純愛要素はないので注意してください
納涼祭の夜、再び沈む泥濘 前編
「……隠したって無駄だぜ。その耳の穴、塞がってねぇじゃんかよ」
男たちの背中が闇に消え、周囲には再び祭りの喧騒だけが取り残された。足元には無惨に弾き飛ばされた眼鏡が転がっている。それは「九条綴」という鎧の残骸であり、己の嘘の象徴だった。
(バレた、知られた。わたしの、薄汚れた過去が……)
頭の中が真っ白になり、ドクン、ドクンと心臓が早鐘のように激しく鳴り響く。呼吸の仕方が分からなくなるほど喉が激しく締め付けられる。彼のような真っ直ぐで正しい光の横に並び立つために、私は美しい『完璧な余白』を持ったヒロインに憧れて演じてきたのだ。それなのに、この耳に穿たれた八つの穴が泥の底で男たちに蹂躙されながら生き延びてきた『銀髪の少女』という醜悪な正体を、あっさりと暴き立ててしまった。
「……梶田、さん」
彼の静かな声が、いつものように自分の心を安心させてくれない。焦燥感でいっぱいになった頭の中に嫌に響いている。彼は土の上に転がったひび割れた眼鏡を拾い上げようと手を伸ばし――そのまま、私の顔を優しく覗き込もうとした。
「大丈夫だから。……怖くないよ」
その温かく誠実な掌が私の肩に触れようとした、まさにその瞬間だった。
「見ないで……ッ!!」
自分でも驚くほど大きな声を出してしまった。その拒絶の叫びよって彼の差し出してくれた手は止まってしまい、所在なく宙を彷徨う。驚きに目を見開く瀬戸くんの顔を直視することはできなかった。幻滅されたくない、軽蔑されたくない。あの眩しい光のような彼に汚物を見るような目を向けられてしまったら、私は今度こそ完全に心が壊れてしまう。
「いやだ……っ、こないで……っ!!」
「待って! 梶田さん!!」
背後から彼が呼ぶ声がしたが足は止まらなかった。ただ逃げたかった。彼に相応しい「九条綴」という虚像が崩れ去り、泥に塗れた醜い正体が完全に暴かれてしまったこの耐え難い現実から。
息を切らし紺色のワンピースの裾を翻しながら、暗い砂利道をつまずくように走る。涙でぐしゃぐしゃになった視界のまま、祭りの提灯の光すら届かない鬱蒼とした神社の裏手――暗い木立のさらに奥深くへと、私は無我夢中で逃げ込んでいった。
『……ほら見ろ。眼鏡なんかで誤魔化してるが、この目つき、間違いねぇ』
『清楚ぶったツラしやがって。……中身はあの頃と変わらねぇ、「穴だらけの玩具」だろ?』
『おい、兄ちゃん。騙されてんじゃねぇぞ? こいつはこんな清楚なツラしてるがな、中身は穴だらけの不良娘だ。耳だけじゃねぇ、心も体もな』
先ほど、人混みを外れた場所で絡んできた成人男性の言葉が脳内で何度もリフレインする。ただのナンパだと思って瀬戸くんが間に入ろうとした瞬間、男は左耳に残る四つのピアス穴の痕と顔を見て、明確に「過去」を認識したのだ。
『……隠したって無駄だぜ。その耳の穴、塞がってねぇじゃんかよ』
男の決定的な捨て台詞と、それを聞いて息を呑んだ瀬戸くんの顔。せっかく築き上げかけていた温かい関係性が、あんな薄汚れた過去の痕跡を知られたことで音を立てて崩れ去ってしまう気がした。彼に軽蔑されるくらいなら、不審に思われるくらいなら、いっそこのまま暗闇に溶けて消えてしまいたい。
息が切れ人気のない神社の裏手、鬱蒼とした木立の陰に倒れ込む。アスリスによって最適化された34℃の虚弱な身体は限界を迎え、激しい動悸と冷や汗が止まらない。
「……はぁっ、はぁ……っ」
膝を抱えて息を整えようとした、その時だった。
「……おいおい、こんなとこに一人で逃げ込んでたのかよ」
背後から鼓膜を震わせた野太い声に全身の血が完全に凍りついた。ゆっくりと振り返ると、そこには先ほど正体を言い当てた茶髪の成人男性たちが下卑た笑みを浮かべて立っていた。瀬戸くんという絶対的な後ろ盾を自ら手放し、一人で暗がりに迷い込んだ獲物は、執念深く追ってきた彼らにとって格好の的だった。
「な、なんで……っ」
「さっきはあのデカい彼氏が凄んできたから一旦引いてやったけどよぉ。……やっぱり間違いない、あの時の『銀髪ちゃん』だろ」
男が獲物をねぶるような視線で紺色のワンピース姿を舐め回す。
男の脳内では目の前の黒髪の清楚な少女と、記憶の中の「荒んだ銀髪のショートカットの少女」が完全に重なっていた。当時の自分は今よりも少し背が低く、精神的な摩耗からくる不健康さで、どこか薄幸で肉付きの悪い身体をしていた。だが同時に、二次性徴が進んだ女性らしい骨格と不相応に早熟な色気を持っていたため、客の男たちからは「高校生」として扱われることも多かった極上の玩具だったのだ。
「まさか、あの生意気で薄汚ねぇ不良娘が、こんな極上の女になってるとは思わなかったぜ。……今夜はたっぷり愉しませてくれよ?」
「ひっ……!!」
逃げようと背を向けた瞬間、大人の男の暴力的な腕力に捕らえられた。背後から太い腕が回り込み、タバコと汗の入り混じった汚らしい手が顔の下半分を強引に塞ぐ。逃げ惑う足をもつれさせながらも立ったまま神社の裏手にそびえる太い神木へと背中を力任せに押し付けられた。ゴツゴツとした硬い樹皮が背中に食い込む痛みに短く息を詰まらせる。
「んんッ!? んぐッ……!!」
逃げ場を失い、立ったまま拘束された無力な身体に三人の男たちが飢えた獣のように群がってくる。正面に立った男の一人が乱暴に薄手のカーディガンを引き剥がした。夜の空気に晒された紺色のワンピースの胸元へ熱を持った汚らしい手が伸びる。
「この冷たさ……死体みてぇな低体温はあの頃と変わらねぇな。だが、随分と肉付きは良くなったじゃねぇか」
男の指先が34℃の冷たい肌の温度を確かめるように、布地越しに胸の膨らみを執拗に揉みしだく。
「あのガリガリで薄っぺらかった不良娘が、欲をぶつけるのに相応しい立派なメスに育ちやがって。……とくにここは、あの頃とは全然違うなァ」
下劣な笑い声とともに空いているもう片方の手がワンピースの襟元を強引に引き下げた。露わになった柔らかな膨らみに男が直接卑猥な口を寄せる。チュル、と水音を立てながら敏感な箇所をねっとりと舌で転がし、貪るように味わい始めた。
足元にしゃがみ込んだもう一人はワンピースの裾を捲り上げ、露わになった白く柔らかな太ももに両手を這わせた。
「たまらねぇな、この冷たい肌……。話に聞いてたよりずっと極上の女だぜ」
生々しい熱を持った手が撫で回し、そこに粘着質な舌が這う。冷たい肌の上を滑る不快な感触に全身に鳥肌が立った。そして背後から身体を拘束し、口を強引に塞いでいる男。逃れようと身をよじるたびに腕の力を強め、恐怖で冷や汗を滲ませた首筋に背後から湿った舌を這わせてくる。さらに興奮して硬く昂った自身のものを薄い布地越しの臀部へと執拗に擦り付けてきた。
「暴れんなよ。声出したらどうなるか、あの時の身体でよく知ってんだろ?」
耳元で囁かれる言葉が、かつての泥濘の記憶を完全にフラッシュバックさせる。
「んんッ!? あ、が……っ、やだ……っ!」
塞がれた口から漏れる悲鳴は誰にも届かない。立ったままの無防備な身体を這い回る暴力的な熱と三つの執拗な舌と手。それらが外側からじわじわと純白に生まれ変わったはずの心を泥で汚していく。あの凄惨な夜の地獄が、今まさに口を開けて待ち構えているという逃げ場のない恐怖。
痛い、怖い、気持ち悪い。
必死に築き上げてきた「九条綴」という鎧が音を立てて砕け散っていく。やっぱり過去からは逃げられなかったのだと、絶望が視界を真っ暗に塗りつぶそうとした。
その時だった。
ザッ、ザッ、と。神社の裏手へと続く砂利道を誰かが走ってくる激しい足音が響いた。
「――梶田さん!! どこにいるの!!」
木立の向こう、数十メートル先の参道から切羽詰まった瀬戸くんの声が聞こえた。荒い息遣い、周囲の茂みをガサガサとかき分ける音。いつもは冷静な彼が、なりふり構わず必死に探してくれているのだ。
そして一番来てほしい人の声が暗闇に響いた、まさにその瞬間だった。
背後から身体を拘束している男が、ニヤリと下劣な笑みを深める気配がした。背中を預けた形になっているため、後ろで何が起きているのか視覚では確認できない。その「見えない恐怖」が極限まで膨れ上がった直後、背後で微かにズボンの金具が外れるような音がした。
次の瞬間、男の限界まで昂った卑猥な熱が背後から両足の隙間へと滑り込んできた。
「んんッ……!? ひっ、あ……ッ」
それは捲り上げられた紺色のワンピースの裾を潜り抜け、下着越しに最も無防備で敏感な箇所へと直接押し当てられた。
「おっと、さっきの彼氏のお出ましだ。……聞こえねぇように、もっと声殺せよ。元・銀髪チャン?」
男は、すぐ近くで名前を呼ぶ瀬戸くんの切羽詰まった声に自身の嗜虐心と興奮をさらに煽られたらしかった。耳元で下劣な吐息を吹きかけながら、下着越しに押し当てたその硬い熱を、いやらしく前後に動かし始める。布地が擦れる生々しい感覚とともに柔らかな場所に暴力的な摩擦が何度も何度も執拗に繰り返される。男は怯えて震える身体の反応を、まるで極上の玩具のようにねっとりと味わい、その往復を心底楽しんでいた。
そして、幾度かの往復でさらに自身の熱を昂らせた男は次の行動へと出た。
不快な摩擦を繰り返していた下着の端へ粗雑な指を引っ掛け、情け容赦なく無造作に引き下げる。同時に背後から体重を乗せて強引に上体を前へと屈ませ、腰を後ろに突き出すような屈辱的な姿勢へと無理やり作り変えてきたのだ。次に何が行われるのか。その最悪の結末を悟り、恐怖で全身の血が凍りつく。
(いやだ、だめだ、これ以上は……!)
拘束から逃れようと無我夢中で身を捩って必死に抵抗する。しかし、虚弱な身体では大人の男三人に完全に押さえ込まれた状態から抜け出せるはずもない。むき出しの素手で顔の半分を覆うように口を塞がれているため、助けを求める叫びも「んぐっ……! んんッ、あぁ……っ!」という、言葉にならないくぐもった喘ぎとなって夜闇に漏れるだけだ。
「梶田さんッ……! お願いだ、返事をして……っ!」
足音が近づいてくる。ザクッ、ザクッという砂利を踏みしめる音が地面を伝って足元を震わせた。あと少し、あと十歩も茂みの奥へと踏み込んでくれれば、この絶望の底から引きずり上げてくれるはずなのに。
「……梶田さん? まさか、こんな暗いところには……」
一番来てほしい人の足音が、すぐそこまで迫り――木立を隔てたすぐ向こう側で、ピタリと止まった。
(瀬戸くん……っ! 瀬戸くんッ!! 助けて、ここだよ、気づいて……ッ!!)
心の中で血を吐くような思いで彼への救難信号を叫び続ける。手を伸ばせば届くかもしれない距離に光がいる。彼がすぐ近くで立ち止まり、息を殺して周囲の気配を探っているのが分かる。限界まで見開かれた目から絶望の涙がボロボロとこぼれ落ちる。最後の力を振り絞り、口を塞ぐ無骨な手に噛み付こうと身をよじり、喉が裂けるほどの悲鳴を上げた。
「んんーーーーッ!! あ、が……ぁっ……!!」
だが、その必死の叫びが夜闇を震わせようとした、まさにその瞬間だった。
ドーンッ!!
夜空で祭りの最大の花火が連続して打ち上がる、腹の底から揺さぶられるような大轟音が響き渡った。
その最初の炸裂音と同時だった。アスリスによって新しく作り変えられ、いつか彼に胸を張って並び立てる友人でありたいと願い、過去の汚れをすべて消し去ってくれた「無垢で綺麗な身体」 それが容赦なく、暴力的にこじ開けられたのは。
「あ……あぁぁぁッ!! ん、ぁ……ッ!!」
極彩色の光が木々の隙間から一瞬だけ暗がりを照らし出した瞬間、身体を貫いた決定的な痛みと熱。喉から血が出るほど叫んだはずの救いを求める声は、その圧倒的な爆音の中に完全に呑み込まれた。すぐそばにいる瀬戸くんの焦燥に満ちた呟きすらも次々と打ち上がる花火の連続音にかき消され、そして完全に別の方向へと遠ざかっていく。
張り詰めていた「希望」の糸が千切れ、そこからはしばらくの間、ただただ底なしの絶望の暗闇に呑み込まれていた。
(……せっかく、やり直せるチャンスを手に入れたのに)
男たちの暴力的な律動に身体を揺さぶられ痛みに涙を流しながら、頭の中ではただ喪失感だけが渦巻いていた。あんなに真っ暗で冷たかった泥濘から這い上がり、瀬戸くんという太陽のそばで、ようやく安心できる暖かな場所を見つけたばかりだった。彼と図書室で過ごす時間は何にも代えがたい宝物だった。それなのに、努力も祈りも、積み上げてきた『九条綴』としての尊厳も。すべてが今、この薄汚れた暗がりの中で無惨に踏みにじられ、完全に台無しになってしまった。
どれくらいの時間が経っただろうか。やがて背後で獣のように荒い息を吐いていた男が満足げな下劣な声と共に、己のどす黒い欲望を完全に吐き出し終えた。
「はぁっ……最高だぜ。おい、代われ」
「おう、次は俺だ。たっぷり鳴かせてやるよ」
一人がその行為を終えると、すぐさま「次は俺だ」と嗤う別の男が押し入り、容赦なく交代していく。
その絶え間ない地獄の連鎖を突きつけられた瞬間。熱い涙を流して必死に抵抗していた身体から、スッと力が抜け落ちた。
(……結局、昔に戻ってしまった)
どんなに綺麗な服を着ても、言葉遣いを直しても過去からは逃げられなかった。ダメだったのだ。あがいても願っても、神様なんていなかった。全部、無駄だった。絶望が臨界点を突破し、冷たい『諦観』へと変わる。ピンと張り詰めていた心が、バキッと音を立てて完全に折れてしまった。
もう、どうにでもなればいい。すべてが手遅れなら、取り返しがつかないほど汚されてしまったのなら、これ以上心が傷ついて壊れてしまわないために、いっそこの泥の底で狂ってしまえばいい。自暴自棄になった精神は、この耐え難い現実から完全に逃避するために最も残酷で悲惨な防衛本能を強制的に作動させた。
「あ……あはっ、あはは……っ、あはぁッ!」
花火の爆音に紛れて、自嘲とも歓喜ともつかない壊れた笑い声が漏れる。もう何も隠す必要などない。かつての泥濘の中で数え切れないほど蹂躙され、男たちに都合のいいように開発され尽くした身体。忌まわしいはずのその肉体の記憶が諦観と絶望をトリガーにして完全に熱を帯び、どうしようもなく疼き始めていた。
「もっと……もっと、めちゃくちゃにして……っ。どうせ、わたしなんて……っ」
理性も彼に相応しい人間でありたいという願いも、すべてをかなぐり捨てる。すぐ近くに最も大切な光がいたというのに、かつての客たちに嬲られながら、自ら獣のようにその快楽を貪っていく。新しくねじ込まれる暴力的な熱に合わせるように自らだらしなく腰を跳ねさせ、嬌声を夜闇に撒き散らす。
そのあまりにも無様で滑稽な己の末路が、どうしようもなくおかしくて、悲しくて惨めで。目からは止めどなく絶望の涙が溢れ続けている。
「あははっ! すご、い……っ、あぁッ!」
なのに口元に浮かんでいるのは、正気を失った痛々しいほどの笑顔だった。心が完全に砕け散った代償として、脳内は現状の暴力を「快楽」として変換し、逃避行動として自ら楽しむ方向へと完全にシフトしてしまった。自分を大切にしてくれた彼の足音が完全に遠ざかる中、大粒の涙を流し、壊れたように笑いながら目の前に差し出される別の男の劣情に自ら這い寄り、淫売のように身を委ねて、その汚れを全身で受け入れていく。
誰も助けに来ない。暗い木立の裏で大輪の花火が夜空を極彩色に染め上げるたび、暗い木立の裏では壊れたオルゴールのような甘く濁った嬌声と痛々しいほどの狂笑が響き続けていた。
「あはっ……あははっ、もっと……っ」
大粒の涙を流しながら差し出される暴力的な熱に自ら擦り寄っていく。かつて瀬戸くんと並んで歩くために必死に磨き上げた「九条綴」としての知性も、過去を恥じて手に入れたかった「普通の女の子」としてのささやかな願いも、もう脳内のどこにも残っていない。ただ目の前にある残酷な快楽だけを貪り、痛みを麻痺させ、心がこれ以上傷つかないようにと自ら進んで薄汚れた泥人形へと成り下がっていく。
やがて夜空を焦がしていた祭りの花火が、最後の大音響とともに完全に途絶えた。硝煙の匂いを含んだ夏の夜風が鬱蒼とした木立の間を吹き抜けていく。
「……はぁっ。相変わらず、極上の玩具だったぜ」
満足げな、ひどく下劣な吐息。欲望のすべてを吐き出し終えた男たちが乱れた衣服を無造作に直しながらゆっくりと立ち上がった。
「あんな清楚なツラして、中身はあの頃以上にイカれてやがる。……やっぱりお前は、こういう泥の中が一番お似合いだぜ」
「また遊んでやるよ、元・銀髪チャン」
嘲笑と小銭の入った財布を弄るような品のない金属音が響く。男たちの足音が砂利を踏みしめながら、暗がりから遠ざかっていく。その気配が完全に消え去った後には生ぬるい夜気と、暴力の残滓だけが残された。
冷たい土の上。引き裂かれた紺色のワンピースを纏い、力なく投げ出された34℃の虚弱な身体。薄く開かれた瞳は何も映しておらず、ただ虚空を見つめている。頬には乾ききった涙の痕が張り付き、口元にはまだ微かに壊れたような笑みが張り付いたままだった。
『――君が誰の真似をしていようと、僕は今の君が好きだよ』
不意に、脳の奥底に沈んでいた瀬戸くんの温かい声がフラッシュバックした。優しかった彼の掌の温度。同じ傘に入り、彼の温もりに守られた帰り道。図書室の窓際で、同じ物語のページをめくった静かな放課後。
(……ああ。……きれいだったな)
他人事のように、そんな感情がふわりと浮かび上がる。太陽のように眩しい彼の隣は本当に暖かくて、心地よかった。けれど夜の泥濘でしか呼吸できない蛾に、あの眩しすぎる光は最初から分不相応だったのだ。指先一つ動かす気力もないまま、ただゆっくりと目を閉じる。
銀の蛹は、その美しい羽を広げることは出来ず、永遠に泥の中へと閉ざしてしまった。
……
…………
……………………
祭りの囃子が遠のき、人影もまばらになった神社の境内。瀬戸皓二朗は息を切らし、汗だくになりながら神社の裏手へと続く暗い砂利道を一人歩いていた。
「梶田さん……っ、どこにいるんだ……」
花火の爆音が鳴り響いていた間、周囲の気配は完全に掻き消されていた。手当たり次第に探し回ったが彼女の姿はどこにもない。何か嫌な予感が、ずっと胸の奥で警鐘を鳴らし続けている。手の中にある見慣れた銀縁の眼鏡は本来の持ち主を待ち続けているというのに。
「梶田さん……っ!」
眼鏡を握りしめたまま周囲の暗がりを見渡すが、そこには誰もいない。しかし微かに土が荒らされた痕跡と夏の夜風が木々の葉を揺らす音だけが、不気味なほど静かに広がっている。
どうして、あの時、手を離してしまったのか。どうして、男たちが絡んできたあの瞬間に力ずくでも彼女を守り抜かなかったのか。後悔と自責の念が瀬戸皓二朗の心を鋭く抉っていく。彼女が過去にどんな傷を抱えていたのか。今日、この暗がりの中で彼女の身に何が起きたのか。真実を知る術は、もう彼には残されていなかった。