※この作品はR-18です。

冤罪で俺の人生を奪った元恋人が、俺の人生を買いに来た話【完結】   作:ドン・ドナシアン

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023 ぼんやりとした不安ばかりがあった

 ぼんやりとした不安ばかりがあった。

 病室は広い。壁に掛けられた大画面のテレビ、窓際のソファ、低いテーブル。医療機材が置かれていることを除けば、一流ホテルのスイートルームと変わらない。

 

 西園寺直人は寝台の上で上体を起こしていた。

 正面の壁の大画面のテレビには、映画専門チャンネルの古い映画が流れている。見覚えのある場面が続き、登場人物がなにかを言っている。音も聞こえている。

 だが、内容は頭に入らない。映像を目で追っているだけで、意味が繋がらない。ただ流れている。

 意識だけが、身体へ取り残されていた。

 右手に力を入れる。反応はない。左手はわずかに動くだけだ。足も、腰も、自分では支えられない。舌もうまく動かない。

 

 ──半身不随。

 

 突然に襲ったその状態が、もう半年も続いていた。

 主治医によれば、一過性のものではなく、長い時間をかけて治療を要するものだという。この半年治療を続けているが、悪化するわけではないが、回復の兆しもない。

 意識ははっきりしているのに、身体が動かせない。

 そんな状態が続いている。

 ノックの音がした。

 

「直人様、失礼します。おむつ交換しますね」

 

 若い看護師がふたり入ってくる。白い手袋をはめながら、ベッドの左右に立つ。

 

「……あっ……あ……」

 

 返事をしようとするが、声にはならない。

 それを待たず、ひとりがベッドのリモコンに手を伸ばした。

 

「上体、倒しますね」

 

 背もたれがゆっくりと下がっていき、視界が天井へと引き戻される。

 ひとりがシーツをめくり、患者衣の裾が上げられる。もうひとりが腰を支え、身体を横向きに傾けられ、背中側からおむつのテープを外される。

 汚れた紙おむつが引き抜かれると、一度仰向けに戻される。戻されたときには、いつの間にか、シートのようなものが腰の下に敷かれていた。

 下半身は露出して性器も外気にさらされているが、陰部を見られる羞恥心も身体を動かせない屈辱感もない。

 もう、すっかりと日常のことになった。

 

「洗浄しますね」

 

 ぬるい水が当たる。股間の周りを洗われる。性器の周囲、太腿の付け根、後ろ側まで順に流される。ガーゼで拭き取られる。

 

「問題ありません」

 

「はい」

 

 視線を向ける。若い看護師たちの横顔が見えるが、こちらを見ることはない。

 作業として淡々と処理している。

 そもそも、倒れる前に予兆のようなものはあった。しかし、そのときにはただの風邪だと言われていたのだ。身体が重く、だるいのに、感冒用の抗生物質を渡されただけだった。

 違和感はあったが、そのままにした。

 だが、あるとき、突然に会社で倒れた。

そのまま、動けなくなり、ここに運び込まれて、もう半年だ。

 

「新しいおむつを入れますね」

 

 再び身体を横向きにされ、下に差し込まれる。仰向けに戻され、位置が整えられる。テープで固定される。

 

「終わりました。起こしますね」

 

 背もたれが持ち上がる。元の姿勢に戻る。

 看護師たちはそのまま退出していく。

 直人は息を吐いた。

 考えることはできる。

 理解もできる。

 だが、それだけだ。

 相変わらず、テレビが無意味な映像を流し続けていた。

 

 

 

 小春が病室を訪れたのは、午後になってからだった。

 直人の愛人のひとりで、水商売の女だ。

 肩まで伸びた明るい茶髪。身体の線を強調するようなワンピース。その上から薄手のカーディガンを羽織っている。三十歳になる小春は、昼間の病院には似つかわしくない派手な格好をしていた。

 

 半年前までは違った。

女たちは、競うように直人へ連絡を寄越していた。だが、倒れてからは消えた。

いま病室へ来るのは、小春だけだ。

 

 ほとんど毎日、こうして顔を出す。

 

「調子はどう、直人さん」

 

 柔らかい声だった。

 小春は大きな花束を抱えている。赤い薔薇だった。

 

「昨日、お店でお客さんにもらったんだけど、ここに飾っていいかな」

 

「……あ……ああ……」

 

 返事をしようとする。

 赤い薔薇……。

 どんな男からもらったんだ、と言いたかった。

 だが、舌がうまく動かない。喉が震えるだけで、言葉にはならなかった。

 

「ふふ、ありがと」

 

 小春は慣れた様子で笑うと、病室の奥にある洗面室へ入っていく。

 水の流れる音が聞こえる。

 しばらくして戻ってきた小春の手には、花瓶に生けられた赤い薔薇があった。

 それを壁際の台へ運び、位置を調整する。

 

「うん、いい感じ」

 

 赤がやけに目立つ。

 無機質な病室の中で、その色だけが浮いて見えた。

 小春は満足そうに頷くと、そのまま直人の寝台の横へ戻ってくる。

 

「……そういえば、秘書さんから連絡があったよ。奥さんが書類のことで、ここに来るそうよ」

 

 小春はそう言いながら、寝台の横の椅子へ腰を下ろした。脚を組み、バッグを寝台の横の台へ置く。その仕草はいつも通り自然だった。

 だが、直人は苛立ちを覚えた。

 

 会社からの連絡が、小春を通して伝わってくる──。

 その扱いには、いまだ慣れなかった。

 半年前に倒れてから、直人が兼務していた複数の代表取締役としての業務は、すべてホールディング社側へ集約されている。ホールディング社では、常務の肩書きを持っている。

 

 最初の頃は違った。

 病室には毎日のように社員が出入りしていた。報告書を抱えた秘書。決裁を待つ部長たち。確認を求める役員たち。寝台の横には、常に誰かが立っていた。

 

 だが、それも長くは続かなかった。

 妻の綾子を中心に業務代行の体制が整えられるにつれ、病室へ来る人間は減っていった。

 判断待ちの案件はなくなった。

 決裁を求められることもなくなった。

 報告されるのは、すでに終わった案件の結果ばかりだ。

 

 そして、いつの間にか、直人自身へ確認を取ることすらなくなっていた。会社からの伝言まで、小春を介して伝わってくる。

 考えることはできる。

 理解もできる。

 だが、会社の中から、自分の存在が少しずつ消え始めていることを理解してしまう。直人につけられている秘書が、直接に連絡しにくるのではなく、愛人でしかない小春を通して伝言を寄越してくるほど、自分が軽んじられていることも……。

 

 だが、わざわざ綾子が病室へ来る理由がわからなかった。

 会社関係の話なのだろうとは思う。半年前に倒れて以降、直人が兼務していた複数の代表取締役としての業務は、すでに綾子を中心として代行体制が整えられているのだ。

 重要な案件も、いまではほとんど綾子側で処理されるようになっていた。

 

 だが、そもそも綾子はここには来ない。

 書類を届けるだけなら秘書で済む話だ。わざわざ綾子本人が病室へ来る必要があるのだろうか。

 夫婦としての関係は、すでに破綻しているのだ。

 

 五年前のことだ──。

 きっかけは、直人自身だった。

 あの日は酒が入っていた。綾子を手に入れたという優越感もあったのだと思う。大樹という元の婚約者を蹴落とし、その男から綾子を奪った。その高揚感のまま、直人は口を滑らせた。

 すでに夫婦になって四年以上が過ぎていたし、いまさらのことだと考えていた。

 大樹を冤罪で嵌めたことを、武勇伝のように語ってしまったのだ。

 お前を手に入れるためだった。会社を守るためだった。あいつが邪魔だった──。そんなことを笑いながら喋った記憶がある。

 

 綾子は逆上した。

 狂ったように暴れ、怒鳴り、直人に暴力を振るった。

 あれほど取り乱した綾子を、直人は見たことがなかった。怒鳴り声と、なにかが割れる音。気づけば頭から血が流れていた。あのとき、本気で殺されかけたのだと、いまでも思う。

 もっとも、その一件が表に出ることはなかった。西園寺グループの跡取り夫婦による傷害沙汰など、表沙汰にできるはずもない。夫婦喧嘩として処理され、そのまま揉み消された。

 

 だが、あの日を境に綾子は変わった。

 同じ家にいてもほとんど口を利かなくなり、すぐに別居状態になった。綾子は何度も離婚を求めてきたが、直人は応じなかった。

 愛人はいた。小春のような女もいる。

 だが、それと綾子は別だった。

 元婚約者を蹴落としてまで手に入れた女だ。いまさら手放せるはずがない。

 しかし、綾子の冷淡な態度は、ずっと続いている。

 

 半年前に倒れたときも、綾子は病院へ来たが、それは妻としてではなかった。秘書を伴って必要な手続きを確認し、五分ほど寝台の前に立っただけで帰っていった。

 それ以来、一度も病室へは来ていない。

 その綾子が、突然ここへ来るという。

 直人は、動かない右手へ視線を落とした。

 

 

 

 綾子がやってきたのは、十四時ちょうどだった。

 白いブラウスに、膝上丈のタイトスカート。上着は羽織っていない。髪を軽くまとめた姿は、以前よりもどこか鋭く見えた。

 半年ぶりの綾子に、思わず見蕩れる。

 

 まず目に入ったのは脚だった。

 ストッキングを穿いていない。白い脚が、そのままスカートの下から伸びている。

 綾子がスーツ姿で生脚を見せるなど、直人の記憶には一度もなかった。

 さらに、薄い白いブラウスの下では、胸の輪郭が不自然なほど浮いている。布地の上から、先端の突起までわかってしまう。

 直人はそこで違和感を覚えた。

 

 ──もしかして、下着を着けていないのか。

 

 結婚してからの綾子は、常に隙のない女だった。

 仕事でも、私生活でも、身だしなみを崩すことはない。それなのに、いま目の前にいる綾子は、どこか妙に無防備だった。

 

 いや、違う。

 無防備というより、感覚そのものが変わってしまったように見える。

 

「外に出てなさい」

 

 綾子は、直人へ一瞥もくれないまま、寝台の横にいた小春へ言った。

 

「あっ、はい」

 

 小春が慌てて立ち上がる。

 バッグを抱え、そのまま病室を出ていった。

 

 入れ替わるように、主治医の男が静かに病室へ入ってくる。

 

「直人さん、お話があるの。先生には、証人として立ち会いをお願いしたわ」

 

 綾子はそこで初めて、直人へ視線を向けた。

 まるで、そこに存在していなかった人間を、ようやく思い出したような視線だった。

 そして、にっこりと微笑む。

 

 綾子が、自分へ笑みを向けた──?

 それがいつ以来のことなのか、直人にはもう思い出せなかった。

 直人はどきりとした。

 

 綾子はビジネスバッグを開き、中から書類の束を取り出した。

 そのうちの一枚を抜き出し、直人の前へ静かに広げる。

 

 西園寺ホールディング社の株主総会に関する包括委任状だった。

 西園寺グループの持株会社である西園寺ホールディング社は、創業者であり現会長でもある西園寺宗一郎を中心に、一族で株式を分割保有している完全非公開会社だ。

 直人も、そのうちの八%を保有している。

 

 委任状の内容は、その株式に関する議決権行使を、妻である西園寺綾子へ包括的に委任するというものだった。

 直人は思わず首を横に振った。

 ホールディング社は、西園寺グループの中枢そのものだ。

 綾子自身も、婚姻時に宗一郎から祝いとして五%の株式を譲渡されている。

 そこへ直人の八%が加われば、現会長である宗一郎の四十%、次期会長と目されている父・西園寺隆継の十五%に次ぐ、第三位の発言権を持つことになる。

 いくら妻とはいえ、外様でしかない綾子へ、そこまでの権限を渡すつもりはなかった。

 

「あ……あっ……」

 

 直人は必死に左手を動かそうとする。

 だが、指先がわずかに震えるだけだ。

 視線を動かし、意思伝達用の文字ボードを持って来いと訴えようとする。

 

 綾子はその視線に明らかに気づいている。

 だが、無視した。

 

「彼は、ちゃんと言葉を確認できているわね?」

 

 綾子が、ちらりと主治医へ視線を向ける。

 

「……はい。間違いなく確認できています」

 

 主治医は落ち着いた声で答えた。

 

「なら、彼は承諾したということで処理するわ。証人になりなさい、先生?」

 

「……承知しました」

 

 主治医がゆっくりと頷く。

 

「あ……ああっ、あっ──」

 

 直人は慌てて声をあげた。

 

 違う──。

 そうではない──。

 拒否している。

 

 だが、舌が回らない。

 言葉にならない。

 綾子はそんな直人を見下ろしながら、静かに委任状を閉じた。

 

「押印については、こっちで管理しているもので処理する。直人さんは気にしなくていいわ」

 

 綾子が書類の束をバッグにしまいながら言う。

 

「あっ、あっ、ああ……あっ」

 

 直人は必死に首を横に振り下ながら叫ぶ。

 すると、綾子は主治医に顔を向けた。

 

「廊下に出てなさい。すぐに呼ぶから……」

 

 主治医は、綾子へ頭を下げた。

 直人は唖然とした。

 

 主治医の態度は、患者の家族へ向ける態度ではない。

 命令を受ける側の動きだ。

 直人の背筋に、冷たいものが走る。

 

「あっ……あっ……」

 

 どういうことだ──。

 叫ぶ。

 だが、口から漏れるのは、壊れたような声だけだった。

 

 綾子は、寝台のすぐそばまで歩み寄ってきて、直人の顔のすぐ近くで立ち止まる。

 甘い香水の匂いが降りてくる。

 

「ねえ、直人さん……」

 

 囁くような声だった。

 その声音は妙に艶めかしい。

 直人は息を呑む。

 

「あっ」

 

 喉が震える。

 言葉にならない。

 綾子がそんな直人を見下ろしながら、ふっと笑った。

 

「……わたし、いま下着を着けてないの」

 

 自分の眼が見開かれるのがわかった。

 

「あ……? あっ……」

 

「……ご主人様の命令で……。下着の代わりにつけてるのは貞操帯……。ディルドが二本……。鍵は彼が持っている。今日はずっとこのまま……。ときどき、動かされる……。彼からの罰でね……。」

 

 綾子が楽しそうに言う。

 耳を疑う。

 なにを言っている──。

 

 綾子が?

 あの綾子が?

 

 すると、綾子がスカートの横を指先で軽く摘まみ、そのまま、スカートの横側の裾を持ちあげ始める。

 白い腰が覗いた。

 腰骨までたくし上げたが、そこには下着の線がなにもない。ただ、腰の括れのところに,革帯がしっかりと喰い込んでいた。

 

「あっ……あっ──」

 

 直人の喉から掠れた声が漏れる。

 

「……ふふ、だめよ。これ以上は見せられない」

 

 綾子はくすりと笑った。

 

「……いまのわたしは、彼のものだから……」

 

「あっ、ああっ──あっ──」

 

 直人が必死に叫んだ。

 冗談じゃない──。

 綾子は直人のものだ──。直人の妻だ──。

 

 左手が痙攣したように震える。

 寝台の上で身体を動かそうとするが、まともに力は入らない。

 喉から壊れたような声だけが迸る。

 そのとき、病室の扉が開いた。

 

「どうしました?」

 

 外に出ていた主治医が戻ってきたのだ

 綾子は振り返りもしなかった。すでに服装は整えている。

 

「興奮しているみたいね。しばらく鎮静を入れて眠らせておきなさい。目を覚ましてまた騒ぐようなら、そのときは追加しなさい」

 

 綾子は、まるで面倒な患者を見ているような物言いだった。

 直人は驚愕した。

 

「あっ……ああっ──」

 

 違う──。

 やめろ──。

 

 そう叫んでいるつもりだった。

 だが、舌が回らない。

 意味のある言葉にならない。

 

「……承知しました、綾子様」

 

 主治医が迷う様子もなく頷いた。

 そのままスマートフォンを取り出し、短く指示を送る。

 

 数分もしないうちに、看護師たちが病室へ入ってきた。

 点滴台。

 注射器。

 追加の薬剤。

 直人の背筋が凍る。

 

「あっ──ああっ──」

 

 身体を動かそうとする。

 だが、動かない。

 喉から漏れるのは、壊れた声だけだった。

 

「押さえて」

 

 主治医が看護師に告げる。

 すぐに身体が押さえつけられて、腕へ注射が刺された。

 

 視界が揺れた。

 天井の輪郭が滲む。

 綾子の姿もぼやけていく。

 

 その歪んだ視界の中で、綾子がその様子を静かに見下ろしていた。

 

「……おやすみなさい、直人さん」

 

 優しい声だった。

 だが、その声は直人にはひどく恐ろしく聞こえた。

 意識は、急激に暗闇へ沈んでいった。

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