冤罪で俺の人生を奪った元恋人が、俺の人生を買いに来た話【完結】 作:ドン・ドナシアン
「……大樹……どこ……?」
声はかすれていた。
綾子は荒い呼吸のまま、廊下の奥を見回した。
八階のフロアはレストランが集まっていて、夕刻のざわめきで覆われていた。
白い天井灯の光の下、一直線に伸びる廊下には人影も多い。
その中で、綾子はかなり目立っていた。
綾子は壁に手をつき、前かがみになっていた。
胸が激しく上下する。肺の奥が焼けるように熱い。股間に加わる振動に耐えて、階段を必死に駆け上がった反動だ。
いまは振動は停止しているが、繰り返された玩弄で脚はまだがくがくと震えていた。
太腿の筋肉が細かく痙攣し、膝がわずかに折れそうになる。
その拍子に、スーツの襟が大きく開いた。
汗で張りついたブラウスの胸元が下に垂れ、柔らかな乳房の膨らみが零れ出て、乳首が露わになりかける。
綾子ははっとして、慌てて胸元を押さえた。
開いた襟を引き寄せ、片手で必死に隠す。
そのときだった。
エレベーターホールのほうから、二人の男が歩いてくる。
会社員らしい男たちだった。スーツ姿で、話しながら廊下をこちらへ向かってくる。
一人の視線が、驚いたように綾子の胸元に落ちた。
綾子の身体が一瞬、強ばる。
だが──。
それどころではなかった。
綾子は、彼らを無視して身体だけ背中を向けるようにしながら、顔を上げて、さらに廊下の奥を見る。
いない──。
反対側を見る。
やはり、いない──。
非常階段の扉──。
エレベーターホールの奥──。
大樹はどこにもいなかった。
「……ああ、大樹……?」
もう一度呼ぶ。だが声は廊下に吸い込まれるだけだった。
どこかにいるはずだ。
見ているはずだと思った。
三分という制限時間にもかかわらず、二十分もかかってしまった。しかし、それは責め具のせいであり、綾子にはどうにもならないことだった。
最初から不可能だったのだ。
でも、階段を必死に昇り続けるあいだも、断続的に襲いかかってきたディルドの振動──。
あれは、どこかで綾子を観察しながら、責め立てている。
だからこそ、待っていてくれる。
そこで、次の罰を与えられるのだ──。
綾子に相応しい苦悶を……。
そう思っていた。
でも──。
綾子は廊下を数歩進んだ。パンプスの音が乾いた音を立てる。
非常階段の扉の前で立ち止まり、ノブに手を掛ける。
開けるべきなのか。
開けていいのか。
命令はない……。
八階から離れれば、綾子が帰ったということになるのではないか……。
そうなれば、二度と大樹とは会えない。
彼に償う機会は、永遠に失われる。
綾子の手が止まる。
もし、勝手に動けば──。
もし、それが命令違反にされてしまったら──。
だけど、もう大樹の命令には従えてなくて……。
綾子はゆっくりと手を離した。
廊下の真ん中に立ち尽くす。
どうすればいいのか、わからない。
胸の奥に重い不安が広がる。
遅れた……。
命令に間に合わなかった。
綾子は腕時計を見る。
カルティエの白い文字盤。
すでに、十八時を過ぎていた。
「……ごめんなさい……。許して……。もう一度……もう一度機会を……」
誰にともなく呟く。
大樹は、もういないのだろうか。
ここまでさせておいて──見捨てたのだろうか。
綾子の喉が詰まる。
そのときだった。
綾子の手の中で、小さな電子音が鳴った。
ピリリリ……。
綾子の身体が跳ねた。
視線が手の中へ落ちる。
画面には番号表示はない。
綾子は息を呑んだ。
震える指で、すぐに通話ボタンを押した。
「もしもし──」
綾子は電話に向かって声をあげた。
『遅れたな』
受話口から聞こえた低い声。
大樹だった。
綾子の身体から力が抜けた。
見放されていない──。
その事実だけで、腰が抜けそうになるほどの安堵が胸に広がる。
「お願い……。もう一度……。もう一度チャンスを──」
綾子は必死に声をあげた。
『ところで腕時計をしているな』
電話の向こうで、大樹の声が冷たく続く。
「えっ?」
綾子は思わず絶句した。
腕時計?
『質問に答えろ』
声が低くなる。
「……してる……けど……」
『荷物は全部、最初のロッカーに置いていけと命令したはずだ。なぜ、いまも時計をしている?』
明らかに不機嫌な声だった。
綾子は困惑した。
あのときの指示は、荷物はすべて預けることと、スーツ以外の服を脱ぐことだった。そのとおりにした。
下着さえも脱いだのだ。
だが、時計のことは指示されていない。
言われていれば、間違いなく外していた。
そう説明しようとして、綾子は口を閉じた。
違う──。
言い訳ではない。
いまの綾子に許されるのは、大樹に従うことだけなのだ。
綾子は慌てて腕から時計を外す。
カルティエの細い金属ベルトが外れ、手の中に収まった。
「……外しました……。申し訳ありません……」
『その場に捨てろ』
綾子は躊躇せず、腕時計を床に落とした。
金属が床に当たり、乾いた音が廊下に響く。
『じゃあ、俺に会うチャンスをやる』
綾子の心臓が跳ねた。
『さっきまで立っていた場所に、鉄道用のICカードをまた置いた……。すぐに行け』
「は、はいっ」
綾子は思わず声をあげた。
身体が動こうとする。
階段へ向かおうとした、その瞬間だった。
『まだだ。待て──動くな──』
大樹の声が止めた。
綾子の足が止まる。
「……はい」
『条件がある……。今度こそ、従う気はあるか?』
「あります」
綾子はすぐに応えた。
短い沈黙……。
『時計を残していた罰……それと、遅れた罰……』
大樹の淡々とした声が電話から響く。
綾子の喉が鳴る。
『……罰だ。床に落ちた時計を口で拾え。拾ったら、電話の液晶を顔に向けろ……。時計には絶対に手で触るな』
綾子の思考が止まった。
もしかしたら、脳が理解するのを拒んだのかもしれない。
すぐに、綾子は動けなかった。
床に落ちた時計を見る。
廊下の床に転がる、小さな金色の腕時計。
スーツ姿のまま、これを──?
ここで──?
すでに、綾子の姿は目立っている。さすがに公然と声を掛けたり、近づいてきたりする者はないが、だんだんと注目を浴びている。明らかに格好も態度も異常なのだ。
この環境で、床に落ちている時計を口で拾う?
『……嫌ならいいぞ。遊びは終わって、俺も綾子の関係も消滅する。それだけのことだ……』
大樹の声が冷たく言う。
「ま、待って──。拾います……。拾いますから……」
慌てて、綾子は言った。
急いでその場に跪く。
膝が床に触れた。
冷たい床の感触スーツ越しに伝わる。
綾子は四つん這いになるように身体を低くし、床に落ちた腕時計へ顔を近づけた。
そして、震える唇でそれを咥えると、すぐに立ちあがった。
ガラケーの液晶画面を顔に向ける。
このガラケーに、監視カメラが内蔵されていたのか?
しっかりと、時計を口に咥えたまま、ぼんやりとそれを思った。気のせいか、八階にいた衆人がざわめきだした気がする。
『いい顔だな。じゃあ、次のゲームの始まりだ。そのまま時計を咥えたまま、俺に会いに来い。まずは都心環状線に乗れ……。どこで降りればいいかは、駅に着いたら指示する……。ただし、その時計を口から離したり、手で触ったらゲーム終了だ。そのまま、口にぶら下げたままで移動しろ』
電話が切れた。
綾子はあまりもの内容に、しばらく呆然となってしまった。
しかし、我に返る。
綾子に許されるのは、指示従うことだけ……。
それを思い出す。
そして、愕然となった。
綾子には、この裸身にスーツだけという屈辱的な姿よりも、口で腕時計を咥えたまま電車移動するというバカみたいな命令よりも、もっと切羽詰まった苦悶が襲いかかってきていたのだ。
そのことに、気がついてしまった。