淫界人柱アラカ短編集 作:名無し犬
油断していた。のだと思う。彼とのデートの帰り道。どこかふわふわとした気持ちで、二人並んで、手を繋いで歩いて。ああ、幸せだなぁと浮わついた気持ちでいたから、普段なら気付けた事に気付けなかった。
「ええっと、ここは…?」
隣で彼が、何が起こったのか分からない、といった様な顔で辺りを見回す中、私は冷静に現状を分析していた。さっきまで歩いていた並木道は姿を消し、気付けば真っ白な部屋の中。一瞬の内に知らない場所に迷い込む。そんな現象の原因なんて一つしかないだろう。
「…異界ね、ここ」
この世の理が通じない場所。悪意や憎悪、狂気が渦巻く危険地帯。そこに私達は取り込まれていた。
「異界?」
「言ってしまえば、妖魔や亡霊が巣くう異世界みたいなもの。危険だから私のそばを離れないで」
彼に端的に説明しながら、意識を退魔師のそれに切り換える。ざっと見た感じ、淫界の様な致命的な異界じゃない。むしろ、小規模な取るに足りない異界だ。さっさと核となる怪異を探して祓ってしまおう。そう思って、改めて部屋の中を観察し始めた私は、ようやくそれの存在に気付いた。
「は?」
「え?」
彼も気付いた様で、揃って間の抜けた声を上げてしまう。私達の背後にあった扉の上、そこに飾られたやたらとでかい看板には、こう書かれていた。
『セックスしないと出られない部屋』
「「…」」
気まずい空気が、私達の間に流れる。思わず部屋の中央にある大きめのダブルベッドに視線が吸い込まれて、私は落ち着く為に深呼吸をした。
落ち着け、落ち着きなさい伊早瀬アラカ。私は退魔師。悪趣味な異界なんて何度も相手にしてきた。今さらこんなもので動揺したりなんてしない。
「あれは、無視していいわ。こういった誘導は大抵罠だから」
「そ、そうだよね。うん」
声が上ずってしまっている気がするのはきっと気のせいだ。視線が右往左往しているのも、部屋を観察しているだけで、決して変に意識して彼の方を見れないからじゃない。大丈夫。私は冷静だ。
「とにかく、核となる怪異を探しましょう。こんな異界の主だもの。どうせ、私達を影から観察して面白がってるに違いないわ」
「分かった。でも、どうやって探せば…?」
私の言葉にそう言って彼は、困った様に部屋を見回した。確かに、この部屋にあるのは中央のベッドだけ。パッと見た限りでは、隠れられる所は見当たらない。普通なら、という前置きがつくけど。
「ここは異界で、相手は怪異よ。単純に目で見えているものだけが全てじゃないわ。規模からして、この部屋より先は無さそうだし、どこかに隠れているはず」
彼と話しながら気配を探る。するとやっぱり、この部屋の中に妖しい気配が漂っていた。思ったよりも隠れ方が上手で、詳しい位置は分からないけれど、この狭い空間だ。どんな隠れ方をしているにしろ、しらみ潰しに探せばすぐ見つかるだろう。
「うん。やっぱりこの部屋に居るのは間違いないわ。すぐに探して祓うから、私から離れないでね」
「う、うん。君も気を付けて」
「大丈夫。こう見えて私結構強いから。すぐに終わらせるから安心して」
心配そうにしている彼に、勝ち気に笑ってみせる。ここまで言ったからには格好いいところを見せようと、私は意気揚々と探索を開始するのだった。
◆
「おかしいわね…」
思った以上に結果が振るわず、私は眉間にシワを寄せた。もう一時間くらいはたっただろうか?この狭い部屋をすみずみまで調べたというのに、まったく尻尾が掴めない。今のところ、異界側から何か仕掛けてくる気配も無い。完全に膠着状態だ。焦る私の肩に、彼はそっと手を置いた。
「少し座って休もう」
そう言って、彼は心配そうな顔でベッドを指差す。…うん。この部屋で座る場所なんてそこしか無いだろう。何もおかしな判断では無い。変に意識する方がおかしい。大丈夫。私は至って冷静だ。未だに彼の顔がまともに見れないのも、巻き込んでしまった申し訳なさだとか、そういった感情であって、それ以外は一切無い。
「そう、ね。少し休憩しましょうか」
努めて自然体で、注意深く安全を確認してから、二人並んでベッドに腰掛ける。意外と品質が良く、ふんわりと沈む様な座り心地だ。さわり心地も良い。こんな状況じゃなければ、思いきり寝転んだのだけれど。
「正直、手詰まりだわ。ごめんなさい、あんなことまで言っておいて…」
「気にしないで、君のせいじゃないよ」
つい俯き、弱音を溢す私に、彼は優しく語りかけて身を寄せて来た。あの看板の事がちらついて、心臓がドキリと跳ねる。落ち着け、だから落ち着きなさいったら伊早瀬アラカ。あれが罠でしか無いことなんて分かり切ってるでしょう?
───でも、将来的にはする事になるのよね。
こんな所で、段階を飛ばしてなんてものは論外として。関係を深めていけば当然、彼とそういう行為に及ぶ事だってあるわけで。別にそれは全然嫌では無いし、全く興味が無いかと言えば嘘になる。少し疲れているからか、つい思考がそんな風にあらぬ方へと飛んでいってしまう。
一度意識してしまうと、視線が彼の体の方へ吸い寄せられて、私より大きいだとか、ちゃんと男の子なんだなとか、余計な事ばかりが頭を埋め尽くして、私の思考を妨害する。駄目だ。一度頭を冷やそう。立ち上がろうとした私の手を、彼が引いてきた。
「君は、その、嫌、かな。やっぱり…」
恥ずかしげに問いかけられて、顔に熱が集まる感覚がする。やっぱり、彼の顔を直視出来ない。今目を合わせてしまったら、冷静でいられなくなってしまいそうだから。
「…そりゃあ、こんな場所でなんて嫌に決まってるでしょ」
言外に、あくまで場所の問題でしかないと告げる。そうやって、強く拒否出来なかった私を、彼はベッドに押し倒して来た。
「ごめん、もう我慢出来ない…!」
「はっ!?ちょっ、まっ、待って!」
あまりに彼らしくない行動に混乱する。異界にあてられた?私には効果が無いだけで何らかの干渉があったとか?とにかく、傷つけない様にこの場を切り抜けないと。そう思って顔を上げた私は、ここに来てようやく彼と目が合って、少し固まってしまった。
「…ぷっ、あははっ」
「…?」
可笑しくって笑ってしまう。ああ、そうだ。すみずみまで調べた気になっていたけど、この可能性は頭から抜けていた。もっと早く気付くべきだったな、と反省しながら、首を傾げる『そいつ』の額に、私は御札を貼り付けた。
「!?ぎっ!ギャアアアアアアアッ!?」
悲鳴を上げながら、体がぐねぐねと、まるで粘土細工の様に変形していく。そうして顕になった姿は、彼とは似ても似つかない醜悪な小鬼だった。
「取り込まれたのは、私だけだったのね…」
また悪趣味な異界もあったものだ。もし誘いに乗っていたら、そう考えるだけでも寒気がする。
「まっ、私を狙ったのが運の尽きね」
苦しみ悶え、ベッドから転げ落ちてのたうち回る小鬼にゆっくりと近付く。せっかくのデートに水を差された恨みや、危うく汚されそうになった怒りを込めて、私はそいつの顔に向かって、思い切り拳を振り下ろした。
◆
気が付けば、もと居た場所に戻っていた。隣を見れば、驚いた顔で彼がこちらを見ている。…うん。今度は本物だ。
「アラカ、今、消えて…?」
どうやら、あの異界は外と時間の流れが違ったらしい。私があっちで過ごした一時間は、こっちでは一瞬の出来事だった様だ。あまり大きな騒ぎにならなくて良かった。
「少したちの悪い怪異に絡まれただけ。もう祓ったし、気にしないで良いわ」
安心させるために、そう言って笑って見せるけど、私の恋人はそれでも心配だったみたいで。急に抱き締めて来て、それでようやく安心したのか、深く息を吐いた。
「…無事で良かった」
「大丈夫だってば。もう。心配性ね」
言葉とは裏腹に、心配された事は嬉しくて。胸の辺りからじんわりと、暖かいものが全身に巡っていく様な感覚がした。本当に好きなんだな、と、少しの気恥ずかしさと、胸いっぱいの幸せが心を満たしていく。
「…ありがと」
ぽつりと小さく、消え入りそうそうな声で呟いて抱き締め返す。うん。やっぱり、『そういう事』をするのはもっとずっと先の話だ。だって、こうして抱き合ってるだけで満たされるのだから。これ以上深くなんて、今の私には受け止めきれそうも無い。
そこまで考えてようやく、ここが並木道、人目につく往来のど真ん中だという事を思い出した。顔から火が出そうなくらい、熱が溜まっていくのが分かる。それでも、
───もう少しだけ、このまま…。
あんな事があったからか、もう少しだけこうして抱き合っていたくて。私は恥ずかしさと欲望を秤に掛けて後者を選んだ。後で悶える事になるんだろうな、と、どこか他人事みたいに考えながら、私達はしばらくの間、お互いの体温を分け合っていた。