冤罪で俺の人生を奪った元恋人が、俺の人生を買いに来た話【完結】 作:ドン・ドナシアン
016 正常でいられる時間が削られていく
「綾子様、今夜はまた格別でいらっしゃる。そのドレスも、首元のお石も、よくお似合いです」
「ありがとうございます」
綾子は、グラスの縁を軽く合わせ、柔らかく微笑んだ。
西園寺グループ創立記念のレセプションだ。
都内一流ホテルの大会場は、天井高いっぱいに吊られたシャンデリアの光で満たされていた。
白い天井と淡い金の壁面が光を反射し、会場全体が均一に明るい。
また、磨かれた床の上を、黒い燕尾服と白手袋のホテルスタッフが音もなく行き交う。減ったグラスを見つければすぐに新しいものと替え、空いた皿が出れば会話の切れ目に合わせて下げていく。
招待客は数百人。政治家、官僚経験者、上場企業の役員、大手金融機関の幹部、芸能人、文化人。そうした顔ぶれが、それぞれの立場に応じた距離感で会場のあちこちに散っている。
政治家たちは奥寄りで低い声を交わし、芸能人たちはやや控えめな位置で笑顔を保ち、企業人たちは誰に先に挨拶を入れるかを見極めながら流れていく。
グループの創始者であり現会長の西園寺宗一郎はすでに老齢であり、車椅子での参加だ。中央の最前列にいる彼の周りには大勢の招待者が群がっている。だが、流れが速い。
深く頭を下げ、二言三言の祝辞を交わし、次へ移る。
また、西園寺ファミリーと呼ばれる創始者一族たちも、その一角に集まっているが、挨拶をする列はまばらだ。
一方で、惣領家の孫嫁として敢えて彼らとは離れて立っている綾子の前では、かなりの人が留まっている。
ひとりが離れる前に、次が間を詰める。列というほど露骨ではないが、グループ中核の役員の中でも、いちばん長く人を引き留めているのは綾子のところだ。
しかも、集まるのは若手ではない。五十代、六十代の、社内では部下に命令する側の男たちばかりである。
彼らが一様に低い姿勢を取り、声を落とし、綾子の都合をうかがう。
その丁寧さが、綾子の立ち位置をはっきりさせている。
いま声をかけてきたのは、大手総合商社の常務執行役員だ。
五十代半ばで、社内では重鎮であるが、綾子の前では半歩引いて立っている。
「例の件、前倒しで動かせそうです。秋前に一度、形に出せると思います」
「初期は絞ってください。価格だけ先に置きましょう」
綾子は笑みを崩さずに答えた。
男はそれだけで十分に通じたらしく、小さく頷いた。
「承知しました」
男が下がっていく。
すると、すぐに別の男が入ってくる。こちらは国内大手証券会社の専務執行役員だ。四十代後半、細身で前髪をきれいに撫でつけている。神経の細かさが、そのままネクタイの結び目に出るような男だ。
「綾子様、そのネックレス、見事ですね。相変わらずお美しい。会場のあちこちで、綾子様のことを噂しておりますよ」
「おそれ入りますわ」
綾子はグラスをわずかに傾けた。
男は形どおりの賛辞をしながら、増資案件の空気を探りはじめてきた。
言葉は耳に入る。意味も拾える。綾子は必要な箇所だけを外さずに聞き取りながら、言質を取られないように受け流していく。
その一方で、意識の底では、別のものがざわついていた。
大樹──。
都心を引き回されたあの一日──。
一歩間違えば露出狂で捕らわれてもおかしくはない恥辱的な格好のまま、人の視線を浴び、逃げ場もなく、身体の反応すら制御されたまま従わされた時間。
掻痒剤で苦しめられ、ディルドで執拗に弄ばれた感覚が、消えていない。
翻弄され、転ばされ、汗だくになって嘔吐するほどに走らされ──最後には顔に袋を被せられて後ろから陵辱された──。
あのとき身体ごと支配された感覚が、いまでも抜けていかない。
身体のもっとも深い奥に──。
いや、抜けないのではない。失いたくないのだ。
あれから半月……。
大樹からは、一度も連絡はない。
金がなくなれば連絡する──。
大樹は言った。
だから、連絡が来るはずだった。
そう理解している。
それでも、綾子の内側で、なにかが止まらない。
落ち着かない。
理由はわかっているはずなのに、心が追いつかない。
いつ、大樹から連絡が来るのか──?
どこで──?
どんな手段で綾子を苦しめてくれるのか──?
身体だけが構えている。
呼ばれていないのに、呼ばれる位置に立っている。
その状態が崩れない。
いつまでまてばいいのか──。
狂いそうだった。
正常でいられる時間が削られていく。
心に空いたままの場所がある。
埋めるものがない。
それだけで、苛立ちが滲む。
考えを別に向けようとする。
仕事に戻す。
判断はできる。言葉も出る。
だが、少しでも気を抜くと、同じところに戻る。
同じ感覚が浮き上がる。
終わっていない。
終わらせるものが来ていない。
綾子はグラスを持つ指に力を込める。
ほんのわずかに強く……。
足りない。
大樹はやって来ない。
来ないことが残る──。
こんなはずではない、という感覚だけが残る。
焦燥が、静かに広がっていく。
「少しだけ条件を緩めるわけにはいきませんか」
目の前の男が汗を拭きながら追従笑いをする。
綾子は受け流しながら、焦燥感と闘い続ける。
逃げ場はない。
会場の温度も、光の強さも、グラスの重さも、平常の範囲に収まっている。
目の前の男たちの声も、笑い声も、食器の触れ合う音も、どれもいつもどおりだった。
綾子自身も、外から見れば乱れてはいない。返答の速さも、視線の置き方も、微笑む角度も、間違えてはいない。
「例えば?」
綾子は、会話の相手に眼を向けたまま首をわずかに傾げる。
「でも、努力はしているのです」
男は必死に訴えてくる。
努力──それは交渉材料にはならない。綾子は内心で苦笑した。それはビジネスの話ではない、これ以上は時間の無駄だ。
「難しいでしょうね。会長にご承認を頂く自信はありませんわ。直接に交渉なさっては? そうなさいませ」
綾子は、自然な調子で会話の打ち切りを促す。
男は吐息をすると、それ以上押さず、目の前から離れていった。
彼は、このまま会長のところに談判に行くのだろうか。だが、いまやグループの多くの実務権限は、綾子が握っている。グループの直系である義父を含む三人の子にも、綾子の夫を含む孫の代の人材にも、宗一郎はあまり信頼を置いてない。その結果、実務の多くが綾子に集まっている。
綾子を差し置いて、宗一郎がなにかを判断することは、まずない。
そばに、シャンペンの盆を抱えたホテルスタッフが通ったので、グラスを入れ替える。
そのとき、義父の隆継が見えた。濃い色のタキシードに身を包み、隣の愛人の美咲に何か囁いている。
こういうフォーマルな会議に妻ではなく愛人を同伴するのはどうなのかと思う。
愛人の美咲は二十九歳。肌をかなり露出している下品なドレスを選び、笑うたびに肩を揺らしていた。
周囲を囲む男たちも笑ってはいるが、輪は広がらない。あそこには、軽さしかない。
親族たちは、その二つの流れの外側に散っていた。近すぎず、遠すぎず、だが自分から中心には入ってこない。西園寺の名前の中にいるくせに、その重さを背負う気はない立ち方だった。
その中で、実務の話を持って人が集まるのは自分のところだけだ。
「綾子様、失礼いたします」
新しい声が入る。
綾子はそちらへ顔を向け、乱れのない笑みを作った。
「あら、お久しぶりですね」
声は滑らかに出た。表情も崩れていない。
しかし、だからこそ、綾子は自分の内側の不安定さを、いっそうはっきり自覚していた。
そのとき、会場の奥で、ざわめきが揺れた。
壇上脇の車椅子の宗一郎が、ゆっくりと方向を変えている。
周囲の人間が一斉に動き、自然と通路が開く。
宗一郎の途中退出は事前に決まっていたが、どうやら退出するようだ。
「本日はありがとうございました」
誰かが頭を下げる。
それに続くように、全員が礼を重ねる。
音楽が一時的に止まり、全員が会話をやめた。
宗一郎は、大袈裟な見送りを断り、パーティを続けるように指示しながら、そのまま、スタッフに押されて会場を後にする。
それでも、見送りの流れができる。
宗一郎がいなくなると、ある程度の集団が後を追うように出ていった、
会場の重心が、わずかに軽くなる。
音楽が戻り、グラスの触れ合う音と、抑えた笑い声が再び拡がる。
その直後だった。
「ほら、見てこれ──。西園寺の惣領家からの贈り物よ──」
甲高い声が、場の上に浮いた。
義父の隆継の隣にいた愛人の美咲が、なにを思ったのか、手にしていた封筒を破り、その中身を床へと高額紙幣を撒き散らしたのだ。
百枚ほどの紙幣が会場の一角でばら撒かれた。
綾子は、わずかに眉を動かした。
会場も騒然となっている。
「ほらほら、遠慮しないで、持っていきなさい。拾って。拾ってよ」
笑い声が混じる。
場違いな甲高い声がきゃあきゃあと続く。
周囲の視線が集まっている。
さすがに、誰も動かない。
ただ、距離だけがわずかに開く。
「なによ──。興醒めねえ。拾いなさいよ。余興よ、余興──」
美咲が大声で喚き続ける。
一方で、その横で綾子の義父ということになる隆継は笑っている。
止める気配はない。
綾子は、軽く息を整えると、早足で騒動の場所に向かった。
自然に、人が道を空ける。
「お連れ様は、少々お酒が過ぎたようですわ、お義父様。休ませてあげてはいかがですか」
綾子は、美咲ではなく隆継に告げる。声は低い。
一方で、ホテルスタッフを集めて、美咲がばらまいた紙幣を回収するように指示する。
ホテルスタッフが集まってきて、床に屈んで紙幣を回収し始めると、美咲が不機嫌な顔で綾子の前に立つ。
顔に笑みを残したまま。視線は強い。
「あら、綾子じゃない。会長様のご機嫌取りもなさらずに、どこにいたのよ。寂しそうにされてたわよ」
美咲だ。
「わたしのことはお構いなく」
「なによ。少しくらいいいじゃない。これは施しなのよ。持てる者が持たない者に施しをするのは、品格というものなのよ。あなたのような成りあがりにはわからないかもしれないけど」
さらに一歩、踏み込んでくる。
「大変な品格ですこと……。さあ、お義父様、もうお連れになってください。ここまでなら、会長様には騒動のことはお話はしません。ですが、騒ぎが続くようなら、お耳に入れる必要も出てきますでしょう」
綾子は、隆継に視線を向けた、
にやにやと笑っていた隆継の顔が急に焦ったような顔になる。
会長の宗一郎の長子であり、綾子の夫の直人の父親である隆継は、本来であれば次の会長なのだが、誰もが認める不出来だ。だから、いまだにグループの実権のほとんどを渡されてない。それどころか、度重なる騒動を起こして、宗一郎には目を付けられている。
だからこそ、本来は外様である綾子が、宗一郎から実権を渡されているのだ。
また騒動を起こしたとなれば、本当に後継者の地位から外されかねない。
それを思い出したのだろう。
「いかん。親父にまたどやされる──。美咲、帰るぞ」
隆継が慌てたように美咲の腕をとる。
しかし、それを美咲が振り払った。
「綾子、お前ずいぶん、隆継さんに偉そうよね。あなた、西園寺の人間でもないくせに」
美咲は綾子を睨みつけている。
「もう、下がりなさい──」
短く言う。
「お前、誰に言ってるのよ── 」
美咲の眼が吊り上がり、綾子を張り飛ばすかのように手をあげた。
綾子は、視線を外さないまま、美咲の後ろに視線を送る。
それまで、会場の隅にいた綾子の護衛のアンナが、すでに美咲の背後に立っている。
軽く頷く。
それだけで十分だった。
次の瞬間、美咲の言葉が途切れる。
意識を失わされて、そのまま床に崩れ落ちそうになる美咲を、アンナが後ろから抱える。
「アンナ、彼女を連れ出しなさい……。お義父様もご一緒に行かれては?」
綾子は隆継を促す。
「あ、ああ……」
すでに、美咲については、アンナがホテルスタッフを呼んで、外に抱えて出している。
隆継が慌てて後を追った。
周囲が一瞬だけ静まった。
すぐに、何事もなかったように音楽が戻る。
綾子は、式典を運営しているスタッフを呼び、本当の余興として準備している歌手を、前倒しで出演させるように指示した。
慌ただしくスタッフが動き出す。
それを見守りつつ、綾子は嘆息して、騒動の場から離れた。
声を掛けようとする客を断り、休憩用のために準備されている壁際の椅子にひとり寄っていく。
そのとき、ビールグラスをひとつだけ持ったひとりのホテルスタッフが前を阻んだ。
訝しみながら、横を通り抜けようとする。
しかし、今度は綾子が避けた方向に、ホテルスタッフが身体を動かす。
「あなた、なにを……?」
叱ろうとして眉をひそめた。
目の前の給仕が、顔を上げる。
綾子は眼を丸くした。
「だ、大樹?」