冤罪で俺の人生を奪った元恋人が、俺の人生を買いに来た話【完結】 作:ドン・ドナシアン
「大樹──」
目の前に大樹が立っていた。ホテルスタッフの制服をまとい、数百人の出席者とスタッフが行き交う会場の動線に紛れ込むように、何事もない顔でそこにいる。
西園寺グループの中核パーティの会場は人で埋まり、グラスの触れ合う音と低い会話が絶えず重なっている。義父の愛人である麻生美咲の起こした騒動を片付け、喧噪から一時的に逃れて壁際の目立たない位置へ下がった直後だった。
現実感が一瞬遅れる。だが、距離も、立ち位置も、視線の置き方も、間違えようがない。
大樹──。彼がいる──。綾子に会いに来てくれた──。
なぜ、その格好なのかという疑問が浮かぶ。だが考えるより先に身体が反応する。
胸の奥で弾けた鼓動が収まらない。
足元が崩れかけ、踏みとどまろうとした瞬間に膝が大きく揺れ、わずかによろける。
喉の奥までせり上がった声がそのまま漏れそうになり、歯を食いしばって押し殺す。
呼吸が乱れ、視界が歪む。
下腹の奥がきつく締まり上がり、子宮が熱を持ち、股間が濡れる。
半月前の夜が、瞬時に蘇る。
ほとんど裸に近い格好で一日中歩かされ、弄ばれ、最後は公園で顔を見ることを許されぬまま犯されて置き去りにされた。
あのあと、手を尽くして探した。人も金も使った。だが、大樹の居場所には届かなかった。
半月──なにも掴めないまま、時間だけが過ぎていた。
それでも──目の前にいる。
唇が震える。声が出ない。
壊れかけた身体をその場に押し留めたまま、綾子は大樹を見据える。
「大樹、話を……」
言わなければならない。
渡さなければならないものがある。
「黙れ。俺を見るな」
大樹が綾子の斜め前に立った。会場の隅の壁際であり、壁に背を向け、綾子の進路を塞ぐような位置だ。トレイの上には、ひとつだけビールグラスが載っていた。
無言でわずかに顎を引く。
促されるまま、綾子はグラスを手に取る。
手の中のグラスが揺れる。指先の震えがそのまま伝わり、琥珀色の液面がかすかに波打つ。
「怖い女だな」
低く、呟くような声が落ちる。
視線は合わせない。合わせてはいけないと理解しながら、意識だけは一点に集中する。心臓が破れそうなほどに打ちつけ、呼吸が浅くなる。
怖い女……。
さっきの美咲とのやり取りのことを言っているのだろうか。
背後からアンナに処理させた場面を、どこかで見ていたのか。
確かに、すでに綾子は西園寺グループの中核となる女役員であり、世間的には「怖い女」で通っているかもしれない。
「い、いえ、さっきのは……」
「試してやろうか?」
大樹が不意に言葉を挟む。
「えっ?」
「復讐されたいんだろう。理不尽な命令を与えてやる」
その一言で、身体の奥が強く締まる。
命令される……。
支配される。
それだけで、下腹部の底からの歓喜が湧き上がる。
「……も、もちろん、喜んで従うわ」
綾子は答えた。
「そのまま向きを変えろ。客の方を向け」
短い命令が落ちる。
綾子はその場から一歩も動かずに、身体だけをゆっくりと回した。視線の先に談笑する来客たちとスタッフの動きが広がる。
大樹が、その前に立つ。
「……その場で放尿をしろ。一歩も動かずにな」
命令が落ちる。
大樹がわずかに脇へ退く。
綾子の身体が、完全に来客たちの視線に晒される。
「ちょっと待って……」
さすがに躊躇が走る。
目の前には数百人の来客。談笑し、グラスを傾け、誰もこちらを見ていないようでいて、少しでも乱れればすぐに気づく距離にいる。
ここで、そんなことをすればどうなるか。
考えるまでもない。
西園寺の名──。自分の立場──。これまで積み上げてきたすべてが一瞬で崩れる。
終わる──。
だが、命令はすでに身体に落ちている。
一歩も動くな……。
その場で。
放尿……。
ここで──?
従わなければならない……。
拒まなければならないのだ──。
そう思うのに、身体の奥が逆に強く締まり、熱が逃げ場を失って滞る。
──できるはずがない。
そのはずなのに。
拒もうとするほど、命令だけが鮮明になる。
「従えないなら終わりだ……。どうするのか選べ」
淡々と告げられる。
温度のない声。
引き止める気配も、揺らぎもない。
ここで終わる。
綾子に恐怖が走る。
「待って──」
考える前に声が出ていた。
繋ぎ止めなければならないという一点だけで口が動く。
綾子は息を詰める。
逃げない。
その場から動かない。
歯を食いしばる。
終わるか、従うか……。
選択はひとつしかあり得ない。
その瞬間、心よりも身体が先に押さえていたものを緩めた。
ドレスの内側で、温かいものが広がり、みるみるとドレスの股間部分が大きな染みになった。脚のあいだに放尿が注ぎ落ち、小さな水溜まりを床に作っていく。
見られている。
わかっている。
いま、自分が何をしているのかを、はっきりと理解している。
視線の先には、談笑を続ける来客たち。
誰も気づいていないようでいて、ほんのわずかな異変で崩れる距離にいる。
こんな場所で──。
顔が焼けるように熱くなる。
喉が詰まる。
逃げ場がない。
ドレスの染みが前部分から足先に向かって伸びていく。
いま、この瞬間、自分のすべてが崩れている。
しかし、一度始まった放尿は途中で止められるわけがない。やめる気もない。
やがて、放尿が終わった。
力が抜ける。
下腹の奥が緩む。
──やってしまった。
すべてを壊したという理解と、やりきった安堵が同時に押し寄せる。
息が乱れる。
立っているのがやっとだ。
それでも──。
大樹に従えた。
その事実だけが、胸の奥に残る。
視線は前のまま、動かない。
意識は、すべて大樹に向いていた。
そのとき、不意に大樹の手が伸びる。
綾子に持たせたままグラスが傾いて、次の瞬間、ビールがドレスの股間へと一気にぶちまけられる。
「……つっ」
喉の奥で声が漏れる。
続いてトレイが床に落ちる。短い金属音が、すぐ近くの空気を震わせた。
手にしていたグラスが奪われ、そのまま床に放られる。
会場の視線が一斉に向けられている。
さっきまでとは違う種類の注目──。見られている。胸の奥が強く締まり、顔に熱が上がる。
「大変、失礼いたしました──」
大樹の大きな声だけが残る。
顔上げたときには、大樹はすでに遠くに立ち去っていた。
あっという間のことであり、綾子が追い掛ける余裕もない。
「どうかされましたか、綾子様? いま、向こうに行ったスタッフは……」
近くにいたホテルスタッフが駆け寄ってくる。床にあるトレイとグラスを拾うとともに、綾子に視線を向けた。
その視線が綾子の下半身に落ちる。
ドレスが濡れている。
「あっ」
一瞬だけ、相手の表情が崩れる。
すぐに無線へ手が伸びる。
「綾子様がスタッフと接触。ドレスを汚されています。至急対応を」
抑えた声。だが緊張は隠しきれていない。
周囲のスタッフたちも異変を察し、数人が慌ただしく集まってくる。
「大丈夫ですか」
「お怪我はございませんか」
「お召し物が……」
「大丈夫よ──。ただの事故。騒がないで。わたしは下がるから、後を頼むわ」
綾子は間を与えずに言い切る。
毅然とした態度を装い、声は乱さない。顔も崩さない。
しかし、胸の奥では、まだ鼓動が暴れている。下腹には放尿の余韻が熱として残っている。それでも表に出すのは別の顔だ。
そもそも、大樹はどこに──。
ちゃんと命令に従った──。
従ったのに……。
「かしこまりました。こちらへ」
スタッフたちの動きがすぐに揃う。
左右に付き、ひとりが前へ出る。
綾子を囲うようにして、会場の端へ誘導する。
視線を遮られながら歩く。
会場のざわめきはまだ背後にある。グラスの触れ合う音も、低い笑い声も、まだ聞こえている。
そのまま壁際を進み、サービス扉の前でスタッフが立ち止まる。
扉が開く。
次の瞬間、喧噪が一段後ろへ遠のく。
バックヤードの空気に変わる。
照明は少し落ち、通路は細い。足音が硬く響く。さっきまでの華やかな会場とは、まるで別の場所だ。
「控室へご案内いたします」
その言葉を聞きながら、綾子はようやく手の中の違和感を意識する。
右手に、なにか握らされている。
小さく折り畳まれた紙だ。
グラスを取りあげられたとき、大樹が押し込んだのだと遅れて理解する。
バックヤードからホテルの廊下に出る。
スタッフに囲まれて早足で進みながら、綾子は指先だけで紙を開く。
短い文字が並んでいた。
『着替えて地下駐車場に。すぐにだ』
心臓がまた跳ねる。
紙を素早く握り直す。
通路を曲がり、同じフロアの奥にある専用控室の前で、先導していたスタッフがカードキーを通す。
「こちらです」
扉が開く。
綾子は一度だけ息を整え、そのまま中へ入った。
「あなたたちは仕事に戻りなさい。わたしについている必要はないわ」
一緒に入ろうとした数名の女性スタッフを全員追い返してドアを閉めた。
外の気配が切れる。
ひとりになると、すぐに行動に移した。
メモに従って、すぐに地下駐車場へ向かうのだ──。
まずは着替える。
この控室でドレスに着替たのだが、それまで身につけていたものは、ここに置いている。
クローゼットを開く。
だが──。
ワンピースはある。しかし、籠に入れていた下着類やストッキングがなくなっていた。
引き出しを開ける。
やはり、空だ。
替えのストッキングや下着もあったはずなのに、すべて消えている。
あるのは、最初に着ていたワンピースと靴だけ。
手が止まる。
しかし、すぐに理解する。
大樹の仕業だ。
ここまで繋がっている。
そして、またしても、試されている……。
呼吸が浅くなる。
だが、迷いはない。
時間がないのだ。
地下駐車場に──。
すぐに。
大輝がいつまで待ってくれるかもわからない。
シャワーすら浴びる暇も惜しい。
視線を落とす。
いまのショーツは濡れている。着られない。
ブラも、ドレスの上からかけられたビールで使い物にならない。
選べるものはない。
歯を食いしばる。
身につけているものをすべて脱ぎ捨てる。
そのまま、ワンピースを引き寄せる。
一枚だけ身に纏う。
これは、大樹の試し……。
どこまで従うのかを確認しているのだ。
それだけを身につけて、扉へ向かう。
バッグだけはしっかりと持つ。
綾子の命令が効いたのか、部屋の外にはスタッフはいなかった。
よかった。
そのまま、エレベーターから地下駐車場へ向かう。
地下駐車場に降りると、コンクリートと排気ガス混じった独特の匂いが立ち込めていた。
整然と並ぶ高級車。黒いセダン、外車、見慣れた役員車両。磨き上げられたボディが無機質な照明を鈍く反射している。
「来たか」
少し離れた後ろから声──。
振り返る。
その並びの中に、不自然な一台の軽自動車があった。
場違いなほど安い車体。
大輝が、そこに立っていた。
その隣にある軽自動車。ナンバープレートに一瞬だけ目が行く。レンタカーだ。
「ああ、大樹──」
綾子は駆け寄る。
足が止まらない。
距離が一気に縮まる。
「いつかの逆だ」
近づいたところで、大樹が言う。
「逆?」
「前回はお前が俺をさらった。今夜は俺がお前をさらってやる」
その言葉に、胸の奥が強く跳ねる。
大樹の手には、一個の手錠があった。
それだけで、身体の奥が震える。
歓喜がこみ上げる。
「手を後ろに回せ」
命令だ。
迷いはない。
大樹に背中を向けて、両手を背中に回す。
しかし、その瞬間だった──。
「綾子様、待って──」
別の声が響いて、駐車場に反響する。
女の声──。
アンナ──。
息を切らし、こちらを見ている。
その手に、黒い拳銃があり、真っ直ぐに、こっちに向けられていた。