ゴールデンウィークも過ぎ去った東京は、まだ五月だというのに夏だと勘違いするくらいの気温。東北生まれの私には暑いくらいだった。一応羽織った上着を鞄の上に放り投げて駅のホームのベンチに腰掛けてスマホを取り出す。
平日のぎりぎり午前中、東北だと声をかけてくる大人もそれなりにいるけどこちらではそんなことをする人もいない。偶にリア充っぽいお姉さん方が「かわいー」なんて言って通り過ぎるくらい。知らない人の要らぬお節介もなく過ごしやすい。遊ぶところも多いし、すぐに店が閉まっちゃう東北なんかよりやっぱり私は東京の方が過ごしやすく感じる。
そんなことを考えていると、ライン通話が繋がって耳元で聞き慣れた快活な声が響いた。
『あ、きりちゃん。どうしたの?』
「マキさんお久しぶりです、ちょっと東京まで来ちゃいまして」
『え、学校あるよね?大丈夫なの?』
「いいんですー、ボイコットですー」
『なに?またイタコさんと喧嘩でもしたの?』
すっかりお見通しの様で、苦笑しながらマキさんはそう言った。マキさんやゆかりさんにはよくタコ姉様に対して愚痴を聞いてもらってるから当然と言えば当然だった。ちなみにずん姉様は大抵タコ姉様の相手をしてるから中々電話に出てくれない。ずん姉様に相手にされないのは悔しいし、何より他に行く当てもないので、やっぱり何時もの様に東京へと着てしまった。
「そうですー。だから今からずん姉様の所にでも行こうかなって思ってますー」
こういう時に拗ねられるのも小学生の特権だよね、なんて開き直ってそう返す。また笑いながらのお小言が来るんだろうな、なんて思いながら。
『あー…、もしかしたらいないかもなぁ』
でも、スマホ越しに聞こえてきたのは何処か歯切れの悪いマキさんらしからぬ調子の声だった。
「お仕事ですか?合鍵あるんで余裕で待てますよ?」
『いや、まぁそういうことじゃないんだけど。でも聞いてないんならいいや』
「? なんかあるんですか?」
『いや、こっちの話!私もゆかりんもちょっと立てこんでて今回は色々見れないかもだけど、まぁゆっくりしていってね!』
「え、あぁ、はい」
何か意味深な言葉を自分で遮ったかと思うと、マキさんはそれじゃあと言って通話を切ってしまった。通話途中で取り出したずん姉様の部屋の合鍵を指先で何の気なしに回しながら一応ゆかりさんにも通話をかけた。
マキさんの様子からして何か隠してるようだったし、粘ってみても暫くは教えてくれないだろう。ゆかりさんは軽いのか私を信頼してくれるのか分からないけど、そういうことは結構教えてくれる。それでしょっちゅう怒られてるが。
でも、そんな期待も応答なしの返答で見事に散りゆく。まぁ、ここで待っていても仕方がない。ゆかりさんとずん姉様のラインにメッセージを残しながら、私はベンチから立ち上がった。
***
ピンポーン、と軽いチャイムの音が響いて扉は開かなかった。マキさんの様子から少し察していたけど、やはり留守らしい。余程忙しいのか、面倒事に関わっているのか。詳しくなんて分からないけれど、ずん姉様もゆかりさんもどっちもラインの既読すら付いていない。もしかしたら相当な案件なのかもしれない。あれからコーヒーショップで昼ご飯を食べたり駅前のゲームセンターや本屋を覗いたりタコ姉様と学校からの電話を華麗にスルーしながらそろそろおやつの時間だというのに。
少し気がかりになりながらも今出来ることも思いつかない。そもそもずん姉様達が対応に困るような問題では、私に出来ることなどたかが知れてるだろう。下手に首を突っ込んで事を大きくするよりは、年相応に眺めていた方がずっと皆の為だ。
それよりも、そろそろ切れそうなスマホの充電をチャージさせてもらおう、と何時もの様にやたら複雑そうな鍵を差し込んだ。手首をくいと動かして、カチャリと軽い音が響く。
そうして開いた扉から流れ出たのは、噎せ返るような生々しい匂いに満ちた湿った空気だった。
思わず手提げ鞄の紐を手放して咄嗟に口元を覆う。一瞬喉元まで登りかけた昼食を食道に戻した。腐乱臭やアンモニアとも違う、妙に鼻に付く臭い。湿っぽさも相まって入るのを躊躇ってしまう。
思えば、躊躇したままこの時部屋には入らずに外で待つなりすればよかったのだと思う。部屋から我先にと溢れ出た匂いの圧に、異常を察するべきだったのかもしれない。推理ゲームも初見じゃ大抵解けない私には到底無理な話であったのだろうけど、推理物のアニメなら伏線扱いされるようなポイントは結構あったのだから。
一瞬面食らってしまったが、意を決して部屋に踏み込む。とりあえず、臭いの発生源が気になった。見たいか見たくないかで言えば圧倒的に後者だが、だからと言って知らないままにしておくのはもっと怖い。この間も通学中獣臭いと思ったら狸が出て軽くパニックになったし。
そう思いながらついついそっと注意深く歩くのだけど、見える範囲にそれらしいものは何もなかった。食器も溜まっておらず綺麗に洗ってあるし、生ゴミとか臭いそうな類のゴミ袋もない。一応お風呂場やトイレも確認しては見たけれどずん姉様らしく、綺麗なものだった。
キッチンを抜けてすぐにあるリビング代わりの部屋も綺麗で、悪臭の原因は見つけられなかった。強いて言えば、部屋干ししてある洗濯ものが多いくらいだけど変な臭いなどはしない、よくある衣類洗剤の香りだけだった。段々と鼻も慣れてきて、よくわからない消化不良だけが残った。
不満のままに叫び出したい感情を抑えてソファにぼすんと着地。お仕事の殆どが声を使う関係で防音設備は部屋の防犯以上にしっかりしてると聞いたが過信は禁物である。姉様の御近所付き合いを邪魔するのは忍びない。
一息ついてスマホの充電を確認。あと10しか残ってない。折角だから有効活用しておこう、とずん姉様へと今度は普通に電話をかける。ライン通話は音が小さくて聞こえなかっただけかもしれない。パッパッと指を滑らせて通話を選択。耳元で画面の切り替わりを感じながら接続を待って。
~♪~~♪♪♪
隣の部屋から軽快なロックの音が鳴り響いた。今年の頭に出たJAMバンドの新譜で、マキさんが自慢げに紹介していたやつ。
あぁ、これは既読も通話を取るのもできないわ。今日はいつ出かけたのかは定かではないが、流石にお昼頃にはもういなかっただろうしこれが原因だろうな。
心配して損した、なんてちょっと呆れながら立ち上がる。私みたいに寝室のドア開けっぱなしにしないのにこういうところでドジっ子発動しちゃうんだから、なんて無性に愛しくなる。飾り気のない引き戸までついにやけながら歩いていって、
ドスン!
という何か重たいものが落ちたような音に脚が止まった。突然の鈍い音と床越しに微かに伝わる衝撃に、ひゅ、と息を飲んだ。叫び声を出す余裕もなかった。
まさか、泥棒でもいるのか。でもセキュリティはかなりいい筈だし、いやでも最近の犯罪ってハイテクらしいし。変な臭いも泥棒の放つ悪臭かもしれない。急に沸き起こった未知への恐怖に思考を支配される。さっき胃に戻った筈の昼食が再び動き始めたのか食道がじわりと熱くなり痛みを訴える。じわり、と沁み出した涙で視界の端が滲んだ。
扉から少しずつ離れキッチンへと歩み寄る。スマホを何時でも投げられるように構えながら、注意深く扉の方をじっと見つめる。出てきたら投げ付けて走る、そう頭の中で何度も唱えながら、一向に反応のない扉を睨みつける。
何かが落ちる音がして、身構えてそれだけ。沈黙に包まれる夕暮れ少し前のマンションの一室で、慣れない外気温だけではない汗が背中を伝うのを感じた。そんな、自分の心臓の鼓動さえ聞こえてくるような重たい静けさの中、扉の向こうから微かに音が聞こえた。
――、ぅ、―――。
私の耳と直感が正しいのなら、それは誰かの息遣いだった。それも、扉を一枚隔てているとはいえ微かに聞こえる程度の弱々しいもの。途端に、先程までと異なる、でもそれ以上に嫌な予感で頭の中が埋め尽くされる。
これが誰かの呼吸であるとして、それが姉様のものである確証なんてない。そもそもこの音が呼吸である確証もない。加湿器か何かが落ちて動いたのかもしれない。きっとそうだ、そうに違いない。
そう考えたいのに、嗅覚と聴覚を介して伝わる情報が脳内で最悪の光景に変換される。
もう我慢の限界だった。一刻も早く安らぎが欲しい。安らぎはなくとも、何も知らないことで延々と頭を覆う悪い予感を一刻も早く消し去りたい。
早鐘を打つ心臓の鼓動とお腹の中で再び暴れ始めた不安を抑えながら、私は震える手で扉の取っ手を掴み、一息に横へと撥ね開けた。
「…え」
遮光カーテンと無灯火の電灯が作り上げた薄暗い部屋に広がっていたのは、私が想定していた最悪の光景ではなかった。だけれど、その代わりに広がっていたのは私が想定していなかったそれ以上に最悪な光景だった。…それを理解するのは、あともう僅かな時間が必要だったのだけれども。
鼻に急激に押しかける生々しい匂いは、部屋に入った時に真っ先に感じたあの匂いで、しかしその濃度は格段に強く、私の鼻は最早その刺激を痛覚で感じ取っていた。その刺激を咄嗟に口ごと顔半分を覆うことでどうにか塞いだ所で視覚を侵す悪趣味な光景を防ぐことは叶わなかった。現実問題、目を閉じればそれは叶ったかもしれない。しかし、そんな窮地に予測もないまま立たされた私に、そんなことなど出来はしなかった。
目の前に倒れていた、否、転がっていたのは、一人の女性だった。身ぐるみは剥がされて痣とかさぶたを所々に作った痛々しい裸体を晒しながら、背後で腕を手錠にかけられた憐れな姿。腕を痛めない様にか毛皮の様なものこそ付いてはいたがそれでも尚、手首の辺りは赤く染まっていた。長い鎖で出来た足枷でベッドに拘束された足首も同様で痛々しい赤い痣が見えた。挙句、どれほどの抵抗を重ねたのだろうか、枷には錆びた様な、染みが。
そこまで認識して、私の口内にはつい先ほど顔を出したばかりの肉と小麦粉の成れの果てがカフェイン臭い匂いを更に着込んで押し掛けてきた。辛うじて塞いだ口と手の端から、しかし僅かにそれらの汁が漏れ出てくるのを抑えきれずにそのまま蹲る。何度か喉を鳴らしながら、必死にそれを押し込んだ。そうしないと、目の前で危機に陥っている彼女に声をかけることはおろか、何かアクションを起こすことさえ不可能だったのだ。
「…ぅ、ゆ、ゆかりさん、ゆかりさん!」
どうにか胃の内容物の反乱を抑え込んで、私はおよそ人間として相応しくない惨い姿を強いられているゆかりさんに声をかける。辛うじて意識を保っているらしい彼女は、しかし息も絶え絶えで、碌な知識を持っていない私が見ても決して宜しくない状態だった.
彼女の名前をそのまま表した様な淡い紫色の髪は汗で塗れていて、それは出無精ゆえか色素の薄い透き通るような白い肌も同様だった。その髪を抑え込むようにしながら口元を覆う革の真ん中辺り、丁度口に宛がわれる辺りには何か丸いものが咥えられていて呼吸こそ出来るのであろうがまともに声を出すことは叶わないようだった。その肝心の呼吸でさえも満足にできていないのか、か細い息はそれでも荒く必死に息を繋いでいるようであったが。
「ゆかりさん、大丈夫ですか!?なんで、どうして…!?」
それでも、私の焦りで満ち満ちた呼びかけに反応を見せて緩慢に見上げたその様子に、ゆかりさんがまだ無事であるという確信が得られた。それに安心したのは紛れもない事実で、だが、それがなんだというのだろうか。
面と向かって本人に言うことはおろか、他の誰に言うことも恥ずかしくて出来はしなかったが彼女は、ゆかりさんは私にとってずん姉様と同じくらいに憧れの女性なのだ。安心できる優しい声も。とっても華奢なのにそれでも私より大きくて安心できるように抱え込んでくれる背の丈も。同じくらいに私を支えてくれる現場での度胸や重ねた経験も。その癖、しばしば笑わせてくれる調子に乗った姿やドジる様子も。何より、誰からも愛される様な可愛らしい容姿で、誰にでも優しくフランクに接してくれるそのありのままの姿も。
親しみやすくて可愛らしい、私の理想像。正直なりたいというか、いつかなれるのかすらも怪しいそんな振舞いで皆を魅了する先輩の弱りきった姿は、私を動揺させるには余りに十分過ぎた。私の格好悪い必死の呼びかけに、視点も定かでない目で私の顔をどうにか眺めることで応える姿は、普段の柔らかな笑顔を振舞く彼女と同じであるとは思えなかった。
努めて冷静であろうとする脳の片隅が、何より先に警察に連絡しろ、と叫ぶ。私はその発案に従って、震える手でスマートフォンを取り出そうとした。さっき上着のポケットに入れたばかりだからすぐに取り出すことができて、そのまま電話をかけてしまおうとした。
混乱していた私に、周りの情報を冷静に感じ取るなんてことは全く出来なかったし、そんな考えが頭を過ぎることもなかった。だから私には全く分からなかったのだ、どうにか顔をあげたゆかりさんの呼吸が浅くなり表情も恐怖に覆われていたことも、他のメールやアプリの更新に混じってラインにメッセージが入れられていたことも、
「きりたん?」
後ろに、私の誰より愛する姉様が物音一つさせずに立っていたことも。
取り出したスマホを視界に収めようとした手首は、焦りに焦る私の体温よりずっと熱く火照った掌の強い拘束によって私の肩辺りで固定された。
「もう、急に来ちゃうからびっくりしちゃった。またイタコ姉様と喧嘩したの?だめだよ、学校にはちゃんと行かないと」
普段と何も変わらない様子でお小言を言うずん姉様は、しかし余りに状況に不釣り合いで、ただただ恐ろしかった。今自分が置かれている状況に現実味が湧かず、手首を締め上げる鈍い痛みを感じている今でさえ動画かゲームの画面を見ているのでは、と錯覚さえしてしまう。
ただ映像としてしか理解できない視界の隅で、芋虫みたいにもぞもぞと身体を動かしながらもごもごと声を出そうとするゆかりさん。その表情は強張っているというか怯えているというか、今にも泣き出しそうな表情で縋る様な目付きで私、いや、ずん姉様を見つめている。ただ、視線だけのその訴えが叶うことは、
「…えいっ♪」
「――っ!んぅ、ぅうふぁあっ!?」
なかった。
カチリと背後で聞こえた小さい音に連動する様に、ゆかりさんは身体を跳ねさせてそのまま継続して震えていた。ブブブブ、という小さな音がゆかりさんと重なる様にして聞こえてくる。途端に、目元に湛えていた涙が流れ始める。部屋が暗いことも相まって碌に気付けはしなかったが、ゆかりさんの頬には微かに涙の流れた跡があって、今の今までどれほどの目に遭ってきたのかをそのまま表しているようだった。
「ぅ、ぉ、ほめ、ほめんなぁ、ぁいぃ…!ぃり、んあ…!ぃ、りひゃんにぃ、ぁ、にもひぁああ!――っ!」
「うん、大丈夫。きりちゃんには何もしないよぉ。ゆかりちゃんもきりちゃんも、悪くないもんね?」
何を言っているのか分からない不明瞭な言葉を、ゆかりさんは息も絶え絶えになりながら必死で喉から零した。辛うじて動いた頭の中の可動部でどうにか言葉に変換しようとするけれど、情けないことに結局それは叶わなかった。
でも、ずん姉様はその言葉を理解したらしく返事を返して、もう一度カチリという音を鳴らした。それに呼応するようにして、ゆかりさんは激しく痙攣させていた身体を床へと投げ出した。より正確に言うなら、投げ出すことができた様で身体をひくつかせながらもどうにか呼吸を整えているようだった。
刺激をどうにか抑えようと捩るうちに身体を仰向けにさせて脚も大きく開いたはしたない格好に落ち付いてしまったゆかりさん。その開かれた脚の中央部、丁度付け根の辺りはとりわけひくついていて、接着剤を誤ってつけたような跡の上を液体が伝っていた。
「でもね、」
知識としては知っていても、未だに脳が目の前で広がる光景を理解することを拒んでいる。その混乱の最中に入る私を置き去りにして、私の手からスマホを抜き取った姉様は私を抱きかかえるようにしながら、ゆかりさんを見て言った。
「これからは、きりちゃんと一緒に可愛がってあげるね?」
その宣告に、ゆかりさんは一層目を見開いてこちらを見た。睨むでもなく、ただただ絶望した表情を向ける。それと同時に、私に向けられたのは間違いなく懇願の表情だった。
それを受け取って、私は振り向いた。ゆかりさんの伝えたいことを完全に理解してるなんて言えないし、そもそも目の前で何が起きているのかも私は究極のところ全然わからない。ただ、何かをせねばならない。それだけは理解できた。
そうして、ずん姉様に何か言わねばならない。その思いで振り返って、
「ねぁ、きりたん?」
いつもと変わらない筈の、それなのに何よりも恐ろしい表情に、急拵えの信念は見事なまでに打ち砕かれた。
「ずっと一緒にいてあげる…、うぅん、ずっと一緒にいてくれないと許さない。外になんか出してあげない。その代わり、何でも買ってあげる。ゲームも、漫画も、お菓子も。
それに、ね。特別に、私のいちばんいちばん大切なゆかりちゃんにも、特別に触らせてあげる。悦ばせてあげてもいいよ、って言ってあげる。
だから、ね?
私を裏切らないでね?」
目の前でずん姉様の姿をした人が、ずん姉様と同じ声と口調で、ずん姉様が言わないことを言っている。
優しくも厳しく私のことを考えてくれていたずん姉様が、自分のエゴで満ち溢れた提案を重ねてくる。
床に倒れ伏しているゆかりさんと同じかそれ以上に友人思いで人格者だと思っていたずん姉様が、ゆかりさんを傷つけている。
そこまで理解して、理解してしまって、私は、
「…は、い。分かりました…。」
自分のすべきことを理解してなお、目の前の恐ろしさに屈することしかできなかった。