冤罪で俺の人生を奪った元恋人が、俺の人生を買いに来た話【完結】 作:ドン・ドナシアン
『……ゲームの始まりだ。そのまま時計を咥えたまま、俺に会いに来い。まずは都心環状線に乗れ……。どこで降りればいいかは、駅に着いたら指示する……。ただし、その時計を口から離したり、手で触ったらゲーム終了だ。そのまま、ぶら下げたままで移動しろ……』
低く押し殺された大樹の声は、耳の奥にずっと残っていた。
綾子は俯いたまま、ホームの白線の内側に立っていた。
夕刻の帰宅時間帯でプラットフォームは人で埋まっている。周りでは、サラリーマンたちが肩を触れ合わせ、OLたちのカバンが当たり、学生たちはスマホでゲームをしながら、腕を寄せ合っていた。
だが、綾子の周りだけは、人ひとり分の空間ガできあがっている。
当然だろう。
裸身にスーツだけを身につけている女が、口に腕時計を咥えたまま、電車を待っているのだ。その姿の異様さに、周りがわずかに距離をとっているのだ。
とにかく、時計を落とさないように……。
綾子は顎をわずかに引き、歯で挟んだカルティエの腕時計の金属部分に力を込める。唇は開き、下唇の内側に硬い縁が当たっている。歯列で支えなければ、すぐにでも滑り落ちる位置だ。喉の奥で呼吸が浅くなる。
女としての自分が視線を集める存在であることを綾子は知っていた。
だが、いま集まっている視線は、それとは種類が違う。頬の横を通り過ぎる気配が一度止まり、戻り、もう一度通り過ぎる。二度見、三度見の間に、明確な異常として認識されている。
裸身にジャケットと膝上丈のスカートだけ──。開いたジャケットの襟からは、明らかにブラをしていない乳房の谷間が露わになっていた。
そんな女が腕時計を口で咥えて立っているのだ。
注目を浴びないわけがない。
膝丈上のスカートの太腿の内側に布はない。
下腹部に密着したベルトの内側で、前後に固定されたディルドがわずかに揺れ、そのたびに内部を擦る。さらに、その周囲で繊毛のようなものが連続的に触れ続ける。
だが、そんなことよりも、綾子をいまお襲っている苦悶──。
痒い──。
違和感は、あの階段昇りのときからすでに発生していた。
しかし、意識すれば無視できる程度だった。
気のせいだと言いきかせた。
だが、数秒ごとに、同じ場所が、同じ強さで、繰り返し刺激される。
それでも、階段をあがるときには、断続的に激しくディルドが振動を繰り返して、痒みをやわらげてくれていた。
だが、八階まで上がりきってからは、一度も振動はない。
振動で癒やされていた痒みは、それが消滅してから、数倍の苦悶として襲いかかってきた。
逃げ場がない。
掻かずにやり過ごそうとするたびに、痒みは消えるのではなく、同じ位置に積み重なっていく。
やがて、それは一点ではなく、局部と肛門の奥を結ぶように広がり、じわじわと範囲を侵食していった。
意識を逸らそうとしても無駄だった。
思考の隙間に、必ずそこが割り込んでくる。
痒みは、消えない。むしろ、確実に強くなっている。
気がつくと、綾子はホームに立ったまま小さく足踏みのような動きをしていた。
股間と肛門の奥に近い位置が、焼けるように痒かった。
掻こうとする意識が浮かび、その瞬間に否定される。
手は動かせるが。まさか、こんなところで股間を掻きむしるわけにはいかない。
ただ、この苦しみこそ、大樹に与えられている罰だと思った。
綾子は苦しまなければならないのだ。
苦悶から逃げれば、大樹は今度こそ許さないだろう。
苦しみ続ける限り、綾子が赦しを得られる可能性はある。
綾子は、大樹に与えられている仕打ちをそう理解していた。
綾子は右手の指先を太腿の外側に押し当てる──。スカートの布の上から太腿を抓る。だが、痒みは消えない。
股間とアナルを必死に締めつける──。しかし、締め付けられた内部では、痒みが局部とアナルに集まり、猛威となって強さを増し続ける。
歯に力を込める──。時計の縁が歯茎に当たる。強く噛めば痛むが、緩めればすぐに滑り落ちる。
腰がわずかに揺れ。その揺れに合わせて、口元の時計が微かに振れた。
──時計が落ちそうになる。汗と涎と刻一刻と倍加する痒みの苦悶で顎が緩むのだ。
何度も反射的に顎を引き、歯を食い込ませる。
金属が歯に当たり、硬い音が内側に響く。
どちらも選べない。
汗が額から流れ、鼻先を伝い、開いた唇の縁をかすめて落ちる。手で汗を拭うが、時計には触ってはならないという戒めのために、それさえも最小限にしかできない。
顎の先から滴り、ホームの床に黒い点を作る。
ジャケットの内側では、肌に張り付いた汗がじわじわと流れている。
電車が近づくアナウンスが流れ、さすがに列が詰まってきた。
横の男が半歩ほど近づき、綾子の膝に触れる。反射的に体を引こうとして、足の位置がずれる。パンプスの中で指先を折り曲げ、踏みとどまる。
腰がわずかに揺れ、その振動が内部の異物を動かす。
掻きたい──。
意識が一点に集まる。
そこに触れれば、数秒は解放されるはずだという確信が浮かぶ。
だが、その直後に、別の確信がそれを押し潰す。
触れれば終わる。
ここで終わる。
綾子は、罰を受ける立場であることを言い聞かせる。
綾子は左手を持ち上げる。
向かう先は股間ではない。スカートの裾をわずかに引き下げ、太腿の露出を数センチだけ減らした。
布が触れるだけで、かえって内側の感覚が際立つ。
ホームの先で風が動く。電車が流れ込んできた。
ざわめきが一方向へ流れ、列が密度を増す。
綾子の周囲に、できていた人ひとり分の空間があったが、その余白がなくなる。
電車の接近とともに、列が詰まっていく。
後ろから一歩、さらに一歩と押され、空いていたはずの背後が埋まる。
右肩に鞄が触れ、左側では肘がかすめる。
避けていた視線が、今度は物理的な接触に変わる。
逃げ場が、消える。
背中に触れていた男の体がさらに近づき、肩口が押される。右側から腕が差し込まれ、綾子の肘に触れる。
体勢を崩せない。
顎を固定し、時計を落とさないようにしながら、足の位置だけでバランスを取る。膝をわずかに曲げ、重心を落とす。
その瞬間、内部の異物が押し込まれる形になり、痒みが一段階跳ね上がる。
視界が滲む。
ドアが開いた瞬間、背中を押される。
綾子の身体は、流れに逆らうことなくそのまま車内へ押し込まれた。足を踏み替える余地もないまま、反対側の扉脇の壁際へと押しやられる。
背中に人の重みが乗る。
胸の前には壁。両腕は体の横で挟まれ、動かせない。後ろからの圧がそのまま前へと伝わり、逃げ場は完全に塞がれていた。
顎を引く。
歯で挟んだ時計が、わずかに揺れる。
その動きを止めるように、歯を食い込ませる。
電車が動き出す。
揺れに合わせて、背中の圧が前へ押し出される。胸が壁に押し付けられそうになり、反射的に体勢を戻そうとする。
そのわずかな動きで、時計が振れる。
落ちる。
その予感に、さらに歯を食いしばる。
痒みはますます強くなる。
腰を引くことも、太腿を開くこともできない。体勢を変えようとしても、すぐに背後の身体がそれを押し潰す。
太腿が、無意識に擦れる。
止めようとしても止まらない。
動きが大きくなれば、その瞬間に後ろから押し返される。動ける範囲は、ほとんど残されていない。
綾子は歯を食いしばる。
時計を落とさないために──。
それだけを維持する。
電車が減速する。
前へと身体が持っていかれ、背後の圧がさらに強まる。壁に押し付けられ、顎の位置がずれかける。
環状線の次の駅で電車が停まった。
ドアが開く。
人が入れ替わっていき、背中の圧が、ほんの一瞬だけ緩む。
そのわずかな変化に、綾子の意識が集中する。
──どこで降りればいいのか……。
左手の中のガラケーを握る指に力が入る。
だが、それを知らせる指示はない。
そのまま、人の流れだけが入れ替わる。
降りる者が抜けた隙間に、すぐに別の乗客が流れ込み、
再び背中に重みが乗る。さっきとは違う位置からの圧が、体勢をわずかにずらす。
その揺れに合わせて、時計が動く。
歯を食いしばる。
痒みがさらに強くなる。
ドアが閉まり、電車が再び動き出す。
それでも、ガラケーは鳴らない。
次の停車でも、同じだった。
減速し、停止し、扉が開くたびに、わずかに圧が緩む。そのたびに綾子は指示を待ち、手の中のガラケーに意識を集中させる。
しかし、結果は変わらない。
沈黙のまま、乗客だけが入れ替わる。
次の駅──。
そして、また次の駅──。
同じことのくり返し──。
新しく流れ込んでくる圧が、毎回少しずつ体勢を狂わせる。そのたびに時計が揺れ、内部が擦れ、痒みが強くなる。
三度目の停車を過ぎたあたりで、綾子は理解する。
これは絶対に無理だ──。
終わりは、ないのか──。
でも、待つしかない。
顎を固定し、歯を食いしばる。
痒みは、もう限界を遙かに越えている──。
だけど、許されない。
苦しみは続いている。
どのくらいの時間を過ごし、それだけの駅をやり過ごしたか……。
綾子は、発狂するほどの痒みで、朦朧とさえなっていた。
周囲の視線の質が、さきほどとは明らかに変わっていた。
いつの間にか、乗り込む前のホームのように、満員電車にもかかわらず、綾子の周りには空間ができていた。
綾子は脚を踏み鳴らし、腿を擦り遇わせ、激しく腰をくねらせている。
汗が綾子の足元を異様なほどに濡らしていた。
時計を加えている口からは、「ひゅーひゅー」という息が漏れる音が鳴るようになっていた。
その姿はあまりにも──異様だった。
何度目の駅で、次の駅がどこかさえもわからない。
電車が減速し始めた。
そのとき、左手の中でガラケーが震えた。
来た──。
メールだ。
思考が弾ける。
綾子の身体がびくりと跳ね、押し潰されていた胸がわずかに浮く。歯を食いしばったままでも、喉の奥で空気が一気に通る。
救われる──。
それだけで、全身を締めつけていた苦悶が一瞬、後ろへ退く。
震える指で画面を点灯させる。
液晶に文字が浮かぶ。
視界がそこに吸い込まれ、他のすべてが消える。
痒みは消えていない。
それでも構わない。
これで終われる。
綾子は、歯で時計を強く噛みしめたまま、表示された指示にすがりついた。
『下車すべきは次の駅。痒みを癒やしてやろう。ただし、受けるべき罰が十分ではないと、お前が思うなら、もう一周すること。』
思考が止まる。
降りれば終われる。
だが──。
電車がさらに減速して──停車した──。
今度は綾子の前の扉が開いた。