癖なぁ……」と真面目に考える素振りを見せた後、あっけらかんとした顔で即答した。
「カヤだな」
「いや、好きな相手じゃなくて。そういうシチュエーションとか、フェチとかあるでしょ? 足が好きとか、胸が好きとか」
俺が呆れ気味に追及すると彼は「だから」と肩をすくめた。
「だから、お前のことだよ。男同士でたまにそういう手の話になってもさ、あいつ『カヤのあの仕草が可愛い』とか『カヤの匂いがヤバい』とか、本気でお前のことしか話さねーの。他の奴がアイドルのグラビアとか見て騒いでても、『俺はカヤの方がいい』の一点張りだぜ? マジで呆れるくらいお前一筋で、たまに引くわ」
「〜〜〜〜ッ!!」
俺の顔面は一瞬にして沸点に達した。
(あ、あのバカ……! 男友達の集まりで俺の惚気を!? しかも匂いがヤバいってなんだよ、恥ずかしい奴だなぁホントに……っ!)
「なんだよあいつ……っ、人の気も知らないでベラベラと……っ! バカ! 皓二朗のすけべ! もういい、しょうがねえから後であいつ本人を直接問い詰めて聞き出してやる!」
「ストップ、カヤ! 素の口調出てる、出てるから!」
隣から麻依の鋭い小声のツッコミが飛んできた。学校では「女子生徒」として振る舞わなければならないのに恥ずかしさと憤りのあまり、完全に素の男口調が漏れていた。私は慌ててコホンと咳払いをして姿勢を正す。
「……っ、き、聞き出してやるからね!」
耳の先まで真っ赤に染めながら照れ隠しで早口に言い直す私を見て、高橋はおもしろそうにニヤニヤと笑った。
「ははっ! 瀬戸のやつ、お前に問い詰められるとかご愁傷様だな。……もし、おもしろい性癖聞き出せたら、後でこっそり俺にも教えてくれよ」
「うん、任せて。バッチリ吐かせるから」
とりあえず同調しておきつつ私はふと、会話のついでに特に意識することもなく言葉を続けた。
「……ちなみに、高橋くんの性癖は?」
本当に、ただ会話を膨らませる程度の、ごくごく軽い気持ちでの質問だった。
「脚とヘソ」
ノータイムだった。一秒の躊躇いもなく高橋が清々しいほどハッキリと即答した、その直後。
「痛っ!」
「いでっ!」
私と高橋の頭に顔を真っ赤にした麻依の平手がスパーン!と綺麗にクリーンヒットした。
「あんたたちねぇ! 昼休みの教室で堂々となんて話してんのよ! このバカ男子ども!」
照れ隠しで怒鳴る麻依に私は頭をさすりながら「ご、ごめん、ちょっと気になっちゃって……」と苦笑した。高橋も「いってぇな! 聞かれたから答えただけだろ!」と文句を言っている。
麻依はプリプリと怒りながらも内心で呆れたような、けれどどこか感心したようなため息を漏らしていた。
(カヤってば自分が『元男』なことにあんなに引け目を感じてるくせに……男子相手にこういう会話を一切の遠慮なくポンポンできるの、絶対に『強み』だよね……。そりゃ瀬戸くんも狂うわ)
そんな麻依の心の声など知る由もなく、私は彼女への『アシスト』を思いついた。先ほどの相談に乗ってくれたお礼だ。
「あ、そういえばさ、高橋くん」
「ん? なんだよ。まだ叩かれたとこ痛ぇ……」
「皓二朗って結構人見知りだから、高橋くんのこと下の名前で呼ぶようになるまで少し時間かかったでしょ? でも最近は普通に『栄太』って呼んでるし……私たちもこれだけ一緒にいる仲なんだから、高橋くんも麻依のこと、そろそろ下の名前で呼んでいいんじゃないかなって思って」
突然の俺のキラーパスに麻依が「ひっ」と息を呑んで硬直した。高橋はきょとんとした顔で私と麻依を交互に見た後、「あー、確かに」とポンと手を打った。
「言われてみればそうだな。伊藤ってのもなんか堅苦しいし。……伊藤もそれでいいか?」
「あ……っ、えっと、う、うん……っ」
麻依は顔をゆでダコのように真っ赤にして、壊れたおもちゃのようにコクコクと頷くことしかできなかった。
「よし、決まりだな。じゃ、俺そろそろ戻るわ」
高橋はひらりと手を振って背を向けた。そして去り際、振り返りざまにさらりと言い放った。
「じゃあな、麻依」
不意打ちの破壊力に麻依の顔が限界まで赤く沸騰する。だが、彼女もただやられっぱなしで終わる乙女ではない。
「う、うんっ! じゃ、じゃあね……栄太っ!!」
半ばやけくそ気味に、けれどもしっかりと彼の背中に向かって言い返した。高橋は振り返りざまにニカッと笑って「おう」と短く返し、そのまま教室を出ていった。その背中が完全に見えなくなった瞬間。
「むり! 心臓止まる!!」
ついに限界を迎えた麻依が机に突っ伏してバタバタと身悶えを始めた。
「あははっ、良かったね、麻依」
「カヤのバカ! 急に何言い出すかと思ったじゃんか!」
「お互い様でしょ?」
さあ、次は俺の番だ。覚悟しておけよ、皓二朗。俺は笑いながら、図書室がある方向へと視線を向けた。
そして机に突っ伏したままの麻依の頭の中では、先ほど高橋がノータイムで放った『脚とヘソ』という言葉が遅れて強烈なファンファーレと共に鳴り響いていた。
(――待って。脚とヘソって……文化祭の時のダンスの衣装、私、まさに脚とお腹周りガッツリ見せてたじゃん……!)
あの露出の多い衣装を誰よりもバッチリ着こなしたという強い自負が彼女にはある。
(ってことは……私、あいつに対してめちゃくちゃチャンスあるってことなんじゃ……!?)
恥ずかしさと大きな期待でさらに顔を熱くしながら麻依は机の下でそっと、特大のガッツポーズをキメていたのだった。
決意を胸に秘めた放課後の図書室。窓際の一番奥、いつもの特等席には俺と皓二朗の二人きりだった。皓二朗は向かいの席で少しだけ視線を彷徨わせながら数学の問題集に向かっていた。ここ数日、俺が近づくたびに露骨にビクビクしている彼は今もどこか不自然に背筋を伸ばし、俺と目を合わせないようにしている。
(……よし。いっちょ、かましてやるか)
俺は手元の文庫本に栞を挟んでパタンと閉じると、まるで「今日の夕飯何にする?」とでも聞くような、ごくごく自然な世間話のトーンで口を開いた。
「なあ、皓二朗。お前ってどんな性癖してるんだ?」
「……っぶ!?」
カタンッ! 皓二朗の手からシャーペンが滑り落ち、机の上で甲高い音を立てた。彼は目を限界まで見開き、信じられないものを見るような顔で俺を凝視した。
「か、カヤさん……? いま、何て……」
「だから、性癖。好きなシチュエーションとか、フェチとかあるだろ。聞いておきたいなと思って」
俺が頬杖をつきながらストレートに追及すると皓二朗は「ひっ」と短く息を呑み、顔を真っ赤にして周囲をキョロキョロと見回した。幸い誰もこちらには注目していない。
「な、なんで急にそんなこと聞くのさ……! だいたい、女の子がそんな言葉、簡単に口にしちゃダメだよ!」
「なんでって……昼休み、栄太と話の流れでそういう話題になってさ。あいつは『脚とヘソ』だって即答してたぞ」
「栄太と!?」
勝手に名前を拝借した栄太には少しばかり申し訳ない気もしたが、彼の大らかな性格なら笑って許してくれるだろうと内心で都合よく解釈しつつ、俺はしれっと話を盛った。
皓二朗は頭を抱え、「あいつ、カヤさん相手に何てこと教えてるんだ……」と深いため息を吐いた。
「……まあ、栄太なら変な下心で言ったわけじゃないんだろうし、あいつなら異性としての変な問題も起きないだろうからいいけどさ」
親友の性格を熟知している皓二朗は呆れながらも特に浮気やちょっかいを心配するような素振りは見せなかった。ただ、彼氏としての矜持なのか少しだけ真剣な顔をして俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「でも、カヤさん。いくら気安いからって他の男子にはそういうこと絶対に聞いちゃダメだからね。勘違いされるかもしれないし危ないから」
一言だけチクリと注意をしてくるその顔は、過保護なお兄ちゃんのようで少しだけむず痒い。
「分かってるよ。俺だって誰にでも聞くわけじゃない。……で? 肝心のお前の答えは?」
「答えって……」
「彼氏の好みくらい、彼女として知っておきたいだろ。言えないような変態的な趣味でも隠してるのか?」
俺が意地悪く身を乗り出すと皓二朗はまたしてもビクッと肩を震わせ、少しだけ俺から距離を取るように身体を引いた。
「違うよ。変態的な趣味なんてない。……というか真面目に考えても、本当にこれといったものはないんだ」
「ない? 健全な男子高校生が?」
「本当だよ。だって……僕は、ずっとカヤさんが好きだから、今のカヤさんそのものが一番好きなんだ……カヤさん以外に、フェチとかシチュエーションとか、答えの出しようがないというか……」
視線を泳がせながらポツポツと紡がれる不器用な本音。それは昼休みに栄太が言っていた『あいつはお前一筋』という言葉と完全に一致していた。
(〜〜〜〜ッ!! なんだよそれ、ずるいだろ……!)
予想以上の破壊力を持ったストレートな愛情表現に、仕掛けた側の俺の方が顔を真っ赤にしてしまいそうになる。だが、ここで照れて引いてしまっては彼の「理性の壁」を壊すことはできない。俺はグッと奥歯を噛み締め、平静を装った。
「そ、そうかよ。……でも、それじゃあ面白くないだろ。もっとこう、強いて言えば、みたいなのないのか?」
「強いて言えば……」
皓二朗は少しの間、天井を見上げて真面目に考えていたが、やがて視線を俺の顔へと戻した。
「……今のカヤさんに無いものって言うと、『九条綴』に因んだ銀縁の眼鏡……とかかな」
「……なるほど。眼鏡か」
その答えには、ひどくしっくりくるものがあった。俺が彼と初めて出会い、彼が俺に惹かれてくれたのは、俺が『九条綴』という眼鏡のヒロインの仮面を被っていたからだ。あの知的な鎧が彼の好みに刺さっていたというのは、すごく納得できる。
「分かった、今度休みの日にでもかけてきてやるよ」
「あ、うん。ありがとう」
「……でも俺が知りたいのは、もっと根本的なところっていうか。ほら、フェチとか性癖って、思春期の最初の頃の経験とかがルーツになるって言うじゃん」
「えっ?」
俺は机の上に身を乗り出し、彼の逃げ道を塞ぐようにじっと目を覗き込んだ。
「皓二朗って中学の時はボクシング一筋だったって聞いてるけど……実際はどうだったんだ? 恋愛とか、異性関係とか。もちろん、お前の初恋の相手が本の中の『九条綴』だってことは知ってる。だから、あくまで現実の女性に限定してさ。好きだった女子のタイプとか記憶に残ってる相手とか、何か思い出はないのか?」
俺がそこまで踏み込んで聞くと、皓二朗はカヤの期待に沿うような「過去の恋愛話」を提供できないか、真剣に悩み始めた。「うーん……」と腕を組み、記憶の糸をたぐるように伏し目がちになる。
「中学の時は本当にボクシングしかしてなかったからね。同じクラスメイトの女子とも距離があったし、挨拶する程度のコミュニケーションしかとってなかったから、そういう対象として挙げるには適さないというか……」
ひどく申し訳なさそうに言う皓二朗。
「でも、強いて言うなら……」
「おっ、いるのか?」
皓二朗は顔を上げ、どこか遠くを見るような、それでいてひどく熱を帯びた瞳で俺の顔を見つめた。
「自分でも、僕はどれだけカヤさんのことが好きなんだろうって呆れるんだけど……」
「え?」
「現実の異性関係というか……異性で記憶に残ってる相手という意味なら、中二の冬に橋の上で会った『銀髪の少女』姿のカヤさんが、すごく思い浮かぶんだ」
彼自身、自分の一途なところは誇るべき長所だと思っているはずだ。だが俺の期待に応えようと真面目に絞り出した答えすらも、結局そこにしか行き着かない自分自身に流石に呆れが勝ったような苦笑いを浮かべていた。対してそれを聞いた俺は、ぽかんと口を開けたまま数秒ほど硬直した。
「……いや、それも俺だろ」
「うん。だから、結局カヤさん以外答えがないんだよね」
どれだけ異性関係の話を深掘りしても、現在も過去も、果ては二次元の初恋相手の模倣まで含めて、すべてが『梶田カヤ』という一個人に収束してしまう。
「〜〜〜〜ッ!! なんだよお前! どんだけ俺のこと好きなんだよバカ!!」
「わっ、カ、カヤさん!?」
皓二朗の理性の壁を壊して問い詰めるはずが、気がつけばあいつの圧倒的で重すぎる一途さに俺の方が完全にキャパオーバーを起こしていた。顔から火が出そうなくらい熱い。限界突破した照れくささで俺は頭を抱えて机に突っ伏し、くぐもった声を上げて身悶えするしかなかった。
俺の自滅っぷりを見て、皓二朗の奴も激しく狼狽している気配がする。
(どうしよう、完全にペース握られた……)
俺がパニックに陥っていると、頭上から慌てたような声が降ってきた。
「カ、カヤさん! ごめん、思い出した! もう一つあったよ!」
「……っ、なんだよ……」
まだ顔は熱かったが俺は机に突っ伏したまま、腕の隙間から恨めしそうにあいつを睨みつけた。なんだよ、もう一つって。
「あのね、中学の時、ボクシングの練習とか試合でよく傷を作ってたから……医者に行くことが結構あってさ」
「……うん」
「そこでよく出くわす、看護師の綺麗なお姉さんがいて。優しく手当てをしてくれたりして……その、結構気になってたかも、しれない」
ポツポツと語り始めたその内容に俺はゆっくりと顔を上げた。まだ顔に熱は残っていたが、さっきまでの限界突破したパニック状態はスッと引いていくのを感じた。
「……マジで?」
「うん。優しくて、大人っぽくて……綺麗な人だったよ」
「……なるほど」
俺は一つ咳払いをして、乱れた前髪を整えながら姿勢を正した。
「つまり……『看護師フェチ』的な?」
「そうそう! それだね、白衣とか……うん、そういう感じだと思う」
俺の言葉に皓二朗は全力で同調するように何度も頷いた。それを聞いて、俺は「ふぅん……」と目を細めた。
(なんだよ、ちゃんと健全な男子高校生らしいところ、あるじゃないか)
俺のことしか見えてないストイックなボクサー気取りかと思いきや、ちゃんと年上のお姉さんにドギマギしていた時期があったらしい。そう思うとどこか安堵するような……でも、自分以外の女に見惚れていたという事実に、少しだけ面白くないような、複雑な気分になった。
「なるほどな。看護師のお姉さんか……白衣ね……」
俺は顎に手を当てて、思考を巡らせた。俺が真剣にブツブツと呟き始めると、皓二朗が慌てたように弁解してきた。
「……あ、いや、でも別に今も好きってわけじゃなくて! あくまで過去の話だからね!?」
「分かってるよ。焦るなって」
俺はフッと口角を上げた。彼を追い詰める絶好の『弱点』を見つけたのだ。かつての『王様』としてのドSな血が騒ぎ、自然と意地悪な微笑みが浮かんでしまう。
「安心したよ。お前みたいな堅物が、ちゃんと年上のお姉さんにドギマギしてた時期があったなんてな。……そういう弱点、もっと早く教えてくれればよかったのに」
「弱点って……?」
俺が何を企んでいるのか分からず、皓二朗がビクッと身構えた。今ここでネタばらしをしてはつまらない。俺はそれ以上の追及を避け、「いや、なんでもない。ただの独り言だ」と誤魔化すようにフイッと視線を逸らした。
そして、パタンと手元のノートを閉じると、これからの計画に向けてわざと軽いトーンで口を開いた。
「ああ、そうだ。今度の休みなんだけどさ」
「え? うん」
「麻依と駅前に買い物に行く約束したから、お前とは遊べないわ。悪いな」
「あ、そうなんだ。全然構わないよ、楽しんできてね」
「おう。……じゃ、今日はもう帰るか!」
立ち上がった俺の足取りは図書室に来た時よりもずっと軽く、自然とウキウキした気分になっていた。俺の後ろを歩く皓二朗は、どうやら俺の機嫌が直ったと安堵して、ホッと胸を撫で下ろしているのが伝わってくる。
(ふふっ、油断してろよ)
俺が今度の休みに麻依を誘って買いに行こうとしているものが、あいつの吐いた『弱点』から導き出された最凶の衣装であり……後日、最近余裕ぶって俺から逃げ回っているあいつの理性の壁を、跡形もなく粉砕してやるための『決戦兵器』となることなど、今の皓二朗は知る由もないのだから。