冤罪で俺の人生を奪った元恋人が、俺の人生を買いに来た話【完結】 作:ドン・ドナシアン
「とんでもないことになりましたね、お義父様」
綾子は言った。
西園寺隆継が寝台に腰掛けたまま顔を上げた。
西園寺グループの現総裁の西園寺宗一郎の長子にして、綾子の義父だ。
その男が下着一枚の姿で、両肘を膝に乗せたまま項垂れている。
顔色は土気色であり、額には脂汗が浮かんで、震える指先を何度も握り締めていた。
そのすぐ横では、若い女が寝台に倒れている。
口元からは泡が流れ出し、顎から首筋へ白くこびりついていた。
吐瀉物が胸元とシーツを汚している。
瞼は半開きで、焦点のない目が天井を向いたまま動かない。
甘ったるい香水の臭いに混じって、吐瀉物と酒の臭いが室内に漂っていた。
アンナが女の傍らから立ち上がる。
「確かに死んでますね」
静かな声だった。
「そんな……」
隆継が頭を抱えた。
時間は、深夜二時を回っている──。
古いラブホテルだ。
安っぽい芳香剤の臭いが壁やカーテンに染み付いている。家具も古く、壁紙の継ぎ目は浮き上がり、天井近くには雨漏りの跡まで残っていた。少なくとも西園寺グループの次期会長候補が使う場所ではなかった。
「死因は?」
綾子は訊ねる。
「ドラッグですね。違法薬物です。かなり大量に摂取しています。心臓が止まったんでしょう……」
アンナがそう言うと、部屋の隅の小さなテーブルへ視線を向けた。
「それじゃないですか?」
テーブルには飲みかけの缶チューハイが二本置かれているとともに、錠剤の欠片と白い粉末の痕跡が残っていた。
すると、アンナがさらに床へ脱ぎ捨てられていた隆継のスーツを拾い上げる。
小さな透明の袋を取り出した。中には数錠の錠剤が入っている。
「同じものですね」
アンナがそれを寝台へ放った。
「知らん──。それは知らん──」
隆継の顔から血の気が引いた。
「それは通用しないでしょう……。どこで手に入れたものですか? セックスのときには、いつもこれを?」
綾子は義父を見た。
「違う──。断じて、そんなものは使ってない──。そもそも、どうして、そんなものが俺の服の中に……? 本当に知らんのだ。覚えてないんだ──」
隆継はすっかりと狼狽えている。
無理もなかった。
これまでも女絡みの問題はあった。
だが今回は次元が違う。死体がある。しかも薬物まで出てきた。
「なら、最後に覚えているのは、どこまでですか?」
綾子は隆継を見る。
「酒を飲んでいた」
隆継が答える。
「どこで?」
「多分、銀座だ、いつもの店で……。その後が思い出せない」
「その女に面識は?」
顎で死んでいる女を指す。
「わからん……。店の女……ではない気がする……。あっ、いや、そういえば、そのあと、ビル街でカクテルを飲み直した。もしかしたら、そこで出遭った女かもしれん」
「かなり酔ってたのは、間違いないようですね」
隆継からはいまでも強い酒の匂いが漂っている。
もっとも、すっかりと酔いも醒めた気配だが……。
「……とにかく、よく、わたしに先に知らせてくれました。下手なところに連絡をされれば、西園寺の大スキャンダルですし」
綾子は隆継を安心させるように、できるだけ優しい口調で声を掛ける。
隆継が大きく頷く。
「前から……なにかあれば、力になると言ってくれておったから……。親父には……知らせんでくれ……。下手をすれば廃嫡される」
「ええ、素晴らしい判断ですわ、お義父様……」
綾子はそれだけを言った。
この男が酒と女で羽目を外すのは日常茶飯事だ。だが、今夜については、酔って眼が覚めたら、いきなり見知らぬ女の死体だ。肝も冷えたのだろう。
そして、父親ではなく、綾子に直接連絡を入れてきた。
誰にも知られないように細工をして、アンナとともにやって来たのが、ほんの少し前だった。
「……へえ。どこにも知らせずに処理するんですか? 若い女がひとり死んでいるんですけど」
すると、アンナが呆れたように口を挟む。
「黙りなさい、アンナ──、それよりも、女の素性がわかるものはない?」
綾子が訊ねる。
アンナは女の傍らに置かれていたハンドバッグを開いた。
中身をひとつずつ寝台の上へ並べていく。
まずは、スマ-トフォンを取り出す。さらに、化粧ポーチ。ハンカチ。モバイルバッテリー。口紅。
それだけだった。
「財布もありませんね。身分証もなしです」
アンナがそう言いながら、スマートフォンを手に取る。
画面を確認したあと、女の指先を押し当てる。
ロックはすぐに解除された。
「最近の若い子は便利ですね」
アンナは呟く。
そのまま女のスマートフォンを操作しながら、自分のスマートフォンも取り出した。
二つの画面を見比べながら何度か指を動かす。
綾子は黙って待った。
隆継は不安そうにその様子を見ている。
「どう?」
綾子が訊ねる。
「電話番号は生きてます……。SNSも使っていますね」
アンナがふたつのスマートフォンを比べながら、答える。
さらに画面を流している。
「……どこかの店に所属している形跡はありません」
「風俗関係は?」
「見当たりません」
アンナは首を横に振った。
「スカウトとのやり取りもないですね」
数秒後、スマートフォンから顔を上げる。
「店に所属している女ではなさそうですね。個人でしょう」
「個人?」
隆継が反応した。
「パパ活とか、そういう類です。男と会って小遣いを稼いでいたんじゃないですか。それっぽいSNSの履歴がありました」
アンナは女を見た。
再び画面へ目を落とす。
「家族とのやり取りも少ないですね。勤務先らしいものもありません」
「面倒な相手ではなさそう?」
綾子が訊ねる。
「少なくとも、どこかの組織が絡んでいるような履歴はありません。面倒かどうかと訊ねられると微妙ですね。プロの女じゃないでしょう。反社、風俗店、スカウト、半グレ、その辺との接点も見当たりません」
アンナは即答した。
「確かに微妙ね」
綾子は小さく頷いた。
「微妙とはなんだ? どこかの組織の絡むような面倒な相手ではないんだろう?」
隆継が綾子を見た。
縋るような目だった。
綾子は答える前にアンナを見る。
アンナが肩を竦めた。
「組織はありません。店もありません。反社との接点も見当たりません」
「なら問題ないじゃないか」
隆継が言う。
「そうとも言い切れません。身元のはっきりしない個人は逆に厄介です。捜索依頼とか出される可能性があります。警察が動きます」
アンナがスマートフォンを操作しながら続けた。
「組織絡みなら、逆に面倒ではないですわ、お義父様」
綾子は口を挟む。
「どうしてだ?」
「組織の者なら面倒を連中が解決してくれます。それなりのものは必要になりますが……。例えば、会長は黒耀会と昵懇です。頼めば処理をしてくれるでしょうね」
黒耀会とは、西園寺グループに昔からついている反社組織だ。
表には出ていないが、持ちつ持たれつの関係が長年続いている。
「なにを言うか──。黒耀会はだめだ。親父に知られる──。絶対だ──」
隆継が声をあげた。
「わかってます……。黒耀会には隠しましょう。そうなれば、お義父様自身が動くしかないですね」
綾子は言った。
「動く? なにをしろと言っておるんだ?」
隆継が綾子を見る。
綾子は肩を竦めた。
「お義父様が選ぶことができるのは二つだけです……。言え、三つですか……。ひとつは、会長に相談すること、黒耀会が動くでしょう。その代わりに、次期会長の地位はあり得ません。廃嫡もご覚悟されるべきかと……」
「それは駄目だと言っておるだろ──」
隆継が綾子の言葉を途中で遮って怒鳴る。
綾子はなだめるように、手のひらを隆継にかざした。
「わかっておりますわ。わたしは選択肢を話しているだけです。もうひとつの選択肢は、この女をお義父様自身が隠してしまうことです。お手伝いはしますが、わたしにできるのは、場を整えるだけです。動くのはお義父様だけです。それなら、誰にも知られません。会長の知られることも防げます」
「か、隠すのか……。俺が……」
隆継は動揺を示した。
小さく身体が震えだす。
「運搬の手段は準備しましょう、あと、このホテルの監視カメラも映像を処理しておきます。お義父様はホテルを出るだけです。その女の死体と一緒に……」
綾子は顔を近付けて、隆継の顔をじっと見る。
隆継が気落とされたかのようにたじろぐのがわかった。
「……三つ目の選択肢とはなんだ……?」
隆継が言った。
「決まってます。警察に届けることです。いますぐに。お勧めはしません。大スキャンダルです。私が会長なら、お義父様ごと事件を闇に沈めます。それこそ、黒耀会の出番ですね」
淡々と教える。
「ひっ、ば、馬鹿を言うな──」
隆継が声をあげる。
「ふふ、なら、頑張るしかありませんわ、お義父様……。一度出ます。すぐに戻ります」
綾子はアンナに目で合図した。
アンナは小さく頷く。
「どこへ行くんだ?」
隆継が不安そうに訊ねた。
「一時間以内に、スーツケースを準備して戻ります……。その間にお義父様は着替えてください。それから、素手で触った場所を思い出して、水拭きをしておいてください
「指紋か?」
「ええ。戻るときにはホテルの裏に足の着かない車を用意しておきます。非常階段から降りて、その女をどこかに運んでください。会長にも黒耀会にも知られたくないのであれば、お義父様ご自身で動くしかありません」
「ま、待て……。どこかに運ぶとはなんだ。俺が運ぶのか?」
隆継が呆然となっている。
「当然です。これはお義父様の問題ですから」
綾子は頷いた。
隆継の視線が死体へ向く。
顔色がさらに悪くなった。
「……だが、どこに運べばいい……?」
「それくらいはご自分でお探しください。とにかく、明るくなれば人目が増えます。時間がありませんよ」
綾子は穏やかな声で言った。
「待て──お前たちが一緒に行ってくれるんだろう──?」
隆継が立ちあがって悲鳴のような声をあげる。
「行きません。わたしたちは、別にやることがあります。この店の監視カメラ。周辺の防犯カメラの処置──。お義父様、正念場ですわ──。明るくなれば運び出せません。すぐに掛からないと」
綾子は言った。
そして、アンナとともに、隆継を置いて部屋を出た。
都内の一流ホテルの地下駐車場。
アンナが運転席へ乗り込み、綾子は後部座席ではなく助手席へ腰を下ろす。
ドアが閉まった。
二人はほぼ同時に深く息を吐いた。
「驚いたわねえ……」
綾子がシートへ身体を預ける。
「まったくです」
アンナが苦笑した。
「脅迫材料まで準備していたのに」
「全部無駄でしたね」
「買収案も」
「搦め手も」
二人は顔を見合わせた。
西園寺弘志──。
宗一郎の次男。
隆継の弟であり、西園寺ホールディングス社の株を十二パーセント保有する大株主である。
本来であれば、最も厄介な相手のひとりだった。
綾子は弘志を調べ上げるために相当な時間を使っている。
資産状況。交友関係。女性関係。取引先。趣味。弱みになりそうなものは徹底的に洗った。
兄の隆継のように、わかりやすい隙があるわけでなく、なかなか落とし所が見つからない。
脅迫──。
買収──。
あるいは失脚工作──。
考えられる限りの手段は用意していた。
だが、調査を続けるうちに妙な違和感だけが残った。
弘志には後継者争いに勝とうとする意思が見えなかったのだ。
だからこそ、今日の会談を申し込んだ。
そして結果は予想を遥かに超えていた。
「まさか、その場で委任状を書くとは思わなかったわ」
綾子は呟く。
後部座席を見る。
黒い鞄が置かれていた。
その中には弘志が署名した委任状が入っている。
株主総会における投票権の委任状だった。
「あたしも初めて見ました」
アンナが呟く。
「なにを?」
「十二パーセント持っている人が、十分で降りるところです」
アンナの軽口に綾子は思わず笑ってしまった。
本当に短い時間だった。
弘志は会談が始まるなり、後継者争いなど面倒だ。
本当は、経営にも権力にも興味はない。
父親と周囲がうるさいから、兄の隆継と争っている振りをしているだけだ──。
そう言い切ったのである。
「会長が聞いたら卒倒するわね」
「間違いありません」
アンナも笑う。
「でも、あの人は本気だった」
「本気でしたね」
弘志は地位を欲していなかった。
総帥の椅子にも興味がなかった。
ただ現在の立場だけは失いたくない。
役員の地位で、十分以上の収入。
それがあれば満足だと平然と言っていた。
「地位と収入を保証しますと言った瞬間だったわね」
「すぐでした」
「迷いもしなかった」
「念のために委任状を準備しておいてよかったわ」
「まさか、サインをするとは思いませんでしたけど……」
「署名が早かったわ」
二人で再び顔を見合わせた。
数か月かけて準備した策が、一瞬で不要になった。
それは綾子にとっても予想外だった。
だが結果だけを見れば悪くない。
むしろ理想的だった。
綾子は後部座席の鞄へ視線を向ける。
弘志の十二パーセント──。
それは想像以上に大きな成果だった。
西園寺ホールディングス社──。
西園寺グループの頂点に存在する完全非公開企業であり、グループ全体の意思決定を行う中枢組織である。
主要企業の株式を保有し、人事を決め、予算を決め、グループ全体の方針を決める。西園寺グループの支配権そのものだった。
株式の保有割合は、会長である宗一郎が四十パーセント──。
これに対して、綾子がこれまでに切り崩したもの──。
まずは、もともと持っていた五パーセント──。
夫の直人を禁治産者同然にする直前に手続きをした七パーセント。
会長子飼いの安定株主たちを、ひとりひとり切り崩していったものが合わせて、現在までに、十一パーセント──。
そして、あのドラッグ事件を境に、完全に綾子の言いなりになった隆継が保有する十五パーセント──。
あの夜、隆継は自らの手で死体を運び出し、自らの判断で証拠隠滅に手を染めた。
その一部始終の証拠は綾子が押さえている。
隆継にもすでに見せた。
あの男が顔面蒼白になった姿は、いまでも覚えている。
いまさら逆らうことなどできない。
これに、今回の弘志の十二パーセントが加わったのである。
合計──五十パーセント──。
すでに、会長の保有株四十パーセントを上回っている。
おそらく、過半数を確保するのに一箇月もあれば足りるだろう。
臨時総会で会長交代を議決させるまで、もう少し──。
やっと、大樹の命令に従うことができる──。
そのときだった──。
「あっ、ああっ、いや……」
小さな電動音とともに、綾子の媚肉に埋まっているバイブがくねくねと動き出したのである。
もう半年──。
綾子がマンションを出るときには、必ず腰に装着をさせられている革帯に取り付けられているのであり、電子ロックがあり、綾子には外すことはできない。
それだけでなく、いまのように、ネット回線を使って、日本中どころか、世界中のどこにおいても、マンションにいる大樹が好きなときに好きなように操作をできるのである。
毎日のように、いつ操作されるのかと怯える緊張感には慣れることなどない。しかも、連日受けている大樹の調教によって、綾子は信じられないくらいに敏感な身体になっていた。
「くっ、くっ……」
必死に歯を喰いしばって声を耐える。
今日は、アンナとふたりきりの車の中でよかった。大樹には綾子の一日のスケジュールを詳細に報告はしているが、それに斟酌なしに、大樹は悪戯を仕掛けてくる。
そのたびに、綾子は周りにばれないようにするのが大変だった。
でも、大樹にこうやって罰を与えられているのだと思うと、心の底からの充実感と幸福感もある。
これは償いなのだ──。
信じていた婚約者を裏切って冤罪で刑務所送りにし、その冤罪を仕立てた男と結婚をしてしまった綾子への懲罰なのだ──。
「綾子様……」
アンナが息を吐く。
アンナだけは、綾子と大樹の関係を知っている。
ただ、半年経ったいまでも、綾子が大樹の言いなりになっていることについては不本意そうだ。
コンコン──。
はっとした。
助手席の外にスーツ姿の女がひとりいて、軽くウインドウを叩いたのだ。
「ひっ」
綾子は、スカートの上から太腿の付け根を押さえるようにしながら声をあげた。
そこにいたのは、会長秘書であり、愛人のひとりの相沢玲奈だった──。
どうしてここに──?
「綾子様、そのままにして──。あたしが対応します」
アンナが慌てて、車の外に飛び出していく。
そのあいだも、股間の淫具は動き続けている。それどころか、さらにアナルの淫具まで蠕動運動を始めだした。
「んんっ」
顔を伏せ、声が出そうになるのを必死に手で口を押さえる。
すると、突然に車の外で音がした。
驚いて眼を向けると、アンナが車の外で倒れていた。伶奈の右手にはスタンガンらしきものが握られている。
綾子は唖然となった。
すると、相沢伶奈がアンナをそのままにして、車に乗り込んでくる。手にはスタンガンとともに、アンナから奪ったらしい車のキーを持っている。
「あ、相沢さん、どう……して──?」
運転席に乗り込んできた伶奈に、綾子は声をあげた。
だが、股間の前後ではいまでも、淫具が暴れ回っている。うまく喋れない。
「ふふ、あんたらか、こそこそと動いていたのは知っていたのよ」
伶奈がスーツの内ポケットからスマホを取り出す。彼女が軽く操作すると、さらに激しく淫具が振動する。
「ひあっ、ああ──」
思わず身体をくの字に曲げて声をあげる。
だが、どうして、会長秘書の相沢伶奈が大樹の装着した淫具を操作しているのか──?
「大樹って、前と同じ電磁波の周波数を使うなんて相変わらず迂闊ね……。とにかく、あなたのご主人様と話をしたくてね。餌になってもらうわ。綾子さん」
伶奈がスタンガンを腹に押しつけてくる。
綾子は愕然となった。
まさか、会長の報復──?
でも、なぜ、秘書の伶奈が、大樹がターゲットのようなことを口にしたのか──。
抵抗しようと思った。このまま捕まれば、大樹に危害が加わる可能性があるのだ。
だが、どん、という衝撃が腹に加わり、それでなにもわからなくなった。
【簒奪篇・完】