冤罪で俺の人生を奪った元恋人が、俺の人生を買いに来た話【完結】 作:ドン・ドナシアン
「はっ、はうっ、はっ……」
背後からの律動が続いている。
綾子は首から上を袋で覆われたまま、樹木に胸を押しつけるようにして跪いていた。両腕は前に引き出され、幹を抱き込む姿勢で固定されている。手首に食い込む金属の硬さが、わずかな動きでも逃げ場がないことを突きつけてくる。
膝と素足が触れている地面は湿っていた。土と草が混じった感触が、体重を預けるたびにじわりと伝わる。姿勢を保つことすら難しく、前に崩れそうになる身体を、拘束と幹の硬さで無理やり支えられている。
「あぁ……っ……」
背後から加わる力で、身体が一定の間隔で揺れる。
そのたびに腹の奥が強く反応し、筋肉が勝手に引きつる。耐えようと意識しても、呼吸が乱れ、声が袋の内側でくぐもって漏れる。
視界は完全に塞がれていた。
見えるものは何もない。あるのは、身体に伝わる接触と、耳に入る気配だけだった。
周囲からは複数の声が飛ぶ。
嘲るような言葉と、ざわめき。
その気配に囲まれているという感覚だけが、現実として残る。
誰に触れられているのかは、わからない。
逃げられない。
抵抗できない。
この体勢のまま、すべてを受けるしかない。
長時間に及ぶ刺激で、身体はすでに限界を越えていた。鈍るどころか、わずかな変化にも過敏に反応してしまう状態に変わっている。
「はっ……はっ……」
呼吸が途切れる。
腰に力が入らない。
支えようとしても、すぐに抜ける。
理解はしている。
これは罰だ。
自分に与えられているものだと。
そう思えば、受け入れるしかないはずだった。
だが──。
身体の奥で、別の感覚が広がっていた。
熱だった。
中心から外へと広がる、逃げ場のないざわめき。
それが四肢へ伝わり、全身を内側から揺らしていく。
「ああっ……あぁ……」
理解できない。
本来拒絶するべき状況で、身体は逆の反応を示している。
震えが止まらない。
力も入らない。
それでも、逃げようとする意思よりも先に、身体がその感覚に引きずられていく。
受け入れているわけではない。
だが、拒みきれてもいない。
その事実だけが、はっきりと残る。
そして、その状態のまま──綾子は、自分がどこまで支配されているのかを、理解し始めていた。
「んっ、ああっ──」
声が抑えきれずに漏れる。歯を食いしばっても、呼吸の隙間から音がこぼれ落ちる。
『これでは罰にならないな』
背後からの声が、すぐ近くで響いた。
その瞬間、わずかな違和感が走る。声がわずかに二重に重なっている。
歪んでいる。
生の声ではない。
その違和感が、次の異常を引きずり出した。
そういえば、周囲にあるはずのざわめきと野次は、その音の位置が重なっている。
遠近の差がない。
複数に囲まれているはずの空間が、ひとつに収束している。
気づいた途端、認識が揺らぐ。
触れている力は、ひとつしかない。
呼吸の気配も、ひとつ──。
囲まれているはずの気配も、音や声を除けば、ただひとり──。
音だけが、増えているだけだ。
「あ、ああっ……」
違和感が頭のなかで整合された瞬間に、身体が大きく反応した。
「あ、ああっ、大樹──」
綾子は悲鳴のような声をあげ、身体を大きく引きつらせた。
大樹──。
これは、大樹──。
声はなにかの仕掛けで変えられている。だが、いま綾子に触れているそれは、紛れもなく大樹のものだった。
十年前──。
ともに、生き、歩み、生涯まで誓ったにもかかわらず、綾子が裏切ってしまうまで──。唯一知っていた男の感覚が、鮮明に蘇る。
「んぐうううっ」
綾子の身体が跳ねる。
大樹に犯されている──。
その事実を理解した瞬間、これまでとは比較にならない強さで、全身に感覚が広がった。
衝撃が中心から弾け、四肢へと一気に走る。
身体が制御を失い、連続して震えた。
気がつくと、綾子はその波の中に完全に飲み込まれていた。
だが、それは一度では終わらない。
二度、三度──。
繰り返されるたびに、身体の奥が強く反応し、感覚が増幅されていく。
積み重なるように波が押し寄せる。
逃げ場はなく、ただ翻弄されるしかない。
綾子は、その終わりの見えない感覚の中で、ただ揺さぶられ続けていた。
次の刹那──。
衝撃のような感覚とともに、大樹の精が欲望の潮が迸り出たのがわかった。
大樹が綾子のなかに精を放った──。放ってくれた。
その感動が綾子を快楽の底に打ち沈める。
願わくば、この精が綾子のなかで受精を果たして、子になってくれれば──。そのためなら、魂を売り渡しても構わない──。綾子は悦びの炎に包まれながら、心の奥底からそう思った。
そして、大樹が離れた。
背後で、身体から怒張が引き抜かれる感覚が起こり消える。
直後、衣服を整える気配が続く。
その大樹の気配が後ろに下がる。
「ま、待って、大樹──」
綾子は声を張り上げた。袋に覆われたままでは、どれだけ届いているのかもわからない。
だから、必死に喉を震わせて呼びかける。
足音は止まらない。
だが、遠ざかる気配でもなかった。
土を踏む音が、位置を変えて、綾子の前側に移っていく。
気配は、綾子の正面へと回り込んでいた。樹木を挟んだ向こう側、すぐ近くに立っている。
頭の上の方でかちゃんという小さな音が鳴る。
直後、ずっと周囲を満たしていたざわめきと、複数の声が一斉に消えた。
途切れるように、消失する。
残ったのは、遠くで走る車の音だけだった。かすかに、遅れて届く。
静寂が落ちる。
「満足したか?」
すぐ傍で、低い声が響いた。
紛れもない大樹自身の声だった──。
「ああ、大樹──話を、話を聞いて──」
綾子は息を乱したまま、言葉を繋ぐ。
「鞭とディルド、それから縄も──あなたの言う通りに揃えた……。どんなのがいいのかわからなかったから、ディルドは……二十種類は揃えたわ。鞭も……乗馬鞭だけじゃなくて……五種類くらい……」
途切れながら、必死に言葉を押し出す。
乱れた呼吸に合わせて、声が上下する。
「……全部、用意したの……それと、ピアッサーも、タトゥーマシンも──。そっちも数種類ずつ」
「……なんだ、そりゃ?」
疑念の響きを含んだ大樹の声が返ってきた。
「拓哉に命令していたこと──。監視映像で見たの。全部、揃えた……」
綾子は息を乱したまま、言葉を絞り出す。
「ほかにも必要なら、なんでも手に入れる……。だから──」
「ああ、あの話か。そうか。全部揃えたのか」
大樹の声が、わずかに笑いを含んだ。
だが、綾子は一瞬、言葉を失った。
大樹が逃亡をした状況を知るために見た監視映像の中で、大樹が求めていたものだ。だから、必死に集めた。
しかし、いま返ってきた反応との落差が、それにうまく噛み合わない。
「あっ……拓哉は処分したわ。二度と国内には戻れないようにした……。ほかに、なにかあるなら──」
「はあ? あいつ、国外に放り出されたのか。お前……なかなかやるな」
大樹がまた、軽く笑う。
評価でも、非難でもない。ただの感想のような声音だった。
本当に、なんとも、思ってない──。そんな響きだった。それが綾子を恐怖させた。
「ね、ねえ……だから……お願い──」
「お願い?」
大樹が綾子の懇願を遮るように、間髪入れずに口を挟む。
その声がさっきまでの軽い口調ではなく、ぞっとさせるほどの冷たい響きがあった。
「なんだよ、それ……。結局、お前は、俺にどうしてほしいんだ?」
大樹が言った。
言葉が詰まる。
「……わたしは……あなたに……」
かすれた声が、途切れながら続く。
喉が震えた。
呼吸がうまく続かない。
「わたしは……取り返しのつかないことを……した……。裏切った……。許されることじゃない……」
言葉にしながら、自分でも理解している。
だが、それでも止められない。
「わかった……。だが、もういいだろ」
大樹の声が入る。
あっさりとした一言だった。
「えっ?」
「終わった話だ」
それだけだった。
その言葉が、綾子の内側を強く揺らす。
終わった──?
違う。
違う、違う──。
「俺はお前を許す。もう、お前も自分を許してやれ。なにをそんなに後悔しているのかわからないが、俺は裏切りだと思ってない。知らなかった、それだけだ。そして、お前は俺じゃなくて、仕事をとった。それを俺はちゃんと理解している。……じゃあな」
砂を踏む音が、ひとつ鳴る。
手錠の掛かっている手になにかを握らされた。
鍵──?
そして、大樹が離れていく。
その気配に、綾子の身体が強く震えた。
「ち、違う──」
声が、ひび割れる。
「違う、違う──違う、違う──」
絶叫した。
必死に言葉を掴もうとする。
離れ掛けていた大樹の足音が止まった。
「わたしを、許さないで──」
喉の奥から、絞り出すように。
「許すことだけは……しないで……。許してはいやああ──」
呼吸が崩れる。
それでも止めない。
「わたしは……わたしは……」
言葉が絡まる。
だが、ようやく形になる。
「あなたに……復讐されたい……」
静寂の中に、その声だけが落ちた。
「どうか……復讐して……」
もう、整っていない。
「死ねって……言って……なにでもいい……」
言葉が崩れる。
「罰を……与えて……なにか……命じて……」
呼吸が切れる。
それでも、縋る。
「お願い……お願い……」
泣き声に変わる。
「お願いします……」
声が途切れた。
呼吸が苦しくて、それ以上意味のある言葉を口にできなかった。
大樹からの返事はない。
ただ、すぐそばの気配だけは、残っていた。
やがて、大樹が大きく息を吐く音が聞こえた。
心臓の鼓動が跳ねあがり、身体がびくりと震える。
「わかった……。いずれにしても、お前のせいで仕事がなくなったしな。金がなくなったら連絡してやる……。あっ、それと、財布の中の現金はもらったぞ」
大樹の声が落ちた直後、手の中のガラケーが引き抜かれる。
「あっ、待って──」
声が裏返るが、両手首は金属で繋がれたまま樹木に固定されているため、追うことはできない。
「ばーか。そんな足のつくものを遺すか。じゃあな」
足音が遠ざかり、やがて完全に消えたあとには、静寂だけが残る。
「……つっ」
荒い呼吸の中で、右手に握らされたものに気づく。冷たい金属の感触から、やはり、それが鍵だとわかる。
手探りで鍵穴を探るがすぐには合わず、何度も外しながら時間だけが過ぎていく。それでもやめずに続け、ようやく手応えを掴んで回すと、手錠が外れた。
そのまま首元の紐を解いて袋を引き剥がすと、夜の冷たい空気が顔に触れる。
すでに、大輝がいなくなってからかなりの時間が過ぎていた。
視界が戻ると、そこは木々に囲まれた茂みの中で、周囲にはもう誰もいなかった。
大樹の姿は周囲から完全に消えている。
そして、自分の状態に、遅れて気づいた。
ジャケットははだけ、スーツも身体も汗で濡れきっている。
スカートは乱れ、脚は泥にまみれたまま、内腿にはまだ湿った感触が残っていた。
「……つっ」
脚に力を入れると、わずかに震える。
連続で達してしまい、収まりきらない内側の熱が、そのまま残っている。
呼吸が整わない。
身体の奥が、まだ静まっていない。
こんな格好では、人前には出られない。
だが同時に、まだ残っている大樹に犯された感覚を、消してしまうことに躊躇があった。
そのとき、ふと気がついた。
すぐに近くに紙袋が二つ置いてあったのだ。
よろける脚を踏ん張って立ちあがり、紙袋の中を覗く。
すぐそばに置かれていた紙袋のひとつを開く。
いちばん上にあったのは、自分のスマホだった。
電源は落ちている。ほかには、コートや衣類、下着、パンプスまで、今日身につけていたものがまとめて詰め込まれていた。
バッグも戻されている。
中を開く。
財布はそのまま残っていた。
財布の中のカード類には手がつけられていない。だが、現金はほとんど消えている。紙幣が一枚だけ残されていた。
さらに奥を探る。
大樹に会えたら渡すつもりで入れていた札束が、消えていた。
もうひとつの紙袋に視線を移す。
中には、青いワンピースが一着だけ入っていた。
見覚えのないものだ、安価な既製品──。
いまの自分が選ぶはずのないものだった。
触れようとした手が震えた。
綾子は思わず手を伸ばしかけて止める。
泥で汚れた自分の手に気づき、袋ごと抱き寄せる。
力が抜ける。
しゃがみ込んだまま、肩を震わせた。
涙がぼろぼろと落ちる。
そういえば、優しい人だった。
貧しい時代もあったが、無理のない範囲で、それでも誕生日や記念日、いや、なんでもないときだって、こうやって、なにかを渡してきた。
その記憶が蘇ってくる。
綾子はしばらくのあいだ、そのまま動かずに、声を出さずに泣き続けた。
やがて、大きく息を吸う。
顔を上げて、涙を拭う。
スマホの電源を入れる。
すぐに発信した。
『あっ、もしもし、綾子様──、いまどこに?』
受話器の向こうで、アンナの悲鳴のような声が上がる。
「落ち着きなさい。すぐ車を回して」
短く告げる。
周囲を見回し、場所を伝える。
声は、すでに整っていた。
【離合篇・完】