冤罪で俺の人生を奪った元恋人が、俺の人生を買いに来た話【完結】 作:ドン・ドナシアン
喫茶「ウインドウ」の裏口から階段を上る。そこが『情報屋』の隠し事務所の入口になっている。
だが、二階に近づくにつれて煙草の臭いが濃くなった。
またか……。
大樹は苦笑しながら扉を開けた。
「おう、大樹」
ソファに寝転がっていた黒瀬が片手を上げる。
視線はスマホから動かない。
口には煙草。
灰皿にしている缶コーヒーの空き缶の周りに、吸い殻が零れている。
「プリンス様のご出勤ということは、例の案件が終わったのか?」
桐生もスマホを弄りながら手を上げる。やはり、煙草を咥えている。
「まあ、終わりましたけどね」
大樹はポケットからUSBディスクを取り出して机の上に置く。
「ほう、例の案件の捜査資料か。よくそんなのハックできるな」
桐生がスマホをソファに投げて、そのディスクを拾いあげた。
「できませんよ。まあ、やろうと思えば不可能じゃないかもしれませんけど、今回は捜査資料を自宅に持ち帰った刑事がいたんですよ。抜き取ったのはそこからです」
「へーえ、捜査中のデータを持ち帰るなんて御法度じゃねえの? 間抜けな刑事がいるもんだ」
桐生が笑う。
「捜査中じゃなくても御法度です。でも、セキュリティが厳重だと使う者もやりづらいですからね。だからついつい、抜いちゃうんですよ。悪気はないんです」
「悪気はねえけど、間抜けには変わらねえよ。だから、大樹みてえな新米情報屋に付け込まれるんだ。まあ、いずれにしても、こんなんで、姐さんが百万以上に変えてくれんだろう。ありがてえ、ありがてえ」
桐生がテーブルに置き直したUSBディスクを拝むような仕草をした。
大樹はディスクを拾い直すと、内ポケットにしまい直す。
「志津香さんは? 寝室ですか」
大樹は奥の部屋の扉に視線をやる。そこが情報屋のリーダーでもある梶原志津香の自室になっているのだ。
「姐さんならいねえよ。なんか、深刻そうな顔で朝出ていったからなあ……。だから、多分、パチスロじゃねえか。なあ、黒瀬?」
「ああ、ちょっと顔色悪かったな……。ありゃあ、パチスロだ。もしかしたら、また事務所の運営資金に手をつけたのかもしれねえ。だから、あんなに真剣だったんだ」
黒瀬がソファに寝そべったまま応じた。
だが、どことなく声に張りがない。
「どうかしたんですか、黒瀬先輩?」
大樹は訊ねた。
「なんでもねえよ」
黒瀬がスマホを握ったまま溜息をつく。
部屋の奥ではサーバーの冷却ファンが低く唸っていた。また、壁際には大型モニターが並び、その横には年代物の木製キャビネットが置かれている。あちこちにコンビニの袋に入ったゴミや空き缶が転がっており、お世辞にも整っているとはいえない。
三日ぶりだが、いつ来ても、この事務所はこんなものだ。
「いやあ、なんか、ゲームで育てたキャラがゾンビに殺されたとか言って落ち込んでんのよ。さっきから、こんなんだ」
桐生が馬鹿笑いする。
「うるせい──。俺のアスカちゃんだ。二箇月もかけて育てたんだぞ。それが死んだんだ──。なに笑ってやがる」
黒瀬ががばりと起きあがって桐生を睨んだ。
「たかが、ゲームじゃねえか。ロードしろよ。ロード」
「そういう仕様じゃねえんだよ。やり直しはねえ。そのリアルが人気なんだ──。もうアスカちゃんには、この世界では会えねえんだ」
「なにがアスカちゃんだよ。レスラーみてえな身体して、アスカちゃんって気持ち悪いんだよ」
桐生が笑い続ける。
「ああ、よかったら、ソフトデータを弄ります? チートできるし、生き返らせられると思いますよ」
大樹は横から声を掛けた。
「オタクのくせに、お前にはゲームへのロマンがわかってねえ──」
だが、なぜか黒瀬が真っ赤な顔で怒りだしてしまった。
「なにがロマンだよ、ゴリラ」
一方で桐生は横で笑い続ける。
そのときだった。
情報屋の表向きの商売になっている一階の喫茶店側から二階に向かって呼びかける声が聞こえてきた。
桐生と黒瀬が言い合いをやめて、身体を硬直させた。
「おい、ちょっと待て。いま、何時だ?」
桐生が大樹を見る。
「ええっと、十二時過ぎですけど……。十二時十五分」
大樹は腕時計をちらりと見て言う。
「ばか、なんで早く言わねえ。伶奈ちゃんが来るじゃねえかよ。おい、黒瀬、窓開けろ、窓だ──」
「わかってるよ。お前、その空き缶隠せ──。っていうか、ちゃんと入れろよ。テーブルが灰だらけじゃねえか」
「お前だよ──」
ふたりが窓を開け、タオルを持ち出して懸命に仰ぎだす。
大樹は呆気にとられて見ていた。
「もしかして、煙を逃がそうとしてます? 俺、煙草吸わないからわかりますけど、そんなんで匂い消えないですよ。無駄です」
大樹は懸命にタオルで開放した窓に向かって仰ぐふたりに声をかけた。
「いいから手伝え──。いや、お前、足止めしろ。伶奈ちゃんとデートしてこい。いや、下で飯食ってこい」
「そうだ。いい加減につき合ってやれよ。それで超ご機嫌になる」
桐生と黒瀬が言う。
「いやあ、俺って、むかし婚約者に裏切られたことあって……。それで、もう恋愛はこりごりっていうか……」
大樹は頭を掻く。
「恋愛感情なんていらねえんだよ──。姐さんに気に入られているだろ。それとも、姐さんに恋愛感情あんのかよ──」
「あれは性欲の解消で相手をしろって言われて……」
「伶奈ちゃんにも、それでいい──」
すると、階段に繋がる扉が開いた。
入って来たのは、大きな盆を抱えている伶奈だ。盆には三人分のパスタがある。表向きの商売である一階の喫茶店を任され、経理や事務まで見る、情報屋の末っ子だ。
「大樹さんの声が聞こえた気がしましたけど、来てるんですよね……。うわっ、なに、この匂い──。おふたりとも、ここで煙草吸うなって言ったでしょ──。外に行って吸いなさいよ。向かいにコンビニあるでしょ──」
すごい剣幕で伶奈は怒鳴った。
伶奈は乱暴に盆をテーブルへ置いた。
「もう、本当に信じられない──。臭い。煙い。最悪」
怒ったまま鼻をひくつかせる。
桐生と黒瀬は揃って視線を逸らした。
だが、伶奈の視線はすぐに一点に向く。
テーブルの上の缶コーヒーの空き缶だ。缶の中には吸い殻がぎっしり詰まっており、さらに周囲にも灰が散っている。
伶奈の眉がぴくりと動くとともに、顔がさらに真っ赤になった。大樹には、伶奈の背中に般若のようなものが浮きあがったのが見えた気がした。
「これって……どれだけ面倒だと思ってるんですかあああ──」
怒声が事務所中に響いた。
桐生と黒瀬が同時に肩を震わせる。
「毎回──毎回──毎回──誰が片付けてると思ってるんですか──」
「だって、灰皿がねえから……」
黒瀬が答えた。
「当たり前じゃないですか──。煙草禁止なのに、灰皿は必要ないでしょ──」
伶奈が真っ赤な顔で叫ぶ。
「横暴だ」
桐生が呟く。
「横暴じゃない──」
「労働者の権利侵害だ」
「煙草吸う人に、人権なんかありません──」
「ひでえ」
黒瀬が肩を落とした。
そのときだった。
階段へ続く扉が静かに開いた。
全員の視線がそちらへ向く。
入ってきたのは志津香だった。
四十五歳。
長い黒髪を後ろへ流したワンレンの美女だ。
若い頃なら女優でも通用しただろうと本気で思う。
だが、今日は違った。
顔色が悪い。
まるで一晩中眠っていないような顔だった。
「あっ、姐さん、お帰りなさい」
「お帰りなさいっす」
桐生と黒瀬が揃って頭を下げる。
「あっ、お帰りなさい、志津香さん。例の案件、終わりました」
大樹は内ポケットからUSBディスクを取り出した。
志津香が受け取る。
「ああ」
短い返事だった。
いつもの志津香なら「ご苦労だったね」くらいは言う。いや、もっとはしゃぎ回るかもしれない。
だが今日は違った。
まったく興味なさそうにUSBディスクを受け取っただけで、押し黙っている。
大樹は眉をひそめた。
「……どうしたんですか、姐さん。パチスロ大負けですか?」
桐生が軽口を叩く。
「そうっすよ。とりあえず大樹のデータを金にしてきちゃどうです」
黒瀬も笑った。
しかし志津香は笑わない。
ただ二人を見る。
その視線で桐生も黒瀬も笑うのをやめた。
「伶奈」
志津香が伶奈を見た。
「はい?」
「下の喫茶店は臨時休業の札を出しておいた」
「え?」
「奥の金庫から事務所の金を全部持ってきておくれ」
「えっ、全部ですか?」
「ああ、小銭まで全部だ」
志津香が頷く。
空気が変わった。
大樹は何も言えなかった。
伶奈も同じだったらしい。
なにかを言いかけたが、結局黙ったまま奥の部屋へ消えていく。
扉が閉まる。
静寂が落ちた。
「……なにかあったんですね」
口を開いたのは桐生だった。
さっきまでの軽薄な調子は消えている。
「情報屋は解散だ」
数瞬ののち、志津香が言った。
誰も動かなかった。
大樹も意味が理解できなかった。
解散──?
どうして……。
「えっ……?」
「どういうことっすか?」
桐生と黒瀬は困惑している。
もちろん、大樹もだ。
「言葉通りだよ」
志津香は淡々としていた。
「冗談っすよね?」
黒瀬が志津香を睨む。
「冗談じゃないよ。伶奈が戻ったら説明するよ」
志津香は短く答えた。
黒瀬が押し黙る。
再び沈黙が落ちた。
誰も喋らない。
サーバーの冷却ファンの音だけがやけに大きく聞こえた。
やがて扉が開いて、伶奈が戻ってきた。
大きな盆を両手で抱えている。
その上には札束が積まれていた。
百万円の束──ひとつやふたつではない。十束近くはある。その横には小銭を詰めた袋まで置かれていた。
伶奈が盆をテーブルへ置く。
志津香は無言で札束を引き寄せた。
そして、四つに分け始める。
誰も言葉を発さない。
止められなかった。
最後の札束を置き終えると、志津香が顔を上げた。
「それぞれ持っていきな。ほかにも、欲しいものがあれば、ここからなんでも持っていっていい。だけど、少しでも早くここを離れるんだ。そして、お互いに連絡をしない。とにかく姿をくらましな」
誰も動かない。
「ええっと、どういうことですか?」
ほかの者が口を開かなかったので、大樹が言った。
「とにかく、逃げるんだ。さもないと、皆殺しになる」
全員が固まった。
「誰からです?」
大樹は訊ねた。
志津香がゆっくりと視線を巡らせる。
桐生──。
黒瀬──。
伶奈──。
そして大樹──。
家族を見るような目だと思った。いや、大樹にとって、ここにいる者は本物の家族だった。裏切られなにもかも失った大樹がやっと手に入れることができた家族だ。
最高のチームだった。
「私たちに対して、攻撃命令がかけられた……。粛正だよ」
志津香が言った。
誰も言葉を発しない。
さらに、志津香は続けた。
「黒耀会だ」
その名が出た瞬間だった。
桐生の顔色が変わった。
黒瀬が思わず立ち上がる。
伶奈も息を呑んでいる。
大樹だけが反応に遅れた。
黒耀会──。
九州最大級の暴力組織。
裏社会に関わる者なら知らない者はいない。
大樹も状況を理解した。以前、ある案件で黒耀会に関わる少年たちに関わったことがあり、警察に情報を流して逮捕させている。素人の女たちを徒党を組んでレイプした挙げ句に、薬漬けにして売春させるという本物の悪党たちだった。
そのときには、知らなかったのだが、そのリーダーが黒耀会の幹部の息子だったのだ。
ただ、そのときには、情報屋のバックになっている東雲会が盾になってくれた。黒耀会も東雲会と抗争になってまで情報屋に手を出そうとはしなかったのだ。
ただ、それをきっかけに、黒耀会絡みの案件が幾つか続いた。連中からすれば面白くなかったらしく、嫌がらせの延長のようなものだ。
その都度返り討ちにしていたが、そのため情報屋と黒耀会は最悪の状況になった。一応、それも含めて、東雲会が和解でまとめてくれていた。
「……でも、それは終わったんじゃ……?」
大樹は言った。
志津香が首を横に振る。
「私もそう思っていた。でも、あいつらからすれば、終わってなかったらしい。東雲会と黒耀会が上の組織の仲介で完全に手打ちになった。そのときに、黒耀会が出したのが、私たち情報屋の抹殺だ」
「えっ、俺たち切られたんですか?」
桐生が口を挟む。
「ああ、東雲会は応じたそうだ。そういえば、東雲会の組長が代替わりしたからね。新しい組長は、それほどには私たちを買ってなかったようだ。情報は東雲会で昵懇の者からだよ。どうやら本当のようだ……」
「え……」
絶望するような声をあげたのは伶奈だ。
「……すまない。私のミスだ」
志津香が頭を下げる。
誰も声を出せなかった。
「……ええっと、できることはないですかね……? もう一度、このチームで」
大樹は言った。
「ばかなことを言うんじゃないよ」
志津香は顔を上げた。
「逃げるんだ」
低い声だった。
「黒耀会を舐めちゃだめだ。あいつらが報復しなかったのは、東雲会がいたからだ。その後ろ楯がなくなった」
一度言葉を切る。
「終わりだ。逃げるしかない……。さもなきゃ、全員死ぬ」
夜だった。
桐生は駅の構内を歩いていた。
スポーツバッグを肩に掛け、新幹線の発車案内を見る。
あと二十分──。
ポケットから煙草を取り出す。
しかし、咥えたところで手が止まった。
「……そういえば、駅も禁煙か」
ヘビースモーカーにとっては世知辛い時代になったものだ。
部屋で煙草を吸うなと怒鳴った昼間の伶奈の声が頭をよぎる。
昔は、事務所なんて当然で、駅だってどこだって、吸い放題だったのにな……。
桐生は苦笑した。
「ちっ……」
煙草を箱へ戻す。
乗車する予定の新幹線には喫煙室あるんだろうか。
とりあえず、トイレへ入った。
用を足すために小便器に向かう。
新たな人の気配がした。気にもしなかったが、そいつは真後ろに立つ。
振り返る。
帽子を深く被っていた。
いや、そいつだけじゃなく、出口にも男がふたりいた。
男の手が上がる。
「ま、待て──」
背中に硬いものが押しつけられる。
逃げろと繰り返した志津香の顔が浮かぶ。
「くそっ──」
身体に押しつけられることでくぐもった発砲音──
胸の後ろに衝撃が走った。
続けて二発。
身体が崩れる。
冷たい床に倒れ込んだ。
遠ざかる意識の中で。煙草の煙に包まれた事務所が浮かんだ。
馬鹿みたいにゲームの話をする黒瀬──。
怒鳴り散らしている伶奈──。
面倒臭そうに笑う志津香──。
そして大樹──。
もう一度くらい、みんなで馬鹿話がしたかったな……。
そして、急激に闇が訪れた。
車が揺れていた。
黒瀬は後部座席に座らせられている。
両手は背中で結束バンドにより拘束されており、両足首にも結束バンドで固く縛られている。
顔には土嚢袋を被せられていた。
左右には男がいる。
肩を押さえつけられているため、身動きはできない。
全身が痛かった。
逃げようとしたところを取り囲まれ、何人もの男たちに金属棒で滅多打ちにされた。
腕も脚も肋骨も痛い。
どこが折れていて、どこが折れていないのかもわからなかった。
「畜生、さっさと殺せよ──」
黒瀬は袋の中から怒鳴った。
返事はない。
「さっさと殺せって言ってんだろ──」
また怒鳴る。
「聞いてんのか──。殺せ──」
しかし、左右の男たちは終始無言だ。横の男たちだけでなく、運転席と助手席にいるはずの男たちも喋らない。
車だけが走り続ける。
山道だと思う。
車体が何度も揺れた。
どれほど時間が経ったのかわからない。
やがて。車が止まって、横の扉が開く。
黒瀬は、強引に引きずり出された。
押し出されて腹に硬いものが食い込む。
同時に両脚が宙に浮いた。
なにが起きているのかわからない。
次の瞬間。頭の袋が引き剥がされた。
夜風が顔を叩く。
黒瀬は目を見開いた。
遥か下に河原が見える。
街灯の光も届かない暗闇の中に、月の光で川が細く光っていた。
そして。自分の腹に食い込んでいるのが橋の欄干だと気付く。
「お、おいっ」
喉が震えた。
男たちは何も答えない。
脚が持ち上げられる。
身体が前へ傾く。
「やめろおお──」
さらに傾く。
視界が反転した。
身体が宙へ放り出される。
落下している。
黒瀬は絶叫した。
志津香は、いつものソファに腰を下ろし、ひとりで缶ビールを飲んでいた。
こんなに静かな事務所は滅多にないなと思った。
志津香の自宅はここなので、ここで寝泊まりしているのは当然だが、桐生と黒瀬はこのソファを自分たちの寝台のように使って、ほぼ毎晩ここに泊まっている。
大樹と伶奈は、別にアパートを持っているが、性欲が溜まったときには、志津香は必ず大樹を奥に呼ぶので、独り寝さえも少ないかもしれない。あいつ、ねちっこくて丁寧で、セックスは上手だったからなあ。
多分、あれは本能的なものだろう。
大樹に惚れているらしい伶奈も最近は志津香に対抗意識なのか、かなり遅くまでここにいるので、いつもは賑やかな夜なのだ。
人生最後の酒なんだから、もっと高いものを選ぼうとも思った。
だが、結局はこれだった。
テーブルの上にはコンビニで買ってきた乾物が袋ごと積まれている。
いつも通りだ。
それでいいと思った。
どうせ最後なのだから。
情報屋の事務所の裏口の階段の向こうに人の気配があるのには気づいている。
そこだけじゃない。一階の喫茶店から上がってくる階段の扉の向こうにもだ。
事務所が完全に囲まれているのはわかるのに、なかなか入ってこない。
志津香は、缶ビールを一口飲んだ。
「入って来な。鍵は掛けてないよ」
扉の外にもしっかりと聞こえる声で怒鳴る。
返事はない。
数秒後に、やっと扉が開いた。
裏口から三人。喫茶店側から五人だ。
黒耀会の連中だった。
全員が拳銃を抜いている。
志津香を取り囲み、銃口を油断なく志津香へ向けた。
志津香は缶ビールを机に置く。
顔を上げる。
見覚えのある男がいた。
「おや」
志津香は笑った。
「黒耀会の大幹部の廣瀬さん自ら、こんなちんけな情報屋の女をお迎えかい?」
廣瀬は無表情だった。
あの悪党の坊やは、この男が愛人に産ませた息子だったらしい。
もっとも知っていたところで結果は変わらなかっただろう。
あのガキは正真正銘の悪党だった。
「無駄なことはしたくねえんだ、志津香」
廣瀬が言う。
「ほう、気が合うね。私もさっさと片付けたくてね」
「大人しく来てもらうぜ。情報屋のことを喋ってもらわねえとならねえしな」
拳銃を向けたまま、志津香の正面に立った。
「喋ったら助けてくれるのかい?」
「そうだな」
廣瀬も笑う。
そして、値踏みをするように、志津香の身体をじろじろと見る。
「……年増だが、それだけの顔と身体があれば稼げるだろ。稼いでいるあいだは生かしておいてやるよ」
「嬉しいね」
志津香は右手を差し出した。
「女は得だな。すぐには殺されねえからな。とにかく、知りたいのは情報屋のメンバーだ。殺し漏れがねえようにしたい」
「メンバーは私ひとりだ……。ところで、餞別だよ」
廣瀬が眉をひそめる。
志津香の手のひらから、テーブルに小さな金属ピンが落ちた。
廣瀬がそれを見る。
一瞬。意味がわからなかったらしい。
そして。顔色が変わった。
「に、逃げろ──」
廣瀬が絶叫した。
男たちが一斉に動く。
遅い。
志津香は笑った。
大樹が以前に仕掛けてくれた出入り口の電子ロックを遠隔で施錠した。男たちが必死に扉を開けようともがいている。だが、壁を蹴破るにはしばらくかかるだろう。
左手の中に隠していた起爆装置の安全ピンは、抜いてから十秒ほどで起爆する。
服の下に巻き付けた爆薬は、この事務所ごと吹き飛ばす量だ。
もう誰も逃げられない。
「残念だったね」
閃光が走った。
伶奈は部屋の隅に置かれた椅子へ腰を下ろしていた。
駅前のマンションだ。
外から見れば、どこにでもあるマンションの一室にしか見えない。
だが、実際には違う。
この階の部屋は五軒続きで黒耀会が買い占めている。
そのうちの一室に伶奈は監禁されていた。
部屋の中央にはテーブルがある。
その上には夕食が並べられていた。
だが、手はつけていない。
食欲などなかった。
部屋の外には見張りがいる。
廊下を慌ただしく歩く足音が何度も聞こえていた。男たちの品の悪い怒鳴り声や嗤い声──。連絡を取り合う忙しそうな気配──。
もっとも、見張りがいなくても結果は同じだ。
伶奈は逃げるつもりなどなかった。逃げることなどできない。
志津香──。
桐生──。
黒瀬──。
そして──大樹──。
みんなは無事に逃げてくれただろうか。
伶奈は膝の上で拳を握り締めた。
まさか、こんなことになるとは思わなかった……。
黒耀会へ情報を流したのは自分だ。
それは否定できない。
だが、仕方がなかったのだ──。
伶奈には守らなければならない存在がいた。
病院で眠っている妹だ。
両親はもういない。
残された家族は妹だけだった。
高額な治療費──。
終わりの見えない入院生活。
情報屋の存在は裏社会では知られていた。だが、拠点の場所も構成員も秘密だった。その点について、志津香たちは超一流だった。
しかし、どういう経緯かわからないが、黒耀会は伶奈がメンバーであることを嗅ぎつけたらしい。
それどころか、黒耀会は、伶奈の妹の存在まで知っていた。
最初は金だった。
次は脅迫だった。
やがて妹の病室の写真まで送りつけられた。
逃げられなかった。
ただの若い女に何ができただろう。
黒耀会は言った。
情報屋のメンバーの名前を教えろ。
事務所の場所を教えろ。
それだけでいい。
確認するだけだと。
手は出さないと。
問題は起こさないと。
だから信じた。
ただ、黒耀会が伶奈に接触したことだけは黙っていろ──。もしも、メンバーにもらしたら、その時点で妹を殺すと念を押された。
伶奈は屈した。
たかが名前と事務所の場所だけだ。
信じたかったのかもしれない。
でも、あの時の伶奈には、それ以外の選択肢が見つからなかった。
しかし、まさか、それからすぐに、黒耀会が情報屋を粛正することになるなんて──。
伶奈は両手で顔を覆った。
「お願いだから……みんな逃げてよ……」
そのとき、部屋の外から怒号が聞こえた。さっきまでの喧噪とは比べものにならない。
なにがあったのだろう──。
伶奈は顔を上げた。
すると、部屋の扉が乱暴に外から開いた。
入って来たのは、高瀬という黒耀会の幹部だった。廣瀬という男とともに、伶奈に最初に接触してきた壮年の男性であり、確か組長補佐という肩書きがあったと思う。
その彼がひとりで入って来て、伶奈の座っている横にある椅子に乱暴に座った。
顔に苦笑のような表情を浮かべている。
「おう、大変かことが起こったぜ」
高瀬が伶奈を見ながら言った。
「大変なこと……ですか……?」
伶奈は必死に平静を装いながら応じる。
なにがあった──?
嫌な予感しかしない。
「ああ、大変なことだ。お前に教えてもらった情報屋の女ボス──。廣瀬と部下たちを巻き込んで吹っ飛びやがった。木っ端微塵だ。事務所もな。お前が働いていた喫茶店も跡形もねえぞ。やられたぜ」
高瀬は笑った。
だが、その目だけはまったく笑っていなかった。
伶奈は言葉を失った。
志津香が死んだ。
その事実だけは理解できた。
だが、それと同時に、志津香は最後まで志津香だったのだとも思った。
あの人ならやる。
追い詰められても、ただでは終わらない。
最後の最後まで相手に噛みつく。
そんな人だった……。
「……志津香さん……」
掠れた声が漏れた。
高瀬は鼻で笑った。
「泣くのはまだ早えよ」
「え?」
伶奈は顔を上げる。
「廣瀬が死んだから終わりじゃねえ。むしろ問題はここからだ」
高瀬は椅子にもたれた。
低い声だった。
「廣瀬の件で、組は本気になった。逃げた連中もだ。見つけ出して殺す」
高瀬がそう言った。
伶奈の背筋を冷たいものが走る。
すると、突然に高瀬が歯を見せて笑った。
高瀬が椅子の背にもたれたまま伶奈を見る。
「だが、困ったことに、情報屋のことを調べていた廣瀬が吹っ飛びやがったからな。東雲会も、女リーダーの志津香以外とは接触してなかったらしい。だから、お前だ」
高瀬の口元から笑みが消える。
「メンバーの名前を言え」
伶奈は唾を飲み込んだ。
「……も、もう言いました」
「ああ、聞いた。だが、念のためだ」
高瀬は指先で机を軽く叩いた。
伶奈の身体がびくんと跳ねる。
「……本当に、あれで全員か?」
「……はい」
伶奈の肩が震える。
「こっちでも調べてる。もし食い違ったら、お前の妹は明日の朝を迎えられねえ」
高瀬が続けた。
伶奈は息を呑んだ。
「そんな……」
「なら言え──。訂正するなら今が最後だ。いまなら、言い忘れていたことは咎めねえ」
高瀬が身を乗り出す。
伶奈は拳を握り締めた。
「……メンバーは、リーダーの志津香さん……」
「ああ、もう死んだ」
高瀬が頷く。
「桐生さん……」
「追ってる。次だ──」
「黒瀬さん……」
「そっちも追ってる」
高瀬が腕を組む。
伶奈は唇を噛んだ。
これで終わりだ。
これ以上はいない。自分の心に言い聞かせる。
最初のときも、大樹の名前だけは隠した。彼は特別なのだ。
「……それだけです」
「おかしいな……。情報屋には腕のいいハッカーがいるって話だった」
高瀬が伶奈を見る。
伶奈の心臓が跳ねた。
大樹の顔が浮かぶ。
警察資料──。
企業の内部情報──。
携帯電話の解析──。
電子関係の仕事の大半をこなしていたのは大樹だった。彼のような人を天才というのだろう。
そして、とても優しい人だ。
だから、表情には出さない。
「それは黒瀬さんです」
高瀬が眉を上げた。
「へえ、あのゴリラ、見た目からは意外だな」
そして、鼻で笑う。
「……そうなんです」
伶奈は頷いた。
頼む──。
信じて──。
本当にそうだと思って。
「顔を上げろ」
高瀬が言った。
伶奈はゆっくりと顔を上げる。
高瀬は、なにも言わない。
ただ、じっと伶奈の眼を見ている。
やがて、高瀬が小さく笑った。
「どうやら嘘じゃねえな」
高瀬が椅子にもたれ直す。
伶奈は内心で安堵した。
騙せた──。
大樹の名前だけは守れた。
心にあったのはそれだけだ。
「ならいい。じゃあ、お前の話だ」
高瀬が足を組む。
「わたし……ですか?」
「お前には黒耀会に入ってもらう」
「えっ?」
伶奈は目を見開いた。
「黒耀会に……? わたしがですか?」
「当たり前だろ。お前はいま、黒耀会がなにをしたのか知った……。逃げられると思っていたのか?」
高瀬が笑う。
でも、その目は笑っていない。
伶奈は言葉を失った。
「それとも仲間と一緒に死ぬか? 死人は警察に垂れ込めねえからな」
高瀬が続ける。
「わたしには妹が……」
「ああ、知ってる。だから黒耀会に入れてやるんだ」
伶奈の背筋に悪寒が走る。
「あ、あの……」
「若くて顔もいい。使い道はいくらでもある。色仕掛けで男に取り込む方法を仕込んでやろう。働けば、その分だけ金になるぞ。妹も楽になる。治療法も見つかるかもだ」
「そんな」
「そんなじゃねえ──」
高瀬が即座に切り捨てた。
「ひっ」
大きな怒鳴り声に、伶奈の身体がまた跳ねる。
「選べ──。黒耀会に入るか、死ぬかだ」
選択肢など最初から存在しないのだ。
妹を守る。
そのためには、伶奈は死ぬわけにはいかない……。
「……言う通りにします」
「そうか」
高瀬が立ち上がる。
「なら話は早い」
ネクタイを緩めながら伶奈を見下ろした。
「まずは、お前の商品価値を確かめさせてもらおうか」
伶奈が大樹に通信アプリでメッセージを入れたのは、その三箇月後だった。
高瀬から始まり、伶奈は黒耀会の男たちから、徹底的に仕込まれた。男を虜にするセックスの方法──。とりあえず、合格をもらい、伶奈は監禁を解かれて、やっとまとまった支度金を手にした。
その全額で高額の生命保険に加入した。もちろん、受取人は妹だ。
いつ死んでもいいように……。
そして、大樹にメッセージを入れた。
情報屋を裏切って、黒耀会にメンバーのことを教えたのは自分だと。さらに、自分が黒耀会の女だとも書いた。
メッセージが届くことは期待してなかった。
姿を消した大樹が同じスマホを使っている可能性など考えなかった。
伝言を入れたのは、伶奈の自己満足のためだったのだ。
ところが、すぐに既読が付いた。
生きていた──。
歓喜が溢れた。
しかし、その次に来たのは恐怖だった。
大樹は生きている。
なら、黒耀会も探している可能性もある。
なによりも、この伝言が黒耀会に見つかったら──。
伶奈は慌てて、そのスマホごと、大樹の連絡先を消去した。
三箇月間、ずっと捨てられなかった連絡先だった。でも、消した。
これで、二度と大樹と会うことはないのだろう。
寂しさとともに、汚れた自分を見せなくて済むのだという安堵が伶奈を包んだ。
「さて、じゃあ訊問は伶奈からにするか……。お前は、いつからその男を知っておる? この男は何者だ?」
宗一郎が伶奈の前に移動し直す。
伶奈は腰の下着を残して身につけているものを剥がされていた。乳房を剥き出しにさせられた裸身の両足首のあいだには、大樹と同じように棒枷が嵌まって、脚を閉じられないように処置されている。
「そ、それは……」
「情報屋と口にしていたな。それは、なんじゃ? 黒耀会とはどう繋がる?」
さらに宗一郎が言う。
「そ、それは……その……」
伶奈は項垂れたままだ。
「さっさと喋らんか……。ああ、そうじゃ。入院している妹は元気か? あの金ばかりかかる妹は?」
宗一郎が杖で伶奈の下着に触れ、下にずらすように動かす。
伶奈はびくりと身体を震わせて顔をあげた。
情報屋──。
頭には、もう二度と戻れない「情報屋」最後の日の記憶がありありと蘇っていた──。