冤罪で俺の人生を奪った元恋人が、俺の人生を買いに来た話【完結】 作:ドン・ドナシアン
大樹が目を覚ましたとき、見知らぬ天井が視界にあった。
白くて均一。継ぎ目の見えない天井だ。
身体を起こすと、マットレスがゆっくり沈んだ。身につけているのは半袖とハーフズボンのパジャマ。ビジネスホテルに置いてあるような簡素な作りだが、刑務所暮らしとその後の肉体労働者の生活だったこの十年の大樹には縁のなかったものだ。
部屋を見回す。
広くて、使ったことはないが、ホテルのスイートルームを想像した、
ベッドのほかに机と椅子、壁際に低いソファ。厚いカーペット。照明は間接光で影が柔らかい。どれも装飾は控えめだが、質はよさそうだ。
部屋に大樹以外の人の気配はない。
窓はない。
外の音もまったく入らない。耳を澄ませても、車の走行音も人の声も聞こえない。
ベッドの頭側に置かれたデジタル時計が、十一時に近い数字を示していた。
頭が鈍く痛む。酒のせいではなく、あのリムジンで酒に混ざられていた薬のせいだろう。思ったよりも、強い薬だったみたいだ。
昨夜の記憶が、順を追って戻る。
酒場で綾子と再会した。かつては、小さいが共同事業をしていた間柄であり、婚約もしていた。だが、会社の運転資金の紛失事件が起き、綾子は大樹ではなく西園寺グループの御曹子の言葉を信じて、大樹を見捨てた。
大樹は罪を認めなかったことから実刑となって刑務所に服役し、綾子はその御曹子の妻となった。
服役後は連絡を取ろうとはしなかった。刑務所で過ごす日々は、綾子とのことは、大樹の中では、もう終わった話になっていた。
だが、住まいと仕事を転々としながらさらに七年が過ぎ、当然に綾子が大樹を探し当てて、小さな安酒場にやってきた。
十年ぶりの再会だった。
そして、リムジンに乗せられた。車内で出されたビールを飲んですぐに意識が沈んだ。
最後に覚えているのは、泣きながら大樹に口づけをする綾子の顔──。
大樹は額を押さえ、ゆっくり息を吐いた。
机の上に封筒とスマートフォンが置かれている。
スマホは自分のものではない。大樹の使っている仕事用の安い端末は見当たらなかった。
封筒にもスマホにも触れずに、先に部屋を確かめる。
出入口らしい扉を押す。
開かない。外から鍵がかかっている。こちら側には、そもそも鍵穴らしきものがない。多分、電子ロックだろう。
その扉の反対側、寝台のある方向の壁沿いに短い通路があり、トイレと小さなキッチンがあった。電気ポット、冷蔵庫、電子レンジ。簡易ながら整っている。やはり、窓はない。ダストボックスすらない。
戻って、壁に埋め込まれたロッカーを開けていく。
スーツ、ジャケット、シャツ。色違いで揃えられている。
その隅に、ナイロンをかけられた服があった。昨夜着ていた作業着だ。クリーニングされたらしいが、落ちきらなかった薄い汚れが残っている。
大樹は苦笑した。
ロッカーの下には籠があり、男物の下着が入っていた。白、黒、紺、グレー。ボクサー、ブリーフ、トランクス。種類も色も妙に揃っている。
横には新品のシャツ、下着、靴下がナイロンに包まれて並んでいた。
さらに戸棚を順に開ける。
タオル。歯ブラシ。洗面具。日用品が一通り揃っている。
扉の横の戸棚は靴箱だった。
革靴、カジュアルシューズ、スニーカー、サンダル。どれも新しい。
その隅に、昨夜履いていた作業靴が置かれている。手入れはされたみたいだが、ほかの靴と並ぶと場違いだ。
もう一度、出入口の扉を押す。
やはり開かない。
机に戻り、封筒を開く。
走り書きだ。
薬が強すぎたかもしれないことの謝罪。意識が戻るまで一緒にいられなかったこと。目が覚めたら、机のスマホで連絡してほしいと書いてある。
手紙は続く。
キッチンに食材がある。ブザーを押せばすぐ人が来る。服でも物でも料理でも、必要なものは何でも頼める。
仕事が終われば戻る。
──復讐をしてほしい。
大樹は手紙を机に置いた。
部屋を見回す。
ベッドの頭側に小さなボタンがあることに気づく。病院のナースコールのような装置だ。
寝台に座って、手を伸ばす。
だが、少し躊躇した。
しかし、結局はブザーを押した。
壁の向こうで大きな呼び出し音が鳴った。近い。隣室に繋がっているのがわかる。
だが、来ない。
数十秒待つ。
もう一度押す。
それでも来ない。
音は鳴っている。確実に聞こえているはずだ。
大樹はボタンを押したままにした。
呼び出し音が、途切れず壁の向こうで鳴り続ける。
やがて、音が止まり、押しても壁の向こうで音が聞こえなくなった。
しばらくして、出入口の扉が外から開いた。
大柄な男だ。スーツ姿だがネクタイはしていない。
昨夜、綾子が「拓哉」と呼んでいた男だ。用心棒らしい付き人だ。
拓哉が、後ろ手に閉めた扉を背に腕を組み大樹を見た。閉じるときに扉から電子ロックのかすかな音が耳に響く。
「……呼んだか?」
抑揚のない声だ。
大樹は寝台から立ち上がらず、ゆっくりとソファへ移動して腰を下ろす。
「綾子はどこだ?」
大樹はソファに背を預け、脚を組んだ。
拓哉の顔が歪んで、大樹を睨みつけてきた。大樹も眼を逸らさない。しばらく睨み合う。
「……奥様だ」
「はあ?」
大樹はわずかに首を傾げる。
「お前ごときが呼び捨てにしていいお方じゃない。奥様と呼べ」
拓哉の眉がわずかに動く。
「お前の言っていることがわかったよ、じゃあ、質問に答えろ。綾子は、どこに行って、いつここに来る? ああ、それと、次は三秒以内に来い。わかったか」
大樹は言った。
「貴様……」
拓哉の顔がわずかに引きつる。
「答えは?」
大樹はわずかに首を傾げる。
拓哉の息がわずかに荒くなり、視線が一段低くなり、沈黙が落ちる。
「……奥様は出社しておられる。戻りは夜だ」
やがて、拓哉が言った。
「そうか」
大樹は背もたれに身体を預けたまま脚を組み直す。
「なら買い物だ。縄と乗馬鞭。それからバイブレーター。太さ違いでいくつか。あとはピアス穴を開ける道具と大きめのリング」
拓哉の指がわずかに動く。
「……貴様」
拓哉は一歩踏み出す。止まる。歯を食いしばっている。
簡単に挑発にのる男だ。
大樹は内心で笑う。
「お前の大事な奥様の肌に傷を残したくなければ、手入れのいい縄を選べよ。ピアスの道具もな。乳首と股につける。そうだ。あと、簡易式の刺青具も持ってこい。あいつの腹に字を書いてやろう。“私は裏切り者です”──てな」
さらに挑発する。
拓哉の顎の筋肉が固くなる。拳が握られる。
「夕方までに揃えて持ってこい。わかったら、行け」
「ふざけるな──」
拓哉が抑えきれずに床を蹴った。
大柄な身体が一気に間合いを詰めてきて、ソファに座っている大樹の襟首を掴んで、強引に身体を引き起こした。
次の瞬間、大樹の腹に拳が叩き込まれる。
「ぐっ」
強烈な一撃だ。全身の力が抜けて、大樹は膝を床につく
もっとも、大樹は殴られる瞬間、腹から息を抜き、衝撃をわずかに回避させていた。
「奥様になにかをしてみろ──。西園寺グループの総力をあげて、お前に後悔させる。覚えておけ──」
拓哉が両膝をついている大樹を見下ろしながら怒鳴る。
大樹は手を伸ばして、拓哉の右膝を掴んだ。
「たかが、用心棒が、グループを背負っているような物言いが大袈裟だぜ」
膝を掴んだまま、体重をかけて身体を捻り倒す。
「うわっ」
拓哉の巨体が音を立てて床に倒れた。
倒れるのと同時に関節を捻る。
大きな音がして、拓哉の右膝の関節が外れたのがわかった。
「うがああっ」
床に倒れた拓哉が悲鳴をあげる。
拳を叩きつけ、顎に打ちつける
悲鳴が小さくなる。
「あ、あが……がっ」
拓哉は口から血を流しながら、右手で上着からなにかを取ろうとした。
その手を踏みつけて、肘を折ってしまう。
「おごおっ」
拓哉が呻きながら、手にしていたものを離す。
スタンガンだ。
だが、市販されるようなものとは違う。電圧の高いプロ用だとわかる。大樹はそれを拾いあげると、躊躇せずに拓哉の首に流した。
拓哉が眼を見開かせながら、身体を大きく跳ねさせてから脱力する。
素早く、呼吸を確認した。死んではいない。
大樹は、拓哉の上着を探り札入れを見つけた。中には十枚ほどの紙幣のほかに、カードキーらしきものがあった。さらにスマホがある。また、手錠まであった。
それらを取り出すと、ベッドの上に放り投げて、急いで着替える。
準備されていた高級そうな服でなく、昨夜自分が着ていたものだ。
着替えながら、人の来る気配には気を配っていたが、それはなかった。拓哉も完全に気絶しており、眼を覚ます様子はない。
大樹は脚で拓哉の身体をうつ伏せにすると、片側の足首と、片側の手首を背中側で交差するように繋げてしまう。
靴も履き、寝台の上のものを上着のポケットに押しこむと、扉のドアノブに、さっきのカードキーらしきものを押しつける。
鍵が解除される。
わずかに扉を開けて、外の気配を探る、音も声もない。
大樹は部屋の外に出た。
部屋の外に出ると、すぐ隣にもうひとつ扉があった。廊下ではなく小さなスペースになっている。
正面には階段があって、上へ伸びていた。
階段の先は天井で塞がれている。点検口のような蓋だ。
もしかして、ここは、建物の地下なのか?
空気がわずかに冷たい。湿り気はない。空調は効いている。
だが窓がなかった理由はこれだろう。
大樹は隣の扉に目を向けた。
だが近づかずに、階段を上がることにした。
足音を殺し、一段ずつ体重を分散させる。
上に着く。
蓋に手をかける。押す。
軽い。
音もなく開いた。
隙間から外を探る。気配を読む。呼吸を止める。
物音はない。
ゆっくりと扉ごと身体を持ち上げる。
そこは書庫だった。
天井まで届く書棚が整然と並んでいる。
厚い絨毯。革張りの椅子。重厚な机。
高級住宅の一室だとわかる。
自分がいままでいた地下室は、この床下に隠されていたようだ。
大樹は開口部を静かに閉じて。書庫を進んで扉に近づく。
耳を当てる。
生活音はない。
ノブを回す。
その先にあったのは、広いリビングだった。
天井が高い。
大きな窓から昼の光が差し込んでいる。
ガラス越しに庭が見える。外は静かだ。
人の気配は……。
「……拓哉、どうしたの?」
女の声がした。
リビングの奥、廊下の方からだ。
扉が開いて、スーツ姿の美女が現れた。面識はない。
大樹と眼が合う。
女が一瞬身体を硬直させた。
「ちょっと待ってよ──。なんで、地下から出てきているのよ──。拓哉はどうしたのさ──」
女が内ポケットに手を入れながら、大股で近づく。
取り出したのは、引き延ばすタイプの金属の警棒だ。
カチン、と短い音がして伸びきる。
至近距離まで詰めると、女は棒を構えた。
「大人しくしなさい。奥様が戻るまで地下で……」
言い終わる前に、先に大樹が踏み込んだ。
女は一歩身体をずらし、迷いなく警棒を振り下ろした。
大樹はその瞬間、身体を床に落とす。
警棒が背中を狙って空を切る。
背中に当たれば確実に、大樹の意識を刈り取っただろう金属棒の風圧だけが首筋を掠めた。
床に伏せたまま、大樹は腕を伸ばす。
女の足首に、スタンガンを押し当てた。
「ぐおっ」
女がその場に崩れ落ちた。
素早く、スタンガンを鳩尾に押し当てる。
「や、やめっ──」
女の形相が変わったときには、電撃を流し終わっていた。
意識を失った女が床に突っ伏す。
仰向けにして、衣服を探る。
手錠にほかに、やはり、スタンガン──。ポケットからは車のキーらしきものがあった。連絡用らしきスマホもだ。それも自分のポケットに押しこむ。下の拓哉同様に、うつ伏せにして、交差するように片側ずつの手首と足首を手錠で繋げてしまう。
この建物にほかに人がいるのか、隠しカメラがあるのかは知らない。
だが、少なくとも人の気配は感じなかった。
天井を見る。
いま、気がついたが、監禁されていた地下室の天井にもあったが、シャンデリアの横に小さな半球状のものが存在していた。もしかしたら、監視カメラかもしれない。
そこに顔を向ける。
「綾子、さよならだ。復讐はやめた。気が変わった。不満があるなら、程度の悪いお前の部下に言え」
怒鳴ると、ホールを抜けて玄関へ向かう。
重い扉を押し開ける。
外は明るかった。
手入れされた前庭が広がっている。
芝は均一に刈り込まれ、砂利道が門へと続いている。
二台の車が停まっていた。
黒のセダンと、濃紺のSUV。
女の上着から抜き取ったキーを押す。
濃紺のSUVが、静かにライトを点滅させた。
迷わず運転席に乗り込む。
内装は革張りだ。
キーを差し込むタイプではない。ボタン式。
ブレーキを踏み、スタートボタンを押す。
エンジンが低く唸る。
バックでゆっくりと向きを変える。
門へ向かう。
一定の距離まで近づいた瞬間、門柱のセンサーが反応した。
重厚な鉄門が、左右に開く。
監視カメラが上部にあるのが見えた。その監視カメラに向けて、中指を突きたてた手を見せてやる。
大樹は止まらない。
門を抜ける。
外は舗装された一本道だった。
両脇に木々が並ぶ。人家は見えない。
山の麓を思わせる郊外だ。
振り返る。
高い壁に囲まれた平屋建ての建物が、木立の奥に隠れるように建っている。
要塞だな、と大樹は思った。
アクセルを踏み込む。
車は緩やかな下り坂を進み、麓へと向かっていった。
ポケットから拓哉と女から取りあげたスマホを取り出す。おそらく、これにはGPSがついている。二台とも窓から放り投げてもよかったが、思うところがあって、一台は捨て、一台は残して、助手席に放り投げる。
スマホの他に連絡手段があるかわからないし、拘束をしたあのふたりがどのくらいで、報告をできる状態になるかは知らない。
だが、追跡してくるならすればいい。
どんな顔で綾子がやってくるか見てみたい。
大樹はアクセルをいっぱいに踏み込んだ。