冤罪で俺の人生を奪った元恋人が、俺の人生を買いに来た話【完結】 作:ドン・ドナシアン
すでに、一時間近くが過ぎていた。
綾子は、腕に嵌めているカルティエの腕時計をちらりと見る。白い文字盤の針は、十七時を大きく回っていた。大樹が指定した時刻から、もう三十分近くが過ぎている。
綾子は必死に左右を見回す。駅前広場を囲む商業ビルの入口、横断歩道の信号機の下、人の流れの奥──。どこかに大樹が立っているのではないか。こちらを見ているのではないか。
だが、それらしい姿は見えない。
左手には、小さなガラケーを握りしめている。今度こそすぐに出られるように。指示を聞き逃さないように。
また、親指で何度も小さな液晶画面を点灯させる。
メールが来ていないか。着信が残っていないか。
しかし、何十回確認しても、いまのところ、画面にはなにも表示されない。
駅前広場には人が多い。
会社帰りのサラリーマン。買い物帰りの女性。制服姿の学生たち。待ち合わせらしい男女が、スマートフォンを見ながら立っている。
綾子と同じように、その場に立っている者は少なくない。
しかし──。
綾子ほど、長く立ち続けている者はいない。
目立っている──。
気のせいだと思いたいが、不躾で好色な視線、侮蔑の視線、あるいは奇異の目を向ける者が少なくない。人目の多いこの駅前広場で長時間立ち続ける──。
それは、まさに羞恥の拷問だった。
綾子が身につけている仕立ての良いスーツのジャケットは、きちんとボタンが留められている。だがその内側には何も身に着けていない。素肌のまま羽織っただけの上着の襟元は深く開き、柔らかな乳房の谷間は、はっきりと覗いていた。
膝上丈のスカートは細い脚の線を際立たせ、足元のパンプスが脚を長く見せていた。
遠目に見れば、駅前の人混みに紛れていても不思議ではない、洗練されたスーツ姿の女だが、近くまで来れば、この姿の異様さはよくわかる。
だが綾子は、ほとんど身動きが取れない。
脚を揃えたまま、わずかに腰を引いた姿勢で立っている。
重心を変えることさえ慎重にならざるを得ない。
スカートの内側──股間とアナルには、二本のディルドが打ち込まれている。
それだけでなく、ベルトの内側に仕掛けられている無数の繊毛が、わずかな綾子の身じろぎすらも見逃さずに、狂おしい刺激を与えてくるのだ。
立っているだけで刺激が生まれる。
できるだけ、刺激を避けるためには、太腿に力を込めて必死に姿勢を保つしかない。
それでも、ときおり小さく震えが走る。
広場の中央で、綾子はその苦悶を必死に押し殺していた。
三十三歳の成熟した綾子の身体は、ごく自然に女としての反応を示してしまう。
しかし、綾子には顔を伏せることは許されない。
俯いてしまえば、人目を避けることはできるが、もしも、大樹がどこからか現れれば見つけられなくなる。
広場のどこかかもしれない。
通行人の中に紛れているのかもしれない。
もし、視線を逸らした瞬間に大樹が現れたら……。
もし、指示を見逃したら……。
そして、大樹を失望させて立ち去らせてしまったら……。
それは、恐怖でしかない。
だから、大樹を去らせる可能性を与えずに、先に捕まえるのだ。
綾子は顔を上げたまま、広場を見渡し続ける。
その姿は、通りすがりの人々の視線を引きつけていることは、もはや疑いない。
幾人もの男が、ちらりと綾子の胸元を見る。
怪訝そうに振り返る女もいる。
わかるからこそ、胸の奥に冷たいものが広がる。
ここは都心の駅前だ。
知人に会わない保証などない。
西園寺グループの名はよく知られている。
そして綾子は、その経営を牽引する人物の一人だった。
すでに、西園寺綾子の名は、経済界の中で小さなものではなくなっている。
だからこそ──。
もし──取引先の誰かが通りかかったら。
もし──社員の一人がここを通ったら。
この姿を見られたら──。
綾子の脚が、かすかに震えた。
逃げ出したい。
そう思う。
だが、逃げることはできない。
「くっ」
また、綾子が身じろぎしてしまったのか、身体の奥のディルドが存在を主張した。
必死に声を噛み殺す。
気が遠くなるような公開恥辱──。
気が遠くなりそうな羞恥と苦悶のなかで、綾子の意識がふとぼやけた。
そういえば、大樹は本を読むのが好きだった。
パソコンとソフトウェアの開発に夢中になる一方で、読書はもうひとつの大樹の趣味だった。技術書だけではない。歴史や文化、社会の話まで、驚くほど幅広い本を読んでいた。
同棲していたころ、大樹はよく綾子に雑学を教えてくれたものだ。
綾子は勉強は得意だったが、流通や経済の知識はあっても、そういう雑学にはあまり明るくなかった。だから、大樹の話を聞くのは、どこか楽しかった。
中世ヨーロッパには、晒し刑という懲罰があったらしい。
不貞を働いた女や、口やかましい女、あるいは軽犯罪を犯した者は、木製の拘束具に固定され、街の広場や市場の前など、人の多い場所に長時間立たされる。
手や首を枷に固定され、時には奇妙で恥ずかしい格好をさせられたまま、通行人の視線に晒され続ける。
野次を飛ばされることもあれば、腐った野菜を投げつけられることもあった。
それは単なる刑罰ではなく、見せしめだった。
羞恥と恥辱を与えることも目的だったが、違う側面もあるのだと、大樹は言っていた。
共同体からの排除──。
その街に住む人々が、その罪人を軽蔑し、笑い、見下すことで、社会の外側へ押し出していく──。
そんな意味を持つ刑罰だったらしい。
綾子はぼんやりと、その話を思い出していた。
そうだ……。
あのとき大樹は、笑いながら言っていた。
『中世の刑罰って、けっこう残酷なんだよ。痛みより、羞恥を与えるものが多いんだ』
そして、こんなことも言っていた。
『人間にとって一番つらいのは、他人の前で笑われることなのかもしれないな』
その言葉が、ふいに胸に刺さる。
そうだとすれば──。
いま、綾子に与えられているものは。愛していたはずの男を信じず、裏切り、「不貞」を働き、別の男と結婚した女に相応しい罰なのかもしれない。
この駅前広場で、人々の視線に晒され続けることは。まさに、晒し刑そのものだった。
だから、逃げてはならない。
これは罰なのだ。
大樹が与えた罰──。
十年前、自分が犯した罪に対する罰──。
それを受けるために、綾子はここにいる。
胸の奥で、静かな声が囁く。
自分のような女は、もっと苦痛を味わうべきなのだ。
これくらいで怯えてどうする。
綾子は、唇を噛んだ。
恥辱──。
屈辱──。
身体の奥にある異物の存在。
すべてが、綾子の神経を苛立たせる。
だが同時に──。
奇妙な安らぎも、そこにあった。
逃げ場はない。
拒むこともできない。
ただ、罰を受けるだけ。
それがどこかで、綾子の心を鎮めてくれていた。
謝罪する──、そして、大樹に会い、罪を詫びる──。裏切りの代償として手に入れた「ユダの財」をすべて大樹に捧げる──。地位も名誉も──。
求められれば、命さえも──。
そう考えている。
だが、今日一日を通して与えられた屈辱と苦悶は、綾子の心を少しずつ変え始めている。
大樹に赦されたい。
それは確かに変わらない。
だがその奥に、異なる側面の感情が芽生えつつあった。
大樹に罰せられる──。
玩ばれる──。
それは、この五年間、味わうことが不可能だった心の平穏を綾子にもたらそうとしていた。
いずれにしても、綾子はただ信じていた。
大樹は必ず現れる。
ここで待っていれば……。
どれだけ時間が過ぎても……。どれだけ人の視線に晒されても……大樹はきっと現れる。
綾子は顔を上げたまま、ひたすらに、広場を見渡し続けていた。
そのときだった。
綾子の身体が、びくりと震えた。
突然に、股間を貫くディルドが激しく振動を始めたのだ。
「うんっ」
思わず喉の奥から声が漏れる。
綾子は腰を折っていた。
反射的にスカートの前を押さえる。
呼吸が乱れる。
暴れているのは一本だけではない。その振動に連動して、ベルト内側の繊毛までもが激しく揺れ出していた。
だめっ──。
声が出そうになり、とっさに右手で口を押さえる。
あまりもの甘美な刺激に、姿勢すら伸ばせない。綾子は、がくがくと膝を震わせながら、必死に刺激に耐える。
そして、動き出したときと同様に、突然に振動がなくなる。
綾子はなんとかに息を整えようとした。折れた膝は簡単には伸ばすことができなかった。
ほんの一瞬の出来事だったはずなのに、綾子の全身には強い余韻が残っている。
いまだに、太腿の奥が震え、力を入れていなければ脚が崩れそうになる。
たった、一度だけで……。
綾子は、自分が想像以上に追い詰められているのだということを自覚してしまった。
また、ふと気がつく。
人の気配が周囲で動いている。
数人の通行人が、ちらりと綾子を見る。
怪訝そうな顔──。驚いている顔──。足を止めている者さえいる。スマホを向けている者も──。
顔を撮られている?
その視線が胸に突き刺さる。
まずい……。
綾子は、太腿に力を込め、ゆっくりと身体を起こす。パンプスの踵がわずかに揺れ、身体の奥に残る余韻がまた神経を刺激する。
綾子は歯を食いしばる。
だが、いまのは……。
考えるまでもない……。
大樹だ──。
どこかで見ているのだ。
どこかで、綾子の姿を見ながら、いまの反応を確かめたのだ。
その確信が、綾子の背筋を冷たく撫でた。
狂おしいほどの安堵が綾子を包む。
嬉しい──。
嬉しい──。
大樹に見つけてもらえて嬉しい──。
広場の雑踏は変わらない。
人の動きは、すぐに元に戻っていく。
だが、綾子にはもうわかっていた。
大樹は、どこかにいる。
どこかで、自分を見ている。
すると、左手に持っている電話が鳴り響いた。
慌てて握っていたガラケーの着信ボタンを押す。衝撃で息が詰まり、咄嗟に声が出なかった綾子の言葉を待つことなく、電話から声が響いた。
『もしもし、大樹だ』
大樹の声──。
よかった。
見捨てられてなかった。
「あっ、もしもし、大樹なの」
言いたいことがある。
この前のことの釈明──。
大樹に暴力を振るった部下の始末──。
新たに準備したもの──。
大樹に伝えなければならない。
早く、早く──。
だが、焦るほど舌が動かない。言葉が喉の奥で絡まり、うまく出てこない。
その間にも、電話の向こうの大樹は、綾子の言葉を待たずに話し始めた。
『スクランブル交差点の向こうの商業ビルの八階を見ろ。窓際で双眼鏡を使っている男がいるはずだ。それが俺だ』
向かいの建物──。
綾子はがばりと顔を上げた。
必死に探す。
いた──。
双眼鏡らしいものを目に当てている男がいる。
距離が遠いから、確信までは持てないが、その男が、確かにこちらを覗いている。
ああ、大樹──。
視界が一気に涙で歪んだ。
『……三分だけ待つ。ここまで上がってこい。但し、エレベーターもエスカレーターも禁止だ。ビルに入って左に進めば階段がある。それを使え。階段を上がったところで待ってやる……走ってこい』
電話の声が途切れる。
切れた。
「えっ、待って、大樹──。お願い、話を──」
必死にガラケーに向かって声をあげる。
しかし、もうなにも聞こえない。
綾子は、もう一度顔をあげる。
向かいのビルの八階──。
しかし、たったいままでいた位置の人影はもうなくなっている。
すぐに、追い掛けなければ──。
走って階段で来ること──。
それが、大樹の命令……。
でも、この状態で──?
立っているだけで、狂おしい刺激を与える、このベルトに苛まれたまま、走って階段を駆け上がる?
想像しただけで、絶望が襲いかかる。
たった、三分で……。
だが、考えている余裕はない。
腕時計を見る。
いま、十七時三十五分──。三十八分まで──。
許されている時間は、それだけだった。
遅れれば、大樹はまたいなくなる──。
ちょうどスクランブル交差点の信号が青に変わった。
綾子は走り出した。
「くっ、あっ」
だが、走り出した途端に膝がよろけた。
身体の奥に打ち込まれているディルドが揺れる。ベルトの内側の繊毛が股間をかき回し、脚の力を奪おうとする。
それでも止まれない。
耐えて走る。
しかし、ちょうど交差点の半分のところで、またもやディルドが動き出していた。
前だけじゃない──。後ろのアナルも──クリトリスを押し潰している内側の突起の部分まで──。
「うああっ」
綾子は交差点の真ん中でしゃがみ込んでしまっていた。
何事かと周囲の者が一斉に、綾子を見つめてくる。
歯を喰いしばって、身体を起こそうとするが、ディルドの振動は続く、どんどん深くなっていく。
時計を見る──。
すでに、一分──。
「ああっ」
信号の点滅が始まった。
なんとか立ちあがる。
綾子は渾身の気力を振り絞って、建物に向かって必死に脚を進めた。
やっとのことで商業ビルの入口に辿り着いた。
自動扉をくぐった瞬間、冷房の風が汗まみれの身体を撫でる。だが心地よさを感じる余裕などなかった。全身が火照り、呼吸は荒く、胸の奥で心臓が暴れている。
いつの間にかディルドの振動は止まっていた。
だが、動けば揺れる。ベルトの内側の繊毛は、わずかな動きでも容赦なく股間を刺激する。
ロビーを横切る。
数人の男女が綾子の姿に驚いたように振り返る。スーツ姿の女が息を切らし、汗まみれで走り込んできたのだ。視線が集まる。
だが構わなかった。
綾子は左へ曲がり、壁際の非常階段へと駆け込んだ。
階段を使う者はほとんどいない。
重い防火扉を押し開けた瞬間、人の視線からようやく解放された。
綾子は手すりに掴まりながら、階段を駆け上がる。
一段、また一段。
「んふううっ」
だが、その瞬間だった。
再びディルドが振動を始めたのだ。
身体の奥が震え、脚の力が抜ける。思わず足を止めてしまう。
壁に肩を押しつけ、息を荒く吐く。
だが、止まるわけにはいかない。
また脚を動かす。
一段、また一段──。
八階までの距離は、果てしなく遠く感じられた。
ディルドは動きっぱなしではなかった。
振動は突然始まり、また突然止まる。
動くたびに綾子は呻き、身体を震わせる。それでも手すりと壁に身体を預けながら、必死に階段を上がっていく。
いつの間にか走るどころではない。歩くことすら難しく、よろめくように身体を引きずっている。
意識は朦朧としていた。
だが──。
最後の踊り場から、次の階によろけあがったとき、綾子の意識は一気に現実へ引き戻された。
八階だった。
腕時計を見る。
十七時五十二分。
三分どころか、二十分近く過ぎている。
非常階段の階段室から売り場側に行く。
あがったところは、レストラン街だった。
そこに大樹の姿はなかった。
さっきの店だろうか?
綾子は息を切らしながら辺りを見回す。
下腹部を押さえ、太腿をすり合わせる。顎から汗がぽたぽたと床に滴り落ちていた。
大樹はどこに──?
本当に、三分で行ってしまったのだろうか……。
でも──。
あれだけディルドが動き続けていたのだ。
大樹はどこかで見ていたはずだ。
それだけを信じるしかなかった。
そのとき、綾子は階段室の近くのソファーベンチに、紙が一枚置かれていることに気がついた。
綾子は慌てて駆け寄る。
紙を掴み、震える手で開く。
『ロワシーの館に入ったO嬢は最初の夜に告げられる。「お前に与えられる苦痛は教育である。苦痛によって、自分の身を納得させよ」と。
O嬢は従った。
しかし、お前は従えなかった。』
綾子は、絶望に襲われた。