本日も無事退屈な授業を乗り越えられたことに安堵する一方、高育の授業はいかがなものなのかと疑問を浮かべる自分がいる。
どの授業もある程度の回数を重ねたことによって、なんとなくではあるが授業の全体的な傾向が掴めてきた。良く言えば、高育の授業は完成されているのだろう。授業内容は毎回ある一定のペースで進んでおり、きっちりと授業時間内に予め定められているであろう内容を教えている。中学時代に度々あった、教師の好きな分野になった時に話が膨らんだり、しょうもない雑談をしたり、時間内に想定していた内容が全然終わらなくて休み時間まで授業が伸びる、といったようなことは一度も起こったことはないし、今後も起きることはないのだろう。
ただその反面、授業が完全に一方的であることは問題なのかもしれない。この学校の教師は授業中に生徒を注意することはない、それにそもそも、授業に生徒が関わることがまずない。今日までの授業が体育を除いて講義型なものしかなかったため、実験や実習があれば、多少変わるのかもしれないが、ある意味で生徒の存在が無視されているようにも感じる。……いや、授業に関係なく、教師と生徒の交流自体も少ないのか。これは、箝口令に抵触しないためのものなのか、あるいはクラスの競争に起因するものなのか。いずれにしても、不自然な点ではある。
まぁでも、授業の質はともかく、Dクラスの授業態度は日に日に良くなっている。当初は酷い有様だったこの教室も、今では中学時代と大して変わらないぐらいにはマシになった。
このクラスで催眠を使ったのは、ぴったし計10人。……本当はこんなに使いたくなかったんだけど、椎名さんの名推理が当たっていることを考慮した場合、後手に回るのは得策とは言えない。それに、勉強も運動も、一朝一夕でなんとかなるものではないからな。彼らには僕のためにも、1日でも早く実力をつけてもらう必要がある。巡り巡っては彼らのためにもなるだろうし、感謝してもらってもいいんだぜ、なんてね。
本堂と吹石には、『勉強がたまらなく好きになる』催眠を。そして、オタク仲間である、宮本と外村、あと太っている伊集院には『地上最強の漢になるために鍛えたくなる』催眠を掛けた。今回のテーマはズバリ、欠点の克服。本堂と吹石には、インテリジェンスを。宮本、外村、伊集院にはテストステロンを。
実力が総合的な能力であるのならば、学力、身体能力はその屋台骨だと言えるだろう。そして、これらの能力はある程度までは伸びることが約束されている。勿論、向き不向きはあるだろうし、天井も人によって大きく異なるだろう。しかし、やってない場合に比べれば、確実にやった方が良い結果が出ることが多いことは間違いない。ただでさえ実力が低いDクラスに所属しているのだから、努力では是非とも負けないでほしいものである。それに……
今になって思えば、牧田、鬼塚、菊池に授業を真剣に受けさせるために催眠を使ったのはかなりもったいなかったけど……それは必要経費と割り切るしかないか。あれが無かったら、今みたいに気軽にアプリを使うことも出来なかっただろうし。
……いやでも、彼らのお陰で、教室の雰囲気が良くなったと考えれば、悪くない投資だったのかもしれない。彼らに加えて、本堂、吹石も真剣に授業に取り組んでいる。教室の人数は40人、その内5人が催眠の影響で集中して授業を受けている。たったの5人と思うかもしれないが、5人がそういった姿勢を取ることは、この教室の環境に少なからず良い影響を与えている。
あれはなんて名前だったかな……割れ窓理論? みたいなやつ。ちょっと違うかもしれないけど、共同体の意識なんて、少しの条件の違いで大きく変わってくる。真面目な人が周りにいる中で、堂々とサボれる人はあまり多くない。5人の周りの人も渋々と授業を受けることによって、それが波及して、僕の想定以上に授業環境が良くなった。……却って目立つようになったのは、カースト上位の女子、あとは山内、池、須藤の3バカトリオかな。
彼らにも催眠を使うべきなんだろうけど……なかなか使うタイミングがない。
僕は催眠を使う際に、最低限気を付けていることがある。
まず、監視カメラの位置を把握すること。
次に、カメラがある場所であった場合、口元や手元を極力隠すようにすること。
そして最後に、周囲に人があまりいないこと。
基本的にはこれらを守ることを心がけている。
アプリの使用は基本的にバレることはない……と思う。全ての工程は2〜30秒で終わるし、スマホに証拠も残らない。前に愛里に頼んで、アプリを起動してもらったが、アプリは白い画面に切り替わることはなく、学生証の画面に切り替わった。僕が起動しても、白い画面に切り替わるだけだし、デスノートより立証するのは難しいだろう。
しかし、この学校にはあらゆる場所に監視カメラが設置されているため、万が一にも勘付かれることを防ぐために、こんな面倒な確認をしなきゃいけない。
そして、先の人物たちは1人でいることが滅多にない。……勿論、びっしりと張り付いていれば、1人になる瞬間もあるのだろうけど、そこまでではないというか、なんというか。
あくまで、機会があったら、といったスタンスでやっているので、現状は厳しそうだ。それにカースト上位の女子にはエッチな催眠を掛けたいし、今はどっちみち諦めるしかなさそう。
ルーズリーフを適当にファイルに入れ、教科書と一緒にカバンに詰め込んでいると、櫛田が性懲りも無く、堀北に声を掛けている。今日はどうやらカフェに誘っているらしい。櫛田、残念ながら堀北は君や君のお友達とは違って、お砂糖とスパイス、それと素敵な何かで構成されていないことにいい加減気づいた方がいい。アプローチするにしたって、こう、なんていうか、おもしれー女路線の方がワンチャンありそう。髪に芋けんぴを付けるのはどうだろうか?
「待って、櫛田さん」
おっと、これは流れが変わったか。実は堀北も内心はそんな嫌じゃなかったパターンだったのかもしれない。読めなかった! このクロノの目をもってしても! 百合豚のクロノ、一生の不覚ッ!!
「もう私を誘わないで。迷惑なの」
……お、おう。なんかごめん。1人で勝手に盛り上がっちゃってたみたい。いやーそもそも、櫛田はともかくとして、堀北はそっちの気が無さそうだよな。いや、どうなんだろう、これは同志白波に意見を聞いてみるか。
「また誘うねっ」
陰りの一つも感じさせない笑顔で、堂々とリトライを宣言する櫛田。……お前は心が強ぇ女なのか? これは最早、ただのリトライじゃない。何度でも心の力で立ち上がり、前に進む! ド級のリトライ! ドリトライだ!!!
「あなたまで、余計なこと言ったりしないわよね?」
「……えっ、あっ僕? まぁ、馬に蹴られて死にたくはないからね」
「……あなたは私と彼女の間に何があると思っているのかしら?」
同級生で百合ってどうなんだろうな。僕はどちらかというと、シスターフッドの方が好きだから、先輩後輩の方が萌えるんだけど。いやー、でもそういった慣習があるのは、女子校だけらしいから、今世では諦めるしかなさそうだ。……僕がこの目で百合の花が咲き誇るのを見ることは出来ないのかもしれない。もしそんな機会があれば、微笑ましくそれを見守りたいし、欲を言えば挟まりたいものである。
「いや、冗談だよ。でも、もしかしたらそうなのかもなーって?」
「……彼女が私に好意があると? もしそう見えているのならば、一刻も早く眼科を受診することを勧めるわ」
「あはは、残念ながら視力は悪くないんだよね。でも実際のとこ、どうなんだろう? たかが友達になるために、ここまでする必要はあるのかな? 執着とまでは言わないけど、並々ならぬものは感じるよね?」
堀北は一瞬、言葉に詰まった後、すぐに呆れた顔をこちらに向ける。
「だからって、すぐに色恋に結びつけるのは短絡的が過ぎるんじゃないかしら?」
「じゃあ、額面通りに友達になりたいだけなのかな。それはそれで、うーん、僕にはちょっと理解できないな」
「そうね、人には人の価値観があるもの。それを押し付けさえしなければ、それ自体には何の問題もないわ」
うーん、案外堀北はまともな思考回路の持ち主なのかもしれない。こうして話していると、櫛田の方がおかしい気がしてきた。
「……物は試しに、一回友達になってみるのはどうかな。櫛田さんの言葉を借りるのならば、彼女はDクラス全員と友達になりたいだけなんでしょ? 形式だけでも友達になっておけば、これ以上の干渉はないんじゃないのかな? それに、友達になったからって必要以上に仲良くなる必要はないんだし」
「あなたはそれが友達だと思っているの? そんな打算で上っ面だけの関係が?」
「いやぁ、まぁ、僕は違うけどね。僕は友達っていうのは、大切で尊い物だと思っているけど、全員がそうかっていうと、そうでもないでしょ? 現に櫛田さんと僕はお互いに関係性を聞かれた時に、友達って答えるだろうけど、信頼関係や強い結びつきがあるわけではないし」
僕の認識では、櫛田はとても可愛いクラスメイトであり、友人である。……そこまで付き合いが深いわけではないが、友人ではないとわざわざ訂正するほどでもない。
そもそも、僕は人間関係のラベリングにさして興味はない。重要なのは、本質的にどうなのかであって、互いに互いをどう思っているのかが大事なのだ。多分ね。
「……私はそんなの御免よ。そもそも、私に友達は必要ないし、彼女の価値観に私が合わせる道理がないもの」
「一応聞いておくけど、これまでの人生で友達は……?」
「えぇ、一人もいないわ。9年間、いえ、幼稚園を含めればもっと長いわね」
……愛里もいないって言ってたし、若者の友達離れは僕が思っている以上に深刻なのかもしれない。よしっ、作るか、隣人部!
「それがどうかしたの? 何か問題があるのかしら?」
「……いいや、別に。あっ、そうだ、折角だから、僕と友達になってみるっていうのはどう?」
「……あなたは数秒前の発言も覚えていられないほど、残念な脳味噌をしているのかしら。それに、あなたは別に友人に不自由していないでしょう?」
「幸いにも、仲良くさせてもらっている人は増えてきたけど、だからって君と仲良くしちゃいけない訳でもないと思うな」
堀北の視線は段々と温度を下げ、常温から真冬の水道水ぐらいになってしまった。
「あなたも櫛田さんと似たような考えになったのかしら? いえ、あなたがもし、憐れみや同情からそう思ったのならば、櫛田さんよりも不愉快だわ」
「いや、断じてそうじゃないよ。……うーん、何て言えば良いのかな、一言で言えば……気になる、君に興味があるってことになるのかな」
僕の答えに一定の納得を得られたのか、堀北はいつもの平然とした態度に戻り、最低限の温かさを取り戻してくれた。
「そう。私はあなたに興味がないわ」
「……し、辛辣ぅ。……こういうところが違うのかな」
「違う? 誰と?」
「君のお兄さん。学先輩」
その瞬間、堀北は目を大きく見開き、体を強張らせた。……あれ、もしかして地雷だったかな。
「……兄さんのことを知っているの?」
「雅先輩、あぁ、副会長ね、生徒会副会長。雅先輩から学先輩のことは聞いているよ。優秀で、人徳に溢れた傑物だって。同じ苗字だし、面影もあるから、兄妹なんじゃないかって思ったけど、違ってた?」
「いいえ、私の兄さんよ。そう、そうだったの。……に、似てるかしら?」
「似てると思うよ。凛々しい目元なんてそっくりだし、その上、二人とも文武両道で優秀なんでしょ?」
実際、兄妹揃ってこの学校に入学している時点で優秀なんだろう。……妹はポテンシャル採用ではあるが。
「でも、だからこそ違いがはっきりしているのかな。君のお兄さんは人徳に溢れている。その一方で、君は……うーん……ボッチ?」
「……兄さんは孤高なのよ。下らない人付き合いなんてしないわ」
「集団に属すのが愚かであるとは思えないし、それに話を聞いた感じ、君のお兄さんは友達も少なくなさそうだけどね」
いつもの研ぎ澄まされたナイフのようなキレがない……。これはどっちだ? 尊敬か、畏怖か。
「確認だけど、堀北さんは学先輩のことを尊敬しているんだよね?」
「……えぇ、私は兄さんに追いつくためにこの学校に来たんですもの」
……お、思ったよりもあれだな、ブラコンなんですね。
「でも、だったらどうして、人付き合いは学先輩を参考にしないの? 学先輩は周りの人から信頼される、素晴らしい人物なんでしょ? 人に媚びない表面だけを真似しても、却ってその距離は遠くなると思うけど」
堀北は目を閉じ、押し黙る。……言い過ぎたかも。いや、言い過ぎたな。
「ごめん。言葉が過ぎた。堀北さんのことを大して知りもしないのに、決めつけるような物言いは良くなかったね」
「……えぇ、その通りよ。あなたにそんなことを言われる覚えはないわ。……でも、あなたの指摘も……間違ってはいない、のでしょうね。兄さんが今の私と同じ立ち振る舞いをしているとは思えないもの」
堀北は真っ直ぐと目を見据え、僕に手を伸ばす。
「……兄さんなら、こうするはずよ」
「それって、つまり?」
僕も手を伸ばし、彼女の手を握る。
「えぇ、あなたと友達になってあげる。ただし、あなたが言ったように必要以上に仲良くするつもりはないし、余計な事をしてきたら、すぐにこの関係も解消させてもらうわ」
「えぇぇ……ま、そっちの方が堀北さんらしいか」
気づけば、誰もいなくなった教室で、僕は彼女の初めての友人になった。
「夜遅くにごめんね、黒乃くんに話したいことがあって。少しいいかな?」
「大丈夫だよ櫛田さん。えっと何かな?」
スピーカーからは、いつものように明るい彼女の声が聞こえる。
まさかの告白か? ……いや、それはないか。
「私ね……堀北さんの友達になりたいんだっ。だから、協力……してもらえないかな?」
……うーん、どうしたものか。