「あの、西南さん、もうホームルーム終わったよ?」
身体を軽く揺すられて、西南と呼ばれた少女はぼんやりと目を覚ました。まだ寝起きで脳がうまく働いていないのだろう、まだ焦点の合っていない目を擦りながら辺りを確認する。定期テストで半ドンなこともあってか、まだ時間からしてホームルームが終わってからそう時間が経っていない筈なのだが教室には殆ど学生は残っていない。
「…あぁ、ごめんなさい。ちょっと疲れてましたので」
「ううん、ただ珍しいなって思っただけだから。あと…、なんか苦しそう、っていうか夢見悪そうだったし」
「…そうですかね。まぁ、ありがとうございます。このまま誰にも起こされずに暫く寝てました、ってのも馬鹿馬鹿しいですし」
そうだね、と苦笑気味に笑うクラスメイトに適当に相槌を返して、西南は鞄の中に机の中身を同じように適当に放りこんだ。それだけであっさりと帰り支度を終えると、筆記具の代わりにスマホを取り出して電源を入れる。もう帰ります、というあからさまなスイッチを感じ取った少女は、西南にそれじゃあねと一言だけ残して離れていった。
手と視線で応えている間に起動したスマホがホーム画面を映し出し、メールやアプリが新着の連絡を次々に映し出す。そのうちの一つであるSNSのポップアップが映し出されて、西南はただでさえ眉間に皺が寄った表情を更に顰めさせて次いで溜息を零した。
『今日仕事で近くに来てるんだけど会えないかな?とりあえずいつものとこで待ってるから』
つい先ほどと言って差し支えない時間に送られてきたメッセージにうっかり付けた“既読”の文字が少女の苛立ちを加速させる。短いスパンで絶え間なくと言えるほどに零れてくる溜息を惜しげも無く吐き出しながら、西南は立ち上がり一人教室を後にした。
学校用のリュックサックを背負ってそれなりに混みあう電車に揺られ、いつも降りる駅から二駅向こう、普段は余り利用しない駅で降りる。そのまま構内にある待ち合わせのコーヒーショップを覗けば、一番奥の席にメッセージを送った彼女は座っている。いつもの帽子に眼鏡とコートで顔を隠すあの人の方を何となく指しながら、連れが既に来店していることを店員に告げてコーヒーを運ぶ。彼女も自らの席に近付いてくる少女に気付いた様でスマホを弄る手を止めて軽く手を振った。
「すみません、お待たせしました。お久しぶりです」
「うん、お疲れ様。呼んだのは私だから気にしなくていいよ。久しぶりだね、きりたん」
「…外でその名前はやめてほしいんですけど」
「あぁ…ごめん」
そう誤魔化すように苦笑する女性に溜息を付いて、今や軽くとはいえ変装が必要なほどに名も顔も売れた弦巻マキの正面の椅子に西南、もとい東北きりたんは遠慮なく腰掛ける。
「でも本当に久しぶりだね、どのくらいぶりかな」
「入試終わりに会ってからですし丁度一年ぶりくらいですかね」
「もうそんなになるのかぁ…、最近はどう?何か変わった事あった?」
「特に何も無いですよ、強いて言えば少し前からバイト始めたくらいです」
「え、高校通いながら?大変じゃない?」
「週二、三回くらいなんで対して負担じゃないですよ。コンビニですから簡単なもんですし。そちらこそ、何か変わったことはないんですか」
「んー、どうだろ?最近はCeVIOさんとこと一緒に仕事する機会が増えたかな?他は大体いつも通りだよ、茜ちゃん達も相変わらずだし。…あぁ、そう言えば」
こういう時、マキは多くのことを話すから楽だときりたんは思う。基本的に人の顔よりも画面と睨めっこしているのが性分な人間である。加えて、あの事件以来多少の人間不信を抱えているものだから一層人付き合いに消極的になってしまっている。それを理解した上で、話を振ることはせず自分から積極的に会話を続けてくれる彼女はまだ話しやすい相手だった。そもそも進んで会話したい相手であるかは別として。
「まぁ、そんな感じ。色々あるけど皆元気でやってるよ」
「そうですか、それならよかったです」
「…それで、さ。そっちはどう?」
「どうと言われても、さっき言った通りですよ?バイト始めたくらいで後は対して変わりないです。三年生ならいざ知らず高校一年生の生活なんて変わったこと起きないですよ」
「その、きりたんじゃなくて、さ」
「その件については、言わなくても分かっているでしょう?」
歯切れ悪そうに口を開き、誤魔化すように笑みを浮かべる。先程までの語り口が嘘の様で、快活なイメージで売り出しているマキらしくないだろう。その苦笑いに一切の遠慮も見せずに、きりたんは口調に出る冷たさを微塵にも隠さずぴしゃりと答えた。
「うん、やっぱり駄目、かな?」
「駄目です。会わせられません」
「…そっか」
「…まだ一人で買い物するのも怖いくらいらしいですから、とてもじゃないですが会わせられないです。マキさんなんかド級の地雷でしょうから」
「…そう、だよね。あの時、私がもしもゆかりちゃんの気持ちを分かってれば」
「いまさら、どうしようもないです。申し訳なさとか、そんなもの求めてません」
やはり鋭く言い放って、きりたんはカップの底に僅かに残ったコーヒーを一息に飲み干す。そのまま、まるで叩き付けるように受け皿の上にそれなりの勢いでカップを下ろす。思いの外大きな音が出て、隣のテーブルに座った高校生の視線を向けられてしまう。しかし、そんなものに構わず少女は口を開く。
「それに。別に誰が悪いとかじゃないんですよ。姉様だけです。少なくとも、マキさんに背負うべき罪があるわけじゃないですよ。…ただ、」
マキさんは顔を上げてこちらの表情を窺う。その表情は罪悪感に塗れた心細そうなもので、それが余計に言いようのない苛立ちを加速させた。
「貴女がきっかけになってしまったのは事実なので。それに対する見返りも、謝罪も不要です、わたしたちにそんなものを要求する権利なんてない。ですから、なにもせずにこの結果だけを受け入れてください。…何度来ても、覆すつもりはありませんから。もう諦めてください」
言い終えてきりたんは乱暴に鞄を掴むと席を後にした。最後に一つ、それではさようなら、の言葉を残して。聡いマキのことだ。またいつか、の言葉がないその意図ぐらいすぐに辿り着くだろう、それを受け入れられるかどうかは別として。
…もしも、再び連絡が来たなら水でもかけてやろうか、ときりたんは思う。彼女としてももういい加減疲れているのだ、あの人の申し訳なさそうに媚びる視線を受けるのも。
***
バイトを終わらせる頃にはすっかり外は暗くなっていた。カチャリ、と灯り始めた電灯の群れを背負いながら鍵を回せば小気味よい音が影の中で響く。そのまま開いた扉の先の薄暗さに思わず溜息が漏れる。安アパートの軋む床の上を歩きながら玄関兼用のキッチンの奥にある襖を開ければ、すぐ後ろの音にも人の気配にも気付かずにノートパソコンの画面だけを光源にキーボードを打ち続ける女性の姿があった。
「…もう、電気くらいつけてください」
そう言われて、びくりと背を跳ねさせる。そのまま素早く振り向いた視線はいつものように怯えたもので、先程からの疲れも相まってきりたんは思わず溜息を漏らした。しまった、と思った時には既に遅く、彼女に向けられた視線の怯えは一層強くなって見て分かるほどに身震いしている。
「ご、ごめんなさ…」
「あー…、こちらこそごめんなさい。ちょっと今日は疲れちゃってて。でも、目も悪くなりますら灯りはちゃんと付けてくださいね」
電灯の明かりを付けながら、泣きじゃくる子供をあやすように笑顔をつくりながらきりたんは優しい口調で話す。
「ただいまです、ゆかりさん」
「お、お帰りなさい、きりたん…」
その態度で許された様に強張った表情を緩ませる女性―――ゆかりに呆れとも安堵ともつかない感情を抱きながらきりたんはぶら下げた買い物袋を片付ける為にキッチンへと引き返した。
***
「御馳走様です、ゆかりさん」
「うん、ありがとうね」
「それは私の台詞ですって」
「あ、ご、ごめんなさい」
「…それも違いますって」
そう呆れた様に笑ってきりたんは二人分の食器をまとめる。少し遅れて気付いたゆかりが手伝おうとするより手早く重ねると、さっさと台所へと向かう。申し訳なさそうに眉を八の字にするゆかりに気付きながら無視して水道の水を流す。若干の人間不信を患っている自分が言えたことではないが、ゆかりもせめて自分くらいには気を許してほしい、否、許すべきだときりたんは思う。
二人で暮らして随分となるが、未だに何処か遠慮した節があるゆかりにきりたんは憤りに近い不満を持っていた。自分が彼女の立場なら、加害者の妹である自分に逆に怒り憎しみを理不尽にぶつけてきても仕方がないと思ってしまうだろう。それなのに、ゆかりはまるで自分が悪いと思っている様に振舞う。事実、自分がきりたんを巻き込んだと思っているのだろう。そんな彼女の優しさが、逆にきりたんを苛んでいる事にゆかりは気付いていない。仕事も家事も無理しがちで、落ちてきた体力も度外視するのだから。
そんなゆかりが手持無沙汰にノートパソコンを起動しようと手を伸ばそうとするのをきりたんは見逃さなかった。テーブルに乗せて今まさにPCを開こうとするその手に、いつの間にか洗い場から戻ってきたきりたんが手を添える。優しい仕草だったが、ゆかりには有無を言わせない雰囲気がこれでもかと伝わっていた。
「朝からキーボード叩きっぱなしで疲れたでしょう?今日は休みません?」
「でも…、早く終わらせないといけないのがまだ幾つか…」
「別に今日や明日までってわけじゃないでしょう?目とか身体に悪いですよ?ただでさえ外出なくて体力落ちてるって口酸っぱく言ってるでしょう?」
「別に無理してるわけじゃないんですが…」
「じゃあ、こうしましょう。私も食器は明日の朝洗いますから。二人でゆっくりお休みしましょう?私もテストとバイトですっかり疲れちゃいましたし」
本当はもうひとつありましたけど、と心の中でだけ付け足してきりたんはゆかりに抱き付いた。半ば覆い被さるようにゆかりの背に手を回すと、おずおずとゆかりもきりたんの背に腕を回す。それがゆかりの解答で、きりたんの提案を受け入れた合図だった。
***
いつもより少し早く部屋を片付けて布団を敷いた。そうして何時間か経った深夜に隣で動く気配を感じた。ぼんやりと滲む視界を手で擦りながら、久しぶりだな、ときりたんは腰を上げる。隣の布団を剥ぎ取って、額に汗を浮かべながら苦しそうに身悶える彼女の肩を揺らす。そうして眦に涙を浮かべながら、揺すられたゆかりは重い瞼を押し上げた。
「ゆかりさん、起き上がれますか?」
「…きり、たん」
「気分はどうですか?肩、貸しますよ?」
「ごめ、なさ…」
「いいですから、トイレ行って全部吐き出しちゃいましょう?」
そう言ってゆかりを立ち上がらせる。そのままトイレまで肩を貸して、自分はコップに水を汲んで持って行ってやる。咳き込むようにして吐き出す背を擦れば、ゆかりは謝罪交じりに涙を流す。大丈夫ですよ、とコップを渡して口をゆすがせる。
こうやって深夜にあの頃を思い出すのは何時振りだろう。三カ月くらいにはなるだろうか、新記録だときりたんはぼんやり思った。あの事件から解放されてすぐ、まだ東北の実家に一緒に保護されていた時期では殆ど毎日で、寝ることもままならなかったあの頃を思い出す。あの頃に比べればまだ、マシなのだろうか。逃げるように二人暮らしを始めてからも症状は軽くなっているとは思うのだけれど。そう思考に耽っていたうちに、ゆかりの呼吸もだいぶ落ち着いてきたようで、ゆっくりと深呼吸をしながら渡されたグラスに口を付けていた。
「落ち着きましたか?」
「はい…、ごめんなさい…」
「大丈夫ですって。布団、戻りましょう?」
そう言ってゆかりに手を貸して、まだ少し覚束ない足取りを布団まで導く。そうして布団の上で蹲った身体は、しかしまだかたかたと小さく震えているのが分かった。
「また、思い出しちゃいましたか?」
一応の確認として尋ねれば、ゆかりは一度びくりと背を跳ねさせてそれからこくりと小さく頷いた。その間もふるふると震える身体は寒さで凍えているようで、震える腕で自らの身体を抱くものだからより一層そう見えてしまう。
「大丈夫ですよ、ここには私とゆかりさんしかいませんから。酷いことする人は誰もしません」
「は、はい…」
「…やっぱり、私じゃ役不足ですか?私相手でも不安ですか?」
「い、いや!そんなわけじゃないんです!でも…」
分かっている。それとこれとは話が別なのだろう。今自分が安全かどうかと、過去のトラウマに耐えうるかは実際相いれない問題だ。むしろどれほど安全な場所にいようと、記憶の中から恐怖を捻じ込んでくる姉の幻影が与える恐怖は、辛うじて逃れられたきりたんには分かり得ない。その差異はきりたんに自分とゆかりの相容れない壁として立ちはだかっているように思えて、劣等感にも似た不安を抱かせている。そして、その不安を拭い、ゆかりを眠りへと促す方法をきりたんは一つしか知らなかった。
「…大丈夫です。大丈夫ですよ、ゆかりさん」
そう言って身体を寄せて抱きしめる。それでも尚震える身体に顔を近付けて、綺麗よりも先に不健康な印象さえ与える白い首筋に唇を押しつけて吸いついた。びくり、と先程とは違う震えで身体を揺するゆかりの耳元できりたんは囁く。
「大丈夫ですから、もう、今日は忘れちゃいましょう?私に預けてください、何も考えられない様にしてあげますから」
その問いにゆかりは答えない。その代わりに震える腕で自分の身体を抱くのを止めて、きりたんの着たスウェットの裾を弱い力でぎゅ、と握った。それを見逃さず、きりたんはゆかりの唇に自らのそれを優しく押し付けた。
くちゅ、くちゅり。
衣服を脱がされ露わになったゆかりの脚、その付け根から湿り気の高い音が鳴る。しがみ付くように抱き付いた少女の指がそこを這い、入口から少し奥を往復させるその度に蜜が絡みつき溢れ出る。それらの動きに合わせるように切れ切れの吐息と消え入るような嬌声が暗く冷たい部屋に響いては消えていった。
「ここらへん、気持ちいいですよね」
きりたんが問い掛ければ、ゆかりは彼女の背中に回された掌を強く握りながら無言で頷いた。安アパートの壁は薄く、声を我慢するのが習慣となっている。その吐息の漏れる音を、耐えきれずに零れる小さく高い嬌声を聞く度に、きりたんは愛おしさと微かに物足りなさを感じる。声を我慢しながらも自分の与える快楽を受け入れてくれる様がいじらしく、同時にその枷を解いてみたくなる。ゆかりを抱く度に心中に浮かび上がる欲望に、己の意地悪さを感じてつい笑ってしまう。
「き、きりたん…」
「なんです?」
「も、もう…」
「はい。じゃあ、強くしますね」
久々の快感に域値が下がったのか、自分が焦らし過ぎたのか。何にせよ、ゆかりの身体はもう限界らしい。そもそもが彼女の安眠のための愛撫で、自分の欲を満たす為の行為ではない。きりたんは膣内に埋めた指の動きを快感を与える為のそれから絶頂へ向かわせるものへと変化させる。指をく、と曲げてゆかりの一際弱いところを指で押し上げる。びくり、とゆかりの身体が震えて一層しがみ付く力が、背中に回された掌の服を掴む力が強くなる。
「あ、は、ぁあ…っ!」
「ゆかりさん、いいですよ、イっても…!」
僅かにしか身体を動かしてないその筈なのに、静かに昂る興奮に息も荒く身体に纏う熱も自然と高くなる。はぁはぁときりたんの口からは熱い息が吐き出され、ゆかりもいよいよ限界なのか漏れ出る声が高く大きくなっていく。
「────っ!」
そうして、きりたんの指がぐっ、と押し上げるのに合わせてゆかりは身体を強張らせ、そして力を緩ませた。抱きついていた腕からも力は抜けて背中からぷらん、と投げ出される。はぁはぁと大きく吸って吐き出される呼吸は次第にすぅすぅとゆっくりとした寝息へと変わっていく。その間、きりたんはただゆっくりと自分より小さくなった背中に手を回して撫でさすっていた。
愛液に濡れたゆかりの身体を拭き着替えさせて布団に寝かせる。その寝顔をすっと撫でながら、きりたんはこれまでのことをぼんやりと思う。普段は意識的に考えない様にしているが、マキとの再会にゆかりの悪夢と久しぶりの性行為、なによりホームルームで見たあの夢と、立て続けに起こってしまっては否応なしに思い出される。
あの日、嫉妬に狂った姉を殴り倒して部屋を脱して助けを呼んで、遂にゆかりときりたんは恋と嫉妬に狂ったずん子から解放された。辛うじて生き残ったずん子は逮捕された。監禁と強姦、未だに許されない姉は未だ牢の中にいて、きりたんもそれ以来会っていない。会いたくもない。ゆかりへの執心を考えるなら一生許されずに閉じ込められてほしいくらいだ。
それから少しして、結月ゆかりと東北ずん子は事務所を共に引退した。未成年であるきりたんが被害者の一人であったこともあり、また東北家が圧力をかけたこともあって事件のことを秘匿されながらそういった形で退職という扱いになった。そうやって必死に隠してゆかりを守ろうとした。顔見知りでそれなりに親しいイタコとすら怯えて話せないゆかりを守る為にきりたんが積極的に働きかけ、周りもそれに応えてくれた。
それでも、限界は訪れた。東北家に匿われたゆかりであったが、それを聞き付けた事件を嗅ぎまわりたがる記者連中が度々訪れるようになって月日が経つにつれて悪質なものへと変わっていった。匿われたゆかりも、東北家の面々も限界を感じ始めて、きりたんはイタコへと提案した。
『私とゆかりさんが東北家を離れればいいんじゃないですか?』
イタコは最初、猛烈に抗議した。小学生など社会を生きていく力も脆弱であるし、何よりただでさえ事件から月日も経っておらず心の休まっていない二人をいざという時守れない場所に置いておくことは姉として許せなかったからだ。それでも、次第に疲弊していくイタコと家族をただ見ることが出来ない。そう主張してくるきりたんに少しずつイタコの心も折れていった。そうして、きりたんが小学生を卒業する頃、何とかイタコと話せるようになったゆかりもきりたんに賛同した。
『私も、頑張りますから。これ以上、迷惑かけられません』
それで遂に折れたイタコは、定期的な連絡をすること、東北地方から出ないことなどのいくつかの条件を出して二人で暮らすことを容認した。半ばヤケになっていたのかもしれない、と今になってきりたんは思う。その頃には周囲の家々からもあらぬ噂を立てられていたから相当参っていた筈だ。
そうして二人で暮らし始めて四年と半年ほど。きりたんは学業を、ゆかりは在宅ワークをこなしながらの慣れない家事に振り回されて、心が折れそうになったこともある。クラスで孤立したことも、無茶な仕事を半ば倒れながら終わらせたことも。それでも、どうにか生きてきた。
そうして生きていく中で、しかしきりたんは自分の心が冷え切っているのを確かに感じていた。何もかもに壁を感じる。学業も、人付き合いも、アルバイトもそう。焚火のように輝くそれに手をかざしても熱は得られずに、風雪が吹き付ける寒さに身を凍えさせるしかない。もう自分は人と違う道は歩けない、そう感じずにはいられなかった。
いつか、それに耐えきれなくなって情けなく泣き崩れながらゆかりに吐露したことがある。崩れるようにゆかりの身体に凭れながら縋りつくきりたんにゆかりは泣きそうに笑いながら言ったのだ。
『少し安心しました。平気な振りしていただけできりたんもそうだったんですね』
そう言いながら見せた手首にはきりたんですら知らない赤い筋が幾重かに重なっていて。
『私もです。怖くて、寒くて、寂しくって。だから、暖めあいましょう?暗闇の中で、二人ぼっちで』
その時、きりたんは悟った。自分達はもう、どうやっても普通には戻れないのだと。あの地獄に閉じ込められた私達は二度と這いあがることなど出来ないのだと。
しかし、それで構わない。穏やかになった寝息を立てるゆかりの髪にそっと触れながらきりたんは思う。
この凍てつくほどに寒く先の見えないほどに暗い雪底で、この愛しい人と二人寄り添えるのだから。