冤罪で俺の人生を奪った元恋人が、俺の人生を買いに来た話【完結】 作:ドン・ドナシアン
車は黙って走っている。
外の景色は流れているはずなのに、意識には入ってこない。高速道路の道路灯とヘッドライトに照らされる高速道路の白線の反復だけが、妙に規則正しく目に残る。
綾子は助手席で、身体を捩り続けていた。
痒い──。
最初は、ほんの小さなものだった。下着のないワンピースの股間に貼られているパッドの布片擦れがちょっとくすぐったいと感じる程度に過ぎなかった。
だが、あっという間に強烈な掻痒感となって綾子に襲いかかってきた。
意識を向けた途端、そこだけがはっきりと炎に炙られているかのように熱くなり、次いで、強い疼きに置き換わった。あとは狂うような痒みの苦悶の始まりだ。
「……うっ、ああっ」
喉が詰まる。
脚を閉じて、内腿を擦り遇わせる。腰を引く。小さく足踏みをする。どれも意味がない。
媚薬が染みているパッドが貼られているのはクリトリスの上である。すでに脂汗はワンピースの布地全体をべっとりと濡らしている。必死に歯を喰いしばるが、媚薬を塗られている女体がなんの刺激もなしに耐えられるわけがない。
痒い。痒い──。痒い──。
その感覚だけが股間を貫き、全身の血を沸騰させる。
搔きたい──、恥も外聞も捨てて、掻きむしりたい。悲鳴をあげてのたうち回りたい。
衝動が急に強くなる。
指先が動こうとする。だが、背中で固定された両腕がそれを許さない。手首にかかる手錠が現実を引き戻す。
「……いや……」
声が漏れる。
誰に向けたものでもない。
綾子は視線を落とした。自分の膝。その内側。布の奥に隠れた場所が、確かにそこにあると、はっきりわかる。
痒みは、逃げない。
むしろ、少しずつ形を変えていく。
じっとしていれば収まるものではない。逆に、じっとしているほど、内側で広がっていく。
腰が浮く。
すぐにシートに押し戻す。
また浮く。
自分で制御している感覚がない。
「……は……あっ、ああ……」
呼吸が浅い。
吸っているはずなのに、足りない。胸の奥まで届かない。
喉が細くなっている。
短く吸って、すぐに吐く。その繰り返しになる。
落ち着かなければならない、と考える。
だが、なにをどうすればいいのかがわからない。
思考が続かない。
さっきまでなにを考えていたのか、途切れている。
ただ、そこだけがある。
内側に残された痒みの苦悶だけが、執拗に続いている。
太腿に力が入る。
わずかに擦れる。
その瞬間、息が詰まる。
──苦しい。
息が足りない。
発狂するほどの股間の痒みが綾子を侵蝕していく。
それでも、どこかが静かだ。
底のほうに、わずかに安堵がある。
狂うような痒みの苦悶と一緒に存在する、不思議な高揚感と幸福感があった。
抑え込まれているような、押さえつけられているような——
逃げなくていい、という感覚。
「……っ、や……め……」
否定の言葉が、形だけ口から落ちる。
痒みを癒やして欲しいという感覚とともに、もっと苦しみたいという欲望──。
それが曖昧なまま、身体だけが先に反応する。
膝が震える。
足先に力が入らない。
腰が、落ち着く位置を見つけられない。
繰り返し、わずかに動く。
それが余計に感覚を拾い上げる。
痒みは、もう痒みの形をしていない。
内側を撫でられるような、逃げ場のない刺激に変わっている。
——逃げられない
いや、逃げたくない。
逃げてはならない。
その認識が、はっきりと形になる。
普通なら、恐怖になるはずだった。
だが、違う。
逃げてはならない。
このままでいい。
綾子は苦しむべきなのだ。
いや、まだ足りない。
そう言われているような感覚がある。
「……ああ、ね、ねえ……大樹……」
声を出した。
乾いた声だった。
しかし、それ以上の言葉が続かない。
自分でもなにを言えばいいのか、わからない。
ただ、このままではいられない。
それと同時に──。
このままでもいい。
その感覚だけが、確かにあった。
呼吸がさらに速くなる。
視界が、わずかに狭まる。
指先が痺れる。
崩れる直前で……なにかに支えられているようなまま、
綾子は、そこに留まっていた。
「……苦しいか?」
すると、ハンドルを操る大樹がぼそりと声を出した。
「く、苦しい……。か、痒くて……」
綾子は呻くように言った。
「そうだろうな。この前、環状線で遊んだものより、もっと強い掻痒剤だ。値は張ったがお前からもらった金で調達した」
大樹が淡々と告げる。
綾子は、内側から削られるような刺激に耐えられずに、首を激しく左右に振る。
「ああ……も、もう……我慢できない……。じ、焦らさないで……。な、なんとかして……」
綾子は訴えた。
すると、突然に股間に衝撃が起きた。
パッドに貼られているコードレスのローターが激しく振動をしたのだ。
「ああ、んふううっ」
綾子は身体をのけ反らせた、
大樹がハンドルにあるハンズフリー用のスイッチで淫具を操作したのだとわかったのは、始まった振動があっという間に停止したときだった。
一瞬だったが、振動で痒みが癒えたときの快感を味わってしまうと、それが消失したときの苦悶は数倍も膨れあがる。
綾子は、ぎりぎりと歯を鳴らす。
「お、お願い、もっと……」
気がつくと、綾子はそう口走っていた。
そうせざるを得なかった。
「そう言うな。お前が俺に渡した金で買った苦悶だ。もっと苦しみを味わえよ」
大樹がそれだけを言って、また口を閉ざす。
そのまましばらくのあいだ、綾子がどんなに懇願しても、振動の刺激を与えてくれることはなかった。
綾子はしばらくのあいだ、助手席で苦しみもがくしかなかった。
車は進み続ける。
どこに向かっているのかはわからない。
すでに高速の流れに乗っており、一定の速度で保たれた車列の中を滑るように進んでいた。
その均質な流れの中で、綾子の身体だけが明らかに平穏から逸脱している。
先程、一瞬だけ与えられた凄まじいほどの解放の喜悦の残滓が残っていた。
その直後に訪れた空白をどう処理していいのかわからないまま、次に来るはずのものを無意識に待ち続けている状態に引きずり込まれていた。
「……っ、ああ……」
呼吸は浅く、喉の奥で引っかかるように短く切れるたびに、胸がわずかに上下する。
だが、その動きは規則を失っており、整えようとする意思そのものが続かない。
脚は閉じられているはずなのに、内側で力が入りきらず、わずかに擦れるたびに身体がびくりと跳ね、座席に押しつけられた腰が落ち着く位置を見つけられないまま小刻みに揺れ続ける。
時間の感覚を忘れるほどの放置のあと、不意に大樹の声が低く落ちた。
どれほど放置されたのか、感覚はすでに曖昧になっていた。
それでも、与えられないまま続いているという一点だけは、はっきりと身体に刻み込まれていた。
「どんな風に使ったか説明しろ」
意味を理解するより先に、身体が反応した。
「……っ、あああっ……」
股間に衝撃が貫く。
明らかに違う強さで一気に引き上げられ、逃げ場のない状態のまま身体の奥を掴まれるように持ち上げられた。綾子は背を反らし、座席に肩を押しつけながら息を詰まらせ、抑え込もうとしていた声を堪えきれずに漏らす。
「あ、ああっ、うあああっ」
脚が震え、膝がわずかに開きかけるが、それを自分で制御できず、指先が力なく握られるだけで、身体の中心に集まった感覚がそのまま頂点へと押し上げられていく。
「……あ、ああっ……や……っ……」
呼吸が途切れ、声が掠れる。
振動はいつまでも続く。
そのまま、綾子は完全に崩れ落ちるようにして一度引き切られた。
「んふうううっ」
ついに絶頂に達した。
だが、その解放は持続しない。綾子が達すると同時に、淫具がぴたりと静止する。
頂点に達した直後、すべてが唐突に断ち切られたのだ。
「……っ……あ……?」
そして、次の瞬間——。
「……っ、ああ……戻って……っ」
抑え込まれていた不快な掻痒感が、遮るもののないまま一気に押し戻されてきた。
痒い──。じわじわと、それでいてさらに強い痒みとなって、苦悶がぶり返す。
しかも、一度到達してしまったことで身体はその状態を基準にしてしまい、届かない現在との差がそのまま欠乏となって、先ほどよりも強く内側を締め付けていく。
「ああ……」
腰が浮く。
すぐに落ちる。
また浮く。
自分で動かしている感覚がない。
「……は……っ、は……っ……」
呼吸が完全に崩れる。
整えようとしても、途中で乱れる。
胸の奥まで空気が届かない。
それでも、身体はさっきの状態を探してしまう。
「黒耀会だ。西園寺の裏で使ってる反社組織だろう。人捜しならあいつらを使うはずだ。どんな俺の情報を流した?」
淡々とした声──。
だが、その言葉に対する理解は遅れる。
「……わ……から……ない……」
言葉にならない。
ただ、否定の形だけが崩れる。
「なら、知っていることを言え。誰を通した?」
「……くあっ、ああっ……」
返事をするより先に、身体が反応した。
パッドの内側の淫具が激しく振動したのだ。自制しようとしても不可能な快感のおののきだった。
だが、それはさっきのような解放ではない。一瞬にして振動が止められる。
「……っ、あ……っ……」
駆けあがる途中で寸前されて、ぴたりと切られたのだ。
愉悦にはほど遠い焦燥感が襲ってきた。
「……ああ……っ……いやああ……っ……」
だが、またしても振動が襲う。
しかし、またもやすぐに途切れる。
数回繰り返された。
上げられては、止められる。
届かせないまま、残される。
呼吸が乱れる。
身体が先に次を待つ。
だが、決して最後までは与えられない。
わかっているのに、抗えない。
「……っ……あ……っ…!」
思考が崩れる。
今度はいつまで経っても振動がやってこない。
言葉が出てこない。
それでも身体だけが反応し続ける。
寸前で止められた感覚だけが、そのまま残り続ける。
逃げ場がないまま、蓄積される。
それが、さっきよりも強く内側を締め付けていく。
「誰を使った? あの女か?」
大樹が冷たい口調で言う。
掻痒感は、刺激を受ける前も苦しいが、一度痒みが消える快感を味わってしまうと、もう我慢できるものではない。気が狂うような痒みと疼きの苦しみのなかで、綾子は理性を失いかけていた。
「……そう……アンナ……を」
途切れ途切れに言葉がこぼれる。
大樹が口にした“あの女”というのは、おそらく、アンナのことだろう。綾子は大樹の捜索に関する処置をアンナにさせていた。隠すつもりはなかったが、隠そうと思っても、この掻痒感の苦しみのなかでは、耐えるのは不可能だ。
息と一緒に情報が漏れた。
「アンナはなにを渡した?」
「……お、おそらく……な……まえ……と……かお……っ……」
呼吸が乱れる。
声が続かない。
「……しゃしん……すこし……っ……」
言い終えた直後、なにも起きない。
与えられない。
痒みが癒えない。
「……っ……ああ……っ……」
身体が震える。
そのとき、車は分岐へ入り、横須賀方面への流れへと移っていった。
交通量が減り、周囲の密度が落ちるが、その変化は綾子の意識にはほとんど届かない。
痒い──。
苦しい──。
もう一度、あの刺激を……。
「……ねえ……訊いて……。訊ねて、なんでも言うから──」
声が漏れる。
抑えられない。
「……お願いだからさっきのを……っ……」
言葉が崩れる。
だが意味ははっきりしている。
すると、大樹が喉の奥で笑う。
愉快そうな声だった。
「なんでも訊いてくれか……。だが、お前はなにも知らないんだろう。訊いても無駄だ。あのアンナに直接訊ねるしかないんだろう?」
大樹の揶揄うような口調──。
しかし、痒いのだ。
一度絶頂したくらいでは、到底収まるような掻痒感ではなかった。
車はそのまま進み、やがて料金所へと差しかかって、減速する。
いつの間にか、高速道路ではなく、そこから連接する自動車専用道路に入っていたようだ。そこから一般道に下りる出口に近づいていた。
米軍基地のある隣県の港町──?
綾子は悟った。
遠くに、強い米軍基地らしき光が見える。
フェンスの向こうに浮かぶ、巨大な船の影もある。
海の気配が濃くなる。
だが、それよりも股間の痒みだ──。
もうおかしくなる──。
「ああ──どうにかして──。ローターを動かして──」
綾子は必死で叫んだ。
「だが、俺に必要な情報をお前は提供できない。なら、なにもなしだ」
大樹が車を減速しながら小さく笑う。
車は片道二車線の左車線に入っており、左に曲がるウインカーが点滅している。
「……なら、アンナ……差し出します……っ……。あ、あなたの生け贄に──」
絞り出すように言う。
躊躇はない。
最初の日に、拓哉とアンナが大樹に暴力を振るったと知ったとき、アンナを大樹に差し出すことはずっと考えていた。大樹が望むなら、綾子に躊躇はない。
アンナは、綾子の命令には従うだろう。
それがどんな理不尽な命令でも……。
思考は曖昧だ。
アンナを差し出すということがどういうことなのかを考えられない。
「不要だ」
大樹は即答した。
迷い気配すらなかった。
「……ううっ……だ、だったら……」
その直後、久しぶりに股間の淫具が振動をした。
「おんっ」
途端に綾子の身体が弾ける。
しかし、またしても一瞬だけだ。
掻痒感が焦燥に変化し、焦燥が再びさらに大きな掻痒感を呼び起こす。
そして、放置──。
綾子は狂いそうになった。
「ああ、もうだめ……だ、大樹……お願い……これ以上……」
「アンナについてはいい……。それよりも、お前のことだ……。考えろ」
大樹は低く、それだけを言った。
車はいつの間にか、岸壁に繋がる道に入っていた。車はそのまま岸壁内に入っていく。やがて、車は岸壁の縁で止まり、エンジン音が落ちると同時に外の音がはっきりと入り込んできた。
一定の間隔で打ち寄せる波の音と、どこかで金属が軋む乾いた響きが混じり、その間を縫うように潮と油の匂いがゆっくりと流れ込んでくる。
前方はそのまま海で塞がれている。
ヘッドライトに照らされたコンクリートの先は途切れ、その向こうは黒い水面が広がっているだけだった。
視線を横に向けると、少し離れた位置に、ほかにも車が数台停まっているのが見える。
その横に人影があった。
海に向かって立ち、細い竿を突き出している。
こちらを見る様子もない。
さらに離れた場所にも、もう一つ光がある。
小さなランタンのような明かり。そこにも人がいるのだと、かろうじてわかる程度の距離だった。
また、その向こうのフェンスの奥では強い照明が並び、巨大な軍艦の艦影が動かないまま浮かび上がっている。
だが——。
「……っ、あ……っ……」
綾子には、そのすべてが意味を持たない。
外に人がいようと、見られていようと、関係がない。
座席に押しつけられたまま身体を揺らし、呼吸を崩しながら、さきほど一度到達してしまった状態に届かない現在との差だけを追い続けている。
掻痒感はもう限界だった。
「……だ、大樹──」
綾子は小刻みに身体を震わせながら声をあげる。
掻痒と焦燥の苦悶で、腰がわずかに浮き、すぐに落ちる。
呼吸が裂ける。
「なんだ?」
大樹は運転席に座ったまま、綾子を見ることなく、目の前に見える夜の海に視線を向けている。
その表情は、まるで綾子に関心がないかのようにも見えた。
「カ、カードがあるの。バッグに入ってる……自由に引き出せる口座よ……十枚、全部合わせれば十億はある……。足りなければ……もっと準備する……」
言い終えるまでに、綾子の呼吸は何度も途切れた。脚に力を入れているはずなのに内側でわずかに擦れ、そのたびに身体が跳ね、腰が座席の上で落ち着く位置を見つけられない。
「どんなカードでも足がつく……。それで俺に枷を嵌める気か?」
大樹は視線を動かさない。短い一言ですべてを切る。
「……だ、だったら、情報を……。USBに入ってる……西園寺直人……わたしの……形式上の夫が……あなたを……冤罪に掛けた証拠……。集めてある。それがあれば再審請求で……あなたの冤罪は晴らせる……」
言葉を繋ぐあいだ、綾子の腰がわずかに浮きかけては落ちる。呼吸が崩れ、喉の奥で音になる。考えるより先に身体が反応し、届かない感覚を追おうとして無理に言葉を押し出す。
「冤罪の証拠? そんなものをいまさらどうする?」
大樹の声は冷たかった。口調には嘲笑のような響きもあった。
「……あ、あなたを、取り……戻せるわ……」
口にした瞬間、自分で理解してしまう。
それが、どれほどずれているのか。
それでも——言葉を止めることができなかった。
大樹は前を見たまま、短く息を吐いて、少し沈黙している。
否定よりもはっきりとした拒絶だった。
やがて、大樹が再び口を開く
「……いまさらだな。冤罪が証明されても、俺が失ったものは戻らない」
淡々とした声。
そこに感情はない。
「だ、だったら……」
言葉が途切れる。
呼吸が崩れる。
考えようとしても、続かない。
なにを大樹に差し出せばいいのか。
どうすればいいのか。
それでも──。
その先を、完全に捨てることができない。
「……なにを……差し出せば……。わたしたちは……」
言葉が続かない。
考えること自体が苦痛になる。
それでも、なにかを言わなければならないという感覚だけが残る。
外では波の音が一定の間隔で繰り返されている。
遠くの灯りも、フェンスの向こうの艦影も、変わらない。
「……綾子、ひとつだけ言っておく」
大樹は前を見たまま言った。
間は短い。
だが、逃げ場はない。
「は、はい……」
「俺たちが昔の関係に戻ることは、絶対にない」