時刻は20時。鈴音が帰ってからというもの、八畳半の自室がいつもよりちょっとだけ広く感じる。……べ、別に寂しくなんかないんだからねっ。
冷蔵庫の中には彼女が多めに作ってくれた今日の晩御飯の残りが入っている。
……僕の胃袋は完全に彼女の手中に落ちた。それに従い、僕の心もまんまと落ちてしまったという訳だ。
いくら何でもチョロすぎる気がしないでもないが、そうなってしまったのだから仕方がない。
実際、顔は可愛いし、文武両道で、料理も得意、少しばかり目を瞑れば完璧な彼女なんだよなぁ。
何? 真っ暗で何も見えないって?
それは……まあ何だ、ご愛嬌ってことで。
それに、慣れれば案外どうってことはない。
テストが終わるまではご飯も作ってくれるらしいし、彼女は本当に面倒見が良い。……だからって、射精管理されるとはこれっぽっちも想像していなかったけど。
彼女にAクラスへ上がるための協力を持ちかけられた僕は『手伝った分に見合ったエッチな報酬が欲しい』とアプリを彼女に使ったが、それがこうした形でアウトプットされるとは思わなんだ。
別に手伝うこと自体は
エロは男の原動力。どれだけ取り繕っても、行き着く先はそこである。
Aクラスに上がる。ポイントが貰える。そんなことよりも、鈴音にエッチなご褒美を貰える方がやる気が出るのは自明である。
それにしても、エッチな報酬が射精管理か。
……抽象的な願望は対象者の価値観が強く反映される傾向にある。今回は、彼女の独善的な価値観の側面が強く影響したのだと考えられるが、あくまでそれは僕の予想に過ぎない。人間の精神はそこまで単純に構成されていない。多面的で、多層的、非合理かつ気まぐれだから。
これだけを聞くと、抽象的な願望の利点がないように思えるだろう。
でも実際そんなことはない。具体は具体で罠がある。
それは具体にすればするほど、出力が歪で応用が利かない、言い換えれば、クオリティの低い催眠になることが多いからだ。
その場その場で使う分には、具体的かつ詳細な願望が好ましい。
でも、そうでない場合はある程度のゆとりを持たせた方が無理も少なくなるし、自然になる。
つまりなんだ、塩梅が大事なんだよな。そこんところはセンスを磨いていくしかないか。
それじゃあ、早速今日の仕事をやっちゃいますか。
仕事はなるべく溜め込まない。それに早くこなした方が彼女からの評価も上がるだろうしね。ASAP、なる早の精神が大事。
そうして、山内の部屋に着いた僕はインターホンを鳴らした。
「——はいはい、って何だ、黒乃かよ」
部屋着の山内は僕の顔を見るなり、あからさまに低いテンションで応対する。
……僕は池や山内に、うっすらと敵視されている節がある。平田ほどではないが。
平田みたいに派手にヘイトは買わないように、立ち回っているつもりではあるんだけど、教室ではいつも鈴音か愛里と話しているからな。……しょうがないか。
まあ、そんなことはどうでもいい。僕はドアの隙間から玄関にある靴を確かめる。
……おそらく来客はいないだろう。部屋の中からも他の人の気配を感じない。
それなら手早く済ませてしまおう。
僕は手に忍ばせておいたスマホを彼の視界に入れ、起動させていた真っ白な画面を彼に見せる。
控えおろう。この紋所が目に入らぬか。……って何も表示されていないんだけどね。
目を虚にさせた山内にいつもの要領で暗示を掛ける。
『きっと何者にもなれないお前に告げる。搾取される側の人間になりたくなければ、不満ばかりという人生を送りたくなければ、勉強しろ。バカとブスこそ、東大に行け』
アプリを閉じ、スマホをしまうと、山内が元に戻る。
「……夜遅くにごめんね。明日からは山内も放課後の勉強会に参加した方がいいんじゃないかと思ってね。退学はしたくないでしょ? まあ、自由参加だし強制はしないけど」
「……行けたらな。けど、平田が仕切ってるのがムカつくんだよなぁ」
「ははっ、それは確かにね」
そうして、山内の部屋を後にした僕は池、ついでに沖谷にも同じ暗示を施した。沖谷は勉強会に乗り気ではあるものの、ギリギリだったしな。同じ目標を持って勉強した方が、モチベも保てるだろうし。
きっと、今より素敵な未来があるから、3人ともコツコツコツと頑張ってくれ。
受かる可能性ありますかって? 誰だってあると思うよ。知らんけど。
池と山内はこれで問題ないだろう。勉強会に参加するかは分からないけど、勉強自体はするだろうからね。
となると、問題は須藤だよな。
須藤はバスケのプロを目指しているらしい。バスケのプロがどんなものかは知らないけど、東大とプロバスケの二足の草鞋は聞いたことがないし、絶対無理だろう。
催眠で勉強させたら、バスケに支障が出そうだから、アプリを使うのは少し腰が引ける。
とは言えだ、須藤はめちゃくちゃバカだから、勉強させなきゃ絶対赤点取って即退学なんだよなぁ。面倒っ。
……アプリなしで勉強させるか? いや、そもそも僕は須藤が苦手だからな。可能な限りサシで関わりたくない。
——ん? ちょっと待て。
バスケ……バスケ部か。
確かあの先輩、バスケ部じゃなかったっけ?
僕は連絡先を探し、その先輩に電話する。
「夜分遅くにすみません、今大丈夫ですか?」
「あぁ、問題ない。何だよ堅苦しいな、俺と黒乃の仲じゃないか、変な気は使わなくていいんだぞ」
「あはは、いや、そういうわけにもいかないんで」
「そうか、謙虚な奴だな。それで何の用だ?」
電話越しから聞こえるハキハキとした声。実に好青年って印象だ。
「石倉先輩ってバスケ部でしたよね?」
「何を言っている、キャプテンだぞ、キャプテン。俺がバスケ部じゃなかったら、誰がバスケ部だっていうんだ?」
「あはは……実はですね、ちょっと頼みがあるんですが」
「あぁ、遠慮なく言ってくれ。俺がこうして今、バスケに打ち込めているのも、お前のお陰だからな」
翌日の放課後、僕は授業が終わるなり、すぐに体育館に向かった。
そうして、石倉先輩と落ち合って、須藤を待つ。
須藤は思いの外、部活動には真摯らしい。それから5分もしない内に彼は顔を見せた。
「おい須藤。こっちに来い」
石倉先輩が須藤を呼び止めると、いつもの態度はどこへやら、須藤は後輩然とした態度で小走りでこちらに近づいて来る。
「キャプテン、な、何すか? ——ん? 黒乃、何でここにいんだよ」
「余計な口を利くな。黙って着いてこい」
「う、うっす」
そうして僕たちは、人目につかない用具室に移動する。
こんな狭いスペースに男3人は、結構むさ苦しいものがあるな。
「なあ須藤。お前、小テスト赤点だったらしいな」
「へへ、あぁはい。やっちゃいましたね。……おい黒乃、てめぇチクったな」
僕に向かってガンを飛ばす須藤。……怖っ。
「あ? お前、さっき俺が何て言ったか忘れたのか? 余計な口を挟むな」
「す、すんません」
「はぁ。……まあいい。それより本題だ。須藤、クラスで勉強会を開いているんだろう? 参加しないのか?」
「べ、勉強会っすか? 授業だけでも面倒臭いのにそんなのに出るほど暇じゃないっすよ。それに部活、部活の方が大事ですからねっ」
須藤はヘラヘラした態度で誤魔化すものの、石倉先輩は動じることなく、須藤を見据えていた。
「中間テストはどうする? 赤点を取ったら退学なんだぞ?」
「そ、それは……一夜漬けすれば余裕っすよっ! 俺、一夜漬け得意なんで!」
「須藤、どうやらお前には危機感が足りてないようだな。——お前はこの学校を舐めすぎだ。お前みたいな奴が、毎年決まってこの校舎を去って行く。尤も、テストで退学になるのは、Dクラスの連中ぐらいなもんだけどな。おい、本当に分かってるのか? お前、このままじゃ退学だぞ」
「——っ!!」
須藤は額に汗を浮かべ、視線を慌ただしく泳がせる。
「で、でも、勉強なんてやる意味ねーっつうか、あっ!! そ、そうっすよ、俺、プロ目指してるんで、勉強なんかよりバスケやった方が将来の役に立ちますから」
「違うな。それは問題から逃げているだけだ。それなら、今すぐ退学して他の学校でバスケだけしていればいい。別にこの学校である必要はないんだからな。でも、お前にはそれは出来ないんだろ? 自分でも言っていたじゃないか。強豪校の推薦は無くなって、実家も貧乏だって。この学校以外でどうやってプロになるつもりなんだ?」
えっ? ちょっと待って。須藤ってそんな事情があったの? 初耳なんですけど。
「そ、それは……」
「須藤、冷静に考えろ。ここがお前の人生の岐路だぞ。後先考えずに行動をした結果、これまでどうなった? 碌なことにならなかっただろ? これからもそれでいいのか?」
部屋を重い静寂が支配する。外から聞こえるボールのバウンドする音だけがやけに大きく聞こえた。
「……須藤。厳しいことを言ったが、それは俺がお前に期待しているからだ。俺はお前が真面目に練習していることを知っている。センスもあるし、身長もある。プレイヤーとしては文句なしだ。それこそ問題がなければすぐにでもレギュラーになれるだろう」
「……キャ、キャプテン」
「逃げるのは自由だが、元の場所には戻れない。当然、やり直すこともな」
須藤はしばらく顔を伏せた後、ゆっくりと顔を上げた。その顔は覚悟を決めた男の顔だった。
「キャプテン! 俺、勉強します! バスケ以外の時間は勉強して、この学校でバスケのプロになって見せますっ!」
「そうか。言うだけなら誰でも出来る。——須藤、信じてもいいんだな?」
「はいっ!!!」
須藤の顔付きは驚くほど変わった。なんていうか、怖さが無くなった。僕が話を聞いていたからかもしれないが。
「須藤、黒乃に感謝することだな。黒乃がお前の身を案じて、俺から勉強するように説得して欲しいと頼まれたから、今日はこうした機会を設けた。感謝するのなら、俺じゃなく黒乃にすることだな」
「——く、黒乃っ!!」
「こんないい奴、滅多にいないぞ。この前も、足を滑らせ階段から落ちる俺を黒乃は身を挺して受け止めてくれた。俺が最後の年に万全な状態で部活に取り組めるのも全部、黒乃のおかげだ」
な、何だって!? 僕ってそんないい奴だったのか!?
——ま、嘘だけどね! そんな事実は当然無いし、そもそも僕が石倉先輩を受け止めて、無事で済むはずがない。先輩がどこぞの惚れっぽいメンヘル処女よろしく、蟹に行き逢い、その鋏で体重を切り取られてでもいない限り。
石倉先輩には『僕に恩義を持つ過去がある』といった暗示を掛けた。アプリの仕様確認、それに加え、応用を模索していた時に。
内容から察せられるだろうが、僕は先輩に過去を挟もうとした。なんちゃってブック・オブ・ジ・エンドもどき。……結果は大失敗だったが。
対象人物に過去は作れた、が、それだけである。
欠点その一、僕にその過去が分からない。僕は経験できないから。
欠点その二、記憶が作れるだけで、過去を変えられる訳ではない。
欠点その三、その癖リスクはそのまんま。下手したら精神崩壊しそう。
以上のことから、運用する利点がゼロ、それどころかマイナスである。月島さんごっこするにしたって、もうちょっと別の方法がある。だから、この使い方は封印することにした。
ちなみに3年の猪狩先輩にも同じ使い方をした結果、彼女は僕のことを小学4年生の頃に旅行先で溺れた自分を助けてくれた男の子だと言ってきた。……流石に無理があるだろう。えっ、本当に僕じゃないよね? じ、自分でも不安になってきた。……うん、存在しない過去を生やすのはもうやめよう。正気が保てなくなる。
「黒乃、お前、お前いい奴だったんだなっ!! 見直したぜっ!!」
須藤が僕の肩を掴んで揺らす。
「あぁ、いいよいいよ、気にしないで。折角同じクラスになったんだから、すぐにお別れじゃ寂しいと思っただけさ。それより、部活も本気でしたいんだろ? 練習後でも勉強会できるようにしておくからさ、頑張ってよ」
「あぁ、恩に着るぜっ!! ぜってぇ次の試験満点取ってやるよ」
「それは頼もしいね」
話が終わり部活に戻って、練習する須藤を見たが、物凄い迫力だった。……
南雲か龍園に「これが実力至上主義だ!」って女体シャンパンタワーさせようと思ったのですが、流石に無理でした。