冤罪で俺の人生を奪った元恋人が、俺の人生を買いに来た話【完結】 作:ドン・ドナシアン
ぼんやりとした不安ばかりがあった。
病室は広い。壁に掛けられた大画面のテレビ、窓際のソファ、低いテーブル。医療機材が置かれていることを除けば、一流ホテルのスイートルームと変わらない。
西園寺直人は寝台の上で上体を起こしていた。
正面の壁の大画面のテレビには、映画専門チャンネルの古い映画が流れている。見覚えのある場面が続き、登場人物がなにかを言っている。音も聞こえている。
だが、内容は頭に入らない。映像を目で追っているだけで、意味が繋がらない。ただ流れている。
意識だけが、身体へ取り残されていた。
右手に力を入れる。反応はない。左手はわずかに動くだけだ。足も、腰も、自分では支えられない。舌もうまく動かない。
──半身不随。
突然に襲ったその状態が、もう半年も続いていた。
主治医によれば、一過性のものではなく、長い時間をかけて治療を要するものだという。この半年治療を続けているが、悪化するわけではないが、回復の兆しもない。
意識ははっきりしているのに、身体が動かせない。
そんな状態が続いている。
ノックの音がした。
「直人様、失礼します。おむつ交換しますね」
若い看護師がふたり入ってくる。白い手袋をはめながら、ベッドの左右に立つ。
「……あっ……あ……」
返事をしようとするが、声にはならない。
それを待たず、ひとりがベッドのリモコンに手を伸ばした。
「上体、倒しますね」
背もたれがゆっくりと下がっていき、視界が天井へと引き戻される。
ひとりがシーツをめくり、患者衣の裾が上げられる。もうひとりが腰を支え、身体を横向きに傾けられ、背中側からおむつのテープを外される。
汚れた紙おむつが引き抜かれると、一度仰向けに戻される。戻されたときには、いつの間にか、シートのようなものが腰の下に敷かれていた。
下半身は露出して性器も外気にさらされているが、陰部を見られる羞恥心も身体を動かせない屈辱感もない。
もう、すっかりと日常のことになった。
「洗浄しますね」
ぬるい水が当たる。股間の周りを洗われる。性器の周囲、太腿の付け根、後ろ側まで順に流される。ガーゼで拭き取られる。
「問題ありません」
「はい」
視線を向ける。若い看護師たちの横顔が見えるが、こちらを見ることはない。
作業として淡々と処理している。
そもそも、倒れる前に予兆のようなものはあった。しかし、そのときにはただの風邪だと言われていたのだ。身体が重く、だるいのに、感冒用の抗生物質を渡されただけだった。
違和感はあったが、そのままにした。
だが、あるとき、突然に会社で倒れた。
そのまま、動けなくなり、ここに運び込まれて、もう半年だ。
「新しいおむつを入れますね」
再び身体を横向きにされ、下に差し込まれる。仰向けに戻され、位置が整えられる。テープで固定される。
「終わりました。起こしますね」
背もたれが持ち上がる。元の姿勢に戻る。
看護師たちはそのまま退出していく。
直人は息を吐いた。
考えることはできる。
理解もできる。
だが、それだけだ。
相変わらず、テレビが無意味な映像を流し続けていた。
小春が病室を訪れたのは、午後になってからだった。
直人の愛人のひとりで、水商売の女だ。
肩まで伸びた明るい茶髪。身体の線を強調するようなワンピース。その上から薄手のカーディガンを羽織っている。三十歳になる小春は、昼間の病院には似つかわしくない派手な格好をしていた。
半年前までは違った。
女たちは、競うように直人へ連絡を寄越していた。だが、倒れてからは消えた。
いま病室へ来るのは、小春だけだ。
ほとんど毎日、こうして顔を出す。
「調子はどう、直人さん」
柔らかい声だった。
小春は大きな花束を抱えている。赤い薔薇だった。
「昨日、お店でお客さんにもらったんだけど、ここに飾っていいかな」
「……あ……ああ……」
返事をしようとする。
赤い薔薇……。
どんな男からもらったんだ、と言いたかった。
だが、舌がうまく動かない。喉が震えるだけで、言葉にはならなかった。
「ふふ、ありがと」
小春は慣れた様子で笑うと、病室の奥にある洗面室へ入っていく。
水の流れる音が聞こえる。
しばらくして戻ってきた小春の手には、花瓶に生けられた赤い薔薇があった。
それを壁際の台へ運び、位置を調整する。
「うん、いい感じ」
赤がやけに目立つ。
無機質な病室の中で、その色だけが浮いて見えた。
小春は満足そうに頷くと、そのまま直人の寝台の横へ戻ってくる。
「……そういえば、秘書さんから連絡があったよ。奥さんが書類のことで、ここに来るそうよ」
小春はそう言いながら、寝台の横の椅子へ腰を下ろした。脚を組み、バッグを寝台の横の台へ置く。その仕草はいつも通り自然だった。
だが、直人は苛立ちを覚えた。
会社からの連絡が、小春を通して伝わってくる──。
その扱いには、いまだ慣れなかった。
半年前に倒れてから、直人が兼務していた複数の代表取締役としての業務は、すべてホールディング社側へ集約されている。ホールディング社では、常務の肩書きを持っている。
最初の頃は違った。
病室には毎日のように社員が出入りしていた。報告書を抱えた秘書。決裁を待つ部長たち。確認を求める役員たち。寝台の横には、常に誰かが立っていた。
だが、それも長くは続かなかった。
妻の綾子を中心に業務代行の体制が整えられるにつれ、病室へ来る人間は減っていった。
判断待ちの案件はなくなった。
決裁を求められることもなくなった。
報告されるのは、すでに終わった案件の結果ばかりだ。
そして、いつの間にか、直人自身へ確認を取ることすらなくなっていた。会社からの伝言まで、小春を介して伝わってくる。
考えることはできる。
理解もできる。
だが、会社の中から、自分の存在が少しずつ消え始めていることを理解してしまう。直人につけられている秘書が、直接に連絡しにくるのではなく、愛人でしかない小春を通して伝言を寄越してくるほど、自分が軽んじられていることも……。
だが、わざわざ綾子が病室へ来る理由がわからなかった。
会社関係の話なのだろうとは思う。半年前に倒れて以降、直人が兼務していた複数の代表取締役としての業務は、すでに綾子を中心として代行体制が整えられているのだ。
重要な案件も、いまではほとんど綾子側で処理されるようになっていた。
だが、そもそも綾子はここには来ない。
書類を届けるだけなら秘書で済む話だ。わざわざ綾子本人が病室へ来る必要があるのだろうか。
夫婦としての関係は、すでに破綻しているのだ。
五年前のことだ──。
きっかけは、直人自身だった。
あの日は酒が入っていた。綾子を手に入れたという優越感もあったのだと思う。大樹という元の婚約者を蹴落とし、その男から綾子を奪った。その高揚感のまま、直人は口を滑らせた。
すでに夫婦になって四年以上が過ぎていたし、いまさらのことだと考えていた。
大樹を冤罪で嵌めたことを、武勇伝のように語ってしまったのだ。
お前を手に入れるためだった。会社を守るためだった。あいつが邪魔だった──。そんなことを笑いながら喋った記憶がある。
綾子は逆上した。
狂ったように暴れ、怒鳴り、直人に暴力を振るった。
あれほど取り乱した綾子を、直人は見たことがなかった。怒鳴り声と、なにかが割れる音。気づけば頭から血が流れていた。あのとき、本気で殺されかけたのだと、いまでも思う。
もっとも、その一件が表に出ることはなかった。西園寺グループの跡取り夫婦による傷害沙汰など、表沙汰にできるはずもない。夫婦喧嘩として処理され、そのまま揉み消された。
だが、あの日を境に綾子は変わった。
同じ家にいてもほとんど口を利かなくなり、すぐに別居状態になった。綾子は何度も離婚を求めてきたが、直人は応じなかった。
愛人はいた。小春のような女もいる。
だが、それと綾子は別だった。
元婚約者を蹴落としてまで手に入れた女だ。いまさら手放せるはずがない。
しかし、綾子の冷淡な態度は、ずっと続いている。
半年前に倒れたときも、綾子は病院へ来たが、それは妻としてではなかった。秘書を伴って必要な手続きを確認し、五分ほど寝台の前に立っただけで帰っていった。
それ以来、一度も病室へは来ていない。
その綾子が、突然ここへ来るという。
直人は、動かない右手へ視線を落とした。
綾子がやってきたのは、十四時ちょうどだった。
白いブラウスに、膝上丈のタイトスカート。上着は羽織っていない。髪を軽くまとめた姿は、以前よりもどこか鋭く見えた。
半年ぶりの綾子に、思わず見蕩れる。
まず目に入ったのは脚だった。
ストッキングを穿いていない。白い脚が、そのままスカートの下から伸びている。
綾子がスーツ姿で生脚を見せるなど、直人の記憶には一度もなかった。
さらに、薄い白いブラウスの下では、胸の輪郭が不自然なほど浮いている。布地の上から、先端の突起までわかってしまう。
直人はそこで違和感を覚えた。
──もしかして、下着を着けていないのか。
結婚してからの綾子は、常に隙のない女だった。
仕事でも、私生活でも、身だしなみを崩すことはない。それなのに、いま目の前にいる綾子は、どこか妙に無防備だった。
いや、違う。
無防備というより、感覚そのものが変わってしまったように見える。
「外に出てなさい」
綾子は、直人へ一瞥もくれないまま、寝台の横にいた小春へ言った。
「あっ、はい」
小春が慌てて立ち上がる。
バッグを抱え、そのまま病室を出ていった。
入れ替わるように、主治医の男が静かに病室へ入ってくる。
「直人さん、お話があるの。先生には、証人として立ち会いをお願いしたわ」
綾子はそこで初めて、直人へ視線を向けた。
まるで、そこに存在していなかった人間を、ようやく思い出したような視線だった。
そして、にっこりと微笑む。
綾子が、自分へ笑みを向けた──?
それがいつ以来のことなのか、直人にはもう思い出せなかった。
直人はどきりとした。
綾子はビジネスバッグを開き、中から書類の束を取り出した。
そのうちの一枚を抜き出し、直人の前へ静かに広げる。
西園寺ホールディング社の株主総会に関する包括委任状だった。
西園寺グループの持株会社である西園寺ホールディング社は、創業者であり現会長でもある西園寺宗一郎を中心に、一族で株式を分割保有している完全非公開会社だ。
直人も、そのうちの八%を保有している。
委任状の内容は、その株式に関する議決権行使を、妻である西園寺綾子へ包括的に委任するというものだった。
直人は思わず首を横に振った。
ホールディング社は、西園寺グループの中枢そのものだ。
綾子自身も、婚姻時に宗一郎から祝いとして五%の株式を譲渡されている。
そこへ直人の八%が加われば、現会長である宗一郎の四十%、次期会長と目されている父・西園寺隆継の十五%に次ぐ、第三位の発言権を持つことになる。
いくら妻とはいえ、外様でしかない綾子へ、そこまでの権限を渡すつもりはなかった。
「あ……あっ……」
直人は必死に左手を動かそうとする。
だが、指先がわずかに震えるだけだ。
視線を動かし、意思伝達用の文字ボードを持って来いと訴えようとする。
綾子はその視線に明らかに気づいている。
だが、無視した。
「彼は、ちゃんと言葉を確認できているわね?」
綾子が、ちらりと主治医へ視線を向ける。
「……はい。間違いなく確認できています」
主治医は落ち着いた声で答えた。
「なら、彼は承諾したということで処理するわ。証人になりなさい、先生?」
「……承知しました」
主治医がゆっくりと頷く。
「あ……ああっ、あっ──」
直人は慌てて声をあげた。
違う──。
そうではない──。
拒否している。
だが、舌が回らない。
言葉にならない。
綾子はそんな直人を見下ろしながら、静かに委任状を閉じた。
「押印については、こっちで管理しているもので処理する。直人さんは気にしなくていいわ」
綾子が書類の束をバッグにしまいながら言う。
「あっ、あっ、ああ……あっ」
直人は必死に首を横に振り下ながら叫ぶ。
すると、綾子は主治医に顔を向けた。
「廊下に出てなさい。すぐに呼ぶから……」
主治医は、綾子へ頭を下げた。
直人は唖然とした。
主治医の態度は、患者の家族へ向ける態度ではない。
命令を受ける側の動きだ。
直人の背筋に、冷たいものが走る。
「あっ……あっ……」
どういうことだ──。
叫ぶ。
だが、口から漏れるのは、壊れたような声だけだった。
綾子は、寝台のすぐそばまで歩み寄ってきて、直人の顔のすぐ近くで立ち止まる。
甘い香水の匂いが降りてくる。
「ねえ、直人さん……」
囁くような声だった。
その声音は妙に艶めかしい。
直人は息を呑む。
「あっ」
喉が震える。
言葉にならない。
綾子がそんな直人を見下ろしながら、ふっと笑った。
「……わたし、いま下着を着けてないの」
自分の眼が見開かれるのがわかった。
「あ……? あっ……」
「……ご主人様の命令で……。下着の代わりにつけてるのは貞操帯……。ディルドが二本……。鍵は彼が持っている。今日はずっとこのまま……。ときどき、動かされる……。彼からの罰でね……。」
綾子が楽しそうに言う。
耳を疑う。
なにを言っている──。
綾子が?
あの綾子が?
すると、綾子がスカートの横を指先で軽く摘まみ、そのまま、スカートの横側の裾を持ちあげ始める。
白い腰が覗いた。
腰骨までたくし上げたが、そこには下着の線がなにもない。ただ、腰の括れのところに,革帯がしっかりと喰い込んでいた。
「あっ……あっ──」
直人の喉から掠れた声が漏れる。
「……ふふ、だめよ。これ以上は見せられない」
綾子はくすりと笑った。
「……いまのわたしは、彼のものだから……」
「あっ、ああっ──あっ──」
直人が必死に叫んだ。
冗談じゃない──。
綾子は直人のものだ──。直人の妻だ──。
左手が痙攣したように震える。
寝台の上で身体を動かそうとするが、まともに力は入らない。
喉から壊れたような声だけが迸る。
そのとき、病室の扉が開いた。
「どうしました?」
外に出ていた主治医が戻ってきたのだ
綾子は振り返りもしなかった。すでに服装は整えている。
「興奮しているみたいね。しばらく鎮静を入れて眠らせておきなさい。目を覚ましてまた騒ぐようなら、そのときは追加しなさい」
綾子は、まるで面倒な患者を見ているような物言いだった。
直人は驚愕した。
「あっ……ああっ──」
違う──。
やめろ──。
そう叫んでいるつもりだった。
だが、舌が回らない。
意味のある言葉にならない。
「……承知しました、綾子様」
主治医が迷う様子もなく頷いた。
そのままスマートフォンを取り出し、短く指示を送る。
数分もしないうちに、看護師たちが病室へ入ってきた。
点滴台。
注射器。
追加の薬剤。
直人の背筋が凍る。
「あっ──ああっ──」
身体を動かそうとする。
だが、動かない。
喉から漏れるのは、壊れた声だけだった。
「押さえて」
主治医が看護師に告げる。
すぐに身体が押さえつけられて、腕へ注射が刺された。
視界が揺れた。
天井の輪郭が滲む。
綾子の姿もぼやけていく。
その歪んだ視界の中で、綾子がその様子を静かに見下ろしていた。
「……おやすみなさい、直人さん」
優しい声だった。
だが、その声は直人にはひどく恐ろしく聞こえた。
意識は、急激に暗闇へ沈んでいった。