冤罪で俺の人生を奪った元恋人が、俺の人生を買いに来た話【完結】 作:ドン・ドナシアン
目の前で電車のドアが閉じていくのを、綾子は呆然と眺める。
股間とアナルの痒みは、すでに気が狂うほどになっていて、綾子はいまだに自分が正気を保っていることが信じられないほどだった。
『受けるべき罰が十分ではないと、お前が思うなら、もう一周すること。』
しかし、大樹からメールで告げられたこの言葉が、綾子の理性を支えていた。
婚約者を冤罪に陥れて刑務所に送り、その婚約者を陥れた男と結婚をして社会的な成功を手に入れた悪女──。
それが綾子だ。
ならば、答えは自明だった。
綾子は、降りるべき駅をやり過ごして、さらに一周することを選んだ。
そして、綾子にとって、新しい地獄が始まった。
股間を襲う掻痒感は、もはや気が狂うほどだった。
満員電車のなかで、綾子はほとんど無意識に脚を擦り合わせては、パンプスの中の足の指を折り曲げ、足踏みを繰り返していた。
じっとしていることは、もはや不可能だった。
股間を中心に、痒みと疼きが四肢の隅々にまで拡がり、綾子を追い詰める。
だが、同時に思ったのだ。
綾子が苦しむ限り、赦される余地がある──とも……。
電車が次の駅に滑り込んで、停まってドアが開く。
綾子の周りからも、人が降りたが、代わりにさらに大勢に乗り込んできた。再び、電車はすし詰め状態になる。
もう限界だった。
綾子は、身体の前面を壁に押しつけた。
一度だけだ──。
一度だけ……。
スカートの上からベルトが嵌まっている股間に手を置く。
力の限り手で押した。
ああっ──喉の奥で忽然と熱い息を放つほどに、峻烈な感覚が綾子を貫いた。辛うじて口に挟んでいる腕時計を落とすことはなかったが、危ないところだった。
必死に口に咥え直す。
だが、一度手放した自重は、もう取り戻すことはできなかった。
周りの乗客の視線は気になるが、一度味わった掻痒感が小さくなる快感を、綾子はもう手放せなくなった。
もはや、掻痒感は、理性で耐える限界を、ずっと前に越えてしまっていたのだ。
「くっ、うっ」
スカートの上からベルトを揺り動かす。
時計を加えている口からは、声まで漏れる。
もう、どうなってもいい──。
この痒みが癒えるなら。
そのときだった。
左手に握りしめていたガラケーが振動したのだ。
はっとして我に返る。
今度もメールだった。
慌てて操作して、画面を開く。
『もう贖罪は終わりか? 自慰をしたいなら家に帰るべきだ。咎めはしない。』
ああ、自分はまだ苦悶が足りなかった──。
綾子は、悔悟とともに、さっきまで股間をむさぼっていた右手の拳を握りしめる。もう二度と、股間を自分で癒やさないと誓う。
電車の揺れに合わせて、アンナの身体がわずかに前後する。
吊り革を握ったまま、動かない。
視線は落としたままだ。顔を上げれば、見えてしまう可能性がある。
まだ都心環状線は乗客で混雑はしているが、夕方のピークはすぎており、隣の車両にいる綾子の姿は、辛うじて人の影を通じて確認することができている。
つまりは、アンナから見えるということは、綾子の視界に入るかもしれないということである。
見破られないための変装もしており、プロであるアンナが綾子に見破られることは思わないが、視線は向けないようにする。それだけでいい。
あれほど、はっきりと綾子は、アンナがついてくることを禁じたのだ。
万が一、アンナが綾子を追っていることを知られれば、間違いなく、綾子はアンナを排除する。
あの拓哉のように──。
綾子は連結を挟んだ隣の車両だ。
裸身にスーツだけを纏い、口に腕時計を咥えたまま、人の流れに押し込まれている。
なんという仕打ちをするのか──。
奥歯が軋む。
その気になれば、すぐ行ける。
車両をひとつ移ればいい。腕を掴んで、引きずり出す。それで終わる。
だが、動けない。
アンナは、余程のことがなければ介入しないと決めていた。できるのは見守るだけだ。
右手のスマートフォンに視線を落とす。
画面には三つの点が重なっている。
綾子に教えることなく、腕時計、靴、髪留めに常に仕込んでいる発信器だ。
あの大樹からの隠しメッセージを解いた綾子が動き出した時点で、アンナの追跡は開始していた。
綾子は一度マンションに立ち寄り、タクシーで移動を開始した。大樹が示したのは、綾子にしかわからない思い出の場所だったので、先回りすることはできなかったが、アンナは車でタクシーに並走しながら、位置情報を頼りにだいたいの位置は把握していった。
最初の駅で、綾子のスマートフォンと財布からの信号が止まった。
持ち物の切り離しだ。
しかし、残った三つは、すべて生きていた。
三個の場所の位置は完全に一致している。
環状線──そこから、郊外に伸びる沿線──徒歩──再び沿線から都心環状線──。
遠くから追跡を続ける車内で待機し、接触は自重した。
だが、夕方に都心の大きな駅前に立つ綾子を見て、アンナは判断を切り替えた。それまで位置情報を頼りに、距離を取っていたので、綾子がどんな格好なのか知らなかったのだ。
裸身にスーツだけを身につけた格好だとわかる破廉恥な姿──。
愕然とした。
しかも、歩き方はぎこちなく、おかしな仕掛けをされているとしか思えなかった。
あの綾子が──。
頭が沸騰するかと思うほどの怒りが沸いた。
おそらく、綾子がずっと握り絞めている小さな携帯電話で大樹からの連絡を受けているのだろうとは悟った。
綾子はスクランブル交差点で転び、商業ビルの階段に向かって、幾度も膝を崩し、うずくまり、壁に掴まり這うように上階まで歩き昇らされていた。
遠目でその惨めな姿を確認しつつ、必死に激怒を耐えた。
やがて、ビルを降りてきた綾子は、口に腕時計を咥えていた。
唖然となった。
もう離れていることには耐えられなかった。
アンナは、綾子がその駅から都心環状線に乗ったのを確認しながら、同一編成の隣の車両に乗り込んだ。
いまも同じ電車にいる。
音も拾えている。
時計に仕込んだマイクから、断続的に流れ込む。
走行音と車内放送、そのなかに混じる荒い呼吸。
それだけで十分だった。
胸の奥が、焼けるように熱い。
あんな状態を、まだ続けさせられている。
止めたい。
いますぐにでも、引きずり出したい。
だが──。動かない。
それをやった瞬間に、アンナも終わる。
綾子は、絶対にアンナを排除する。
大樹に手を出した拓哉の末路は知っている。処置された。以降、所在不明。生死さえもわからない。
綾子はやる。
贖罪のためなら、迷わない。
だが、なにかがあれば、回収する。
それまでは、介入しない。
それが限界だ。
それ以上は踏み込めない。
電車が減速する。
身体がわずかに前へ流れる。
画面の三つの点も、同じ位置で止まっている。
扉が開く。
綾子はまだ降りない。
また、動き出す。
……あれを、まだ続けさせるのか。
奥歯が、軋んだ。
電車が次の駅に近づく。
減速に合わせて、アンナの身体がわずかに前へ流れた。
そのときだった。
手にしていたスマートフォンが、不意に震えたのだ。
警備用の情報共有アプリに、外部から連絡──?
アンナは眉をひそめる。
この回線は閉じている。許可されていない送信元からの侵入はあり得ないのだ。
画面を確認した。
発信者は──TAKU──。
息が止まった。
拓哉?
だが、あり得ない。
拓哉はすでに綾子の命令で護衛から外され、西園寺グループからも排除されている。
それから一週間以上が経過していた。
この回線にアクセスできるはずがないのだ。
思考が追いつかないまま、すでに指が動いていた。
送られてきたデータが開かれる。
送られたのは、映像であり、それが自動で再生された。
最初に映ったのは、どこかの室内だった。
床に置かれた革ベルト。
その中央に、二本のディルドが固定されている。
内側には繊毛のような突起。
二本は、ゆっくりと蠕動しながら、先端を左右に回転させている。
異様だった。
なんだこれは、と考える間もなく、映像が切り替わる。
階段──。
商業ビルの内部だ。
その踊り場に、女がうずくまっている。
綾子──?
手を床につき、膝を折り、崩れ落ちるようにしている。
さらに映像が変わる。
角度が低い。
スカートの内側からの視点──。
先ほどの革ベルトが綾子の股間に装着されているのがわかる。
股間の部分が、内側から押し上げられるように動いている。
アンナは、息を呑んだ。
頭のなかで、別の事実が結びつく。
拓哉のスマートフォンは、十日間行方不明だった。
綾子へのメッセージが入ったUSBとともに発見されている。
ならば──これは、拓哉ではない。
そのデータを使っているのは、大樹──?
結論に至った瞬間、映像から音声が流れ出した。
綾子の声──。
抑えきれない呻きと、荒い呼吸。
満員電車のなかで、それが不自然なほどはっきりと響く。
周囲の視線が一斉に集まった。
さらに喘ぎ声に、AIの音声が重なる──。
『西園寺グループ役員、西園寺綾子の破廉恥映像を再生中──。西園寺グループの……』
ループ音声──。
まずい──。
アンナは反射的に操作する。
スマホから音声を消した。
その一瞬、背後で空気が動いたのがわかった。
はっとしたときには、遅かった。
右手首に、冷たい金属の感触が走る。
「あっ」
短い声が漏れた。
手錠──。
アンナの右手首にかけられていた。
しかも、もう片方は、車内の縦ポールに固定されていた。
「なにを──」
顔を上げる。
電車はすでに停止している。
扉が開き、乗客が流れ込む。
その流れのなかに、一瞬だけ見覚えのある男の横顔が見えた。
あのとき一度だけ見た大樹──。
「……そんな」
アンナは身体を動かす。
だが、手錠は完全に固定されている。
簡単に外れる構造ではない。
そのまま、ドアが閉まる。
電車が動き出す。
アンナは、呆然と窓の外へ視線を向けた。
そのとき、ホームの上の人の流れのなかで、ひとりだけ異様な動きをしている女がいるのを見つけた。
汗まみれで、ぎこちなく、よろめきながら歩く綾子だ。
アンナは電車の中から、ただそれを見ていることしかできなかった。
ときおり、足がもつれる。
いくつもの視線を浴びながら、綾子は駅を出て、人で溢れる往来を都心公園に向かっていた。
綾子は、電車の中でさらに異様な姿になっていた。
ただ、口に咥えさせられていた腕時計はない。それだけは救われた。
電車内で大樹から突然に、メールで指示されたのは、次の駅で降りろという指示だった。
また、改札口を抜けたところで、ICカード、腕時計、髪止め、さらに履いていたパンプスまでゴミ箱に捨てるように指示が入った。
だから、綾子はいまは素足だ。
夜とはいえ、素足のまま、髪の毛を乱して歩き進む、綾子の姿は異様だろう。
すれ違う者からの不躾な視線を幾つも感じなければならなかった。
彼らの注目から逃げるためには、綾子は少しでも速く進みたかったが、その歩みは遅れがちだった。
懸命に足早に進むのだが、意地悪く股間のディルドが代わる代わる振動が襲ってくるのだ。
股間──アナル──陰核──股間──股間──陰核──アナル──。
順番も、継続時間も、間隙も規則性はなく、そのたびに、綾子は脚をよろけさせ、膝を崩しそうになる。
それでも歯を喰いしばって、気丈に前に進むことだけを考えた。
すれ違う者には、撮影のためなのか、スマホを向ける者もいたが、それに構うことはできないでいる。
『公園で待つ。十五分以内』──。
指示により、履いている靴までゴミ箱に放り込んだ綾子に届いた最後のメッセージはそれだった。
普通に歩けば、五分で辿り着く場所に、その公園はある。
今度こそ、時間内に辿り着かなければ──。
気力も理性も、もう消失しかけている。
いまの綾子を支えるのは、もう一度、大樹に会う──。
その一心だ。
痒みは襲い続けている。
もはや、噛んでも噛んでも顎には力が入らない。
全身からは滝のように汗が滴り落ちている。
脚の震えは、ベルトの喰い込んでいる止むことのない痙攣から繋がっていた。
いまや、一番辛いのは、ディルドが振動しているときよりも、停止しているときだった。
振動しているときの衝撃は、だんだんと隠すことができるようになってきていた。
掻痒感が消える快感は、途方もないほどの愉悦ですらあった。
そこに苦悶はなくなりかけている。
しかし、停止してしまえば、発狂するほどの痒みの苦悶が襲いかかってきた。
気が狂うほどの掻痒感に襲われ、綾子は、往来の中でディルドを必死に締めあげるということを空しく続けるしかなかった。
半ば朦朧となりながらも、綾子はやっと公園の入口に辿り着いた。
唯一手に持っている大樹からの連絡用にガラケーの画面を見る。公園に向かうようにメッセージを受け取ってから、十四分三十秒──。
間に合った──。
綾子はその場に崩れ落ちてしまった。
すると、ガラケーが振動した。
『公園内の二キロのジョギングコースを一周──、二十分以内──。走れ──』
メッセージが届いた。
同時に、画面が勝手に代わり、液晶に時間を刻み始める。
”19:55……19:54……19:53……”
「ああ……大樹……」
綾子は絶望に襲われながら、懸命に立ちあがり、目の前のジョギングコースを公園灯を頼りに走り始める。
「うああっ」
しかし、すぐにディルドが激しく振動をして、綾子はその場に両膝を付けてしまった。
必死に立ちあがる。
液晶の中の時間は、無情にカウントダウンを続ける。
綾子は、歯を食いしばって立ちあがる。
一歩──。
踏み出した瞬間、脚が崩れ、膝が地面に叩きつけられる。
今度はアナル──。
「っ……うぁ、あっ……」
息が漏れる。
それでも、止まれない。
止まることは、許されない。
震える脚に力を込め、もう一度、身体を持ち上げる。
足を引きずるようにして、前へ出す。
また一歩──。
視界の端で、液晶の数字が減っていく。
”18:52……18:51……”
綾子は、よろめきながら、走り続けた。