冤罪で俺の人生を奪った元恋人が、俺の人生を買いに来た話【完結】 作:ドン・ドナシアン
001 久しぶりね、大樹。やっと見つけた
「昨日の女、顔は河童みてえだったけどな。締まりだけは当たりだった」
「ばーか、お前の払う金じゃあ、満足できたなら外れじゃなくて、当たりだよ」
下衆な笑い声が酒場に転がる。
大樹は、それを聞き流しながら、残りが乏しくなった目の前のグラスを見つめていた。
味はないが度数だけは強い酒も残り少ない。
考えているのは、二杯目を頼むかどうかだけだ──。それ以外のことはどうでもいい。
ポケットの小銭は少ない。明日は雨。現場が止まれば収入はない。
だが、身体は二杯目を求めている。いや、できれば、三杯目、四杯目といきたいが、それは諦めていた。しかし、二杯目までなら、明日の飯場にありつけなくても、明後日に仕事が入ればぎりぎりいける。ただ、いまのところ、数日は天気が崩れる予報なのだ。
「兄ちゃん、追加するかい?」
カウンターは油で黒ずみ、肘を置くとべたつく。安い蒸留酒の匂いと煙草、汗の湿気が混ざっている。そのカウンターの向こうから店の主人が声を掛ける。
大樹は答えず、グラスを指で回す。
「ああ、できれば、いい女とやりてえなあ。贅沢は言わねえけど、綺麗なスーツ着た姐ちゃんとかよう」
「十分、贅沢じゃねえかよ」
また、あの酔客の笑い声が響く。
二杯目を飲まないと決めれば、未練のないように店を出るべきか。
大樹は、主人の声を掛けて飲み代を払うと席を立った。すでに財布にはお札はなくなり小銭だけだ。明日、なんとか仕事にありつかないかなあと考えながら扉に向かう。
すると、目の前の扉が大樹が手をかける前に開いた。
湿った夜気とともに、現れたのはスーツ姿の男だ。大樹を押しのけるように店に入ってくると、胡散臭そうに店の中を無言で見回す。
店の中を見張るように入口に立つ。
客という雰囲気ではない。
カウンターの中の主人も、声を掛けるのを忘れて呆気にとられている。
さらにこつこつとヒールの音が外で近づくのが聞こえた。
「おい、なんだよ?」
誰かが不機嫌そうに声をあげる。
すると、続いて女が入って来た。歳は三十を少し過ぎたくらいだろうか。汚れのないコート。整った髪。店の空気から浮いている。誰も口に出さないが、店の空気が一段下がった。
さっきまで下品な笑い声を上げていた連中が、妙に静かになる。
女は店を一瞥し、出入口の脇に立っていた大樹に視線を止めた。
まっすぐ歩いてきて、大樹の前で足を止めた。
「……久しぶりね、大樹……。やっと見つけたわ」
よく見れば女は汗で額に髪を張り付かせており、呼吸を荒くしている。まるで走ってここまで来たかのような気配だ。
女が大樹の名を呼んだが、自分の名が、この店で呼ばれることに違和感があった。
ただ、どこかで会ったことがあるような気がした。
懸命に記憶を呼び起こす。
「誰です?」
しかし、どうしても思い出せなかった大樹は仕方なく訊ねた。
女の顔が心なしか沈んだ。
「あやよ……。
女の目が大樹に縋るようだった。
「あや……か……」
やっと、記憶が繋がる。
かつて恋人だった女──。そして、大樹を冤罪で刑務所に送り込んだ女の名だった。
「そ、そうよ」
綾子がさらに大樹に近づき破顔する。距離が近い。彼女の上品な香水の匂いが大樹の鼻を刺激する。
「ああ、思い出したな」
声は自分でも驚くほどに平坦だった。
「よかった」
「だが、名前が違うだろう。西園寺綾子。西園寺グループの御曹子の妻のはずだ」
綾子の口元の笑みが消え、目がわずかに揺れる。
「……そうね」
それだけだった。
「じゃあな」
大樹は視線を外し、横を抜けようとする。
「待って」
綾子が腕に触れようとした。
反射だった──。
大樹の手が、綾子の手を払っていた。
乾いた音が、静まり返った店内に響いた。
「つっ……」
小さな息。
入口に立っていたスーツの男が一歩前に出る。
空気がり詰める。
「拓哉、下がって──」
綾子の声は低い。
男は止まる。
大樹は、綾子に視線を向けた。
綾子は払われた手を見つめていた。
そして、赤くなった甲をゆっくりと口元に寄せて微笑んだ。
大樹は小さく舌打ちしてから、綾子に背を向けようとした。
「待って──。話をさせて。大樹──。あなたも、わたしに言いたいことがあるでしょう」
綾子が今度はそっと腕に触れた。
大樹は嘆息した。
だが、今度は払わなかった。
「いや、ないな」
大樹はその手を静かにどける。
今度こそ出入口に向かう。
「だったら、お金を払わせて」
綾子の声が、酒場のざわめきを切った。
「はあ?」
振り返る。
「いくらでもいい。あなたが望む額を言って。全部払う」
「……お前、なに言ってんだ」
大樹は眉を寄せた。
しかし、店中の視線が集まっていることに気がついた。
「……あなたが失った時間の分……人生の分をわたしが全部、払うわ」
静かな声だった。
ざわりと空気が動く。
大樹は店内を一度だけ見回した。
安い蒸留酒の匂いと、興味と、下卑た好奇心──。
面倒だ──。
「場所、変えるぞ」
それだけ言った。
「わ、わかった──。どこでもいいよ、あなたにお金を出させはしないわ。お金は十分にあるの」
「……だろうな」
大樹は店の外に出る。すると、当たり前のように綾子が腕を組んできた。
しかし、大樹はそれを静かにどける。
「大樹?」
綾子が当惑したように小さく声を出す。
「触らないでくれ」
大樹は綾子に背を向けて歩き出す。
綾子がすぐ後ろからついてきた。あのスーツ男はその後ろ。場末の酒場通りには随分と不似合いは行進だ。大樹は自嘲気味に笑ってしまった。
だが、路地を抜けて、車道で面したとき唖然となった。
そこには、大きなリムジンが車道の左端を占拠していたのだ。
しかも、白手をした運転手らしき男がそこに立っていて。大樹たちの姿を認めると、扉を開く。
「お疲れ様です。奥様」
運転手が綾子に向かって頭を下げた。
「とりあえず、乗って。どこでもいいわ。好きなところに座って」
開いた扉の中は、別の世界だった。
柔らかい照明。沈み込むような黒いシート。酒場で染みついた煙草と蒸留酒の匂いが、扉の外で切り離される。
「なんだこりゃ」
大樹は一瞬だけ立ち止まった。
「どうぞ」
運転手が頭を下げたまま言う。
大樹は無言で乗り込んだ。革の感触が背中を受け止める。座った瞬間、自分の安い上着が場違いに思えた。
綾子は反対側に座るかと思ったが、すぐに真横に腰を下ろした。
扉が静かに閉まる。
あのスーツ男は乗ってこなかった。運転手とともに助手席に座った気配だ。だが、運転席側とこちら側は薄い板で仕切られていて、向こうは見えない。
扉が閉まってしまうと、外のざわめきが嘘のように消えた。エンジンの振動だけが、わずかに足元へ伝わってくる。
大樹も綾子も話さない。
走り出した車窓から外を見る。流れていくネオンがガラス越しに見えた。
綾子の視線は感じた。
だが、見ない。
車がゆっくりと動き出す。
静寂が続く。
先に口を開いたのは綾子だった。
「なにか飲む……よね。ウイスキー、ブランデー、ワイン……ビールもあるわよ」
綾子はリムジンの端にある棚に触れて壁をスライドさせた。大樹は一瞥だけして、小さく「ビール」と口にする。
しばらくすると、グラスが大樹の前に差し出されて、綾子が瓶からビールを注ぐ。瓶のラベルは大樹が一度も目にしたことのないもので、どうやら外国産のようだ。
大樹は無言でビールを口にした。顔は車窓に向けたままだ。
「……ごめんなさい、なんて言うつもりはないの……。わたしのしたことは、そんな安っぽい謝罪ですむことじゃないわ……」
綾子の声は小さい。
「確かに、言われても困るな……」
大樹は窓から目を離さない。
綾子が息を呑む音が、静かな車内でやけに近く聞こえた。
また沈黙──。
革の匂いと、彼女の香水だけが漂っている。
大樹は腕を組み、目を閉じた。
大学二年の冬、二人で立ち上げた小さな会社は、綾子の発想と営業力で急成長した。
五年後、運転資金の横領が発覚した。大学を卒業して三年後のことだ。
帳簿は大樹の管理だった。
改ざんの痕跡が見つかり、責任は大樹に向けられた。
警官に連行され、手錠をかけられた。
綾子は、なにも言わなかった。
裁判にも、面会にも現れなかった。
懲役五年──。
鉄の扉──。
仮釈放は三年後だった。
出所したころには、綾子は西園寺グループの御曹子と結婚していた。
あの会社は西園寺グループの中核企業となり、綾子はその社長になっていた。
それから七年──。
やっと、西園寺の名を耳にしても胸が痛まなくなった。
終わった話になるまで、あれから十年だ──。
それなのに、どうして、いまさら目の前にいる。
「……この車はどこに向かってるんだ?」
大樹は何気なく訊ねた。
「どこにも。あなたが行き先を決めるまで、ぐるぐると都心を回るように命令してる」
「……命令か……。すっかりと令夫人だな」
大樹は外を見ながら苦笑した。
再び、沈黙が続く。
「それで?」
しばらくして、仕方なく大樹は顔を綾子に向けた。
綾子は声を出すことなく泣いていた。
大樹は目を細めた。
「……わかった。もうおろしてくれ。どこでもいい。帰る。明日も仕事なんだ」
大樹は言った。
綾子は顔をあげた。俯いていた顔を少しだけ上に向かせて涙を止める仕草をする。そして、小さく首を振った。
「明日の仕事はないわ……」
綾子が静かに言った。
「……まあ、多分、雨だしな」
「雨じゃなくても。あなたを雇う現場はないわ。大樹はもう働かなくていいの」
「はあ? なに言ってんだ、お前?」
「明日だけじゃない。明後日も、その次もよ」
まだ涙の痕が残っていたが、綾子の顔は毅然としたものだった。
かっと怒りが込みあがる。
「お前、なんのつもりだよ──。まさか、手を回したんじゃないだろうな──」
大樹は思わず怒鳴りつけた。
「そうよ。手を回したわ……。酷いわよね。あなたを陥れた悪女よ──」
「お前、どういうつもりで──」
「だから、わたしに復讐して──。殺したって構わない──。」
綾子がリムジンの中にある引き出しから、大きなナイフを取り出してテーブルに載せた。
「……あなたが望むなら……」
綾子が心臓の場所を晒すように身体を大樹に向ける。
大樹は、小さく吐息した。
「あの横領が俺ではないと、もう知ってるんだな……?」
大樹は訊ねた。
あの横領は冤罪だ。だれよりも、大樹はそれを知っている。しかし、裁判は大樹の罪を認めて、刑期も終わっている。法的には終わった事件だ。
「夫よ……」
「夫?」
「あの男が仕組んでいたの」
綾子が俯く。
「なるほどね……。刑務所の中で色々考えたけど、まあ、そういうことだったんだろうな。詰まりは、俺が間抜けだったということだ。それで、お前はその男と結婚した。めだたしめでたしか?」
「違うの──。知らなかったの──。それだけは信じて──」
綾子はがばりと顔をあげる。
「なにを信じろと? 俺の罪を信じて、供述書にサインをしたお前をか? まさか、お前が俺を裏切るとは思わなかったよ。裁判には現れなかったけど、会社の責任者として、俺の横領は残念だと供述してたな。裁判で朗読されたぞ」
「ごめんなさい──だって、証拠は揃ってたし……。それに、資金繰りをするのに忙しくて……。あのときは、なんとしても、あの会社を維持したかったのよ」
「それで、その御曹子と結婚を? その御曹子が仕組んだと言っていたか? だったら、どうして、そいつとお前が結婚することになるんだ? お前、いい加減にしろよ」
「だから、知らなかったのよ──。あなたが冤罪だった知ったのは五年も経ってからなの──。それから、あなたを探したけど、どうしても見つからなくて……」
「なんのために見つける? いまさら、なんだよ」
「わかっている。わたしが間抜けで馬鹿なことは──。償いなんてできないことはわかっている──。ねえ、教えて。どうしたら気が済むの──? あなたの憎しみはどうしたら癒えるの?」
「……お前なあ……。じゃあ、はっきり言うけど、もう放っておいてくれ……。復讐なんてするつもりはねえ。いいから、もう車を停めろ──」
大樹は声をあげた。
「お金を払うわ──。幾らでも、家も準備する──。与えられるものはなんでもよ──。いまはそれだけの力があるの。あなたを裏切った代償で得た物だけど、いまのわたしには、かなりの物を動かせるの」
綾子がすがりつくように、また大樹の腕を掴む。
顔から再びぼろぼろと涙が零れる。
「やかましい──。車を停めろ──。聞こえねえのか──」
大樹は喚いた。
そのとき、信号にでも捕まったのか、車が減速し始める。扉を開けて外に出ようと、大樹は立ちあがった。
「あれ?」
しかし、できなかった。
立ちあがろうとした腰が砕けて、大樹はリムジンの床に膝をついてしまう。そのまま身体が倒れていく。全身が脱力してしまっている。
その大樹をシートから飛び出した綾子が掴む。
身体だけでなく、意識も遠くなる。
はっとした。
まさか、薬でも飲まされた?
そう考えて、思いついたのはビールだ──。
まさかとは思うが、綾子が……?
「……あ、あや……まさか……」
綾子を見る。
「また、あやって、呼んでくれたのね……。嬉しいよ。大ちゃん」
大樹を抱き締める綾子が嬉しそうに微笑んだ。
「ま、まさか……く、薬を……」
「そうでもしないと、大ちゃんは、もうわたしを相手にしてくれないよね……。だから……」
綾子が大樹を抱く力がすさまじく強くなる。
絶体に逃がさない──とでも言わんばかりに……。
大樹は抵抗を諦めた。これはどうやってみ逃げられない。そんな予感がした。そして、この綾子は大樹に執着をしている。さすがにそれはわかった。
「お前……人妻だろう……」
「ああ、大丈夫よ。すでに片付いているから。気になるなら、殺すけど……」
綾子は何事もないかのように微笑む。
その目には狂気の色がある。
大樹は目を細めた。
「……わかった……。お前に復讐……して……やるよ……」
大樹が言った。
「……ああ、嬉しい──。もう離さないよ……」
綾子が破顔し、次いで大樹の唇に自分の唇を重ねてきた。
大樹の意識はそれで途切れた。
【「女帝」一ノ瀬綾子氏死去】
一ノ瀬綾子氏(いちのせ・あやこ)西園寺ホールディングス会長は二十一日、東京都内の自宅で心不全のため死去した。七十二歳。葬儀は近親者のみで執り行う。後日「お別れの会」を開く予定。喪主は一ノ瀬大樹氏(内縁の夫)。問い合わせは西園寺ホールディングス広報部。
東京都出身。大学在学中に起業。婚姻を機に西園寺グループの経営に参画し、経営危機にあった同グループの再建を主導した。三十五歳で西園寺ホールディングス社長に就任、五十五歳でグループ代表に就任。大胆な事業整理と投資戦略で業績を回復させ、「女帝」の異名で知られた。
三十二歳で西園寺家の御曹子と離婚。その後は再婚せず、公的な婚姻関係を持たなかった。
都内の邸宅には長年同居する男性の存在が知られていたが、家族関係の詳細は公表されていなかった。今回の発表で、その男性が一ノ瀬大樹氏であり、内縁関係にあったことが明らかになった。
大樹氏に公的な役職歴はなく、対外的な活動も確認されていない。
綾子氏は生前、私生活について「自らが奉仕する立場にある」と笑って語ったことがあるという。